白に染まる
小石原淳
白に染まる
少し先で、紺のズボンに白いソックスを履いた人の足がだらんとぶら下がっているのがぼんやりと見えた。
深い深い海溝に沈んでいた意識が、いきなり浮上したような、そんな目覚めだった。
広いリビングの床に横たわっていた自分の身体が、ほぼ自動的にがば、と起き上がる。途端に刺すような頭痛があった。しかめ面になって歯を食いしばると、じきに収まった。
次に寒さを感じたが、現在置かれている状況は恐らくそんなことはどうでもいい。
真っ先に気になったのは時間。今、何時だ?
部屋には壁時計も置き時計も見当たらないので、自分の携帯端末を取り出そうとした。だが、定位置であるジーパンの左ポケットを探っても感触がなく、右ポケットも尻ポケットも同様だった。乱闘になった際、どこかに転がってしまったか。何としても探し出して、拾わなければ。
何せ私は、
テレビをつけると、画面の端に時刻が出ていた。朝の八時過ぎ。
よしっ。まだ間に合う。
私はすぐにテレビを消すと、眼の位置を低くして携帯端末を探した。程なくして見付かり、安堵する。念のため、再度の時刻確認を今度は携帯端末ですると八時十分になったところだった。
あとはここから出る際に、他人に見られないようにするだけだ。
私は窓辺ににじり寄り、厚手のカーテンの端をちらとめくって隙間を作って外を窺った。
次の瞬間、私は「あ」と短い叫びを漏らし、しばし呆然とした。
外は一面、雪に覆われて真っ白になっていた。
江田島は独り暮らしで、広大な土地に二階建ての瀟洒な家を建てて悦に入っていたが、その敷地に積もった雪は見渡す限りきれいなままだ。
昨日聞いた天気予報では降るとは言っていたが、ちらつく程度で積もりはしないとの話だったのに、大外れじゃないか。これで雪がまだ降り続いているのなら何とかなるかもしれないが、雪は上がっており、曇天模様だ。歩いてこの犯行現場を立ち去ろうにも、足跡が残ってしまう……。
私はまたテレビを付けた。天気予報をやっているチャンネルを探したが、あいにくと時間が合わないようだ。仕方がないのでデータ放送の天気予報画面に切り替え、概況を見る。このまま気温は上がらないとの予報だ。地面や景色を白くした雪は、まだまだ溶けずに残るに違いない。
くそ。
苦労して偽の遺書まで書かせて、せっかく首吊り自殺に見せかけたのに、まさか雪に取り囲まれるとは。足跡が残るのはまずい。偽装だと一発でばれるばかりか、犯人につながる手掛かりとして足跡から色々ばれる恐れが出て来た。
江田島め。死んでまで運のいい奴だ。
江田島丈一郎は商業小説家であった。恋愛ミステリでデビューした彼はルックスがよいため人気先行型、タレントみたいな売り出し方をされたが、私というブレーンがいたおかげもあって、順調に成長、人気を獲得してきた。
ところが齢四十に差し掛かろうかというとき、咽頭がんに罹患していたことが発覚。転移も見られたが放射線治療などによりどうにか復帰にこぎ着ける。五年ぶりに出した新作は同情以上に評判を呼び、彼の最高傑作と評された。
ここで私のことも語ろう。私自身も小説家志望だったのだが、願いはなかなか叶わぬまま、江田島と知り合って彼のためにアイディアを出すようになった。ミステリの部分、つまりはトリックの案出だ。やがて私の意見も取り入れた作品で江田島はデビューを果たす。そのとき、彼は私に、共作ということにして一緒にやっていくのもいいんじゃないかと打診してきた。江田島の気遣いに若かった私は反発を覚えこれを断り、独力で新人賞を獲ってみせると見栄を張った。
だが何年経っても状況は変わらず、私は相変わらず江田島のためにトリックを考えていた。繰り返しの日々が積み重なり、ストレスがたまったせいなのか、私は同世代よりも白髪の多い頭になっていた。そんな中、突如として江田島が病いを発症した。私は当初はうろたえたものの、じきにちょっとした野心を抱いた。江田島の死後、私が江田島の中絶作を仕上げ、シリーズ作の続きを書き、遺された江田島のプロットを新作にする。そんな未来を思い描いたのだ。
