第21話

 ナツキは尿意を催して目を覚ました。

 部屋は真っ暗だ。普段とは明らかに異なる匂いと雰囲気に、淡い緊張を覚えた。

 室内には人工の冷気がかろうじて残っている。夜通し続きそうな歓談を切り上げて消灯してから、そう長い時間が流れたわけではないらしい。

 右隣ではチグサが、左隣ではカイリが、それぞれ眠っている。二人とも寝息は無音なので、怖いくらいに静かだ。

 臆病ではないナツキでも、一人でトイレに行くのは躊躇われる雰囲気だが、行かないわけにはいかない。布団から抜け出し、和室から出る。

 やっぱり、どちらかについてきてもらえばよかった。

 移動を開始して三十秒後に、ナツキは早くも後悔した。暗さのせいで、トイレまでの道のりが分からないのだ。さらに都合が悪いことに、中途半端に進んでしまったせいで、戻る道も分からなくなってしまった。

「……どうしよう」

 廊下の真ん中で立ち止まり、力なくため息をつく。考えてはみたものの、明快な打開策はすぐには浮かんでこない。

 ピラミッドへ行く途中で道に迷ったときと、シチュエーションが似ていることに気がつく。

 進むべき道に迷ったとき、頭を働かせてきたのは主にチグサだった。ナツキもいっしょに考えたが、所詮は形だけ。チグサの頭脳に頼りきり、自力で解答を導き出す努力を怠ってきた。

 チグサがいてくれればなぁ。

 心の中で嘆いたあとで、頭を振る。

 助けてもらえる状況なら、助けを呼べばいい。だけど今は、助けは期待できないのだから、自分の力でどうにかしないと。

「……よし」

 あてずっぽうで進んでみよう。きっとそのうちに、目的地に着くか、元の場所に戻ってくるはずだ。効率的なやりかたではないかもしれないけど、わたしに一番合っている。

 意を決し、歩き出そうとした瞬間、後方で床板が軋んだ。不可抗力的に全身が硬直した。周囲の気温が少し低くなった気がする。

 恐る恐る振り返ると、曲がり角に白っぽい人影が佇んでいる。

 まさか、幽霊……?

 人影がナツキに向かってきた。

 恐怖を感じたのは、動いた瞬間だけだった。人影には二本の脚がしっかりと備わっていて、歩きかたは人間のそれだ。

「なんだ、ナツキか」

 白っぽい人影――笹沢カイリは、利き手を腰に宛がってため息をついた。

「そんなところに突っ立ってるから、幽霊かと思った。なにしてるの」

「トイレに行こうと思ったんだけど、迷っちゃって。この家、ちょっと複雑だよね」

「初めての人にはそうかもね。あたしもトイレだから、いっしょに行こう」

 目的地には問題なく辿り着いた。まずカイリが済ませ、次いでナツキが小用を足す。

 水音を背にトイレから出ると、カイリは待っていてくれた。

 道に迷った人間を目的地に導いた人間として、当たり前の行動をとっただけなのかもしれない。しかしナツキは、カイリの親切に心を打たれた。そして、こう思った。

 四月末のあの出来事が起こるまで、わたしたちは紛れもなく親友同士だったのだ。

 帰り道を歩くナツキの胸は、昔話をしたい気持ちでいっぱいだった。ただ、切り出すタイミング、文言、どちらも難しい。もどかしく思いながら歩き続けていると、

「今日のあたしたち、異常なくらい仲がいいよね。まるで小学生のころみたい」

 ナツキは息を呑んだ。それを知ってか知らずか、発言は続く。

「思ったんだけどさ、あたしたち、むちゃくちゃ仲が悪いわけじゃないよね。顔も見たくないとか、そういうレベルで憎み合ってはいない。学校では殴り合いの喧嘩もしたけど」

「ねえ、カイリ」

 進路に目を向けたまま、ナツキは口を開いた。カイリがきっかけを作ってくれたので、スムーズに口火を切れた。

「わたしたちが仲違いするきっかけになった事件のこと、覚えてる?」

「もちろん覚えてるよ。今年の四月末、ゴールデンウィーク直前だったよね」

「うん。早かったよね。せっかく同じクラスになったのに、一か月も経たないうちにあんなことになるとはね」

 束の間言葉が途切れ、カイリが言う。

「あたしが悪口を言ったのがきっかけだったよね。中学生になってからクラスが別になって、あんまり遊ばなくなった子たちの悪口。それにナツキは怒って」

「悪口にも二種類あるでしょ? 非がある人を責める悪口と、非がない人を罵る悪口。わたしには、あのときのカイリの悪口は後者だとしか思えなかった。それが許せなくて、食ってかかったんだ」

