MUD AND WATER

アサリ

第1話(完結)

 日が落ちるのが早くなった。私は学校のトイレの、小さな窓の外がオレンジ色に染まっているのを見た。九月も終わる。すぐに冬服に衣替えがあって、それからコートが必要になって、寒くなるだろう。委員会が終わって帰る頃には真っ暗。そんな冬がまたやってくる。

 そうなったら、きっとこの状況はちょっとしんどくなるかもしれない。私はかけられた水が滴るのを見ながら、セーラー服の端を絞った。ぼたぼたぼた、と、まとまった水が足元に落ちる。

「君は相変わらず呑気だなあ?」

 とても威圧的に、目の前の男子は言った。

 比較的背が高くてすらっとしているが、目つきが鋭くて、いつも不機嫌そうにしている。雰囲気からして近寄りがたく、更に、人を小馬鹿にしたような笑顔を得意としているせいで、万人受けするタイプではない。ただ、顔は整っている。だから、遠くから見ている分にはいいのかもしれない。「おい、月山ひかる」

「折角僕が話しかけてやっているのに無視かい」

 彼、角城一葉は、私の前に現れると、こうして人気のない男子トレイに連れ込み水をかけるというイジメをするのである。

 どうしたらいいかな。私はぼんやりと自分の水気を取りながら思う。

 角城は私を睨みつけて、私の反応を窺っている。とりあえず、一つ、反応を返してみる。現状に対する感想である。

「九月も末ともなると、水をかぶると寒くて困るね」

「君って奴はどうしてそう間が抜けているんだ?」

 答えは、焦ったり急いだりする必要がないからだ。

 角城が私の胸ぐらを掴みながら、――思う。

『ああ、この人は自分の今の格好がどんなことになっているのかわかっていないのだろうか。クソ。下着が透けてるんだよ。水をぶっかけられるってわかっているんだからインナーくらい着て来い! それにしても今日も怒るどころか世間話をしてきた。お人よしにもほどがあるだろう。なんなんだ。ジャンヌ・ダルクだってこんなことをされたら眉間に皺くらい寄せただろうに。なんだこの無表情は。駄目だ。こんなの。かわいすぎる! ああまたそんな目で見られたら、僕は言いたいことの一つも言い出せずにこんなに下らないことを。ごめんなさいごめんなさい、畜生心の中のことが伝わったらどんなにいいか! いっそ伝われ! 好きだ! 僕と仲良くしてください!』

 角城の口は、今、動いていない。これは角城が体外には出していない情報だ。私はわかりやすく、心の声、と呼んでいる。

 実際に、考えていることが筒抜けであるとわかれば、彼は顔を真っ赤にして怒って「近寄るな!」くらいのことは言ってくるだろう。角城は私の胸ぐらを掴んで前後に揺すり「聞いているのか」だの「なんとか言ったらどうだ」だの、コミュニケーションを取ろうと頑張っている。頑張るのはいいのだが、せめて、カフェオレとか、あたたかい飲み物でも持ってきてゆっくり話す、ということができないのだろうか。

 どうしたらいいのだろう。

 結局、角城が私に言いたいことを言える日を待ってしまっているせい、なのかどうかはわからないが、現状維持の毎日が続いている。

 角城の意識がちらちらと私の胸やら腹やらへいくのが聞こえてきた。角城の注意力が散漫している間にスカートもきつく絞る。すると角城は大変に素直に、今度は私の太ももに釘付けになっていた。『なんて危機感のない!』これで、大方制服の水分を絞り終えた。

 少し寒いなと濡れた制服の上から体を擦ると、自分でやっておいて見ていられなくなったのだろう。彼は私を壁まで突き飛ばし、「つまらない奴だな!」と去って行った。

『こんなことが言いたい訳じゃないのに』角城が苛々しているのは、私にではなく自分にであると手に取るようにわかるし、彼はいつも、私の方が苦しくなるくらいに罪悪感に苛まれながら帰っていく。

 廊下で出くわしてしまわないように少ししてからトイレを出る。保健室でシャワーを借りてジャージに着替えようと歩いていると、四人でかしましく談笑しながら歩く、女子グループとすれ違った。全く知らない子たちだと声をかけられることもあるが、彼女達はちらりとこちらを見ると、私はいないものとして、一秒とかからず元の話題に帰って行った。