しかし江田島は病気の発覚から四年ほどで復活を遂げた。当ての外れた私だったが、落胆はおくびにも出さず、江田島の復帰第一作のために力を存分に貸してやった。それが評判を取ったものだから私は自信が付いた。そして今さらではあるが、江田島との共作作家を希望した。
これを江田島は軽く笑って一蹴してくれた。復帰作は江田島自身の闘病生活なども盛り込まれ、半ドキュメンタリー風になっていた。そのことから、この作品が評判を得たのは自分の体験を入れたおかげだと強く信じている節があった。
話し合いは物別れに終わったが、謝礼金をアップするのでアイディアの提供は続けてほしいと虫のいいことを言ってきた。私はその場では態度を保留したものの、内では腹に据えかねていたというのが正直なところだった。次に話し合いを持った場で、彼は多少すまないと思ったのか、著作の内のいくつかを、私の貢献度が大であるとして共著にしようと持ち掛けてきた。それらの印税はもちろん半分ずつにしよう、すでに一筆書いてあるとまで言い出した。このような譲歩を持ちかけてくるからには、恐らく彼のアイディアの泉は恋愛小説としても枯れかけていることを、彼自身よく承知していたんだとは思う。だから私がもう少し強く出ても、江田島は条件を受け入れた可能性が高い。
しかし私は愛想が尽きていた。こんな程度で殺意を抱くのはどうかと思うが、この世から消したい、何で病から復活したんだとすら感じた。そこへ持って来て、一筆書いた云々の話だ。それなら江田島を殺せば、私にはその何作かの著作について、印税が丸々入るのかと考えてしまった。実際には(一筆の書き方にもよるが)丸々入ってくることはないとあとで知ったんだが、一度頭に浮かんだ殺意は簡単には消せなかった。
やがて私はトリックも思い付いてしまった。江田島を自殺に見せかけて葬った上、自分のアリバイを確保できる方法を。
ところが万全と思われた計画は、江田島の抵抗にあってひびが入り、さらに天が降らせた雪のおかげで今や崩壊の危機に瀕している。体力的には半病人のはずの江田島に、あんな体力があるなんて想像もしなかった私のミスといえばミスだが。
事ここに至っても、私は諦めてはいなかった。計画が座礁しているのは紛れもない事実だが、ある程度の挽回は見込める気がするのだ。
偽装自殺とアリバイ確保、その両方を満たすのはもはや無理だと分かる。でも二つの内、どちらかを捨てれば、何とかなるのではないか。
捨てるならどっちだ? 今すぐにここを出て行けば別のトリックによってアリバイは確保できるが、雪の上に足跡を残す。偽装自殺は早々に看破され、他殺としての本格的な捜査が始まると、私にも捜査の手が及ぶかもしれない。
アリバイを諦め、自殺に見えることを優先すれば、捜査そのものが始まらずに終わる。ただし、その場合は雪に足跡を残さずに出て行かねばならない。江田島が冬休みとして完全休養宣言していたのは今日までで、明日の午前中には担当編集者がやって来ることになっていた。遅くとも今夜中には脱出したい。
困難さでいえば後者の方が上だが、やる価値はある。たとえば、後ろ向きに歩いたり、歩幅を変えたりして往復の足跡を残した上で、第一発見者を装うとか。まあ、これは陳腐な方法であり、科学捜査には耐えられないだろう。
一番いいのは雪が再び降り出して、足跡を消してくれる目処が付くことだが、期待できそうにない。
大きくて平べったい段ボール二枚を、雪に置いてはその上を歩いて回収、また置いて、と繰り返せばどうか。体重が分散されて、ある程度はばれにくくなるのでは? しかし科学捜査を甘く見積もるのは賢明ではないだろう。
食べ物の出前・宅配業者複数にメールで注文し、何人かの足跡を付けさせたあと、ぐちゃぐちゃになった雪の上を私も歩いて行けば出られるのではないか。いい閃きだと感じたのも束の間、“自殺者”が何で出前を頼むんだ、おかしいじゃないかとなるに決まっている。
