辻井紀代彦

Ⅰ.

 私の友人が、空き缶の発するいやらしい光沢をじっと眺めていた。細い糸で刺繍をつけたような目元を見ながら小気味良く踊る胸で、不意に記憶が膨れ上がってくるのを感じた。

「好きかもしれない」

「え?」

「お前のこと」

 戸惑う様子は見せず訝しげな表情を浮かべる友人の影が、心をさっと覆った気がした。

「前にも言ったけど、恋人にはならないよ」

「でも、好きなんだ」

「どうして」

 そう訊かれると、喉に詰め物でもされたみたいに何も答えられなかった。彼女の冷ややかな一瞥を視野の隅で受け取りながら、突拍子もなく意識に割り込んできた蚊の羽音を大げさに払ってみる。

 ふと沈黙の中に小さくうずくまる自分の醜さに気が付いて、狭い肩身を寄せるように、再び彼女を見やった。彼女は床にあぐらをかきながら、柔らかな指の腹で空き缶の縁を撫でていた。

 彼女は私よりずっと上手な文を書く作家だった。その作品に触れた瞬間、私は生身の人間に久しく感じていなかった畏怖を思い起こすことになった。その畏怖に圧倒されていながら、そうでないように繕うことばかりがしばらくの私の存在意義ですらあったし、才能のない私は、その、畏怖に丸め込まれるようにして、彼女の友人としての地位に執着していた。

 だから、彼女の美貌に、愛撫のようなエロティックな感情を抱いたのはこれが初めてだった。

 似ている、と私の胸が呟いた。

 先ほど膨れ上がった憧憬に、繊細なその横顔が逆光と共に浮かぶ。

 目前で彼女の細長い睫毛が瞬きに揺れるたび、酒酔いに霞む頭の中で、ヨシ原がさざめいた。

「おい」

 喉元から這い出るような声で呼びかけながら、彼女の華奢な首元に触れた。

「なに」

 向き直る彼女の身のこなしは、古い記憶でヨシ原の傍に佇立している娘の仕草と似ていた。――風に倒れる花を思わせるような、しなやかさ。それを目前の友人にも見た気がして、私は急に申し訳なさとか、憚りと言った感情を見失った。

 腹と胸の間からおぼろげに盛り上がる熱に従い、私の手のひらは彼女のうなじから肩へ滑り降りる。彼女の虚を突いて肘から飛び出した力は、その平衡を簡単に掠め取った。抵抗する間もなく重力にひかれていく肉体は、本当にヨシ原に落ちていくようだった。

「やめて」

 彼女がそう吐き捨てるのが聞こえた。同時に、色めきだった香水の匂いが艶やかに鼻孔を撫でていく。褐色の霧の中でありありと映えたヨシ原の景色は、サイケデリックなグラデーションに塗りつぶされてしまった。

 所在なく揺蕩う視線が、彼女のはっきりこちらを睨めつける瞳に捕らえられる。

「ごめん」

 蛮勇のほどけて落ちた穴を埋めるようにサーッと音を立てて不安が迫りくる。思わず体中の力が抜けていく。

「私のこと、女として見ないでって言ったよね」

「でも、そんなのは」

 私がどもりながら何か言おうとしている間に、彼女は私の体の下をするりと抜けて立ち上がった。あまり流麗な動きだから私の目もそれに取り込まれたように上へ向かっていた。

「もうしないから……」

「さようなら」

 もう一声、呼びかけるより先に彼女は部屋のドアを開けた。一瞥だけを私に残し、友人のしなやかな肢体が深夜の暗黒を通り抜けていく。間もなく私がしきりに叫んだ制止の言葉は外気と共に遮断された。

 ――なんてことを!

