ナオコと俺
只野夢窮
ナオコと俺
ザアザアと降る雨と、ガシャーンと鳴る雷が、俺の意識を遠くから引き戻した。だから、その日が雨じゃなけりゃ、俺の意識は戻らずじまいだったかもしれない。だがそんな仮の話をいくらしてもしょうがないわけで、事実として、俺は知らない天井を眺めていた。
体中が痛く、疲労しきっていて、指の一つも動かせない。
「先生、6号室の患者さんが目を覚ましたんです」という声が聞こえたので、ナースが医者を呼んでくれたに違いない。しかし、6号室の患者と言われてもな。俺には名前があるはずだ。あれ。
俺の名前ってなんだっけ。
つまり、わざわざベッドの横まで来て説明してくれた医者の先生が語るところによるとこういうことらしい。
俺は何かしらの事件に巻き込まれ、頭を含む全身を強打する重傷を負って病院に担ぎ込まれた。その際に身元を証明できるようなものは何一つ持っておらず、所持品と言えば着ている服と変哲のない財布しかなかった。事件の関係者である俺の身元について、警察のほうでも色々調べたらしいが今のところ全く不明らしい。俺は本当にどこの誰やらわからない、天涯孤独の身であるということだ。医者も事件についてはほとんど聞いておらず、改めて担当の刑事が事情の説明と聞き取り調査に来るとのことだった。
「まあ安心したまえ」と先生は言った。
「検査はしたが、脳に深刻なダメージは見受けられなかった。おそらくは脳に強い衝撃を受けたことか、事件で精神的ショックを受けたことのどちらかが原因だろう。記憶を失うと言っても色々あるが、君のように過去の記憶を全て失うパターンは特に全生活史健忘と言って、これは次第に記憶が戻ってくることが多い。永久に記憶と別れを告げることになるケースは非常にまれだからね」
「でも先生、そうはいってもどこの誰かもわからなければ生活ができません」
「そこらへんは行政にきちんと連絡しよう。我々は単に治療して終わりではなく、退院する患者さんを必要な行政の援助につなぐことも仕事だからね。まあ全身を骨折したきみが退院するのは随分先になるだろうが……そしてこれは一つアドバイスなのだが、自分の意志で動けるようになってからは、自分がなんとなくやりたいこと、したいことはやってみたほうがいい。記憶を失う前に、君が好きだったものかもしれない。特に食い物なんかは最高だ。匂いや味というのは脳の記憶を司る部分に強く結びついていて、世の中には完全に記憶をなくしたが病院のカップヌードルが好きで食べ続けた結果、記憶を失う以前から好きだったカップヌードルの匂いで記憶を取り戻し、あげくインスタント麺専門店をオープンさせているような人だっているぐらいでね。財布の中身は君に返しておくから、病院内の売店で食べたいものがあれば好きに買って食べるといい」
「先生、そろそろ次の患者さんが」
「ああ、もうそんな時間か。じゃあ、入院中の詳しいルールとか、担当の刑事が来る日時とかは後でスタッフから聞いておいてくれ。後は一応全身を強く打って全身を骨折しているのだから治るまでは安静にすること。また何かあったら言ってくれ。では」
随分喋る人だなあと思った。でも、どこの誰やらわからない自分に必死になってくれるという事実がとても嬉しくて、涙が出た。
そういう意味だと一週間後ぐらいに来た刑事は最悪だった。なんたってまだ立てない俺の身体を揺すってきたのは最悪だった。あの時見つけて叱り飛ばしてくれたナースさんには感謝しかない。
「あなたねえ、いくら刑事さんだからと言っても追い出しますよ! この人はまだ立てないんですからね!」
