二 隠れメガネシタン

 大槻柊公おおつきしゅうこうは卓上に置いてあった新聞の束からひとつ手に取り、広げた。数日前のものだが、眼を通しておくに越したことはない。


 “灯油値上がりで石炭油流行”、“洋傘の注文殺到”、“川上音二郎のハムレット”…………


 ゆっくりと活字を追ってゆく。ふと、不穏な見出しに目を留めた。



 “母の眼病治療のため妻の生肝をとる”


 妻の生肝をとりて母に食はしめんとしたる**県**群**村**のことにつき、近頃一怪報を伝へて、同人は強盗も働きゐたる者なりといふが、此頃同村より上京したる人の直話によれば、**が強盗を働きゐたるや否やは知らざれど、同人が仏教の心酔者なる事は村人の一般に認むる事実なり。

〈中略〉

 **は孝心深き者にて、実母の眼病に罹り居るを苦にやみ、いかにして之を全快せしめんと昼夜心をくだき居りしは、自分も実際見聞きし居たり云々と語りたりと。



 ――この情勢でこの記事とは。


 大槻は感嘆した。新聞社を確認すると、新聞を畳み鞄に入れて事務所を後にした。

 その新聞社の場所なら知っている。大槻の好奇心に火がついたようだった。


 二階建てのビルにその新聞社はあった。そっけない階段を登り事務所の扉を開けた。カラン、と鐘が鳴る。

 仕事中なのだろう、部屋にいる三名が驚いたように顔を上げた。面会の約束を取り付けずに来たのだから無理もない。


 一番手前に座っていた男が席を立ち、愛想笑いを浮かべながら近付いてきた。


「どうされましたか?」

「私は新聞社のジャーナリストですが、この記事を書かれた記者にお話を伺いたいと思いまして」


 鞄から新聞を取り出しくだんの記事を男に見せる。男はその記事を執拗にためつすがめつした後に明るい声を上げた。


「あ、これ石越先生じゃないですか」

「石越先生?」

石越保鷹いしこしほたかという方です」

「その方は今どちらに?」


 途端に口ごもり後ろの二人へ目線をやる。その視線を受けて、助け船を出すように二人が口を挟んだ。


「先生でしたら、今はご自宅で療養中です」

「療養中?」

「ええ。なのでお会いするのはしばらく難しいかと思いますが」


 取り繕うように言葉を紡ぐ。その三人の背後で黒い靄が漂うのを見て、大槻は目を細める。が、すぐに表情を和らげ人当たりの良い笑みを浮かべた。


「そうでしたか。では先生のご自宅までお伺いしますので、住所を教えて頂けますか」


 やんわりと、しかし有無を言わさぬ物言いに、三人は困惑したようにお互い顔を見合わせた。



 事務所を出ると三人に書いてもらった住所のメモを確認すると懐に入れ、石越某の許に向かった。先程感じた違和感と黒い靄が気になったが、まずは石越某に会うことが先だ。


 最寄り駅に到着すると、どこかの党が演説をしてるようで人集りが出来ていた。感動したように聞き入っている者、野次を飛ばしている者。その様子は普段と何ら代わりはない。

 大槻はその人の多さに苦々しく思いながら電車に乗った。車窓からの景色ははっきりと見えないが、風が気持ち良い。


 電車を降り、大通りから外れて路地裏へ。それも抜け、くねくねと曲がる道を登り下りする。汗ばむ額を風が心地好く撫でてゆく。だが進む歩は軽やかだ。分からないことは自分で確かめに行くのが一番確実なのだ。