「すごかったよね。ひどかったって言ったほうが正しいかな。男子みたいに殴り合って、罵声を浴びせ合って、先生が駆けつけるまで制止する人間は誰もいなかった」

「あれからずいぶん時間が経ったよね。もしよければ、友だちの悪口を言った理由、教えてもらえないかな」

「……こう言うとたぶん、ナツキは怒るだろうけど」

 カイリのほうを向くと、カイリもナツキのことを見ていた。

 怒らないから、言ってみて。無言のメッセージは、夜の暗さが邪魔する中でも通じたらしく、言葉が紡がれた。

「冗談のつもりだったんだ。中学生になって、出身小学校が違う子と付き合うようになったでしょ。その子たちと距離を縮めるには、同じ小学校にどんな子がいたのかを話すのが一番簡単な方法だったの。サキたちって、すごく華やかでしょ? だから、今まで親しかった子のダサいところを話題に取り上げると、すごく盛り上がった。その場に居合わせないから、からかいの対象にしやすかったし、悪口を言っていることを本人に知られたとしても、サキたちに強要されて調子を合わせただけって誤魔化せばいいやっていう、ずるい考えもあって」

 カイリの足どりは次第に緩やかになっていく。ナツキはそれに歩調を合わせる。だから、カイリの声は常に隣にある。

「あのときの自分を思い出すと、自分でも嫌になる。話の種なんて、探せばどこにでも落ちているのに、他人を傷つけるような話題をわざわざ選ぶなんて」

 かすかなため息が闇に放たれ、溶けて消えた。

「ほんと性格悪いよね、あたし。ナツキが激怒したのも無理ないよ」

「カイリ、それは違うよ」

 二人の足が同時に止まる。深更の暗闇の中、見つめ合う。

「カイリの心ない発言が許せなかったのは確かだけど、あそこまで怒ったのは、それだけが理由じゃない」

「……どういうこと?」

「わたし、怖かったの。カイリがわたしの手が届かないところに行ってしまいそうで、すごく怖かった」

 声は明確に震えた。カイリ本人にはもちろん、他の誰にも決して打ち明けることなく、胸に秘匿し続けていた真実。

「小学生のときにわたしたちが仲よくしていた子たち、中学生になってからみんな別のクラスになったでしょ。カイリとチグサだけはいっしょだったけど、カイリはわたしとあんまりいっしょにいてくれなくなったよね。サキとか、出身小学校が別の子たちとばかり話すようになった」

 カイリは身じろぎ一つせずに、瞬きをする回数さえ減らして、ナツキの語りに耳を傾けている。

「無理もないよね。カイリはさっき華やかっていう言葉を使ったけど、そういう意味では、サキたちとカイリの相性ってすごくいいと思うし。ファッション誌なんかを机の上に広げて、わいわい話をしているときのカイリたちって、見ていてすごく楽しそうだもん。キラキラしてる。ああ、青春だなって」

 カイリの唇が薄く開き、口を挟もうとする兆候を示した。ナツキは小さく頭を振ってそれを制し、言葉を続ける。

「わたしもカイリといっしょにサキたちと友だちになれれば、それが一番よかったんだろうけど、わたし、人と仲よくなるのはそんなに得意じゃないんだ。誰とでも普通に話せるんだけど、関係を深めていく能力があるかっていうと、それはまた別の話だから。だからわたしにとって、友だちって呼べる存在は本当に、本当に貴重なんだけど、ほとんどの子がクラスが別になってしまった上に、カイリとはあまり話さなくなったでしょ。だから、サキたちと日に日に仲よくなっていくカイリを見て、いろんな感情が胸の中で渦巻いていたわけ。嫉妬とか、疎外感とか、焦りとか、本当にいろんな感情が」

「あたしに殴りかかったのは、その感情が爆発したから、ということ?」

「……うん」

 沈黙が降りる。口にするべき言葉は、ナツキの中ではすでに決まっているから、再び喋り出すまでに要した時間はそう長くはなかった。

「カイリに謝りたいことがあるの」

「謝る? あたしがナツキに謝る、じゃなくて?」

「うん。喧嘩になったあと、わたし、別のクラスの友だちのもとまで走ったよね。覚えてる?」

「覚えてるよ。はっきりと覚えてる」

「あのときわたしは、カイリがみんなになんて言ったのかを伝えて、それからみんなに訴えたの。こんなひどいことを言うなんて、絶対に許せないよねって。許せないから、みんなで抗議しようって。――でも」

「誰も行動を起こさなかった」

「そう。みんな、カイリを恐れていたから。カイリは美人で、みんなに人気があって、一目置かれていたでしょ。小学生のときもそうだったし、中学生になってからも変わらずに。クラスが別々になって、交流が途絶えたことで、カイリにもともと感じていた近づきがたさみたいなものを、より強く感じるようになっていたんだと思う。だから、みんなはそういう対応をとった」