「ああ、すみません」というこの髭面の刑事は全く反省していなさそうだった。刑事ってこんなに髭もじゃもじゃで許されるんだろうか。いやまあ、捜査に潜入する場所によっては、むしろ髭をきっちり剃り揃えたほうがかえって目立つようなこともあるか。俺は勝手にそう納得した。
「それでねえ、君、なんとか何も思い出さないかな」
「そんなこと言われてもですね」
「この写真の人に見覚えがないかい?」
と言って見せてきたのは中肉中背の男の写真だ。全く特徴がない。特徴がないのが、特徴と言ってもないぐらいだ。こんな男は、仮に昔の知り合いにいたとしても思い出せというのが無茶だろう。
「わかりません」
「でもねえ、この人が行方不明になる前に、君と一緒にいるのを複数の人に目撃されてるんだよ?」
「でも本当に思い出せないんです」
この問答を入院している間、週に何回も強いられたのだから参った。しかしもっと参った訪問者が一人だけいた。
「この人に見覚えがないかしら?」
彼女は制服のポケットから写真をとり出した。そう、制服だ。この少女は中学校の制服を着ている。だから多分中学生なんだろう。本当に中学生なら、真昼間からきて勉強はどうしてるんだか。
「毎週刑事に見せられてるよ」
「そう、じゃあやっぱりあなたがそうなのね。この人をどこにやったの?」
「俺は何も覚えてないんだってば。それに君、俺の何なの? っていうか、なんで捜査情報が洩れてるんだよ」
「それを話す必要があるかしら?」
「人に何かを聞くなら、普通はそうするだろ」
「どうせあなた暇でしょ」
「だがあんたと話したいとは思えないね」
「何よ。こっちだって必死なのよ」
「そこまで必死になって、この写真のおっさんはお前のなんなんだよ」
よく回る口が一瞬で凍り付いた。絞り出したような声は、病院だからやっと聞き取れたぐらいの大きさで。
「………………パパ」
「……そうか」
「行方不明になったパパが最後に一緒にいたのがあなたって聞いたの。お願い、少しでも思い出せることはない?」
「悪いが、思い出せたら既に刑事さんに喋ってるさ」
「そう。それもそうよね。あ、じゃあ」
電話番号を書いたメモを強引に手渡してくる。
「これ、私の電話番号。何か思い出したことがあったら、どんな些細なことでもいい、教えてほしい」
「記憶喪失の男に連絡先渡して、母親に怒られねえのか? 不審者扱いされるのは嫌だぞ」
「いない。ママは死んだ」
「………………」
じゃあこいつは父子家庭で、察するところ父親は唯一の家族だからこうまで必死になってるってことか。俺は悲しくなった。でも、悲しくなったところで都合よく思い出せるほどこの世の中は優しくない。
「まあ、じゃあ思い出したら電話するよ」
「お願いね」
しばらくたち、俺が自力で立てるようになってリハビリが始まる頃になると、刑事は来なくなった。他にも重要な捜査を山ほど抱えてるんだろう。少女は何度も来た。しつこいぐらいに。しかし他に見舞いの客もいないから別に特段困らなかった。しかしこうも見舞いに来る人がいないと、本当に天涯孤独を実感させられて困る。
「だいぶ歩けるようになったじゃない」
「ここのスタッフは優しいからな」
「それで、退院したらどうするの」
「一応戸籍は申請したら作れるみたいだし、俺みたいな人たちを支援してくれる団体の施設に行けば、とりあえず衣食住には困らないみたいだからそうするつもりだけど」
「あたしの家に来なさいよ」
「は?」
こいつ頭おかしいんじゃないか。そんないきなり同棲があってたまるかよ。
「あんたがリハビリしてるのを待つ間に置いてあった冊子を読んだけど、あんたの言う施設って県外じゃない。そんな遠い場所に行ったら戻る記憶だって戻らないわよ。あたしの住んでるアパートなら、パパの使ってた部屋を使えばいいし、家賃はあんたに降りた生活保護費から少し家に入れてくれたらいいわ」