 私は半年前まで彼女達のグループに属していたのだが、角城からのいじめが自分たちにも及ぶのが怖いという理由ではじき出された。そうしようと決断されたことは寂しいが、正しいとも思う。角城が実は無害であることは私しか知らないからだ。

 角城は律儀に、私に友達がいなくなったことも気にしていて、それは自分のせいであると落ち込んでいたりもする。凄まじい落ち込みようで思わず「気にしてない」と言ってしまいそうになる。

 彼は、彼自身がもっと私への接し方を改められれば全部解決すると思っている。ずっと、どうしたら私と上手くコミュニケーションが取れるかについて考えている。角城にとっては、私ときちんと話をすることは、テストで学年一位を取るよりも大変なことであるらしい。

 どうするべきなのか。私はそればかり考えている。私のことが好きで堪らないらしい人に、水をぶっかけられながら。



 私がこんな風に、人の考えていることが声として聞こえるようになったのは、高校生になったばかりの頃だった。四月、入学式を終えた帰り道で、私は交通事故に遭った。

 トラックとぶつかって数メートル吹き飛び、しかし、飛び方と着地の仕方が良かったとかで、額を数針縫った程度の怪我で済んだ。事故当時は車とぶつかったショックで、私は「ああ死んだな」と今までの思い出を振り返ってみたりした。走馬灯というのは実はセルフサービスだったのだなあ。そんな風に意識を失った。

 そして意識を取り戻すと、私は、人の考えていることが声として聞こえるようになっていた。『声』のように聞こえるので、目を合わせるか、顔を見ていないと、それが本当にその人が話している声なのか、心の声なのかわからない。無条件に聞こえてしまうので、私に聞こえる『声』は倍以上になり、これに慣れるのに、貴重な高校生活最初の半月を潰した。

 とんでもないことになったと思ったものだったが、今ではすっかり慣れた。

 ただ、状況に慣れることと、力を使いこなすことは別の問題だ。この力との向き合い方がわからないまま、一年と半年が経過しようとしている。

 カウンセラー、心理学者、メンタリスト、あるいは警察官? 私の目下の悩みは、私はどうするべきか、どう振舞うべきかということだった。人には聞こえない声が聞こえる私は何かをするべきなのだろうか。するべきならば、なにをするべきなのだろうか。今日も答えを探しながら、自室からリビングへと降りていく。

「あ、あんたはまた昼過ぎまで寝て」

「起きてはいたよ」

 言いながら、がらりと窓を開ける。「蔵之介ー!」呼ぶと、家の近くまで帰ってきていた蔵之介が走って窓から家の中に飛び込んで来た。私はそれを捕まえて、すぐに両手両足を拭いてやる。三色の毛に草や泥を絡ませているので、払ってやってから解放した。蔵之介は真っすぐ餌箱の前まで行き、「にゃああ」と猫らしからぬ低い鳴き声で、腹が減ったと訴えてくる。

「あら。蔵之介。よくわかったわねえ、帰ってくるって」

「んー、うん」

「最近、蔵之介と以心伝心なんじゃない?」

「うん、毎日一緒に寝てるし」

 母は「ふうん」と興味があるやらないやらわからない返事をして、鍋をかき混ぜていた。鍋に入っているあれはシチューだろう。

 鳴き続ける蔵之介に餌を与えると、しばらくそれを眺める。猫や犬、その他動物の気持ちがわかるとなると、獣医、とまではいかないまでも、力を活かした『なにか』ができるのかもしれない。ただ、犬猫の場合気持ちを言葉として捉えることはできない。この子は今こうしたいと思っている、ということが明確に分かる程度だ。

「ところで、暇なら卵と牛乳買ってきてくれない? 買い忘れちゃった」

「適当なお菓子も買っていいなら……」

「はいはい。五百円ね」

「よし! ありがとう」

 母は、さっきからずっと頭の中でなんとも形容できない、おかしな歌の作詞に余念がない。あまり真剣に聞いているとついツッコミを入れて笑ってしまいそうだったから、すぐに着替えて、買い物に行くことにする。

