第24話

 昨日の大雨が嘘のように朝から晴れ、地面のあちこちにできた水たまりは早くも涸れつつあった。

 カレンダーが九月になったからといって、季節が秋に切り替わるなど有り得ないよとせせら笑うかのように、今日も全国の最高気温は一部地域を除いて三十度を超えるとの予報。T県T市は正午過ぎに三十二度に達するらしい。

 ナツキは目的の教室の二メートルほど手前まで足を進めたが、それ以上距離を縮めることができず、肩を落として引き返した。

 一定以上の強さで願望を抱きながらも、自らの勇気の不足が主因で目的を遂げられなかったのは、久しぶりかもしれない。それが二学期の初日に起きたのだから、幸先が悪い。

「あっ」

 自分の教室に入ろうとして、同じく中に入ろうとした人物とぶつかりそうになった。顔を上げて、再び小さく「あっ」という声。笹沢カイリだ。

「珍しいね、カイリが一人で登校だなんて。どうしたの?」

「どうしたはこっちのセリフ。変な方向から歩いてきたけど、どこへ行ってたの?」

「うん。ちょっと、二つ隣の教室に」

 目的を察したらしく、カイリの表情が険しくなる。

「といっても、近くまで行っただけで、なにもせずに戻ってきたんだけどね。中に入る勇気がなくて」

「一人で乗りこんで、あたしのことを話すつもりだったの?」

「うん。でも、ダメだった。カイリと二人だったら、もしかしたら大丈夫だったかもしれないけど」

「ナツキって活動的に見えて、一人で行動するとなると案外萎縮するタイプだよね。だいたい木島さんといっしょにいるし」

 ピラミッドを見に行かないかとチグサを誘ったが難色を示され、必死になって説得した過去を思い出した。カイリの言うとおりだ、と思う。

「カイリは、今からあの子たちのクラスにわたしといっしょに行く気、ある?」

「あるわけないでしょ。いきなりなんて、とんでもない」

 カイリは柳眉を吊り上げて頭を振った。

「なにを言うにしても、自分の言葉を使わなきゃいけないでしょ。でも、急に言われても、そんなものは用意できてないし」

「そうだよね。時間がかかって当然だよね」

 沈黙が降りた。「行こう」とカイリを目で促し、教室の中へ。

 後藤くんは登校していた。上体を机に伏せて寝る態勢に入っているので、二人が入ってきたことには気がついていない。

 そして、その前の席は――。

「木島さん、来てないね」

「風邪ひいたから休むって。今朝わたしのスマホにメッセージが届いてた」

「えっ、マジで?」

 カイリは自分の席へ向かいかけていたが、ナツキの机の前で足を止めた。ナツキは自らの席に着く。

「あたしのところには来てない――って、連絡先教えてないんだった。風邪って、ひどい天候だったのに外を歩き回ったせい?」

「うん。お見舞いに行ってもいいかって訊いたけど、断られちゃった」

「そりゃそうでしょ。うつしたら困るし、寝こんでいるところに来られても迷惑だし」

「でも、リュックサックにチグサの荷物が入っているのを忘れてて、持って帰っちゃったから、とりに来ることになったの」

「本人が?」

「ううん、チグサのお母さんが」

 カイリは露骨に顔をしかめた。

「それ、なんか怖くない? ナツキは平気なわけ? 付き添おうか?」

「大丈夫。チグサのお母さんの性格から考えて、うちの娘をひどい目に遭わせて、みたいなことは言わないと思うから」

 チャイムが鳴った。二学期最初のショートホームルームが、始まる。

「会う約束、今日の午後二時の予定だから、終わったら報告するね」


「相内」

 昇降口で靴を履き替えていると、名前を呼ばれた。

 夏休み期間中にすっかり聞き慣れた声だったから、振り向く前から誰なのかが分かった。走ってナツキのもとまでやって来る。

「後藤くん」

 後藤くんは浮かない表情をしている。ナツキと目が合うと控えめにほほ笑み、自分の靴箱からスニーカーを取り出す。

「もしかして、チグサのこと?」

「うん。あのあとどうなったのかと思って」

 車が笹沢家に着くと、ナツキとチグサはシャワーを浴びて着替えた。チグサの体調が心配されたが、車による移動には耐えられそうだったので、カイリを除く四人は再び乗りこんだ。そして、後藤家、木島家、相内家の順番に寄り、後藤くん、チグサ、ナツキの順番で下車した。

