失楽園

棗颯介

失楽園

 死んだ父さんが生き返ったのは二年前だった。

 いつも通り高校指定のブレザーに袖を通していた寒い朝、インターホンの音を聞いて玄関の扉を開けた時、そこにはあの頃と変わらない姿の父さんが立っていた。

 奇跡。

 あの日は世界に奇跡が起こった日だった。

 俺達家族に、ではなく世界にというのは、本当に言葉通り。死んだ人が帰ってきたのは俺達のところだけではなかった。

 ご近所さんや他所の町に住んでいる親戚、学校の同級生に先生たち、テレビに出ている芸能人まですべての人に奇跡が起きた。世界中で死んだ人たちが突然生き返ったんだ。

 最初は大勢の人たちが驚き、そして涙を流して再会を喜んだ。これは神様が人類に齎してくれた奇跡だと、誰もがそう信じて疑わなかった。

 けれど、人々が万雷の拍手と共に奇跡を讃えたのは最初のうちだけ。次第に多くの人は突然齎された奇跡に疑いの目を向け始める。

 奇妙だったのは、生き返ったのが直近約百年以内に死んだ人間に限定されていたこと。そして、生き返ったのは例外なくその百年以内に死んだ者全員だった。例外なく。それはつまり、年齢・人種・性別・経歴すべて無差別にということ。これまで人々が法という秩序の元に裁いてきた罪人たちが生き返ったことは世界各国で治安の悪化を招き、信仰深い国では罪人が生き返ったことについて宗教的な論争が巻き起こることになった。

 そして、人類史上でも過去にキリストにしか起きたことがないとされている死者の大量復活という出来事に人々の常識が完全に覆されたことも少なからず混乱を引き起こすことになる。法というルールに基づいて生きてきた現代の人間は、一度死んで生き返った者をどう扱うべきかという問題に対する解答を持ち合わせてはいなかったからだ。既に死んだことになっていたはずの人間に人権が存在するのか、国や自治体が生活の保障をする義務が果たしてあるのか、そもそも彼らが既に生きていた自分たちと同じ人間という種であるという保証がどこにあるというのだろう。

 何よりの問題は、死者の復活というイレギュラーによる爆発的な人口増加。生き返った者たちは、生き返ったという一点を除けば生物学的には人間と何ら変わらない構造をしていた。三大欲求はもちろん五感に至るまですべての機能が死ぬ直前の状態で生き返ったのだから、生命活動に必要な資源の消費を著しく加速させる結果になった。

 これは奇跡ではなく、生命サイクルの不具合ではないのか。そう考える人が増えるのに時間はかからなかった。

 やがて世界の至る所で、人口増加に伴う困窮に苦しむ人々によって生き返った者たちの排斥が叫ばれるようになる。

 神が齎した奇跡を人が否定するのか。そう反論する人も少なくなかったが、事態は既に取り返しのつかないところまで来てしまっていた。武力に訴えた他国への侵略行為が始まり、人々の殺意と敵意はあっという間に全世界を覆う勢いで拡散していった。生き返った者たちに白い羽根と天使の輪っかでもついていれば話は違ったのだろうが、一見して生き返った者とそうでない者の区別がつかなかったことも、無差別な虐殺を助長する一因になる。

 虐殺。そう、戦争ではなく虐殺だ。法律だとか倫理だとか人道だとかそんなものは存在しなかった。人間という“動物”の生存競争。野生の猿が縄張り争いをするのと変わらない。野蛮で情け容赦ない虐殺だけが行われた。

 戦火の炎はこの日本にも例外なく飛び火した。日本憲法の三原則なんてもはや機能していなかったから、奇跡が起こる前は自衛隊と呼ばれていた軍隊も自衛ではなく侵略のために動員される。やがて一般市民の元には忌むべき旧時代の赤紙が張り出され、多くの国民が虐殺に駆り出された。しまいには国民同士の殺し合い。物資や居住地を巡って昼も夜もない無差別な争いが行われた。

 大好きだった母さんも、見ず知らずの他人に殺された。

 平和だったあの時代が、たった二年で終わった。

 僕が愛したあの日常は、神様の気まぐれな奇跡のせいで失われた。

 違う。奇跡なんかじゃない。あれは、世界の終末の鐘だったんだ。


「どうして今頃になって帰ってきたんだよ」


 手に持った拳銃の撃鉄を下ろす。


「俺は、俺達は、死んでいった奴らの悲しみを乗り越えて、辛くても必死になって生きてきたのに」


 目の前で顔を伏せる父の脳天に銃口を突きつけた。


「俺達は、奇跡なんていらなかったのに」


 引き金に指をかける。


「返せよ。母さんを、幸せだったあの日々を」

「———」


 俯いたままの父が俺の名を呼んだ。


「俺が帰ってきて、ごめんな」


 怒りと悲しみに任せるがまま、俺は引き金を引いた。

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失楽園 棗颯介 @rainaon

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