 私はわざと声高く、心の中でそう叫んでみた。しかし、そういう気持ちは部屋の穏やかな薄暗がりの中であまり長くは持たなかった。

 ふと遠慮がちに窓の外から躍り出てくるコオロギたちの音色が、静寂の中でより目立つのを感じた。その煌びやかさに私は、体の末端部分に重しをつけたようなひどい酔いを押し上げて何か書こうと思うけども、それもまた、同じように部屋の中へと溶けていく。

 ぐったりと身を横たえると、意識の上に網目模様をいくつも重ねられるように、酔いが回った。

 ――寝ようか。

 こう考えるとき、「明日は明日の風が吹く」という、電車広告で目にしたコピーに自分が身を委ねているようでひどく寂しい気持ちになった。寂しくなるが、そのために私はそれ以上指先を動かすこともできなかった。

 ただ、湿気の中にのっぺり広がる月の明かりに視線を落とし、不摂生に弱っていく髪をいたわるような気分で明日のことを占いながら、茫漠な眠りを待つ――。


 浅黒い肌の少女が、じっとアスファルトを見つめながら私と並んで歩いていた。ごわごわとしたくせ毛を風にたなびかせる、化粧っ気のない横顔が美しい。

 そのとき、私は、言いようのない不足感にとらわれていた。沈黙の下に若さと情熱で荒れ狂いながら、この世のあらゆる美を凌駕しうるセンスの完成を望みつつ、私は、少女の頬のあたりを凝視し続けた。

 その日、突然胸に、細長くそれでいて激しく動き回る勘がよぎった(あるいは、単なる偶然だったかもしれないが)。

 直感に任せて私が立ち止まってみると、紐でつながれているように彼女も数歩前を歩いてから振り向いた。私の視界に余白が生まれて、ヨシ原と遠くへ続くアスファルトの道が映り込む。

「なに?」

 彼女の細長い指先が、顔にかかった髪を一房どけたとき、思わず私は「あっ」と声をあげた。

 その瞬間、いっさいのものが絶えず動きながら、静かに私を見ていた。ゆっくりと、世界と等速で震えているような少女の所作の背後に、スポーティな自転車が通り過ぎないことは、そのときの私には途方もない奇跡に思えた。

 目前で完成していた絵画的な美は、それに触れようとする私の欲求を弾くような、確固たる輪郭さえ見てとれるほどに圧倒的だった。しかし、その均衡は彼女が眉根に皺を寄せるのと同時に、やわらかに崩れ去っていった。

 怪訝そうな面持ちが浅黒い肌の上に浮かんでいる。

「ねえ、なに?」

 気が逸って、親にいたずらを看破された子供のように私は目をそらした。そして私は、再び彼女を見やる瞬間には元の芸術が返ってくることを期待した。

「なんでもないよ」

 そのとき風が、余計に強く吹いた。ヨシ原のさざめきが一層うるさくなり、遠くの水面が暗い色を浮かべたまま揺れた。

 丈を膝下まで律義に伸ばしていたチェック柄のスカートが、はらりと翻って私の視界にちらつく。顔をあげると、アスファルトの先に消えたがっているような興ざめな態度で私に背を向け、冷酷な歩みを進める彼女が目に入った。

 ひどくあさましい光景だった。私は十数年の努力の末に作り上げた大作を、あっけなく火にくべられたような喪失感と怒りに駆られた。焦燥と共に体中を迸る嫌悪感は行き場なく外側に張り出そうとし、私の痩せぎすな体を激しく突き動かした。

 彼女に近づいた私はその小さな肩を決して逃がさぬよう、力強く握った。

 ――誰もいないのなら、このまま、あのヨシ原へ。

 刹那、振り向いた彼女が、見たこともないような満面の笑顔を私に向けた。つつましやかな二重の瞼が柔和に私の視線を受け入れている。

 言葉を失ったまま私は、不意にうなじを掴まれて、空へ放るような力で引っ張り上げられたような心持になった。

 ――これは違う!

 鈍痛が頭の上から素早く裾を広げた。視界が白んで、立ち替わった鮮明な天井の景色にうめき声が漏れた。


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