この三つ目の案に可能性を感じた私は、食い下がって思考してみた。江田島の家の敷地は、明確な塀で囲われているのではなく、大部分が生け垣で、しかも所々隙間がある。何らかの方法で複数名の人々を呼び寄せることができれば、私は私の姿と足跡をその群衆に紛れ込ませることができるに違いない。ただ、その何らかの方法によいアイディアが浮かばない。この家に火を放てば人は集まるかもしれないが、隙を見て私が脱出する余地はなくなるだろう。敷地内に凧揚げの凧とかスマートヘリ(いわゆるドローン)とかが落下すれば、それを拾いに人が無断で入り込んでくる可能性は高いだろうが、では凧やドローンが確実に敷地内に落ちる方法があるのか? いや、ない。
無意識に頭を抱えた私の耳に、騒がしい声が聞こえてきた。依然として残る頭痛を我慢しながら耳をすませ、さらに窓に近付いて外を見てみると……。
やった! 私は心中で快哉を叫んだ。
何かの行事の帰りなのか、小学生低学年から中学年ぐらいの子供が大勢、敷地に入り込んでいる。雪合戦を始めていた。雪遊びをしている内に、境界が分からないまま、入ってしまったということのようだ。いや、ここは「入ってくれた」と表現しようじゃないか。
偶然とは言え、これで私は脱出できる。小学生の足跡だから小さいだろうけれども、つま先立ちして行けば、紛れ込ませられるはず。どうせ摩擦で解けた雪によってぐちゃぐちゃになり、重なり具合も模様も判別不可能の域になるに違いない。
勝った。
確信した私は気を引き締め直し、外の様子の観察に意識を集中した。出て行くタイミングを逃してはならない。
そして昼前になって、子供達はいなくなった。家でお昼ご飯が待っているということなんだろう。
私は満を持して身支度をした。ここへ来るときは黒系統の衣服を身に付けていたが、それだけだと人目に付く恐れが高い。そこで白のシーツにくるまってみることにした。隣家や道路からは離れているため、これくらいの格好をしても大丈夫だと信じている。
さあ、いよいよ脱出のときが来た。
私は勝手口のドアをそろりと開け、人目がないことを確かめてから外に出た。
途端に冷気を感じた。同時に、頭痛がきつくなり、意識が遠のいた。
これは一体……?
傾き、高さを失う視界を感じながら、私はまさかの可能性を思い出していた。――人は頭部に強い衝撃を受けた場合、ごく少量の出血を脳内で起こすことがある。当人はさほど痛みを感じず、動き回れるが、その間にも血は頭蓋内にたまっていき、やがては死をもたらす。――今体験してるこれがそうなのか?
* *
「江田島丈一郎氏をこの
正式な鑑定はもう少しあとになるがと前置きした上で、解剖を受け持ったドクターが言った。
「そりゃまたとんだ偶然が起きたものだ。何とも捜査のしがいがない」
刑事がぼやいてみせると、ドクターは「犯罪捜査が楽に終わったのなら、歓迎すべきことだろう」と非難めかして指摘する。
「いや、そういうニュアンスじゃなくてだね。何て言うか、こんなことで死ななくてもちゃんと裁きを受けさせることはできたのにって意味」
「ほう。つまりは、偶然の死で逃走に失敗していなくても、簡単に犯人は割れていたってか」
「そうとも。丸森は推理小説や推理ドラマによくあるトリックを考え出すことに長けていたと聞いたが、どうだろうな。少なくとも痕跡を消すことに関しちゃ、素人と変わらない」
「どういうことだい」
「首吊り状態にさせられていた遺体の靴下に、何本か毛髪が付着していた。それだけでもう他殺だと分かる。何しろ、被害者はがんの放射線治療を受け、その影響で髪の毛を失っていたんだから」
「何とまあ。毛髪が一本落ちていただけで、せっかくの苦労が水の泡だった訳だ。靴下に付いた髪を見落とすなんて、犯人は視力があまりよくなかったんだろうか」
「それもあるだろうけど、色が同系統だったのが大きい。白の靴下に見事な白髪が付いていたら、簡単には見分けられないね」
言い終えてから、刑事はここに来るまでに見た道端の雪、かき集められた土混じりの雪のことを思い浮かべた。
終わり
白に染まる 小石原淳 @koIshiara-Jun
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