 見慣れない景色を珍しげに眺めながら進むうちに、目的地に辿り着いた。

 立ち並んだ長屋の手前から二番目。そこがメモで記された石越某の住所だった。


 大槻は玄関の前に立ち、戸を敲いた。反応は、ない。再度戸を敲くと、躊躇いがちに戸が開かれた。


「――誰だ?」


 大槻は中から現れた人物をまじまじと見た。療養中と聞いていたので草臥れた格好をしているかと思っていたが、案外きちんとした身なりをしている。


 特筆すべきはその眼だ。白目の部分が見えないほど目が真っ赤に充血しており、焦点が合わない。病状が進んでいるのだろう、清潔そうな巻木綿で右目を覆っていた。


 何より気配がどす黒く濁っていた――病んでいる。


石越保鷹いしこしほたか先生ですね」

「あんたは?」

「私はジャーナリストの大槻柊公おおつきしゅうこうと申します。石越先生が書かれた記事についてお話を伺いたいのですが」

「……帰ってくれ。話すことは何もねぇよ」


 政府の御用ジャーナリストと間違えられたようだ。気持ちは分からなくもない。でっちあげの報道をして政敵の追放を行うマスコミたち。


 いつだったか、内閣が御用ジャーナリストを使って対立していた衆議院議員に偽の嫌疑をかけ、議員辞職に追い込んだ。その議員が関わっていた新聞も発行停止処分を受けたという。


 大槻は名刺を取り出そうかとも思ったが、止めた。失明しかかっている相手には名刺など最早無意味だろう。

 石越に近寄り、優しく肩に手を置く。


「これは失礼しました。私は萬日報よろずにっぽうという新聞社に勤めている者です。あなたが書いた記事……母の眼病の話でしたかな。この報道規制の中、あえて載せた心意気にいたく感銘を受けましてね。どのような人物かと興味を持ちまして」


 一旦話を切り、相手の反応を伺った。萬日報の名を出せば気付くだろう。案の定、石越の表情が幾分か和らいだように見えた。石越は逡巡した後、促した。


「入んな」


 部屋の中は意外とこざっぱりとしていた。座卓の上に散らばった紙と万年筆が転がっているのが大槻には好ましく思えた。


「茶を出せなくてすまんな、ご覧の通りの有り様なんだ」

「お気遣いなく」


 石越は座布団をもうひとつ用意して自らも座った。右目が痛むのか、顔をしかめて巻木綿の上から右目に手を当てた。

 大槻は石越の向かいに腰を下ろすと、話を切り出した。


「調子はいかがですか。先生の病状は思わしくないように見えますが」

「元々感染はしていたんだ。その記事を書いた後に悪化した」

「失礼ながら、お仕事は現在どのように?」

「……仕事はない。自宅療養とは建前で実質解雇に近い」


 大槻は絶句する。石越は続けた。


「奴らは俺を持て余してる。だが会社側からの一方的な解雇は名に傷が付く。そうさせない為にもあの手この手で追い詰め、自主退職や懲戒解雇させようと必死なのさ」


 だがな、と石越は大槻に顔を向けた。


「あの中にも感染者はいるんだ。俺の例があるから隠しているようだが、視力が落ちている奴がいる」


 新聞社の三人を大槻は思い出す。――そういえば一人、そんな素振りをしていた男がいなかったか。


「感染していることがバレたら村八分にされる。自分の居場所がなくなっちまうんだ。それを恐れて普段通り振る舞う奴も多い。だから感染者は増え続けるんだ。……一度感染した奴はなぜか周りから謝罪を求められ、本人も自主的に謝罪を重ねる奴が多い。が、それにも関わらず周りからは更に忌避される。その怨嗟は伝染し対象を蝕むから感染者は自主的に他人と接触を避けるようになるんだ」

「――“穢れ”ですね」


 石越は頷いた。

 死や出産、病気など、物理的に触れることだけでなく精神的に触れることによっても“穢れ”は伝染すると見なされている。古来の穢れ観においては、穢れの対象を隔離などで社会的に断絶されてきたという。


 不意に大槻は、児童の遊びで『えんがちょ』という穢れを防ぐ口遊びのことを思い出した。不浄なものに触れた者は第三者に擦り付けることで穢れから解放されるというものだ。


 暴力的すら感じる、この忌避の感情と行為。穢れを擦り付けられた側の心情は如何なるものか。人は、人の繋がりとは、そこまで儚く脆弱なものなのか。見えない悪意に対して人々は屈服するしかないのか。


