第23話

 疑問は少し前から抱いていた。

 チグサはなぜ、こんなにもピラミッド行きに熱を上げるようになったのだろう? 最初は親友のわがままに嫌々従っていただけだったのに。合計二回も、熱中症になりかけるという憂き目に遭ったのに。

 ナツキを放っておけなかったから。

 ナツキといっしょに過ごす時間が楽しいから。

 何回か続けるうちに、一つの目標に向かって進む面白さに気がついたから。

 いずれも正解なのだろう。しかし、最大の理由ではない気がする。チグサは本音を隠している。では、それはなに?

 尋ねようと思ってはいるのだが、降りしきる雨と吹きつける風に気勢を削がれて、現時点では実行に移せないでいる。

「雨もそうだけど、風もやばいよね。チグサは大丈夫?」

 主に現在の天候について話を振ったが、ことごとく無視された。雨音と風音が激しいとはいえ、同じ傘の下にいるのだ。声は聞こえているはずだが、視線を進行方向に定めたまま、黙々と歩き続ける。

 愉快な歩みとはいえなかったが、退路を絶たれたに等しい状況に置かれた以上、歩き続けるしかない。

 やがて雨は横殴りになった。勢いが強いから、傘を斜めにしても完全に防ぐのは難しい。チグサはメモ帳とペンをリュックサックに仕舞い、ナツキの手から傘を奪い返した。無言での行動だったため、有無を言わさない迫力があった。ナツキがそうであるように、チグサも精神力を消耗しているはずなのだが、その影響は今のところ感じられない。

 カイリのぶんがなくなっても、リュックサックは依然として重たい。ただ、大雨に打たれ、強風に吹かれながらも進み続ける高揚感が、疲労を感じにくくさせていた。絶望感はまったくない。過酷な環境に、曲がりなりにも心と体が適応しつつあるような、そんな実感をナツキは抱いていた。

 何事も慣れてきたころが一番危険だというが、箴言どおりに悲劇は起きた。

「あっ!」

 不意打ちで襲った激しい風に、傘が裏返り、チグサの手から離れて路面を転がり始めた。

「待って……!」

 すぐさまナツキが、一歩も二歩も遅れてチグサが、転がる雨具を追って駆け出す。しかし、追いつくよりも早く、道路脇の畑に転落した。

 道端から現場を見下ろすと、傘は葉野菜の株と株のあいだに引っかかっていた。風に煽られながらも持ちこたえているが、飛んでいくのも時間の問題だろう。道と畑の境界は崖になっていて、下に通じる安全な道は近くには見当たらない。いったん畑に下りてしまえば、道まで戻ってくるのも簡単ではなさそうだ。

「傘、諦めるしかないみたいだね。畑の持ち主には申しわけないけど。チグサ、どうする?」

「決まってるでしょう。先へ進もう」

 毅然とした口調での即答。ナツキは言下に反論する。

「ダメだって。こんな雨の中、傘も差さずに歩くなんて」

「ここまで来たら、辿り着くまで歩きたい。後戻りなんかしたくない」

「でも、わたし、嫌だよ。チグサを何回もつらい目に遭わせたのに、今度は風邪をひかせるなんてことになったら」

「でも、私は進むから」

 ナツキから視線を切り、チグサは歩き出した。時間を無駄にしたことにいら立つかのように、脇目も振らずに早足で。

「待って! わたしも行くから!」

 放っておけるわけがなかった。慌てて親友を追いかけ、追いついた。

 路面が未舗装になったとたん、ぬかるみに足をとられてチグサが転んだ。怪我はなかったが、上下の服は盛大に土に汚れた。すぐさまタオルで拭ったものの、泥を擦りこむだけの結果しか生まないと分かり、作業を打ち切る。数分後に再び転び、助け起こそうとしたナツキも転倒したため、二人とも全身泥まみれになった。

 それでも二人は進み続けた。疲れを隠せなくなってきてはいたが、絶望に通じる疲れではない。一言も口をきかずに、機械的に両脚を動かし続ける時間は、奇妙な心地よさがあった。

 その瞬間は唐突に訪れた。

 疎らに建ち並んでいた家屋の列が急に途切れたかと思うと、濃緑色の塊がありのままの姿を眼前に晒した。道は塊にダイレクトで接続し、さらに奥へと続いている。二人は顔を見合わせた。

「林の入口……!」

 二人とも転んで泥に汚れるという目に遭っているだけに、走っての移動は自制したが、それでも足は急いた。

 入口には、注意書きが記された看板も、立ち入りを物理的に阻む障壁も存在していない。そのまま林の中に足を踏み入れる。

 上空は木々の枝葉によって遮られ、夜のように暗い。道は引き続き未舗装で、定規で引いたように一直線に伸びている。緑のアーチと褐色の柱の働きによって、雨はほぼ防がれ、体に感じる風も大幅に軽減されている。歩くのがかなり楽になった。

