第11話 損をする完璧主義者とティラミスの多様性の話

 完璧主義者、というのは「これこそNo.1である」という持論を持っている人が多いと思う。


 例えるなら「ティラミスはロー〇ンがNo.1である」という話を切に訴えるのだが、「簡単! ティラミス」で検索すると今は色んなレシピが出て来る時代だ。そんな中、ローソ〇ティラミス至上主義は極一部の話にしか過ぎなくなる。しかし過激派はそこで己がティラミス愛好家の一部であるというのを忘れ、「自分以外のティラミス愛好家は偽物である」という結論を出してしまう……かもしれない。そこまでティラミス過激派の人間に出会った事がないから分からないが。ちなみに作者はファミ〇のスイーツが好きです。

 逆に作者のような「ティラミスは美味しければいい」という人はコーヒーを染み込ませたビスケット、マシュマロ、クリームチーズ、ココアパウダーを準備し、それらを混ぜ合わせて冷蔵庫で冷やした特大ティラミスを貪ったりもする。巨大デザートは浪漫である。それだけに「俺のティラミス」はなんで無くなってしまったのか、作者はとても悲しい。

 話がズレたがそんな風にデザートは様々な料理の仕方があり、手間がかかっているほど美味しいという訳でもない。むしろ自分に合わない方法や出来もしない方法をやってかえって失敗したりもする。完璧なデザートはない。美しい、美味しい、安い、簡単、それぞれの価値によってデザートというのはNo.1の椅子が違う。


 創作活動の話なのに、なぜデザートの話を? と思った人も、なんとなくタイトルと話の流れからご察し頂ける人も居るかもしれないが、今回は「創作における完璧主義がいかに損か」という話をしようと思う。


 皆さんは批判コメントや批評コメントを貰った場合、どういう反応をするだろうか?

 「テメーさてはアンチだな?」と相手にしないか。それとも「絶対に面白いって唸らせてやる!」と意気込むか。「そんなに面白くないんだ……」と落ち込むか。色々と思うところはあるだろう。私の持論としては、完璧主義者の人は最初の「逆らう者はアンチ主義」と最後の「反省し過ぎてやたら自分を追い込む人」になるかの二択だ。

 真ん中の「絶対に面白いって唸らせてやる!」の人は切り替えの上手く、悪く言ってしまうとテキトーな人である。でもこれはプラス思考でなんでも自分の栄養にして、前の向き方が上手い人を指す。

 「なんでこんな作品が売れてるんだ! 俺の本が書籍化したら絶対面白いのに!」と怒る人は批判をぶつけて満足しがちだが――「この作品でイケるなら俺の本でもイケるんじゃね? がんばろー!」と机に向かう人なら、後者の方が前向きで自分の作品に真剣に向き合ってる人なのだ。

 なぜなら、作品が進んでるからである。愚痴を書くより連載を進める人は、それだけで他と一線を画していると言っていい。作者は進められませんでした。反省します。

 話を戻すと、完璧主義者の人は攻撃的になるか、やたらとマイナス思考になるか、そういう風に転んでしまう事が多いように思える。


 自分の作品にも他人の作品にも厳しいがゆえに一度失敗を責められると「そんな事ない!」と全力で隠す方に尽力してしまったり、一人の意見=全体の意見と捉えてしまい「自分には才能がないのだ」と気力そのものが挫けてしまい、そもそも作品に対する愛情も続けていく気力も出て来なくなってしまったり、傾向は様々だろうがおおよそはこうなるだろう……という、あくまで持論である。


 ロンドン大学ユニバーシティー・カレッジの研究によれば、人は他人が罰せられている時を見ると快感を覚え、「裏切者」が痛みを与えられている瞬間を見ると共感する能力が低くなる。悪人が死んだ事に喜ぶ声は上がれど、それが事故や殺人の場合に「やり過ぎだ」「そこまでする必要があったのか」という声は中々出ないだろう。そう疑問を提示すれば「お前は犯罪を容認するのか?」と睨まれ、叩かれて終わりだからだ。

 だが私は、これに関して一度でもいいから立ち止まるべきだと思うし、快感を覚えるという事を認識した上でよく考えて行動した方が良いと思ってる。完璧主義者の攻撃的な例は、まさにそれだろう。私だってそうなっているかもしれない。常に己に対する恐怖が胸にあるし、それはきっと忘れては駄目なものだ。


 散々言ってるが評価(★)を貰ったところで中身は上手くはならないし、自分が批判して周りの賛同を得たところで市場が劇的にすぐ変わる訳でもない。批判されてる作品だろうが見る人は見るし、見ない人は見ないのだ。持続的な活動を行い、作者の作品との向き合い方が重要な中、マイナス思考に陥らない人はそれだけで大物になれる可能性を秘めてる。

