トリプル・セック

椎那渉

プロローグ

 今日も窓の向こうは雨に濡れている。


 小さい街の、小さい洋菓子店。カウンターには店番の少女がひとり。閉店間際、客足の途切れた商店街をぼうっと眺めている。焼き菓子の香ばしい匂いに雨の匂いが混じった、この店のこの時間を気に入っていた。


「あと10分」


 今日の分の焼き菓子は、クッキーもマドレーヌもすべて来客の手元に渡った。残っているパウンドケーキは今日中に洋酒を振って、中までじんわり沁み込ませよう。

 明日の朝食くらいにはなる筈だ。温かい紅茶と洋酒のケーキを脳裏に浮かべ、雨音に微睡む瞼を必死で持ち上げる。閉店の準備に取り掛かろうとして椅子から立ち上がった音と、入口のドアベルが揺れる音が重なった。


「いらっしゃい…ま…」

「…すまない。少し雨宿りしたいのだが」


 頭から足の先まで、雨に濡れた男が一人。

 灰色の外套と、腰よりも長い金色の髪が雨を吸い込み、重たそうだ。


「ずぶ濡れじゃない…!こちらにどうぞ」


 少女は店の奥にあるティーテーブルとチェアを示す。客がこの店で買った菓子と一緒に、紅茶が飲める席を幾つか用意していた。男が重そうな足取りで座席に向かうと、板張りの床に小さい水溜まりが幾つもできる。男はカウンターから見える奥の席に静かに腰掛けた。少女は店の作業場に向かい、棚からタオルと紅茶のポットを引っ張り出して、タオルだけ男の元に持っていく。ポットは向かう途中、カウンターテーブルに置いた。


「風邪、引いちゃいますよ」

「…ああ…すまん」


 男は差し出されたタオルを手に取り、濡れた顔や髪を拭う。その間に少女はカウンターに戻って、あたたかい紅茶の準備をはじめた。ティーポットに湯沸かしの湯を潜らせ、ポットの外側に付着した水滴を布巾で拭う。瓶入りの茶葉をティースプーンで2杯分計り、茶葉を入れた茶漉に湯を落とす。店内で雨と紅茶と焼き菓子の匂いが混ざり合う。

 大きめのティーカップとソーサー、ティーポットをトレイに乗せて、男の元に運んだ頃には彼の長い髪も幾許か軽くなったようだ。テーブルの上でティーカップに紅茶を注ぎ、男の前に差し出すと彼は目を丸くした。


「これで温まってくださいね」

「…いや…申し訳ないが」

「え?」

「路銀を持っておらぬ」

「何言ってるんですか!サービスですよ、サービス」

「おまえは客でもない男に無償で茶を出すのか…?」

「だって、あなた寒そうだもの」


 少女はさも当然だと言うかのように、男の前にシュガーボトルとミルクピッチャーを置く。

 男は頑なだった表情を弛緩させて、くくっと笑った。


「お人好しな娘だな」

「そうですか…?わたしはエリーゼ。フラン洋菓子店の店主です。良かったら、またいらして下さいね」


 短く切った栗色の髪を揺らし、楽しそうに笑っている。見たところ未だに幼さの残る顔立ちだが、店主と言うからにはこの店を切り盛りしているのだろう。他に店員の姿は見えないが、詮索することはせずに男は小さく頷いた。


「エリーゼ…か」


 少女が名乗った名前を唇で反芻して、淹れたての紅茶へと右手を伸ばす。エリーゼが男の手を目で追うと、人差し指に通された紅い石の嵌った指輪が目に入った。


「次は、なにか礼になるものを持って来る」

「ありがとうございます!」


 穏やかな時間が2人を包み込むように、優しく過ぎていく。エリーゼは来た道を戻り、カウンター内の椅子に座った。

 何時しか降り頻る雨音が小さくなり、窓から夕陽が差し込んできている。

 男が椅子から静かに立ち上がり、カウンターテーブルに両手と頭を預けているエリーゼへ声を掛ける。


「気づいたら長居してしまった。…邪魔したな」

「んぇ…?あっ!ごめんなさい…!」


 エリーゼが眠たそうな瞼を持ち上げ慌てて起き上がり、見送る為なのか男より早回りして、入口の扉を開いた。


「お気をつけてお帰りくださいね、えっと…」

「…スコールだ」

「はい、スコールさ…っ、!もしかして、」

「『雨男』のスコール…?」


 男は何か言おうとしたが、言葉が紡がれることはなかった。その代わり、口許に弧を描く。


「また…いつか。エリーゼ」


 ブルーグレイの瞳が瞬くと、右手を薄曇りの空に翻す。乾いた髪の間から覗かせる、青石の耳飾りが揺れる。指輪の紅玉が眩く輝き、男の身体を優しく包み込むと、音もなく消えていった。


 目を見開いたエリーゼと、再び降り始めた雨の音色だけがその場に留まるだけだった。

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トリプル・セック 椎那渉 @shiina_wataru

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