タイムリミットは一時間!

麦野陽

第1話

 五歳の冬、私は、白鳥になった父が空を飛ぶのを見た。あれは日曜の午後だった。父に誘われて出かけた先で、彼が白鳥に変身した瞬間、私は本当に驚き、そして異常事態にひどく興奮した。


 空を滑るように飛ぶ父の美しさを地上から見上げながら、〝魔法はほんとにこの世に存在するのだ″と確信した。あれはおとぎ話なんかじゃないんだ、と。


「すごいすごいすごいっ!」


「葵、落ちつきなさい」


 人間に戻った父親に興奮気味に詰め寄ると、父はいつもの優しい笑みを浮かべて私の頭を撫でた。それから、父は私に秘密の話をした。


「うちには先祖代々引き継がれている家宝がある。それがこのネックレスだ」


 銀色のチェーンの先――父の胸元に鳥の形をした銀色の飾りがあった。


「きれい……」


 うっとり呟くと、父がにっと微笑んでネックレスを外す。


「手、出してごらん」


 促されて手を出すとそこに父がネックレスを乗せる。それは日の光を浴びて、きらきらと光っていた。


「このネックレスはね、ご先祖様が人助けのお礼にもらった一点物なんだよ。いったい誰がどうやってこれを作ったのかは分からないけれど、これを使うと父さんは鳥になれるんだ」


「私は?」


 訊くと、父は頷いた。


「もちろん」


「じゃ、私、いまつける!」


 私はネックレスの両端を掴んで、首の後ろへぐいっと引っ張る。しかし、なかなかうまくつかない。焦っていると、私の手からそれを取り上げて父は言った。


「だめだよ。葵はまだ五歳だから。おまえが十五歳になったらこのネックレスを譲ってあげよう」


「えーーー!」


 ぶうたれると、父はそっとネックレスを桐の箱にしまった。


「そう決まっているんだよ。ルールは守らなくちゃいけない」


 わかったね。父は言い聞かせるように言うと、すっと立ち上がった。


「しかし、おまえはいったいどんな鳥になるんだろうなあ」


「父さんと同じじゃないの?」


 訊くと、父は答えた。


「そうとは限らないよ。だって父さんの父さん――練馬のおじいちゃんはカラスだったからね」


「カラスゥ?」


 私は練馬のおじいちゃんがカラスに変身しているところを想像して笑った。


「今度、練馬のおじいちゃんが変身するところ見てみたい!」


 私が言うと父は首を振った。


「それはできないよ。ネックレスが次の世代に渡った瞬間、前の持ち主はこれをつけても鳥になれなくなるんだ」


「うーん?」


 首を傾げた私を抱き上げると父は言った。


「だから、それまでは、父さんにこのネックレスは使わせてね」


「よくわからないけど、いいよ!」


 そう答えたのが十年前。当時五歳だった私はこの四月でめでたく十五歳になった。


「いよいよこのネックレスをおまえに譲るときが……。まったく、こんなに大きくなって」


 涙をうっすら浮かべる父に呆れながら、私は桐の箱からネックレスを取り出す。その輝きは昔から変わらない。きっと、父が大事に磨いて保管してきたのだろう。


「大袈裟だなあ……」


 涙を拭って頷く父を見て、私はネックレスの留め具を首の後ろで合わせる。いつも見ているだけだったネックレスのチェーンが肌の上をすべり、その感触に私は喉を鳴らす。本当にこれをつけたら私も変身できるのだろうか。けれど、そんな不安はすぐに消えた。


 ボフンッ。


 ネックレスの留め具をロックした瞬間、もくもくとした煙に包まれる。父さんのを見て知っていたけど、相変わらず古典的な変身の仕方だなあ。どうせなら、私、魔法少女みたいなキラキラした変身がしたかった。


 そんなことを考えながら、最初に感じた異変は皮膚だった。滑らかだった肌は羽毛に覆われ、茶色に染まっていく。次に身体が軋み、五本に分かれていた手の指先がひと塊になった。


