第25話
約束していた時間の五分前にインターフォンが鳴った。
玄関のドアを開けると、チグサの母親が立っていた。
「ナツキちゃん、こんにちは。久しぶりね」
親友によく似た、それでいて大人びた顔が控えめにほほ笑む。しかし、すぐに眉を八の字にして、
「昨日はチグサが迷惑をかけて、ごめんなさい。ナツキちゃんと笹沢さん、それに後藤くんには、どうお詫びをすればいいか」
「いえ、気にしないでください。わたし、全然気にしてませんから。たぶん、っていうか絶対、カイリと後藤くんも同じだと思います」
「……そうだといいんだけど」
再びかすかに笑ってみせる。どこか作り物じみていて、本心らしきものは読みとれない。
「チグサの荷物、預かってくれてありがとうね。さっそくだけど」
「あ、はい。すぐに持ってきます。あの、外は暑いから、中に入ってお茶を」
「いいえ、お構いなく。ドアの外で待っていますから」
チグサの母親は小さくお辞儀をして、ドアを閉めようとする。ナツキはノブを掴んでそれを阻止した。
驚きに包まれた顔がナツキを見た。ナツキは真剣な顔でその顔を見返す。
「チグサのお母さんと、少しだけお話がしたいんです。本当に、本当に少しだけでいいので」
「……それなら、お邪魔していこうかな」
思いのほかあっさりと申し出が聞き入れられたので、ナツキは胸を撫で下ろした。
チグサの母親をリビングまで案内し、冷たい茶をグラスに注いで出し、二階の自室を目指して階段を駆け上がる。チグサの荷物は紙袋にひとまとめにしてある。それを手にリビングへ。
チグサの母親は、ナツキが勧めたソファに座っていた。戻ってきたと分かった瞬間、口元の緊張が少し緩んだのが見てとれた。麦茶は一口も減っていない。
「これ、チグサの荷物です」
紙袋を手渡す。唯一紙袋に入れなかったメモ帳は、手渡すのではなくテーブルに置く。チグサの母親は礼を言って受けとりながらも、仲間外れにされたそれの意味をどう解釈すればいいかが分からないらしく、訝しげな眼差しを水色の表紙に注いでいる。
ナツキはチグサの母親の向かいの席に座り、単刀直入に切り出した。
「チグサ、帰宅後に風邪をひいて寝こんじゃったわけですけど、お母さんは心配する言葉をかけてあげましたか?」
質問の意味を吟味するような数秒の沈黙を挟んで、表情を緩めて「ええ」と答える。
「もちろんよ。チグサ、体力的にも精神的にも落ちこんでいるようだったから。特に、みんなに迷惑をかけたということを盛んに口にしていたから、そのフォローはしました。子どものころは無茶をしてしまうのはよくあること。みんなもチグサが悪いとは思っていないから、過度に自分を責める必要はない。今はしっかり体を休めなさい。そう言葉をかけたわ」
「でもチグサは、全然気持ちがこもっていないって言っていましたよ。言葉では心配してくれるけど、心では全然心配してくれていないって」
チグサの母親ははっと息を呑んだ。
「昨日の夕方、チグサからのメッセージがわたしのスマホに届きました。メッセージの中でチグサは、今わたしが言ったようなことをわたしに訴えてきたんです。わたしのせいでチグサが熱中症になって、わたしのお母さんが三日間いっしょに遊ぶのを禁止にしたときにも、同じ不満をわたしに漏らしていました。そのときは控えめだったんだけど、昨夕のメッセージは、なんていうかもう、怒り爆発って感じで」
チグサの母親は表情のない顔をナツキに向け、黙って話に耳を傾けている。
「チグサとお母さんの仲があまりよくないこと、ずっと前から知っていたんですけど、理由をちゃんと聞いたことはなくて。そんなに怒ってどうしたの、なにがあったのって尋ねて、初めて教えてもらいました。チグサは体が弱いから、お母さんがチグサの新しいお母さんになったばかりのころは、かなり心配したそうですね。チグサが言うには、甘やかしているとしか思えないほど過保護だったって。チグサはそれが嫌だったみたいです。子ども扱いをされてバカにされている気がして不愉快だ、血の繋がりがないんだから馴れ馴れしくしないでほしいって。……ごめんなさい。チグサのメッセージにそう書いてあったから」
