第1話 バレンタイン
五月雨が店の窓を叩く。
こんな日は反射的に彼のことを考えてしまう。初めて会ったあの日から、月に一度雨の日にやって来る客人。二度目に来たのはあれから暫く経った後だった。
ある日突然やってきた奇妙な来客は、雨男と呼ばれる程太陽が苦手なようだった。
実際晴れた日は見かける事がなく、初めて来店した日から暫くはこの店の扉を叩くことはなかった。出会いがあまりにも唐突だった為、印象が強く未だに鮮明に思い出せる。
思い起こすのは三ヶ月ほど前のことだ。
年に一度訪れる、恋人たちの祭典。
街は活気に溢れ、早朝から霧雨の振る中でも沢山の恋人たちで賑わいそうな気配がした。エリーゼの店にもその恩恵が訪れ、毎年のように沢山の客が訪れては、買い求めた焼き菓子やチョコレートに想いを託して店を出ていく。その日の為に創った製品の装飾や、店内内装も概ね好評だった。
チョコレートは希望する客全員に行き渡るよう、事前予約された分と少しの余剰分を作り、保冷庫に入れてある。冷やされたガラスケースの中にはシュー・ア・ラ・クレームにスフレフロマージュ、タルト・タタンやガトー・オ・ショコラなどケーキ類が並び、客が迎えに来るのを待っていた。
商品の売れ行きと共に気になるのが、とある男の来客だ。今日は雨だから、彼が来てもおかしくは無い。
だが次第に雲の動きが早くなり、冬の真っ盛りだと言うのに昼前から穏やかな日差しが店のテラス席を温め始めた。チョコレート菓子が溶けてしまいそうな日差しと気温に、早朝から起きて仕込みを行っていたエリーゼはカウンターの椅子に座り、ほんの少し微睡んでいた。
開店と同時に流すラジオから、毎日変わらぬ声で聞く天気予報は午後から雨が降り、やがて雪になると告げていたが、果たして本当にそうなのだろうか。
朝方の暗い空から一変し、雲一つない青空を店内の大窓から見上げる。陽の当たるガラスケースに透明な保冷カバーを掛けて品物を守ろうと身体を動かした瞬間、同時にドアベルの軽やかに鳴る音がして、見知りの客が店内に入ってくるのが視界に入った。
「おはよう、エリーゼ」
「マリーさん、おはようございます!」
歳を重ねた夫人がにこやかに声をかけ、入口付近に重なっている小さい籠を皺の入った手で取り、エリーゼに渡した。店内をぐるりと見渡して、香ばしい焼き菓子の匂いに口元が綻んでいる。
「今日もいい仕事をするわね。いつもの、貰えるかしら」
「ありがとうございます!はい、少しお待ちくださいね」
エリーゼが籠を受け取り、カウンターから出て陳列されている焼き菓子を数種類選び、籠に入れる。週に一度訪れる彼女、マリー・ローズ夫人はエリーゼの焼くマフィンとクッキーを大層気に入っていた。近所の友人たちと紅茶に合わせた菓子を囲み、おしゃべりするのが楽しみなのだと言う。
数年前に夫を亡くして以来、ひとりで暮らしているローズ夫人にはエリーゼが孫のような存在に思えたのか、何か用事が無くともたまに店へ寄るようになった。今日は紅茶のクッキーと、チョコチップを練り込んだマフィンを勧めようとしたその時だった。
「…そう言えば、エリーゼはチョコを贈るひとはできた?」
「えっ?」
唐突な問いかけに、エリーゼの足が止まる。今まで客に提供してきたことはあっても、個人的に差し出した相手はいなかった。両親から託された店を護るのが精一杯で、自分のことは二の次にしていた彼女にとっては誰かに恋をする余裕はなかった。
「…いえ、特には…」
「その目は迷っている目ね。思い切って差し上げたら?」
「そんな、まだ一度しかお会いしたことないですし!」
「どのような殿方かわたしも気になるわね…きっと素敵な方なのでしょう」
ローズ夫人が楽しそうに笑うと、エリーゼはしまった、とでも言うように表情を強張らせた。脳裏に浮かんでは消えるあの魔術師の影を振り払うように首を横に振る。
気が付けば窓から差し込んでいた陽が陰り始め、雲行きが怪しくなってきた。頼まれたものを手早く籠に入れて、カウンターに持っていき会計を打つ。一雨くる迄にはローズ夫人を見送らなければ、彼女を濡れさせてしまうから。
「…また、その方がお店に来るようなことがあれば…ホットチョコレートでおもてなししますよ」
「あら素敵!きっといい一日になるわね」
にこにこと笑う夫人から硬貨を受け取り、紙袋に詰めた菓子たちを差し出す。そうなると良いのに、と淡い想いを抱きながら彼女の指先にふと目を遣ると、見覚えのある指輪が目に入った。蒼い石の嵌め込まれた、緻密な篆刻の施された指輪だ。
「…っ!あの…その指輪…」
「ん?これのこと?夫が生前、何年も前にわたしにくれたのよ。退魔の指輪だ、って言ってね」
「退魔の…指輪…」
「ええ。夫は魔法嫌いだったから…わたしから魔法を遠ざけようとしたみたいで。でも無理よ、血には抗えないから」
意味深なことを言いながらエリーゼからものを受けとり、ドアへ足を向ける。彼女の若い頃の話はあまり聞いたことがないな、と思いながらドアノブをひねり、エリーゼは夫人を見送った。
トリプル・セック 椎那渉 @shiina_wataru
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