 あの一件があって以来、ナツキは何度も何度も、カイリと仲違いするに至った原因について考えてきた。正解か不正解かはともかく、自分なりの解答はすでに導き出しているので、すらすらと考えを述べられる。

「わたしのその言動を知って、カイリは激怒した。もう一回殴り合いがあって、わたしたちの関係は完全に壊れた。つまり、仲違いの原因は、わたしが余計なことをしたから」

 ナツキは強いて笑みを浮かべる。自らに無理を強いしたのは誰の目にも明らかな、痛々しい笑みになっているのだろうと、口元の筋肉の引きつりかたで分かる。

「情けないなぁ。わたし、思い立ったら即行動に移すタイプだから、つまらない失敗をしちゃうことがすごく多いんだよね。今まで数えきれないくらい失敗を重ねてきたけど、でも、あの失敗だけは悔やんでも悔みきれないよ」

「ていうか、事件の発端は、あたしがみんなの悪口を言ったことだよね」

 カイリは声を少し強めた。

「だから、あたしも悪い。ナツキよりもずっと悪いよ。……いや、発端なんだから、責任は全てあたしにある」

 発言がにわかには信じられなかった。しかし、この静けさだ。聞き間違えるはずがない。

 あのカイリが、自らの非を認めた。

 夢でも幻聴でもないと分かってはいたが、現実感が伴わず、呆然としてしまう。

 しかし、カイリの声の微妙な変化に気がついたことで、ナツキの心境にもすぐに変化が訪れた。

「あたし、嫌なの」

 涙声になったのだ。

「思ったことをすぐ口に出す性格に、みんなが迷惑しているのはもちろん分かってる。人を傷つけるのはあたしだって嫌。誰かを傷つけるのが楽しくて言っているわけじゃない。言ったあとは自己嫌悪がすごくて、こんなことはもうやめよう、もうやめたいって、いつも思ってる。……こんなこと、今まで一度も言ったことがなかったから、誰も信じないと思うけど」

 信じるよ。そう言葉を返すのは簡単だが、言ってしまった瞬間、現在の話題は終わりを迎えてしまう気がする。それはナツキが望んでいる展開ではない。

 では、どんな言葉を返せばいいのだろう?

 少し考えてみたくらいでは、答えは浮かんでこない。台本にのっとって言葉を交わしているわけではないのだから、会話に滞りが生じることだってある。もちろん理解してはいるが、それでももどかしい。

 カイリは、今きっと、底知れない不安の中にいる。ナツキから手厳しく糾弾されるのではないかと、怯え、身構えている。

 カイリがそんな目に遭うことを、ナツキは望んでいない。

 さり気なくカイリに体を寄せ、手を握った。暗い中でもすんなりと手をとることができたのが、ちょっとした奇跡に思えた。

「わたしもカイリと同じだよ。後先考えずに行動する自分の性格、あんまり好きじゃない。でも、少しも頭を使わないことなんてないし、失敗したら後悔もしてるし反省もしてる。……反省を活かせていない気もするけど」

 相手の目を見て話すのは、照れくさいような、それとは似て非なるような、言葉では言い表しづらい抵抗感を覚える。それを振りきって言葉を重ねる。

「カイリも気づいていると思うけど、わたしたちって似た者同士だよね。カイリは会話の最初に『今日のわたしたちは仲がいい』って言ったけど、『今日の』っていう注釈がつくのは本当はおかしくて、仲がいいのが普通。そんな気がする」

 カイリはくり返し小さく頷きながら話を聞いてくれる。そのおかげで、言いにくい言葉もスムーズに口から出る。

「だから二学期からは、わざと対立するのはやめにしようよ。喧嘩をしてからのわたしたちって、相手に対して挑発的だったり、攻撃的だったり、冷たかったりっていう、そういう態度をわざととってきたよね。まるで『わたしたちは仲が悪いですよ』って周りの人にアピールするみたいに。でも、それはやめよう。仲よくしようと努力するんじゃなくて、余計なことはしないように心がける。そうしたら、ゆっくりだけど無理なく、元のわたしたちに戻れるんじゃないかな」

 洟をすする音が聞こえてきた。それを聞くだけの時間を十秒ほど挟んで、ナツキは続ける。

「元のわたしたちに戻れたら、わたしたちが迷惑をかけた子たちに、いっしょに謝りに行こう。二人で力を合わせたら、きっと上手くいくよ」

 語るべきことを語り終えたあとも、洟をすする音はしばらく続いた。やがてそれが収まり、ナツキは言う。

「戻ろう。チグサが起きていたら、心配しているかもしれないし」

 暗闇の中、カイリはしっかりと頷いた。言葉はもはや必要なかった。

 繋いだ手は、和室に着くまで離さなかった。

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