『俺が乗っていても邪魔になるだけだから、降りるよ』

 後藤くんはそう言って、本来は停まる予定のなかった『かけはし』の店先で車を停めさせ、一人降りた。

「カイリから訊かなかったの? 朝教えたばかりだから、知ってるよ」

「いや、笹沢はちょっと……」

「なんで?」

「俺のことを嫌っているっていうか、見下しているっていうか。あいつとはどうも相性が悪くて」

「その言いかた……。もしかして、なにか因縁があるの?」

「笹沢、前はよくうちまで食べに来ていたんだけど」

「知ってる。元常連って言っていたよね」

「なにかの機会に、俺と笹沢が同級生だって母さんが知って、笹沢に冗談を言ったらしいんだよ。もしかしてユウジが目当てで来てくれているのかしら、みたいなことを。それからなんか、俺に厳しい態度をとるようになって」

「そんなことがあったんだ。もしかして、それがカイリが店に来なくなった原因?」

「いや、そのあとも普通に来ていたみたいだよ。俺は毎日店の手伝いをしているわけじゃないし、食べに来ても顔を合わせることはほとんどないから、笹沢もあまり気にしていないんじゃないかな」

 たしかに、カイリが邪険にしていたのは後藤くんだけで、眉子に対しては普通に接していた。『かけはし』との繋がりがこれからも続くのであれば、二人の関係が改善されるチャンスはきっとあるはずだ。

「チグサのこと、歩きながら話すのでいい?」

 後藤くんは首を縦に振った。

 ナツキはありのままを語った。後藤くんが下車してから木島家に帰るまでの様子。その後、アプリを通じて伝えられた体調。今朝、カイリと交わした会話。

「……そっか。相内にはメッセージが届いていたんだね。まあ、付き合いが短いからしょうがない、かな」

 弱々しい苦笑いが顔に浮かび、すぐに消えた。まるで、夏の終わりの幻のように。

 入道雲が浮かぶ空の下、夏休み期間中と変わらずやかましく鳴くセミの声を聞きながら、二人は肩を並べて無言で歩く。

 ナツキがなにも言い出さないのは、後藤くんがなにか言いたそうな気配を色濃く漂わせているからだ。十中八九、チグサについてだろう。

 発言を促してもよかったが、後藤くんには自分から言ってほしかった。親友であるチグサのことを、こんなにも心配してくれる後藤くんだからこそ。

 目の前の信号が赤に変わり、二足の靴が同時に止まる。後藤くんはそれを話し出すきっかけにした。

「先生から配られたプリント、回すよね。前の席から後ろの席に」

 ナツキは最初、今日配られたプリントのことを言っているのかと思った。二学期の始まりを祝するように、不要にも思えるほど大量に配られたプリントのことだと。しかし、そうではなかった。

「今もそうだけど、入学したばかりのころも、俺の席のすぐ前が木島だったんだよ。だから、プリントは木島から回されるわけだけど」

「うん、そうなるね」

「回しかたも人によって違う。最悪なのは、机の上に放り投げるみたいに置いて、そのプリントが床に落ちても知らん顔とか」

「チグサ、後藤くんから見てどんな回しかた?」

「すごく優しいんだ。そっと差し出して、こっちがちゃんと受けとるのを見届けてから体の向きを戻す、みたいな感じ。早く受けとれって目で急かすこととか、絶対になくて。入学式の日にそれをされて、すごく印象に残ったんだ。そうする人は木島が初めてじゃないのに、なぜかは分からないけど」

 後藤くんは一言一言を噛みしめるように話す。表情がとても柔らかい。頭の中にチグサの姿を思い描いているのだろうと、容易に想像がつく。

「それ以来、無性に木島のことが気になって。席が後ろだから、姿を見る機会は必然に多いわけだけど、見れば見るほど気になって。会話をする機会なんてないのに、魅力的だなって思うところがどんどん見つかって。そんな日々が重なって、あるとき不意に、自分の気持ちに気がついたんだ。あっ、俺は木島のことが――って」