「あ、そうだそれから、冷蔵庫にいちごタルトとチーズケーキがあるけど、あんたどっちがいい?」

 母は、いちごタルトが食べたいようだった。

「チーズケーキ」

「じゃあそっち残しておくわね!」

 食べたい方が食べられるし、買い物に二度行かなくて良くなったから、母は上機嫌に鼻歌を歌い始めた。

 家族にも、力のことは喋っていない。



 家を出ると、足元に猫が絡みついてきた。餌も食べたしまたパトロールに出かけるのかと思ったが、私の傍を離れない。しゃがみ込んで、お手本のような三毛模様がついている平らな頭を撫でてやる。

「蔵之介も来てくれるの」

 蔵之介は一度鳴いて、私の回りを一周した。今となっては私の唯一の友人なので、彼にいろいろ語り掛けていたら仲良くしてくれるようになった。中学まではよく噛みつかれたり引っかかれたりしたものだが、猫の気持ちがなんとなくわかるようになると、怒られる前に触るのをやめることができるようになった。

「よし。じゃあ、一緒に行こう」

 猫を伴って、町へ繰り出した。人通りが多い道はかなり煩いし、蔵之介を抱えてやらなければいけなかったが、この程度ならば問題はない。私は「牛乳、卵」とリズムよく繰り返しながら進む。

 住宅街を抜けていく下り坂を滑る様に降りていき、車通りの多い国道を横断する。歩いて二十分もしないところに自宅からいちばん近いスーパーがある。

「流石にスーパーには入れないよ」

 スーパーの駐輪場に、年中置いてある原付がある。その上に蔵之介を乗せた。蔵之介は行儀よく座り、低い声で一鳴きした。貰った五百円の半分で蔵之介のおやつでも買ってやることにしよう。

 勝手知ったる店だから、目当てのものはすぐに見つかる。一番時間がかかったのは私のお菓子選びだ。菓子の棚を何度か往復して、結局いつも食べているチョコレート菓子に決めると、卵よりも大切に丁寧にかごに入れ、レジへ向かった。

 この間にも、声がたくさん聞こえている。子供を注意する母の声。はしゃぎ回る子供の声。製菓材コーナーで悩む少女の声。原付の上で欠伸をする猫を気にする声。『ああ』ふと、一層大きく聞こえてくる声があった。声がした方を見ると、身なりの良い、白髪のおばあさんが、二〇キロの米袋を見つめて溜息を吐いていた。

『昔はこんなもの、抱えて家まで帰れたものだけれど』

「手伝いましょうか」

 言ってから、どういう言葉をかけるのが自然か考えた。いいや、声をかけること自体が不自然だったかもしれない。こういうことは行動する前に考えなければいけないのに、声が聞こえてしまうとなかなか難しい。つい、首を突っ込みたくなってしまう。

「ええ……?」

 好意的に捉えられることももちろんあるが、このおばあさんは目を細めてじろりと私を上から下まで観察した。明らかに不審がられている。

「えっと、暇なんです。よかったら、ですけど」

「結構です。何が目的か知らないけど、こんな年寄りに恩を売ったっていいことなんかなにもないよ」

「そう、ですか」

 またやってしまった。「すいません。失礼します」声にはあまり抑揚がない。とても事務的な響きになってしまった。だから余計に不快感を与えてしまったらしい。『気持ち悪い。突然声をかけてきて。新手の詐欺かもしれない』本当に、失礼しました。私は逃げるようにその場を離れて、すぐに蔵之介を迎えに行った。

 蔵之介は子供たちに囲まれて満更でもなさそうにしていた。

 彼がついて来てくれていてよかった。「蔵之介」私が呼ぶと、蔵之介はぴくりと耳を動かして片目を開け、原付の上から飛び降りた。「飛んだ!」と子供が喜んでいる。

「少し、遠回りをして帰ろうね」

 抱き上げると、蔵之介はざらざらとした舌で一度私の頬を舐めた。痛い。けれど、動物が人間の感情に敏感だという話は本当だ。首を傾げて、私をじっと見上げている。また何かあったのか、と聞かれている。