 本当にこれから私は鳥になるんだ。改めて、その夢みたいな現実を目の当たりにして、今さら少し後悔していた。痛みはなかったが、本当に元の身体に戻るのだろうかという新しい不安が脳内にちらつく。


「お、これはこれは」


 煙が晴れてきて私はまず自分の視線の低さに愕然とした。父の弁慶の泣き所をぼんやり見つめていると、父が言った。


「ロードアイランドレッドか!」


「なにそれ」


 聞き馴染みのない鳥の名前に首を傾げると、父が私の前に鏡を持ってきた。


「ほら、見てごらん」


「こ、これは」


 私は鏡に映る自分の姿に愕然とする。茶色の羽毛に覆われた首には縮んだネックレス。頭のてっぺんには赤いとさかが揺れていた。


「に、鶏……!」


 私はその事実に頭を垂れた。


「……ねえ、父さん。これは確認なんだけど、鶏って空飛べたっけ」


「ははは、葵は鶏になってもかわいいなあ」


「父さんっ!」


 私は赤いとさかを振り乱して父の手の甲をつつく。


「おじいちゃんがカラス、父さんは白鳥。なのに、なんで私は鶏なのよ! 父さんみたいに空を飛ぶのが夢だったのに!」


「痛い痛いっ! こらやめないかっ」


 父はそう言うと私を軽々と持ち上げる。


「父さんをつついてもおまえが鶏以外になることはないんだよ」


「……だって」


 夢だったんだもん。


 私は呟くと俯いた。なんだか惨めな気持ちになってきた。子どもの頃に父が空を飛ぶ姿を見て以来、ずっと、ずっと、自分もそうなるんだって信じてきた。それなのに、これはない。ほんと最悪。


「確かに、つついたのは、よくなかった。ごめん。怪我してない?」


「父さんの手の皮は厚いから平気さ。――それより」


 父は私を床におろすと、同じようにその場に座った。


「まあ、今の様子じゃ外に出ないとは思うけど一応伝えておく」


「? なに?」


「いいか。その姿で外を出歩いてもいいが、絶対に人には捕まってはいけないよ。お前も知っての通り、そのネックレスは門外不出の代物。鳥に変身できると知ったら、変な輩が沸いてもおかしくはない。それに」


 父はそこで一呼吸置くと、腕を組んだ。


「なんにでも期限ってものがある。そのネックレスの効果は一時間。一時間経つと元の姿に戻る。あとはわかるね」


 私は父の視線の先を見つめる。そこには鶏になった際に脱げた洋服が落ちている。

「つまり、戻ったときは裸ってこと?」


 頷く父を見て私は青ざめる。一時間のうちにここに帰ってこられなかったら私の人生終わりだ。


「私、家から出ない。父さんみたいに空を飛べるわけじゃないし」


「ああ、それがいい」


 父はそう言うと私の嘴をつんと触った。


「ちょっと! 嘴は触らないでよ」


「ごめんごめん」


 ははは。平謝りすると、父は時計を見て声をあげた。


「もうこんな時間か。父さんちょっと出かけてくるよ。母さんに牛乳を買ってこいって頼まれてるんだ」


「えっ! ちょっと! 私が人間に戻るまで待ってよ。誰か訪ねてきたらどうするの」


「だあいじょうぶ。誰も来ないよ。それに誰かきたって居留守を使えばいいじゃないか」


「居留守って……。ねえ、お願い待ってよお」


 その後も何とかして父に残ってもらおうとしたが、のらりくらりと娘のお願いを却下して父は出かけて行った。愛妻家である父にとって母のお願いは最優先事項だ。


 そんなことわかっていたけどさ。


「まじ最悪なんだけど」


 一人、取り残された部屋で私は座りこむ。いつもは狭く感じる部屋も、鶏になった今では随分広く感じる。


「この翼じゃ何も掴めないしさー、喉も渇いたし、あーーーーーもうっ! 二度とこんなネックレス使わない!」


 ふんっ。鼻を鳴らすと私は羽をたたむ。だいたいなんでこんなネックレスが家宝なのよ。どうせならもっとお金になるような物を家宝にしてよ。あーあ! これ、私の代で捨てちゃおうかな。