 信号が青に変わった。二人は視線を交わし、横断歩道を渡る。

「人によっては笑ってしまうような、変なきっかけかもしれない。でも、たぶん、誰かが誰かに好意を抱くときって、そんなものじゃないかな。恋だの愛だのを語れるほどの経験は積んでないけど、俺はそう思うよ」

 渡りきるとともに言葉が途切れる。続きを待ったが、後藤くんの唇は閉ざされている。横顔からは、照れと充実感、二つの感情が窺えた。

「わたしがチグサと友だちになったのはね」

 誰に求められたわけでもなかったが、ナツキは語り始めた。

「チグサ、持病を抱えているとかではないんだけど、体がそんなに強くないの。普通の人だったら、きついとか疲れたで済むようなことでも、チグサの場合だとダウンしちゃう、みたいな。だから、体育の授業は割と頻繁に休んでいたんだけど、それをサボりとか言って責める男子が何人かいたんだ。抵抗しないのにつけこんで、叩いたりすることもあって。わたし、それが許せなくて。とめに入って口論になったさいに、リーダー格の男子と殴り合いの喧嘩をして、泣かせてやったの。それが小三のとき」

「……すごいね。男子相手でしょ」

「まあね。その一件以来、チグサとよく話をするようになったんだけど、わたしの中では友だちっていうよりも、またいじめられないようにサポートしてあげないと、っていう意識のほうが強かったの。自覚はしていなかったけど、チグサを下に見ていたわけ。でも、そのあとで起きたもう一つの事件が、わたしたちの関係を劇的に進展させたのです」

「もう一つの、事件」

「仲のいい男子とね、自転車で競争をして遊んだの。ここからあそこまでってコースを決めて、誰が先にゴールできるかっていう」

「それが木島となんの関係が?」

「あ、チグサはその場にはいないよ。あたしがコースの途中で派手に転んじゃったの。大きなカーブを曲がりきれなくて」

「大丈夫だったの?」

「それが、大丈夫じゃなかったの。自転車は壊れるし、打撲と擦り傷はたくさんもらうし。もう跡形もなく治ったけどね、目の下に結構ひどい傷ができちゃって。お医者さんに言われたんだけど、地面に叩きつけられる位置がもうちょっとずれていたら、失明していたかもしれなかったんだって」

 ナツキは軽くマッサージするように、右頬を指先でなぞった。

「もう、泣いたね。めちゃくちゃ泣いた。自業自得とはいえ、わたしにとってはトラウマ級の出来事で、それ以来自転車に乗れなくなったくらい」

「そうだったんだ。だから、ピラミッドへ行くのも徒歩で」

「そういうこと。でもね、ひどかったのは、怪我よりも男子たちの反応! 相内が泣いているぞって、みんないっしょになって笑うの。転んだ直後はさすがに真面目に助けてくれたけど、翌朝登校したら、教室に入った瞬間に指差して爆笑だもん。わたし、男の子に混じって遊んで、いじめっ子を殴るような女子でしょ。それなのにわんわん泣いたのが男子たちには面白かったみたいで。教室で泣いたことなんて一度もなかったのに、泣く寸前だった。それが嫌で、唇をぎゅっと噛みしめて席に座っていたら……」

「座っていたら?」

「チグサがすっと席を立ってわたしの席まで来て、『大丈夫?』って声をかけてくれたの」

 感傷に涙ぐむのではなく、笑顔でその事実を告げられたことを、ナツキは誇りに思う。

「けっきょく、こらえきれずに泣いちゃったんだけど、悔しい気持ちが溢れ出したんじゃなくて、チグサの優しさが嬉しかったから泣いたの。休み時間も自分の席に座ってじっとしているような、すごく大人しい子なのに、わたしのためを思って話しかけてくれたんだと思うと、もう耐えられなくて。その一件ですっかりチグサのファンになって、今は親友同士」

「じゃあ、俺と相内は似た者同士ってことか」

「そうだね。ファンクラブ会員一号二号」

 二人は満面の笑みを見合わせた。

「近いうちに、カイリといっしょにチグサの見舞いに行こうと思ってるんだけど、後藤くんも行くよね?」

 もちろんとばかりに後藤くんは頷いた。

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