「行こう」

 蔵之介に顔を寄せ、溜息を毛の中に溶かしてから歩き出した。

 心の声はその人の今現在の気持ちだ。

 次の瞬間どうなるかを予測するのが、私はとてもヘタクソなのである。



 例を挙げれば、大量にある。

 就活に疲れて死にそうな人に声をかけたら怒鳴られたりだとか、帰ったら首を吊ろうとしている人に声をかけたら追い回されたり、迷子を送り届けたら誘拐犯扱いされたり。もちろん、そうでなかったこともあるが、私はあまり人に声をかけるのが上手くないようで、たいていの場合怒らせてしまう。

「大丈夫ですか」「手伝いましょうか」「具合が悪いのでは」声のかけかたが悪いのかとパターンを変えてみることもあったが、やはり、見ず知らずの人間に構われる、ということ自体がストレスなのかもしれなかった。ならば、そんなデカい声で叫んでくれるな。と思う。いや、実際には叫んでいないのだが。

 声は、感情の大きさに比例して大きく、はっきり、遠くまで届く。

「はーあ」

 河原に座り込んで、膝を抱える。流れのはやい川だから、近くまで行くと遠くの音は掻き消される。それでも時々はっきり聞こえる声もあるが、今はそれほど人もいない。人通りが多くなってきたら、大人しく帰ろうと、また溜息を吐いた。

 蔵之介はそんな私にしばらく付き合っていたが、飽きたのかもう隣にいない。

 自分もそのくらい気ままにできたらいいのに。そもそも、本来は聞こえない声などに振り回される必要がないのでは。私は、無駄なことをしているのでは。聞こえるからと言って、何かができるなんて思い上がりなのでは。

 折角なら人の役に立ちたいと思うのに、行動すればするほどに思い描いた理想からはかけ離れていく。高校一年の時はまだ友人がいたわけだが、一年の終わり頃、彼女達からの私の評価は『とんでもなく都合がいいやつ』だった。『気持ち悪いくらい、こっちに合わせて来る』である。つまり、私は角城に水をかけられるまでもなく、友達との付き合いが上手くいっていなかった。

 心を、それもしらない内に知られることは、気持ちの悪いこと。

 それはそうだろうと私も思う。

 けれど、なら、どうしろって。

『月山ひかる?』

 思わず顔を上げてしまいそうになったが、自分を抱えている手で頭を押さえてぐっと堪えた。

『体調が悪いのか? ただ寝てるだけか? だとしたら無防備すぎる。声をかけるか? けれど、なんと言って?』

 角城一葉。学校へ行くと毎日、一番大きく声が聞こえているからすぐにわかった。何故こんなところで出会ってしまうのだろう。そう思っていると、私の隣に何かあたたかくて丸いものが突進してきた。蔵之介。まさか、この子が、よりにもよって角城を連れて来たのだろうか。

『どうしたんだ。大丈夫か。どこか、痛むのか』

 彼の今の声は誰のどんなものより優しく、ただひたすらに私のことを気にしていた。

 心の底から心配しているくせに、角城が私に声をかけることはなく、蔵之介を挟んで隣に座り『ごめん』と何度も謝っていた。今日は別になにもされていないから、謝る必要はないのだけれど、『君が顔を上げたら、きっとこんなに落ち着いてはいられないだろうから』だからごめんと、私に気付かれないように黙っていた。もっとも、私には、全部、聞こえてしまっているけれど。

 彼は、高校一年の入学式の日、横断歩道で私に突き飛ばされた。

 信号は青だったが、赤に切り替わる直前で、渡っているのは私と角城の二人だけだった。その横断歩道に、トラックが突っ込んで来たのを見て、私は前を歩いていた角城を突き飛ばした。彼とはその日からの縁であり、角城は無傷で、そのことを恩に感じてよく覚えていて、しかし、あの性格故私に話し掛けることもできないまま二年生になったのだ。

 一年間、私を見かける度にがんばって話しかけようとしていたが、クラスが違うこともあって結局一言も言葉を交わすことはなかった。しかし、二年生になると同じクラスになったので、挨拶くらいしても不自然ではないだろうと、私が彼に話しかけた。