「お前なあ…………俺は自分が何歳かわからんが、少なくとも成人ぐらいはしてる身体だ。そんなやつと女子中学生が一つ屋根の下とか、最悪だろ」
「何が最悪なの。あなた、記憶を取り戻したくないわけ?」
「そういうわけじゃねえけどさ。第一、周りがなんていうか」
どうせ押し切られるんだろうなと思ったし、実際押し切られた。そもそも俺には何かを強く反対する自我なんてものが存在しようがない。記憶がないんだから。
「そういえば名乗ってなかったわね? 私は渋川尚子。し、ぶ、か、わ、な、お、こ。しょうこって間違って呼ぶ人が多いけど、私は父さんのつけてくれた名前が好きだから、ちゃんとナオコって呼んでね」
「名前を知る前に決まる同棲があるかよ……」
「そういえばあなたは、名前どうするの?」
そういえばそうだ。戸籍を作る際に名前を決めねばならない。スタッフさんや医者さんには、6号室の患者だから六さんと呼ばれている。じゃあ、ちょっとひねってこうだ。
「六田六雄。ろくだ、ろくおだ」
「なによそれ。適当すぎない?」
「どうせこの名前をずっと使い続けるつもりはないんだ。すぐに思い出しておさらばしてやるという想いも込めて、こうだ」
「ふーん、そういうことなら、ま、止めはしないけど?」
「じゃあ部屋はここを使ってね。どうせ私物とかほとんどないだろうけど。お風呂はあたしが先に入るから。お互いに自分の部屋は自分で片づけること」
とんでもねえ奇妙な共同生活だ。が、始まってしまったからにはしょうがない。
俺の記憶、父親の手がかりのためならなんでもするこの奇特な少女は、実のところ本当に中学生だったらしい。だった、というのは先月卒業して、今はバイトを掛け持ちしているからだ。頼れる親戚もおらずに高校もいけなかったのはかわいそうだと思うが、俺にできることもあんまりない。俺自身にしたって、支援団体で色々と仕事につくための社会常識を学んでいる段階で、仮にそれが就職につながったとしても半年後にパートかアルバイトを一つ始めるのがせいぜいだろう。それでは高校にやるのは難しい。
それにしても、一つ屋根の下にJKの年齢になる女がいるのに俺が全く興奮しないのには自分でもびっくりした。もちろんお互いに裸は見せないようにしているが、それにしたってもうちょっとお互いにどぎまきするとか、あってよさそうなものだ。どうも俺は背が低く黒髪を腰まで伸ばした貧乳の女には興奮しないらしい。これって記憶を取り戻す手がかりになったりしないだろうか。ならんな。
代わり映えのしない毎日が続いた。いくつか印象に残ることはあった。
それは俺が家の掃除をしていた時だった。ようやく戸籍が取れて就業支援でアルバイトも始められて、金を貯めてなんとか買ったスマホの使い方を習い、新しい人生が少しずつ軌道に乗ってきたころだったから、つまりはここにきてから半年は経過していた頃の話か。棚の奥から出てきたのは、知らない高校の合格通知だった。ということは、ナオコは毎週俺のいる病院に行きながらしっかり勉強し、高校に合格したが、経済的な事情でいけなかったということか。
「箱空高校って……?」
スマホで調べる。偏差値70超の進学校と書いてある。
「偏差値ってよくわからねえけど、東大に沢山進学してるんなら頭いいんだろうな」
「ちょっと何見てるのよ!」
見たこともないほど顔を赤くして、つまりはとても憤慨している。赤信号ってわけだ。
「あ、すまん。棚の奥から出てきたから」
「勝手に見ないでよ! なに、私がかわいそうなわけ!?」
「いやそうじゃねえけどよ、こんなに頭のいいところなんだったら無理してでも行ってたほうが」
「行ったところでどうなるのよ! どうせ大学の費用なんて出せないんだから、行っても無駄じゃない!」