 そう考えていると、チャイムの音が鳴った。


「ほら言わんこっちゃない」


 私はため息を吐くと父の言う通り、居留守を決め込むことにした。どうせ、すぐどこかに行くだろう。そう思っていたのに、その後もチャイムは鳴り続ける。


 悪質なセールスマンだろうか。思って私はハッとする。いるじゃないか。身近にチャイムを何回も鳴らすヤツが。


「お邪魔しま~す!」


 ガチャッ。勝手口が開く音がして私は眩暈を起こす。この少し鼻にかかった声、遠慮しない足音。幼なじみの与太郎だ。


 普通、家主がいなければ家に入るのを諦めるところを彼は諦めない。というかうちの親が容認しているのだ。(しかも驚くべきことに合鍵まで渡しているのだから笑える)


 家が隣近所で親同士も仲がよく、「時代が時代なら許嫁にしたのに」という言葉を去年の正月に母から聞いたときには、そのまま卒倒しそうになった。別に与太郎のことは嫌いではないが、相手くらい選びたい。それは彼もそうだろう。


 ぎっ、ぎっ、ぎっ。


 階段が軋む音がして私は青ざめる。まさかこの部屋に来るつもり? そこまで考えて、そりゃそうかと納得する。彼がこの家に来るときは、だいたい私に用事があって来るのだ。いったい何の用だろう――。


「はっ!? 服っ!」


 ばっと視線を脱ぎ捨てられたままの衣服へと私は向ける。下着もそのままそこにあるのだ。このまま与太郎がここに入ってきたら、変身が解けるより前に私の尊厳が死ぬ。


「早く片付けないと!」


 しかし、今は鶏。人間だったときとは勝手が違い、思うように片づけが進まない。

「ああもう! 指がないってほんと不便!」


 足を蹴り上げ、洋服をすべてベッドの下に押し込めると、私は毛布を嘴でつまむ。

「これをこうして……っと」


 ずるずる引っぱりだした毛布でベッドの下を覗けないようにすれば完璧だ。あとは私が隠れれば……。


「葵ー、いるー?」


 無遠慮な足音は私の部屋の前で止まり、ドアがゆっくりと開いていく。


 ああ、神様。


 私はぎゅっと目を閉じる。


 外は危ないと身を隠したのに、危険のほうが寄ってくるなんて。今日はなんて厄日なんだろう。


「えっ!」


 与太郎の驚いた声がして、私はそっと目を開ける。トレーナーにデニム、五分刈りの頭。ああ、やっぱり与太郎だ。私が嘴をかちりと鳴らすと、


「鶏?!」


 と与太郎が叫んだ。




 どうやら与太郎は私が貸した本を返しに来たらしい。


 そんなの別に今日じゃなくたってよかったのに。


 私はため息を吐く。昔から与太郎は間が悪い。


 例えば、あれは小学生の頃。好きな男の子にバレンタインのチョコを渡そうとしたとき、あいつが彼を遊びに誘ったせいで渡せなかった。中学のときだってそうだ。似たようなことが何度もある。


 もしかして、こいつ私のこと嫌いなんじゃないか。


 そう勘ぐってしまうほど、私の邪魔をする与太郎のことを、どうして嫌いになれないのかよくわからない。


「葵、いつの間に鶏なんか飼い始めたんだろう」


 ちっちっち。


 舌を鳴らして私の前に手を出しながら与太郎は呟く。


「猫じゃないんだから、そんなんで鶏が寄ってくるわけないでしょ」


 思わず突っ込んでハッとする。言葉を話す鶏なんて不気味に決まっている。動画を撮られてSNSにでもあげられたら私の人生終わりだ。


 しかし、私の心配は杞憂に終わった。どうやら私の声はけたたましい〝コケ―〟という鳴き声になって与太郎に届いたらしい。


「うおっ!!!」


 与太郎は慌てて手を引っ込めると、その場で尻もちをつく。


 父さんとは鶏の姿でも会話ができたのに、どうして与太郎には私の言葉が理解できないんだろう。ひょっとしてこのネックレスをつけたことがある人にしか分からないのだろうか。