 掃除の最中、彼は雑巾の入ったバケツを持っていた。

「ねえ」

 私が声をかけると彼はとんでもなく驚いて――、驚いた拍子に、バケツの水を私にかけた。そんな驚き方があるか。私は思いながら、ぽかんと彼を見つめていた。彼は言った。

「僕に気安く話しかけるな」

 それがはじまりだった。

 無論、彼のそれはかなり過激な照れ隠しだ。「近寄らないでくれないか」と冷ややかな言葉を口にするくせに、心は粉々になりそうなくらい叫んでいた。『僕は、一体、なにをやっている⁉ 違う。違う違う違う。クソ、なんでこんなことになった? 嫌われたか? 嫌われたに決まっている。こんなことをされたら僕なら殺してやろうと思う。ごめん。謝らなければいけない。謝って、そして。あの日のお礼を』私は何も言えなかった。感情とは裏腹に思い切り怒って見せる彼をただ眺めていた。

 こんなに、心の中と外が違う人をはじめて見た。

 以降、用意される水は、自分でかぶるためにある。角城はいつも謝ろうと、あるいは私にお礼を言おうと頑張っているが、結局、水をかぶるのは私だ。関係が悪化している、と角城は絶望していて、私はと言えば、わかっているからそんな泣きそうな声で私を呼ばないで欲しいと思っている。

『大丈夫か』

 大丈夫か。大丈夫か。声が聞こえている。

『大丈夫か、月山』

 意を決したような声に、私の替わりに蔵之介が一鳴きして答えた。角城が立ち上がる音がした。衣服に付いた砂を叩いて、私を見下ろしている。

『――月山』

 角城は何度も私を呼んだのだが、私はそれが、本当に呼ばれているのか、私にしか聞こえない声なのか判断できずに黙っていた。顔を上げたらどうなるか。顔をあげてみたらわかったのだろうけれど、私にはそれができなかった。きっと私はまた間違えてしまう。彼が怒らなくても済む方法がわからない。折角私には届いているのに。

『僕はこんなだが、君のことを、』

 声が途切れた。

 角城が「もしもし」と小声で言うのが聞こえたから、電話がかかってきたのだろう。「すぐに帰る。母の墓参りに行ってるだけだ」電話の相手は角城にとって好ましくない人物のようだ。腹の中で悪態が止まらない。それを取り繕う声は冷たいし、今にも舌打ちの一つでも飛び出てきそうな感じである。角城は通話をしながら離れていった。

 すっかり声が聞こえなくなった時、ようやく私は顔を上げた。蔵之介が丸くなって寝ている。その上に、白いカーネーションが一輪、置かれていた。

 どうしたらいいのだろう。

 すごく、嬉しい。



 やっぱりこうなるか。と、私は服を絞っていた。

「君も学習しないな!」

 君も学習しないな。と心の中で言い返す。心の中でしか言い返さないのは彼も今、思い切り自分を責めている最中だからだ。『どうして僕は』『くそ、水を被っていてもかわいさが留まるところを知らないな!』思考がズレだしたが、私がくしゃみをすると『寒いよなごめんな』と戻って来た。

 先日の花の贈り物から着想を得た私は、直接話ができないのなら手紙ならどうだろうかと、早朝、コンビニで買ったお気に入りの菓子と手紙を角城の下駄箱に放り込んでおいた。手紙と言っても『先日はお花をありがとう』というだけの簡素なものだが、彼はそれを読んで、差出人は私だと確信していた。添えられていたお菓子は私がよく食べているものだし、筆跡も私で間違いないということだった。まあ、間違いはない。

 ひょっとしたら手紙で返事が来るかと思ったが、例のごとくトイレに呼び出されて、今、水を被ったところだ。彼は返事の手紙を授業中に用意していたのに、制服のズボンのポケットに入れたままである。

「角城も大変だね」

「なんだその目は!」

 角城は今日も自分の感情に振り回されている。

「もう一度くらいたいのか君は! もうちょっと考えて喋りなよ。本当に考えなしだな。普段から何を考えているか分からない顔をしているが、実のところ何も考えていないんだろう?」

 考えていないことはないのだが、考えることがあまり得意でないことは確かだ。手紙はいい方法だと思ったのに失敗した。一体どうしたらうまくコミュニケーションが取れるやら。

 考えながら服を絞るとまたくしゃみが出る。今日は冷える。角城が私に言葉を投げるのを一旦停止させて全力で、心の中で謝っている。『ああくそ、僕は何をやっているんだ。ごめんなさい。こんな言葉じゃもう、許される訳が』私は怒っていない。しかしその怒っていないことが、彼を余計に混乱させているようにも見えた。子供のように『ごめんなさい』を繰り返す角城に向かって言う。