 ――何も変わっていないのだ。今も昔も。



「あいつら、俺に擦り付けようとしてるんだ。目は見えない、収入もない。政府はこの感染についてはほとんど無関心だ。この先どう生きていけばいいのか分かんねぇよ」


 石越は自分の言葉に憤りを感じてきたのかだんだんと凄みを増し、黒い靄の気配も濃くなってゆく。

 大槻は黙って聞いていたが、ぽつりと呟いた。


「……憎いですか」

「ああ、憎いさ。感染症も政府もあいつらも俺自身も、この世界の何もかも!」


 感情を昂らせた石越は思い切り座卓を叩く。その拍子に、


 ――――カシャン、


 軽い音がした方を一瞥すると、眼鏡が落ちていた。大槻は驚いて思わず声を上げていた。


「君は……隠れメガネシタンだったのか」


 石越は大槻の声に弾かれたように手探りで眼鏡を回収し、自分の運命を悟ったのか蒼ざめて項垂れた。

 メガネシタン弾圧の影響により、隠れメガネシタンを密告すれば報酬として大金がもらえるからだ。密告された者の末路は……“転ぶ”か死のどちらかだ。


 大槻は音を立てないように懐から眼鏡を取り出してかけた。

 きらりと剣呑な光が眼に宿る。ゆっくりと立ち上がり、懐に手を差し入れたまま静かに口を開いた。


「石越保鷹。君はどうしたい」

「俺は……死にてぇ。こんな生き地獄をずっと味わうくらいなら、死んだ方がマシだ」

「そうか。ならば――――」


 懐から出した手に握られているもの――拳銃。

 石越へ真っ直ぐに銃口を向ける。


「望み通りにしてやろう」


 石越は反射的に目を閉じた。それを見下ろし、引き金にかけた指に力を込める――刹那、僅かに銃口をずらした。

 くぐもった銃声。


 石越は恐る恐る目を開けた。生きている。

 どす黒い気配が霧散したのを確認すると、大槻は拳銃を懐に仕舞う。石越に近付いて目に手を翳した。


 僅かな間。


 充血が引いて綺麗な白目に戻る。石越は目を見開いて瞬いた。多少の弱視は残るだろうが、少しは回復しただろう。

 その眼で見たものは――メガネシタン。



「今までの君は死んだ。これからは君次第だ。何度でも死ぬように生きてみろ、石越保鷹。


 ――――私と供に革命を起こそう」



 淀みのない力強い言葉に、石越は息を呑んだ。


「何を、した」

「君に巣食っていた鬼を払ったまでだ。……ああ、その弾は身に付けていろ。それは私の式神だ、君の身を守ってくれるだろう。鬼は人間の心の闇を糧に育つからな」

「あんた……陰陽師か。陰陽師は目も治せるのか?」

「そのようだな。完治まではいかないようだが」


 どうせなら完治するくらいが良かったのに、と嘆息する大槻を尻目に石越は呆然と瞬いていた。が、我に返ると巻木綿を外して眼鏡を装着し、精一杯の難しい顔を作る。


「……なぁ、あんたは革命を起こしてどうする気だ」

「誰も傷付かない世界を作りたい。今急増している悪意は政府が扇動していると私は睨んでいる。現状について何も対策せず、他者への悪意を隠れ蓑にして隠蔽に勤しんでいる奴らが許せないんだ。……それでどれだけの人が傷付き苦しんだか」

「ユートピアか。物事を成し遂げる為に犠牲はつきものだぜ」


 大槻は拳を作る。


「それでも……理不尽さに苦しみもがき自ら命を絶つ、そんなのはもう沢山なんだ」


 そうか、短く答えて石越は大槻に向き直り彼をひたと見据えた。


「いいぜ。――革命、やろうや」


 二人は軽く笑った。


「あんた、」

「柊公でいい」

「……柊公。今後について何か策はあるのか」


 大槻は頷き、眼鏡のブリッジを押さえた。


「政府に不満を持っている者は多いが、民衆の大多数は政治に関する知識も意欲も乏しい。権利や義務の原理さえ理解していない者は多いだろう。まずは人々が決定プロセスに関与させることが必要だ。我々メガネシタンはマイノリティだ。だが同胞は身近に、そして全国に必ずいる」

「というと?」

「各地にいる隠れメガネシタンを介して俱発的なサクラメントを起こし、メガネシタンの増加と鼓舞を図る。

 云わば――全国同時多発眼鏡だ」


「!! そんなことが可能なのか?」



大槻柊公は目に強い光を浮かべ、薄く笑った。

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眼鏡Resistance 海月ゆき @yuki_kureha36

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