 とは言えど、一度自分の欠点を見つけると気になるだろう。大事なのは「他者にも自分にも攻撃的にならず、寛容性を持つ事」だ。修正をするのは大事だが、何度も何度もされると読者側視点に立った時には「あんなに一生懸命読んだのに」と肩を落としてしまうだろう。覚え直すのも単純に大変だ。


 だけど作者の目線に立つと「一人に褒められるより、修正して二人に褒められたい」という欲から修正に走ってしまうのも分かるのだ。出来たら修正は少ない方がいい。しかし一発でバシバシッと決められない人は難しいだろう。特に完璧主義なら尚更だ。

 だが出来たら修正は一話一回くらいに留めておいた方がいい。読者にとって最も嬉しいのは「物語が進む事」であって、完結していない作品が読み直される事はまずない。よっぽど間が空いて、前の話を忘れた時くらいだろう。少なくとも私の知ってる創作者ってのはそんな人で、リメイクしたくなった作品は一気にリメイクするし、リメイクした作品も上手ければリメイク前もそこら辺の人よりかよっぽど上手い。


 大体こういう人は「いやぁ、熱意はあるけど下手ですね」と自虐をするのだが、作者からすればそういう人相手には顔を90度に傾けながら「どこが下手なんじゃ貴様ぁ! こつこつ努力した痕跡と勢いとその他諸々がそこら辺の作家よかあるやんけぇ!!」と胸ぐら掴んで揺さぶりたくなる時がある。

 その人の10分は私の8時間。しかし10分に短縮するために、その人は大体4,5年の努力をしているのだ。積んだ練習量の数が違う。持続するためのモチベをキープする糧として美味しい肉を食べ、ゲームをして、ペットを愛で、自分の好きなアイドルを追っかけるのである。そういう人は大体強い。他人に振り回されないから。

 だからこそ「なんでこんな作品が!」「気に入らない!」「消えてしまえ!」と腹を立てまくってるにも関わらず創作活動をしてる人は、その人の積んだ努力をどれほど知っているのだろう。続けている内に得たファンの数をどれほど把握しているのだろう。人生は積み重ねだ。落ち込むより、腹を立てるより、ただ好きな物を追い駆けている方が余計なことも考えなくて済む。

 一発でそんなに成功してる人なんてどこにも居ない。そう見えているだけだ。自分が書くかもしれないのに単純な趣味や趣向で毛嫌いしてる人は、作品作りにおいて前に進む気が私は感じられない。


 私は辛口レビューを挙げているし、「こうしたらもっと読み易い」とか好みを色々と書くけれど、それ全部を真に受ける必要も無ければ、結局のところを好きを極めた人の方が勉強量や努力した量はそこら辺の人より多くなる。私も同人なら人に見せた経験も、見た経験も何度もあって今がある。自分なりに反省点を見出していった事と、もっともっと読んで貰いたいという欲求と、物語を描きたいという思いからだった。

 承認欲求と愛情と衝動的な欲で板挟みになりながら、作品は出来上がる。そうした「奉仕精神」と「自己満足」の感情で悩むのが作家だ。だが奉仕精神から無理して他人の意見を全て聞く必要は勿論ない。しかし自己満足で止まってしまうのも危険だ。この微妙な匙加減が多くの作家が悩む部分になってしまっていると思う。


 長々と書きまくったが、この話だって半分程度、辛口レビューだって自分の納得するところだけ生かせばいい。全部に頷いて貰おうなんて虫のいい話はしない。そもそも私の価値観が一般的だという証拠はどこにもないし、決めようとするなら――それは悪魔の証明だ。


 それこそティラミスのように、材料も料理方法も、それにかけるお金も決して一つだけとは限らない。自分が美味しいと思ったところだけを取る創作のやり方が、結局のところ自分にとって一番だ。もし行き詰ったのなら、私が勧めるのは「息の抜き方や手の抜き方」だ。それで失敗したら、次に生かせばいい。そうして肩の力をゆるっといくのが風船のように膨らんでいく気力を破裂させず、萎む創作意欲を膨らませるコツだと思う。

 上手くなるのも大事だが、一番は続けていくためのコツを身に着けることだと、私なりに考えている。という事で今回は締めさせて貰う。参考になる、ならない、色々あるとは思うけれど、まぁ素人の助言だから気楽に見てくださいな。

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創作活動について思った事を書くだけ。 納人拓也 @Note_Takuya

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