第22話
「なにやってるの? 信じられない!」
夏休み最終日の朝は、ナツキが無許可でチグサに布団に入っていたことに、チグサが抗議の声を上げる、という場面で幕を開けた。
チグサは本気で恥ずかしがり、本気で怒っている。ナツキはチグサに突き飛ばされたことで目覚め、カイリはチグサの声の大きさに夢の世界から引きずり出された。
「実は、夜中にトイレに起きて、戻ってきたときに間違えて、自分のじゃなくてチグサの布団に入っちゃったの。それで……」
「嘘つかないで。いくら寝ぼけていたとしても、布団を間違うなんて有り得ないから。だいたい、そんなに寝ぼけているなら、トイレに辿り着けるはずないでしょう。この部屋からトイレまでは遠いし、道のりがちょっと複雑だし」
感情的になったときでも、チグサは最低限冷静で、分析は的確だ。
「行けたものはしょうがないでしょ」
深夜にカイリとのあいだであったことは、チグサには言わない。二人だけの秘密にしようと約束したわけではないが、カイリもきっとそう望んでいるはずだ。
「間違いに気がついたから出ようとしたんだけど、なんていうか、人の布団の中って妙に心地よくて。あっ、これいいなって思っているうちに、寝ちゃったの。で、そのまま……」
「絶対にわざと! 私の体になにかしなかったでしょうね?」
「うん、それはさすがにしなかったよ。おしりを撫でたくらいで」
「もう! なんでそんなことするの!」
「起きていないかどうか、たしかめようと思って。まあでも、パジャマの上からだから」
「パジャマ越しでもダメ!」
問答がくり返されるうちに、カイリはすっかり目が冴えたらしく、二人に先んじて着替えを済ませた。
「二人とも、着替えれば。お昼から雨だから、出発は早ければ早いほどいいんでしょ」
「あっ、うん。ナツキ、バカなことやっていないで着替えよう」
チグサも着替えにとりかかり、ナツキもそれに続いた。
朝食をたっぷりととってエネルギーを補給すると、ナツキとチグサはピラミッド行きの準備を始めた。準備といっても、早い話が、持参する荷物の厳選。着替えなど、一泊に備えて持ってきた物品が多いので、置いていくものの総量は膨大だ。
「結構な量だね。カイリ、怒らないかな」
「大丈夫だと思うけど、一応確認をとったほうが――」
噂をすれば影。襖が開いて、カイリが姿を見せた。
「あ、カイリ。ちょうどよかった。荷物、外に出ているあいだはここに置かせて。大量にあるから、部屋がごちゃごちゃしちゃうけど」
「別にいいよ。この家、広さだけが取り柄だし、どうせ親は深夜にならないと帰ってこないし。あ、これ、あたしの荷物ね」
そう言って、後ろ手に隠していたものを差し出す。タオル、ペットボトル入りのレモンジュース、その他諸々。
「ナツキのリュックサック、大きいでしょ。空いたスペースにこれを入れてよ。手ごろな鞄がないから、悪いけど」
「カイリ、まさか……」
「うん、あたしも行く」
カイリは不敵にほほ笑む。対立関係にあったときであれば、憎らしく見えたに違いないその表情に、ナツキは頼もしさを感じた。
「暇で暇で死にそうだから、二人に付き合ってあげる。三人で見に行こう、ピラミッド」
三人全員が準備を整えて笹沢家の外に出たのが、午前八時過ぎ。
今日は風が強い。空は九割ほどが灰色の雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうだ。ナツキとチグサはともに帽子を脱ぎ、リュックサックに仕舞った。
「不吉な空模様だよね。やばいことが起こりそう」
歩き始めてすぐ、カイリがひとり言のようにつぶやいた。事実なのだから仕方ないと理解はしながらも、幸先悪いことを言わないでほしいな、とナツキは思った。
雨が降った場合に備えて、折り畳み傘を二本ずつ用意してある。カイリのぶんはない。リュックサックに入れて持ち運べるタイプのものを持っておらず、なおかつ、傘を携帯しての歩行を嫌がったからだ。
もし降った場合、リュックサックを背負っていない二人が差し、そのうちの一人が傘を持たない一人に差しかける。リュックサックを背負う役は、体力に不安があるチグサ以外の二人が交互に受け持つ。その代わりに、チグサは地図を更新する。そう取り決めを交わしている。
「カイリは林に行ったことがあるんだったよね。道順とか、分かる?」
「残念ながらまったく。でも、林の緑を目標にすればいいんだから、そう悲観することもないんじゃない?」
「そうだね。カイリの家まで来ている時点で、ピラミッドはそれなりに近いはずだし」
昨夜のことを振り返るなどしながら、三人は道を歩く。進むごとに分かれ道が増えていったが、惑わされることなくひたすら進んでいく。
「木島さん、いちいち地図を描いてるの? なんかまどろっこしいなぁ。今日で辿り着くんだから、もう描かなくてもよくない?」