「それはさ……俺たぶん、記憶なくなる前も頭がいい人間じゃなかったからさ、そこら辺の感覚がよくわからないんだよ」
「うるさいうるさいうるさい! もう知らない!」
その日の晩御飯は白ご飯とみそ汁だけだった。腹立てたからって料理当番なのにオカズを作らないのは勘弁してほしい。
またある時はこんなこともあった。
二つ目のバイトから疲れ果てて帰ってきたナオコが、化粧も落とさずそのまま寝てしまったことがあった。まあ化粧ぐらい俺はどうとも思わんが、問題は俺の膝枕を勝手に使っていることだ。
「どうすんだよこれ…………」
今日の料理当番は俺だし、そのためには食材をいくつか買い出ししないといけない。でも、こんなに疲れているナオコを起こしたくはない。
「っていうか、無防備すぎるんだよな……全然そんな気にはならないけど」
無防備にいびきを掻いているナオコを見ると、なんだか俺まで眠くなってくる……
ぎゃああ、という叫びでたたき起こされた。
「なんで六雄、あんたあたしのこと起こさないのよ!」
「そりゃ気持ちよさそうに寝てたしな」
「化粧全然落ちてないし、っていうか、ひ、ひ、ひ、膝枕じゃん!」
「お前がすり寄って頭を置いたんだぞ」
「うわああああ覚えてるからなおさら腹立つ!」
「理不尽だ……」
買い出しがスーパーの閉店時間に間に合わなかったので、たまの贅沢としてコンビニの弁当を買った。
まあ、そんなこんなで一年がたった。バイトの掛け持ちをしているナオコの苦境は大家さんもある程度は知っているようで、家賃が本当に苦しい時は待ってくれたし、なんと俺の二つ目のアルバイトの斡旋までしてくれた。俺はそれで生活保護を脱することもできた。
忙しいし、将来に向けた貯蓄もない。俺の記憶は戻らない。ナオコは16歳の青春をつまらないバイトで浪費している。でもなんだか幸せだった。これが続けばいいのにと思った。でも記憶が戻らないのは、それはそれで困るだろうなとも思った。
そんなある日のことだった。
「じゃーん」
「なんこれ、遊園地のチケット?」
「町内会のガラガラでなんと! 一等が当たりました!」
ナオコは嘘をつくときに、耳がぴくぴくする癖がある。
「で、ほんとは?」
「……ほんとは大家さんが当てたんだけど、ペアチケットなんて使わないからって言ってくれた」
「ほんと、大家さんには頭が上がらないよな」
「まったくね。ってことで、六雄の退院一周年記念ってことで、その、二人でいかない?」
ちょっとからかってみる。
「デートか?」
「デートじゃないし!」
その日は良く晴れた青空だった。気温も三月にしてはかなり高かったから、俺もナオコも春着を着て歩いて行った。手をつなごうとして、ちょっと躊躇した。俺たちは二人とも、働いている大人のはずなんだから、何にも恥じることはないはずなのに。
「いや、人多いわね」
「来たことないのか?」
「ないわよ。元から父子家庭だし、お金も暇もなかったし」
「そうか」
本当に、本当に、今日を楽しい一日にしたい。俺は改めて、心の底からそう思った。ナオコは十二分にそれに値する。どこにどうなったかもわからない父親のために、戻るかわからない俺の記憶をずっと待っている。ずっと働いている。まだ高校生をやっていても、全然おかしくないのに。
俺が高校生のころはどんなガキだっただろう。記憶は欠片も戻らないけど、多分ろくでもないガキだったと思う。
「じゃあ早速アトラクションに乗りまくりましょう!」
俺たちが、入場券とアトラクションは別料金だと知って愕然とするのはその120分後である。2時間並んだ挙句の悲劇、となるところだったが俺が現金で料金を支払ってなんとかなった。