「そろそろ火傷しない程度のお湯にしてくれると助かる」

「なっ」

『君は! 一体! それはどういうことなんだ! なんで僕に対してそんな風でいられるんだ! クソ! そういうところが大好きだ! は、そうだ、手紙。手紙を渡せば、もう少しなんとかなるかもしれない!』手紙の存在は忘れていたらしい。通りで心の中にも登場しないわけだ。

「ふ、」

「なにを笑っている⁉」

 声は裏返っていた。角城一葉はとんでもなく厄介なクラスメイトではあるが、落ち込んでいる私を見てカーネーションをくれるような男の子である。どうするべきかは今日もよくわからないし、彼自身もどうして欲しいのかわからない様子ではあるが、私のことが好きで堪らないという感情だけはブレる様子がない。

 そして私は私が案外単純であることに、最近気づいた。

『なにが面白かったんだ。何故、笑ってくれているんだ。僕がなにかできたのか。いや、水をぶっかけてるんだぞ、どこか、おかしくなったのでは。月山ひかるを僕がおかしくしてしまった……? それは世界の損失だろうが……!』なんてことをと叫ぶ角城は自分にできることはもうないと判断して「まったく君みたいな狂人には付き合っていられないな!」とポケットの手紙を床に落とし、私の横を通り抜けて行った。私はそれを水が染み込まない内に拾い上げる。

 月山ひかる様。宛名の文字があまりにキレイなので、私は思わず「おお」と感嘆した。



 私は手紙を下駄箱に入れて、角城は手紙を直接渡そうとして失敗し、落とすフリをして私に渡す、ということを繰り返していた。

 書いているのは別人なのではというくらいに角城からの手紙は丁寧だった。丁寧な丁寧なラブレターだ。私とはじめて会ったのはいつで、好きだと自覚したのはいつで、どういうところが好きで仕方ないのか。そういったことから、何故何も言わないのか、何故怒らないのか、この間は河原で何をしていたのか。というようなことを聞いてきたりもする。いつか、面と向かって話せる日が来たら教える、と返事をした。

 仲良くなれていると思うのだが、角城は相変わらず学校で私を見かけるとわざわざぎろりと睨み付けて、難癖をつけるのに余念がない。ただ、今日のは少し凝っていた。

「やあ、今日も辛気臭い顔だなあ?」

 彼は一人で読書に励む私の机に勢いよく蓋の開けられた缶を置いた。

「ほら、そんな君に僕からのプレゼントだ。君に似合いの飲み物を持って来てやった」

 パッケージはカフェオレだ。けれど、想像力の豊かなクラスメイト達がざわめく。彼らの想像力を煽るように、角城が言う。

「泥水だ。美味そうだろ?」

 中を覗くと確かに泥水のような色の液体が入っている。

 しかし、遠巻きに見ているだけでは気付かないかもしれないが僅かに湯気が立ち上っていた。これが本当に泥水だとすると、彼は泥水をわざわざ温めて持って来たことになる。

 角城は今日も器用に表に出す感情と心の中とを分離させ『また僕は』と後悔している。『僕は一体なんてことを』と、いつものように苦しみながら歪な笑顔を作っている。パターンとしてははじめてだが、流れとしてはいつも通りだった。『ああ』

『間接的に彼女の唇を奪おうなんて!』

 うん?

 中身は確実にカフェオレだと思うのだが、彼はこの缶に何かしたのだろうか。間接キスができるとしたら、この後、私が口をつけた後にこの缶を奪うか、あるいは、既にこの缶に角城が――。

「ああ!」

 私は手を打って角城を見上げた。

「な、なんだ、突然。本当に君はわけがわからな――」

 角城は顔を赤くして息を止めて、私の様子を食い入るように見つめていた。泥水だと言って差し出して来た缶の中身を半分くらい一気に飲み干す。

「ね、ねえ、流石にやばくない?」

「だ、大丈夫だろ。月山平気な顔してるぜ?」

 そんなに声を潜めて話さなくても私には全部聞こえている。何故か角城の顔は赤いし、私も少し顔が熱いが、問題ではない。安心して欲しい。

 これは、ただのあまーいカフェオレだ。

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