チグサの母親は切なげに眉をひそめて頭を振った。
「チグサのその想い、お母さんは知っていましたか」
「ええ。直接抗議をされたことはないんだけど、そう思っているのかな、という察しはついていました」
「それに対してお母さんは、チグサによそよそしく接するという対応をとった。そうですね?」
「私としては、干渉しすぎるのを控えよう、という方針だったのだけど、結果的にそうなってしまったかもしれない。これ以上は嫌われたくなかったから、どうしても臆病になってしまって」
「でも、チグサはお母さんに違う期待をしていたみたいです。……これ」
メモ帳を手にとって差し出す。チグサの母親はきょとんとした顔をナツキに向ける。ナツキはメモ帳を引き寄せ、ページを見せながらめくる。
「わたしたち、夏休みのあいだずっと、S町にある林まで行こうとしていたんです。駅ビルの屋上に上ったときに、林の中にあるものを見つけて、それを間近で見てみたいと思ったので。けっきょく、そのあるものは林から消えていたんですけど――あっ、これです」
地図が描かれているページを探り当て、再び差し出す。チグサの母親はそれを受けとり、まじまじと眺める。
「林までの道のりを、チグサが地図に描いたんです。あの日はすごい雨で、濡れちゃうから描けなくて、途中までになっちゃったんですけど、でも、チグサががんばって描いてくれて」
チグサの母親は他のページも確認している。予想外の真剣さに、ナツキは言葉を発するのを控えた。感想が述べられるのを待ち受ける。
不意に顔が持ち上がり、ナツキに目を合わせてきた。ほほ笑んでいた。ナツキに対してではなく、自分の娘に宛ててのほほ笑みだと、一目見た瞬間に分かった。
「怖いくらい詳しく描きこまれているね。チグサらしくて、なんていうか、すごいね」
目頭が熱くなる。褒められているのは自分ではなく、チグサだと分かっているのに。母親が我が子を褒めるのは当たり前のことなのに。
「こんなにたくさん、チグサといっしょに歩いてくれたんだね。ありがとう。今日ナツキちゃんと話をしてみて、チグサにとってナツキちゃんはとても大切な友だちなんだって、心から理解できた。仲がいいのは前から知っていたけど、私が考えていた以上に強い絆で結ばれているんだって」
泣く、と思った。泣きたくなんてないのに、泣いてしまう。チグサを守るために、強い言葉をぶつけるつもりでいた人物の前で。
「チグサへの接しかた、私もこのままではいけないと思っていたの。恥ずかしい話だけど、ナツキちゃんと話をしてみて初めて、思っているだけじゃダメなんだって気がついた。行動しないと意味がないんだって。だから、今日から責任をもって努力します。だから――」
上体をぐっと乗り出して顔を近づける。ほほ笑みの度合いが強まり、満面の笑みになる。
「ナツキちゃん、チグサといつまでも友だちでいてね」
堰が決壊し、涙が頬を伝った。顔を背け、声を殺す。何度も洟をすすり上げる。
とまれ。とまれ。泣きやめ、わたし。
言い聞かせれば言い聞かせるほど水量は増すようで、ナツキは泣きやむのを諦めた。
二人はきっと仲よくなれる。一朝一夕にとはいかないかもしれないが、そう遠くない未来に、必ず。
「あっ、いた」
一階まで下りていくと、案の定、真樹がリビングにいた。ソファに俯せに寝そべって携帯電話をいじっていて、テーブルの上には雑誌が開きっぱなしになっている。
「どうしたの、こんな時間に」