「こっええぇ……」


 ふ、ふふ。顔を引きつらせて笑うと、与太郎は私から距離をとって座りなおした。

「怖いと笑ってしまう癖、相変わらずだなあ」


 そういえば、小学生のとき、家族ぐるみで行った遊園地のお化け屋敷で爆笑していたっけな。


 思い出して私は羽をばたつかせた。


「うおおぉおあっはっはっ」


「怖いなら帰ればいいのに。ってか帰って」


 顔を引きつらせてその場にとどまり続ける与太郎を睨みつけると私は嘴をかちかちと鳴らす。


 本を返しにきただけなら、もう用は済んだはずだ。どうして帰らないんだろう。不思議に思っていると与太郎は「あ」と声を漏らした。


「やべ、腰抜けた」


「今ので?!!」


 コケ―――――ッ! 声をあげると与太郎は、ひっひっひひっ、と青ざめた声で笑う。


 私が変身してもうすぐ三十分は経とうとしている。早く帰ってもらわないと困るのだ。


「もうっ、はやくっ、帰ってってば!」


 コケッコケッコケ――――ッ! 羽をばたつかせて近づくと、与太郎は今にも泣きそうな顔で笑う。


「ひいぃっひっひっげっほげほげほ」


 むせる姿を見て、さすがにかわいそうになってくる。私は与太郎から距離をとるとため息を吐いた。


「仕方ないなあ。いざとなれば、私がこの部屋から出て行けばいいか……」


 ぶつぶつと呟くと私は時計が確認できる位置に座る。幸い、扉は開いたままだ。与太郎は私が怖いようだし、扉の前に座りこんでいる彼を移動させることは容易だろう。羽をばたつかせて突進すればいい。さすがに長時間腰が抜けたままなんてことはないだろう。


 陽が差し込む室内はポカポカと暖かい。油断すると眠りそうになる。こくりこくりと首を動かしていると、与太郎が言った。


「か、かわいい……」


 消え入りそうな声だった。さっきまで怖がっていたくせに、いったいどの口が〝かわいい〟なんて言うのか。


 ふんっ。鼻を鳴らすと私は与太郎の顔を見上げる。相変わらず、怯えた顔はしているが先ほどまで浮かんでいた涙は消えている。


「今なら、触れる、かな……」


 ぷるぷると震える指先が私へまっすぐ伸びてくる。つついてやることは簡単だが、またさっきみたいになられたらたまらない。


「ったく、少しだけだからねっ」


 私が騒がないのを見て勇気が出たのかさらに指を伸ばし、与太郎は私に触れた。


「わ、わ、ふ、ふわふわじゃん……」


 逃げ腰で触れながら与太郎はにやりと頬を緩める。


「当たり前でしょ。だって、この鶏は私なんだから」


 チラッと与太郎を見ると、彼は小さく悲鳴をあげて固まった。目線合わすだけでだめとか、どんだけ私のこと怖いのよ。


 すっと視線を逸らすと、一度引っ込められた指先がまた伸びてくる。さわさわと触れながら、与太郎は満足気に息を漏らす。


「最初は怖かったけどさ……。おまえ、かわいいなあ。毛並みもいいし、葵に大事にされているんだろうな」


 羨ましい。


 ぼそっと呟いた言葉を私は聞き逃さなかった。


「それって」


 どういう意味よ。訊こうとして私は嘴を閉じる。そうだ。今は鶏なんだから人間の言葉は話せない。


「びっくりしたあ……。今、触られたところ嫌だった? ごめんね」


 与太郎は顔を引きつらせながら謝罪する。驚きはするけど、怖くはなくなったのね。私は短く「コケ」と呟くと、与太郎にされるがままになる。しばらく、私を優しく撫で続けていた与太郎だったが、突然ため息を吐いた。


「なあ、ここだけの話なんだけどさ、俺の話聞いてくれる?」


 ここだけの話で始まるものにいい話はあまりない。いったいなんだろう。変な秘密だったら、これから幼なじみとしてどう接していくべきか考えなくてはならない。


 聞きたくないと言えるはずもなく、私は与太郎の言葉に耳を澄ます。


「あのさ、俺、好きな子がいるんだよね」


「え、ちょっ、恋愛相談? そんなの私が人間のときにしなさいよ。誰、何組の子?」


 そういえば、与太郎のこういう話は聞いたことがない。わくわくした気持ちで待っていると、与太郎は私を優しく撫でる。


「おまえの飼い主なんだけど」


「は?」


 コケッ?