「ちょっとナツキ。リュックサック、そろそろ背負うの交替してよ。あたしの時間が長い気がする」
カイリは時折不平を唱えながらも、基本的には協調的に二人とともに歩んだ。会話にも積極的に参加するので、雰囲気は自ずと明るくなる。
「案外早く着くかもね、この調子だと」
ナツキの発言に、チグサとカイリは間髪を入れずに同意を示した。楽観ムードが三人を包んでいた。
しかし、歩き始めて半時間が経過したころから、文字通り雲行きが怪しくなってきた。風が次第に強まり、遠方で雷鳴が轟く。どちらの現象も、獰猛な嵐の到来を強く予感させた。
「天気、荒れてきそうな感じだね」
ナツキがつぶやくと、二人も同じことを考えていたらしく、
「本当だね。まだ九時にもなっていないから、早すぎる気はするけど」
「降ったとしても、慌てることはないでしょ。傘があるんだから」
そんな会話を交わしてから数分後、ナツキは頬に冷たさを感じた。反射的に天を仰ぐと、それがスイッチだったかのように、大粒の雨が一斉に降ってきた。
「うわぁ! 来た、来た」
慌ててリュックサックから二本の折り畳み傘を取り出す。カイリはさっさと自分のぶんをとって、自らの頭上を遮った。ナツキは残った一本をチグサに手渡そうとしたが、地図とペンで両手が塞がっている。
「あっ、そうか。地図を描かなくちゃいけないんだ。じゃあ……」
カイリを見つめたが、目を逸らされた。無責任だと思ったが、機嫌を損ねられても困るし、相合傘も悪くない。開いた傘をチグサの頭上に差しかける。
「ごめんね。荷物を持ってもらった上に、傘まで」
「いいよ、気にしないで。チグサをサポートするの、もともとわたしの役目みたいなものだから」
雨は次第に強さを増していく。降り始めた当初は、降り始める前と同様に他愛もない話に耽っていたが、雨音の圧力に屈するかのように、言葉数は次第に少なくなる。
「あーあ、なんでこんな日に限って降るかなぁ」
自分を含む、一同のテンションを下げるだけと承知してはいるが、ナツキはため息をつかずにはいられない。
「二十回くらいチグサと歩いたけど、通り雨に襲われたことが二回あっただけなのに」
「だったら今回もすぐにやむんじゃない?」
柄にもなくネガティブなことを言うから、代わりにポジティブなことを言ってやった。そんなカイリの一言だ。
しかし、願いとは裏腹に、雨は秒刻みにひどくなる。
「ちょっと二人とも。これ、いったん雨宿りしたほうがいいよ」
真っ先に音を上げたのは、すぐにやむと言った張本人だ。
「服も濡れるし、これ以上歩くの嫌なんだけど」
「カイリ、どこかいい場所知らない? 雨宿りにぴったりな場所」
「この近くに、ガソリンスタンドの跡地があったような記憶があるんだけど、今はどうなってるかな。あそこなら屋根があるから、雨を凌ぐにはもってこいなんだけど」
「ガソリンスタンド? 車はあんまり通らなそうな道なのに、そんなものがあったんだ」
「だからつぶれたんでしょ」
歩き続けているうちに、前方左手に問題の跡地を見つけた。コンクリートの屋根に守られた領域の奥に自動ドアが見えるが、明かりは漏れておらず、営業していないと一目で分かる。
「走ろう!」
ナツキの号令とともに三人は駆け出した。道路との境界に張ってある、腰ほどの高さのロープを跨いで、屋根の下へ。
給油機などは全て取り除かれていて、空間は寂寞としている。ナツキは傘を閉じて安堵の息を吐いた。
「よかった。ここなら雨も――」
チグサのほうを向いて、ナツキは絶句した。
髪の毛と服の広い範囲が濡れている。ナツキが速く走りすぎたせいで、短時間とはいえチグサを雨に晒す結果となったのだ。
「ごめん! 早く拭かないと、風邪ひいちゃう」
「大丈夫だよ。地図は濡れなかったから」
胸に抱きしめていたメモ帳を見せ、どこか子どもっぽくほほ笑む。
「あー、もう! それが無事だったことより、チグサが濡れちゃったほうが重大でしょ!」
ナツキは大急ぎで親友の髪の毛を、服を、そして肌を、タオルで拭う。チグサは加えられる力の強さに眉をひそめながらも、行為に身を委ねている。自分のタオルを使って自分の髪の毛を自分で拭くカイリは、そんな二人を見て、やれやれ、というふうに小さく息を吐いた。
飲み物で喉を潤すと、三人は開かずの自動ドアの前に腰を下ろし、眼前の景色を眺めた。雨が強まるのには歯止めがかかったが、降りやむ気配はない。風が勢力を増してきたようで、煽られた木々が不穏にざわめいている。
「ひどいなー、天気。まるで台風みたい」
雨宿りを始めてから一貫して無言だったカイリが、うんざりしたように言った。
「雨、もう少し待ってみて弱まらないようなら、引き返すのも考えたほうがいいかもね」
ナツキはどう答えていいか分からない。天候が原因でピラミッド行きが中止になったことは、今までに一度もなかった。
チグサは熱心にメモ帳に書きこみを行っている。