真樹は体を起こして、きちんと座った。携帯電話を雑誌の横に置き、娘に向き直る。
「お小遣いなら十五日まで待ちなさい。夏休みに散財したのは分かるけど――」
「違うって。話があるの」
「なに、話って。お父さんに言えないようなこと?」
「そんなんじゃないよ。でも、二人揃ったら面倒くさそうだから」
真樹が横にずれ、ナツキは空いたスペースに座る。母親の顔を見つめる。
「あのね、友だちといっしょに旅行に行きたいな、と思って。日程とか場所とかはまだ白紙なんだけど」
「へえ。どうしてまた」
「お母さんが面倒くさがって、今年の夏休みは連れて行ってくれなかったから」
頬を膨らませて不満を表明してみせたが、すぐさま引っこめる。
「親に頼らずに自力で行け、みたいなことを言っていたから、じゃあチャレンジしてみようかなって。考えているメンバーはね」
「チグサちゃん?」
「もちろん。あとはね、カイリと、後藤くん。オッケーしてくれるかは別にして、とりあえず四人で行きたいなって思ってる」
「男の子? ……へえ。旅行にいっしょに行くような男友だち、あなたにもできたんだ。女の子三人で争奪戦?」
「チグサと仲がいいの。付き合ってるとかじゃないけどね。二人とも、なんていうか、似た者同士なんだ。わたしとかカイリとかと違って、眉をひそめたくなるようなことを平気で言うタイプじゃなくて。だから気が合うんだと思う」
「紳士的で、優しい感じの子なんだ」
「まあ、大ざっぱに言えば。後藤くんね、甘味処をやっている家の息子さんなの。『かけはし』っていう店なんだけど、お母さんは知ってる?」
「んー、知らないな。ナツキは食べたことあるの?」
「うん、まだ二回だけど。ちょっと値段がお高いんだけど、納得できる高さ。ようするに、すごく美味しいの。後藤くんは跡を継ぐとか、そういうことはまだ考えていないみたい。だからね、将来チグサと後藤くんが夫婦になって、二人で店を切り盛りしている光景を妄想して、勝手に楽しんでる。二人とも愛想がいいタイプじゃないから、眉子さんがずっと看板娘をやってるのかな、とか。眉子さんっていうのは後藤くんのお母さんで、いつもにこにこしてて、話をしていてとても楽しい人なんだ」
「ずいぶん交友関係が広くなったのね。今年の夏だけで」
妄想癖を笑われる場面だと覚悟していたのに、思いがけず感心されたので、ナツキは戸惑ってしまった。少し照れくさくもあった。
「行きたいと思っているだけで、具体的なことはまだなにも決まっていないのね」
「うん。ちょっとずつ考えていこうと思っているんだけど、行き先とかも全然浮かばなくて」
「旅行願望というよりも、ただみんなと楽しく過ごしたい気持ちが強いのかもね、ナツキは。今回はたまたま旅行の形をとっただけで」
「ああ、たしかにそうかも。お母さん、鋭い!」
「まあね。十三年近くあなたのお母さんをやってるから。どっち方面に行きたいとか、泊まりがいいとか日帰りがいいとか、そこのところも未定?」
「うん。家族旅行でも修学旅行でも行ったことがない場所がいいな、とは思っているんだけど、それ以外はまったく」
「おすすめの場所、いくつかピックアップしてあげようか。たとえば日帰りなら――」
「ちょっと、お母さん! 行くのはわたしなんだから、わたしが決めないと意味ないでしょ」
真樹は双眸を見開いた。その表情が二・三秒維持されたのちに崩れ、よい報せを聞いたかのような笑顔に変わる。
「成長してるね、ナツキ。偉い、偉い」
頭をくしゃくしゃっと撫でられる。子ども扱いをしているのだと思ったが、悪い気分ではない。はにかみ笑いをこぼして、みんなとどこへ行くかについて考え始めた。
金字塔の夏 阿波野治 @aaaaaaaa
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