「道、車が通れそうなくらいの幅があるね」

「林を切り拓いて造ったものかもね。ピラミッドを造るために必要なものをのせた車が通れるように」

 ナツキが口火を切ると、チグサは間髪入れずに話に乗ってきた。

「ということは、道なりに行けば、ピラミッドにお目にかかれる!」

「その可能性は高いと思う」

「誰かいるのかな。ピラミッドに入口があるとして、警備員が立ち塞がっていたりするのかな。林の入口にはなにもなかったけど」

「さあ、どうだろう。全然予測がつかない」

 二人は気力を取り戻していた。募る疲労のせいもあり、会話は再び途切れてしまったが、表情は希望に輝き、足どりは決して重苦しくない。

 にわかに前方が明るくなった。

 木々が途切れている。間違いない。

「ナツキ! 出口!」

「うん! 走ろう!」

 どちらからともなく手を握り、二人は走り出した。目の前が見る見る明るくなっていき、林から出た。

 激しい雨と風に出迎えられて、ナツキは絶句した。

 ない。

 なにもないのだ。

 ピラミッドはもちろん、巨大建造物の残骸らしきものも、建造物を造るさいに使われた道具や資材も。無人で、木さえも一本も生えていない。黒土の地肌が剥き出しになった、正方形の空間が広がっているのみだ。

 正方形。

 まるで、ピラミッドの底面のような。

 全身から力が抜けていく。現在地からほんの二・三歩後退することで、雨と風から逃れる気力さえも、あっという間に尽き果てた。

 なんだったの?

 一か月以上にわたるわたしたちの努力には、なんの意味があったの?

「あ……ああ……」

 その力ないつぶやきは、雨風がうるさい中でもはっきりと聞こえた。

 息を呑んで隣を向くと、チグサが地面に膝をついていた。双眸は見開かれ、口は弛緩したように開いている。明らかに普通ではない。

「チグサっ!」

 その場に片膝をつき、肩を揺さぶる。

「チグサ! どうしたの? 大丈夫? ――チグサ!」

 チグサの両の瞳に、突然、雨滴とは似て非なる透明な水の粒が浮かんだ。表情が狂おしげに歪み、粒は二筋の流れとなって頬を伝う。両の掌が顔を覆い隠した。吹き荒ぶ風の音と降りやまない雨の音の合間を縫って、嗚咽の声が聞こえてきた。

「ねえ、チグサ。ねえってば」

 呼びかける声に、先ほどのようなボリュームと力強さはない。肩を揺らす気力さえ失われてしまった。

「どうして、チグサは泣いてるの?」

 ナツキも泣きそうだった。チグサが泣いたから。チグサが泣きやまないから。

「ピラミッドがなかったからって、どうして泣くの? 悔しいのは分かるけど、でも、だからって――」

 不意にナツキは異音を聞きとった。気のせいかと思ったが、次第に近づいてくる。

 立ち上がり、体の向きを百八十度変える。林の中の道をなにかが走ってくる。

 車だ。

 林を出る一歩手前で停車した。見覚えのない車だ。運転席のドアが開き、少し遅れて助手席のドアが、さらには後部座席左側のドアが開く。

「ナツキちゃん! チグサちゃん!」

 真っ先に車を降りて叫んだのは眉子。助手席から降りたのは後藤くん。最後に降りたのはカイリだった。


 三人がかりでチグサを後部座席に乗せ、サンドイッチする形でナツキとカイリが両隣に座る。眉子の愛車は、正方形の広大なスペースを最小限利用して方向転換し、来た道を引き返し始めた。

 眉子が用意したバスタオルにくるまり、チグサは泣き続けている。乗りこんでから大まかに拭いたものの、髪も、服も、体も、依然として濡れたままだ。

 その隣で、ナツキは自らの髪の毛を、服を、体を拭いている。元気だけが取り柄の自分のことなど放っておいて、親友を濡らしているものを拭ってあげたかったが、触れがたさを感じてなにもできずにいる。

 後藤くんはバックミラー越しに、あるいは肩越しに振り返って、後部座席の様子を頻繁に確認する。必ずしも同行する必要がない彼が同行した意味を考えるだけで、ナツキは胸が痛くなる。しかし、彼の不安を和らげるための言葉は見つからない。いっそのこと後藤くんがチグサの隣に座って、寄り添えばよかったのに。そう思った。

 カイリは、そして眉子は、林に駆けつけた経緯をぽつりぽつりと語り始めた。

 二人と別れたあと、カイリは真っ直ぐに帰宅した。雨と風が一向に治まらないので、二人のことが心配でたまらなくなった。しかし、二人のもとに戻るのは難しそうだし、両親は海外に行っている。どうしようかと困っていたときに、昨夜チグサから見せてもらって返し忘れていた、後藤くんのアプリのIDが記された便箋の存在を思い出した。後藤くんに連絡したところ、母親が車の運転ができるのですぐに駆けつける、という返事が得られた。

 後藤くんを乗せた眉子の愛車は、速やかに笹沢家に到着した。三人となった一行は、途中まではカイリの道案内によって、ガソリンスタンド跡地から先は彼方に見える林を目標にして、嵐の中を進んだ。そして、無事に目的地に辿り着き、雨に打たれる二人を発見した。

「三人には迷惑かけちゃったね。……ごめんなさい」

 運転に集中しているからか、眉子からの返事はない。カイリと後藤くんは心配そうな顔でナツキを見たが、なにも言わなかった。

 三人は誰も二人のことを責めていない。むしろ気づかってくれている。それは雰囲気からひしひしと伝わってきたが、それでもナツキは心苦しかった。

「今日の件で迷惑した人間は誰もいないからね。大丈夫だからね」

 何分か経って、眉子が静かにつぶやいた。しかし、ナツキの心に垂れこめた灰色の雲は晴れない。

 ガソリンスタンド跡地を通過したころ、チグサはようやく泣きやんだ。ただ、横顔を窺ったところ、泣き顔よりもある意味暗い、沈痛な面持ちをしていたので、素直に喜べなかった。

「二人とも、もうすぐ着くよ」

 カイリの声にナツキは顔を上げた。フロントガラス越しに笹沢家が見えた。

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