 思わず首を傾げると与太郎はふふと笑みをこぼす。


「はは、言ってもわかんないよな」


「いやいやいやいや、おいおいおいおい」


 思考がついてこない。待って、与太郎、私のことが好きって言わなかった? え? ほんとに?


「俺は幼稚園の頃から葵のことが好きなのに、あいつったら全然気がつかなくてさ。鈍すぎない? しかも、他のヤツに告白なんてしようとするしさ。さすがにないよなあ。まあ、全部俺が邪魔したんだけど」


 ははは。悪魔のような笑みを浮かべると与太郎は私のとさかをつつく。


 じゃあ、小学生のときも中学生のときも全部全部ぜーーーんぶ、こいつのせいで告白できなかったってこと?


「ふっざけんなーーーーーーっ!!」


 コケーーーーーーーーーーッ!!


 羽をばたつかせて私は金切り声をあげる。


「うおおぉおあっ! さっきまで大人しかったじゃん! 俺の何がだめだったの?!」


「全部だよ!!!」


 コケッッッ! 吐き捨てるように言うと私は鼻を鳴らす。乙女の純情をなんだと思ってんだ。このクソ与太郎め! 何回か突いてやる。


 ばさばさばさ。羽をばたつかせて私は標準を定める。狙うは与太郎の手の甲。床を力強く蹴ると私は飛び上がった。その瞬間、身体がみしりと音を鳴らした。


「えっ」


 頭を下げた与太郎を飛び越えると私は廊下へと着地する。もしかして、もうそんな時間?! ってことはもう人間に戻る?


 どくん。鼓動が強く鳴り私はぱくぱくと嘴を動かす。


「やばいやばいやばいっ」


 こんなところで人間になんて戻ったら……。なんで時間をもっと確認しなかったんだろう。わざわざ時計がよく見える場所に移動したのに! 私の馬鹿!


「も、もうっ! 突然飛んでこないでよお!」


 背後には震える与太郎、前方には階段。ええい、ままよ!


「うぉりゃーーーーーーーっ!」


 私は羽をばたつかせると強く廊下を蹴った。鶏の私の身体は軽々と宙に浮き、落下していく。


「あれ、私、ちょっと飛んでんじゃん!」


 ばさっばさっばさ。父ほどではないが、確かに私の身体は浮遊している。(ポジティブに言ってみたが、しかし、飛んでいるわけではない。文字通り落下しているのだ。)


「っし!」


 ずざざっ! 一階に到着すると、私の鼓動はさらに強く鳴る。これは、ほんとに、やばいかも。


「に、鶏ちゃーーーーんっっっ?!!」


 頭上から与太郎の声がする。どうか追いかけてきませんように。私はそう願ったが、与太郎は一階に降りてこようとしていた。


「げっ! もう! ずっと腰ぬけてろよ! ほんと間が悪いっ」


 みしりみしりと音を鳴らす身体を引きずって私は脱衣所へと飛び込む。


「はあっ、はあっ」


 そんなに走ったわけでもないのに、呼吸が乱れる。ほんとにちゃんと人間に戻れるんでしょうね。失敗とかしたら承知しないからね。私は震えながら、口内にたまった唾液を飲み込む。


「に、鶏ちゃーん……?」


 与太郎の声がする。こっちに来るな、こっちに来るな、こっちに来るな。念仏のように唱えていると一際大きく身体がみしりと音をたてた。


 ボフンッ。


 鶏になるときと比べて、人間に戻るのは一瞬だった。そっと目を開くと私は脱衣所に横になっていた。人間から鶏になるときは煙があったのに、どうして逆だとないんだろう。


「よいしょ」


 ゆっくり身体を起こすと、私は両手を上にあげて伸びをする。まるで変な夢でも見ていたかのような気分だ。


 まだ春先の季節に裸はつらい。早く服を着たいが、与太郎がいる。すぐには無理だろう。私は手近にあったバスタオルを掴むと身体の前に広げた。その瞬間、まだ閉めていなかった脱衣所の前に与太郎が現れた。