「いいの?」そんな金、あたしたちにないでしょ、という言外の意図。
「いいんだよ。あれで乗れなかったら一生引きずる。それに、120分も並んだんだからあとは二、三個アトラクションに乗れたらいいほうだろ? それぐらいならなんとかなるさ」
「…………六雄のおごりだからね」
「わかってるよ」
十四時の差すような太陽光が、俺たちに平等に降り注いでいた。
「あー楽しかった」
「一生分遊んだな」
「ほんとよ。明日からはもやし生活ね」
「違いねえ」
軽口を叩きながら、俺たちは帰りのバスに乗り込んだ。しばらくすると急激に雨が降り出し、とんでもない土砂降りになった。
「ついてないわね。降りたらコンビニまでダッシュするわよ」
「走ったら余計に危ないだろ……」
その時、バスのタイヤが氾濫して蓋の外れた側溝にはまった。多分スリップしたんだと思う。ガコンと縦揺れの衝撃。そして急ブレーキ。
運転手が叫ぶ。
「すみません、ちょっとすぐには動けそうもなくて、後続車が追突する恐れがあるので、いったん外に出てください!」
乗客はぶつぶつ言いながらも外に出る。俺たちも無言でそれに続いた。内心、楽しい遊園地が台無しになった気分がしてげんなりしていた。
降りたところは市街地と遊園地の間ぐらいで、田んぼと山以外何もないところだった。俺はずぶぬれになりながら、あの田舎特有の、雨が土で濡れた匂いを鼻一杯に吸い込んだ。
そうだ。あの日も、俺はこうやってずぶぬれで、この匂いを吸いこんでいたんだ。それも、ここからほど遠くないところで。
「思い出した」
「ほんとに?」
「ああ。人に聞こえたら困るから、あっちに行こう」
俺は小さい山を指さした。あの変哲のない山には、実は。
俺は歩きながらぽつりぽつりとしゃべりだした。全てを。
俺は孤児だった。親がシャブ中で死んだか、借金で逃げ出したか、なんだかかんだか。知らないし知ろうとも思わない。それを拾って餌をくれたのが親分だった。他にも似たような奴らが何人かいた。だから元から戸籍なんてないんだか、あるんだかわかりゃしない。あってもたいして役に立ちもしない。俺たち孤児はそこそこ成長すると親分と杯を交わして子分になる。「ほんとは十八にならんやつは盃なんてやらんのだがな」と言っていたのを思い出す。「どうせお前らのほんとの歳なんてわかりゃしないんだから、俺が十八だと言えば十八なんだよ」
別に上品な着物をもらい、愛情たっぷりに育てられたとは思わない。学校だってほとんど行ってない。看病に来る友人がいないのなんて当然だ。殴られることもたくさんあった。でも、俺たちを食わせてくれたのはわけのわからんギョーセイの人間じゃなくて、親分だった。だから、なんかの抗争があった時には、年上から順に鉄砲玉になって、殺したり殺されたりするのが当たり前だった。人とのつながりのないように育てられた孤児たちだから、証拠の隠蔽だって楽だ。仮にお勤めに行くことになっても、組の上の人間にまで追求がいくことはなかった。
俺の番が来た。比較的楽な仕事で、ラッキーだと思った。再開発のために必要な土地が細切れに所有されていた。俺の役目は、ある男を恐喝して、契約書にサインさせることだった。その時の俺は再開発の意味も、契約書が何かも知らなかった。ただこの紙切れに名前を書かせろと親分に言われたから、そうしただけだ。男の写真を見せてもらった。中肉中背で特徴のないやつだと思った。「間違えんじゃねえぞ」と言われたから、親分もそう思ったのだろう。
そいつを裏路地に誘い込むのは簡単だった。俺たちはそういうのが得意だ。兄貴分から教わるし、自分も弟分には教える。もっと言うとこいつは仕事の帰り道に酔っぱらっていた。だからなおさら簡単だった。