携帯電話は持ち歩かないという方針に付き合ったために、カイリはひどく退屈そうだ。
ナツキは、空が晴れるのをただ願うことしかできない。
気を紛らわせるために、心が軽くなるような話題に花を咲かせられればよかったのだが、三人は一言も喋らない。喋らないから、空気が重くなる。空気が重たいせいで余計に喋り出しにくくなり、重苦しい空気は固定化されてしまう。
風雨がやんでくれれば雰囲気も一変しそうだが、両者ともに勢力が衰える気配はない。
どれくらいの時間、三人はそうしていただろう。
「埒が明かない。帰ろう」
おもむろにカイリが腰を上げたかと思うと、二人の顔を見ながら呼びかけた。
「これ、どう考えても続行不可能でしょ。帰って、シャワーを浴びて、三人で部屋でのんびり過ごそうよ。絶対そうしたほうがいいって」
「私は行く」
思いがけない強い声。起立し、カイリの顔を見据えながらのチグサの発言だ。顔から表情が消えていて、吹き荒ぶ風雨とは好対照な静けさに包まれている。
「雨宿りをもう少し続けるか、引き返すか、林を目指すか。私たちに与えられた選択肢は三つで、どれを選ぶのも自由で、誰がなにを選んでもその人の意思は尊重しないといけない。笹沢さん、そういうことだよね?」
「うん、そう。あたしが『帰ったほうがいい』って言ったのも、強制とかじゃ全然なくて、ただの個人的な意見だから」
「そうだよね。ピラミッドを見に行くっていうのは、義務でもなんでもなくて、私たちが好きでやっていることなんだから。続行するのも自由だし、引き返すのも自由だし、決断を先延ばしにするのも自由。三つの中から、私は先に進むことを選んだ。それだけのことだから」
「ちょっと、二人とも!」
ナツキも立ち上がり、左右に佇む二人の顔を交互に見る。
「なんで別行動オッケーみたいな流れになってるの? せっかく三人いっしょに行くことになったのに、こんな形で――」
「ナツキ。あんた、なに頓珍漢なこと言ってるの?」
呆れたような、小馬鹿にしたような声。昨夜、トイレからの帰りに言葉を交わして以来、カイリが人を見下す態度をとったのはこれが初めてだ。
ナツキはカイリに鋭い眼差しを送りつけた。しかし、そのカイリが返した言葉に、反発心は一気に萎えてしまう。
「あんたはもともと、あたしをほっといて、木島さんと二人で出かけるつもりだったでしょ。あたしは勝手についてきただけなんだから、離脱するのも自由。違う?」
「それは……」
「木島さんだって似たようなものでしょ。ナツキは木島さんを無理矢理同行させたの? 違うでしょ。木島さんの決断なんだから、気に入らないからって干渉したりしないで、木島さんの意思を尊重するべき。あたし、なにか間違ったこと言ってる?」
言っていない。カイリは正しいことを言っている。
「そういうわけだから、私はもう少し、ピラミッドを目指して歩くね。笹沢さん、付き合ってくれてありがとう。荷物持ちとか、迷惑かけてごめんね」
「いや、楽しかったよ。大雨さえ降らなかったら、たぶん最後までついていったと思うし」
「雨と風が強いから、帰りは気をつけてね」
「ありがとう。……あ、待って。ちょっとでも軽くしておいたほうがいいから」
カイリはリュックサックから自分の荷物を取り出し、小脇に抱えた。そしてナツキに向き直る。
「で、ナツキはどうするの?」
「えっ?」
「傘は二本しかないんだから、実質的に二択じゃない? 早くどっちかに決めないと、大変なことになるよ?」
二択。チグサとともにピラミッドを目指すか、カイリといっしょに引き返すか。
「じゃあ、私は行くね」
チグサはリュックサックを背負い、傘を開き、屋根の下から出ていく。彼女らしくない積極性に、ナツキは狼狽してしまう。
チグサの決断に従うか、カイリと行動をともにするか。
わたしは――。
「カイリ、ごめん! チグサが心配だから、ついていく。ほんとにごめん!」
雨の中に飛び出す。数メートル走ったところで振り向くと、カイリは傘を開いたところだった。目が合うと、両手が塞がっていなければ手を振る動作もセットだっただろうというような、優しい表情が浮かんだ。
ナツキは深く頷いて感謝の念を伝え、チグサの傘の下へと駆けこんだ。
「来てくれたんだ」
感情を故意に取り払ったような声。ナツキには見向きもしない。
「気乗りがしていないみたいだったし、帰っちゃうのかと思った」
「そんなことない! 行くに決まってるでしょ。ピラミッドの正体を突き止めるっていうのは、もともとわたしが立てた目標なんだから」
雨と風の音に負けないように声を張り上げ、リュックサックと傘を奪いとる。チグサは抵抗しなかったし、異議を唱えることもなかった。その瞳は、遠くにある林の濃密な緑だけを見ている。
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