「あ」


 みるみるうちに与太郎の顔が赤くなっていく。私はバスタオルで身体を隠すとふるふると震えた。


「よ~た~ろ~~~~~!!!」


「ごめんごめんごめん見るつもりはなかったんだって!!」


「いいからさっさとどっか行って!」


 ガラッ! 扉を閉めると私はため息を吐く。バスタオルを身体の前で広げていてよかった……。私はバスタオルで身体をぎゅっと巻くと脱衣所を出た。


「うわっ!」


 与太郎は脱衣所のすぐ側に立っていた。


「なんでまだバスタオルなんだよ! 服は?!」


 慌てる与太郎に私は言った。


「部屋に忘れたの!」


「ふーん。ってか、最初から家にいたんなら言えよなー」


「……言えるわけないでしょ」


「え?」


「なんでもないっ」


 私は小走りで二階へ上がっていく。扉をしめると急いでベッドの下に隠した洋服を引っ張り出した。よかった、ほんとに。これに気がつかれなくて。すべて身につけると、お腹の音が鳴った。


 ホッとしたらなんだか、お腹が空いてきたなあ。


 私は立ち上がると、階下にいる与太郎に声をかけた。


「ねえ、与太郎。お腹空かない?」


「へ?」


 間抜けな返事を聞き流しながら、私は一階へと降りる。


「お菓子くらいなら出してやるけど」


 なにも答えない与太郎を不信に思って振り返ると、与太郎のくせに難しい表情でそこに立っていた。


「なに? いらないの?」


 訊くと、与太郎は首を振る。


「あのさ、さっきは、ごめん。まさか脱衣所にいるとは思わなくて」


「いいよ。開けっ放しだった私も悪いんだしさ。気にしないで」


「それもそうか」


「おいっ! もっと申し訳ない気持ち保てよ!」


 私が声を荒げると与太郎は笑った。それから与太郎は「あ、そうだ」と声をあげた。


「そういえば、おまえ、鶏飼い始めたんだな」


「んえっ?!」


 今度は私が変な声をあげる番だった。


「どうした? 変な声だして」


「いや、ちょっと唾液が気管に入って」


「気管に入ってそんな声出ないだろ」


 呆れたように言うと、与太郎は続ける。


「あいつ、さっき葵の部屋飛び出して行ってさ。探してるんだけど見当たらなくて」


「あ、へ、へえ。そうなんだ。大丈夫だよ。いつものことだから」


「ふうん? それならいいけど」


 ばくばくと心臓が鳴る。あれが私だとバレていないのはよかったけど、なんだか嘘を重ねているようで居心地が悪い。


「ってかさ、いつの間に鶏飼い始めたんだよ」


「さ、最近かな?」


「なんで疑問形なわけ? まあ、いいけど。なあ、また触らせてくれよな」


「うっ」


 私は言葉に詰まる。〝また〟なんて、もうない。けれど、こいつはこれからもこうして勝手にこの家に入ってくるだろう。数回なら鶏が姿を見せなくても納得するかもしれないが、それ以上だとそうもいかない。


 それに……。


 私は与太郎の顔を見上げる。さっきは怒りでそれどころではなかったが、こいつ、私のこと好きって言ってなかったっけ。


 思い出して、ぽぽぽっと頬が熱くなる。


「どうした? なんか顔赤くない?」


「そ、それ以上私に近づくなあっ」


 両手で顔を覆うと私はぎゅっと目を閉じる。なんで今さらになって意識すんのよ、私!


「で、鶏ちゃんは……」


「き、気がむいたらねっ」


「えー、ケチ!」


 ぶうたれる与太郎に背を向けると、私は鳥のネックレスを握りしめた。

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