「オイこらテメエここに名前書けや何が難しいんやコラ」
大声をあげるわけにはいかない。あくまでも裏路地にすぎず、叫ばれたら人が来るかもしれない。だから俺は預かっていた拳銃で脅した。首筋に冷たい鉄を感じたら、大抵の人は屈するものだ。しかし。
「土地を売った金はナオコの進学費用にするんだ…………俺は絶対書かんぞ……」
「はあ? ナオコ?」
結果から言うと俺はしくじった。大声をあげ、必死で抵抗したそいつを、俺はうっかり拳銃で殴った。初仕事と言うのもあったと思う。殺すつもりは本当になかった。でも頭から血を流し、ピクピクと人がしてはいけない震え方をして倒れている。パニック状態になった俺は逃走用に用意しておいた車に死体を積み、近所の山に走った。その山は駅前から車で三十分程度でいけるが、地元民もほとんどよりつかない、全く人気のないところで、だから死体や拳銃や覚せい剤を隠すのには実に都合のいい場所だった。そんなに標高が高いわけでもない。
道路で無理やり狭い道を登る。この山の山頂にはちょっとした電力会社の施設があって、俺は学がないから何の施設かわからないが、ともかくその施設までは車で行けるように最低限の道が整備されている。こういうところも死体を運ぶにはうってつけだ。
とにかく埋めないと。色々考えるのはそれからだ。トランクから常備しているシャベルをとり出す。
掘る。
掘る。
掘る。
ダメだ、こんな浅さじゃ。
もっと。汗で手が滑る。
掘る。
掘る。
玉のように汗が吹き出し続け、何時間たっただろうか、まだ穴は浅い。もう少し掘らないと雨で土が流れた時に見つかる、そう思った時。
「ダメやないか、兄貴」
後ろからの声にビクッとして振り向くと、そこには“弟分”たちがいた。
「親分が嫌な予感がする、あいつはヘタレじゃけえと言ってたんが当たりやないか。なんで殺しとるんや。サインはどうしたんか」
「お前、俺に向かってなんて口ききよるんじゃ」
「サインはどうしたか言うとるんじゃ!」
「サインは…………」
「見とったけえの。サインなかろうが。ほな、兄貴は殺すしかないやんね。残念やけど、ま、しゃーないわ」
「埋めるんか?」と他の弟分が聞いた。
「いやこんな浅いんじゃ一人分が限界じゃ。こいつは突き落として殺しとけばええやろ。こんなところ、どうせ人が通らんのやし」
「やめろ」
「やめろ言われてやめるヤクザはおらんけえの!」
必死に抵抗しようとするが、多勢に無勢、俺は急な山道から突き飛ばされ、垂直に落ちていく。
落ちる。
落ちる。
落ちる。
体がジェットコースターのようにふわっとした一瞬。
叩きつけられる。
意識が薄れていく。ゲリラ豪雨が降り出して、動けない俺の身体に突き刺さる。真下に感じる土の、嫌になるぐらいの匂い。雨の日特有の、土の。
この匂いだ。
俺が全てを語り終えた時、ちょうど山のふもとについていた。
「だから、ナオコの父親は……俺が殺した。遺体は、この山を登っていく道路の途中に、脇に入っていく山道があるから、そこで掘った跡を探せばいい。覚せい剤とか拳銃も一緒に出てきて大騒ぎになるだろうから、警察に連絡したほうがいいけど」
「そんな…………」
「ナオコ、ごめん。俺はお前に殺されてやれない」
「そんなんじゃないよ!」
「本当にごめん」
「あたしは、六雄のこと殺したいなんて思ってないよ! お父さんが見つかったらいいなって思ってただけで、仇とか、そんなん、わかんないよ」
わかんないよな。だってまだ十六歳だもんな。わかるはずないよ。ごめんな。
「お願い、六雄、どこにもいかないで…………あたしにはもう、いない。生きてて、あたしを見てくれる人は、六雄しかいないんだよ…………六雄までいなくなっちゃったら私の人生もう本当の本当に一人ぼっちだよ!」
「ごめんな。身勝手だと思う。本当にごめん」
「何言ってるの六雄、急にどうしたの、ワケわかんないよ。やめてよ。バカなこと考えるのはやめて!」
縋りつくナオコの体温が、この雨の中でこんなにも暖かい。冷たいナオコの涙が、俺の背中に流れるのを感じる。雨に打たれて下がり切った体温の中で、なぜかナオコの涙だけが特別に感じられる。
「いいじゃん。今二人が生きてるだけでいいじゃん。父さんの記憶は思い出さなかったことにしてさ。何するつもりかわかんないけど、また何かあったら今度こそ死んじゃうよ!」
俺は振り返りたい! ナオコを抱きしめ返したい! でも、俺はそれに値しない人間だ。ナオコの父親を殺し、埋めて、自分はナオコと幸せに暮らす。そんなことが許されるはずもない。例え、法律が、倫理が、哲学が、社会が、世間が、ナオコが。記憶を失った俺に罪なしと言ったとしても。それよりも大きく、言葉にできない何かが、俺に命じる。“汝価値なし”と。”やるべきことをやれ“とも。でもやっぱりそれを教えてくれたのは、ナオコだ。
「すまん、ナオコ。俺はいかないといけないんだ」
「やめてよ! お願い、六雄! あたしのそばにいて!」
ナオコの力ない手を振り払い、俺は雨の中に走り出す。ナオコを最後の孤児にしよう。
雨が降っている。でももう土の匂いはしない。俺が刑務所から出ていくこの日に踏みしめるのは、アスファルトだからだ。
そこにナオコはいない。結婚したという律儀な便りだけが、刑務所に届いた。それでいい、と思う。自分の父親を殺した人間と結婚して、幸せになれるはずがない。
俺は自首して、全てを裁判で自白した。親分が孤児を使って人殺しをさせていたこととか、全部。親分のところにはガサ入れが入って、もうそれはいろんな違法なブツが出るわ、出るわで即逮捕。裏社会でも、孤児を鉄砲玉にするのは渡世の義理にかけると言って破門され、どうにもこうにもやっていけなくなった組は解散したらしい。有用なうちは黙認されるが、いざ暴露されてみると「いやうちの組はそんな仁義にもとることはしませんから」というわけで、まあ覚せい剤の扱いにも似ている。
仮釈放まで七年。俺の二十代は帰ってこない。当然の報いだと思う。
ナオコの十代も帰ってこない。これはあんまりだと思う。
あの日、全てを忘れたふりして、ナオコと添い遂げていたらどんな人生だったんだろう。
あるいは衝動に任せて、親分を殺しに行っていたら、その刃は届いていただろうか。
全てはあの雨の日においてきたことだ。あの時の自分の決断は「裁判で全て自白する」という曖昧で、かっこよくないものだった。確かにもう、ヤクザの鉄砲玉になる孤児も、それで悲しむ人もいなくなるかもしれないが、言ってしまえば自分の尻を全部、人に拭いてもらったようなものだ。
(かっこ悪いよな)
でもそのかっこ悪いのが人生だとも思う。
タバコに火をつけようとする。粗悪なライターに火がつかない。タバコは雨の日の嫌な匂いをごまかしてくれるが、タバコに火をつけるには、雨の日では都合が悪い。まるで俺の人生だ。
「人とタバコの良し悪しは……煙になって後の世に知る、だっけか」
じゃあ俺の人生は、この火の点かないタバコみたいなものだ。可能性と、どうしようもなさ。
「おいおいどうすんだよ、殺人の前科あり、まともな職歴なし、残りの人生はおおよそ40年以上」
でも俺は自由だ。ナオコも、自由だ。だから、なるようになるんだろう。ようやく火がついたタバコの煙が空に昇り、雨がいつでも地に落ちるように。
ナオコと俺 只野夢窮 @tadano_mukyu
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