一 眼鏡革命家の誕生
それが眼に悪いと分かっていても、そうするしかなかった。しかし集中できない。疲れているのだろうか。
大槻は『
萬日報はスキャンダルの他に、小説の連載や英文欄を創設などで大衆を魅了し、今や東京で最も発行部数が多い新聞になった。
――以前萬日報に載せた記事を契機に、他の新聞社がその記事に関して次々と根も葉もない劣悪な嘘を並び立てた結果、対象者に対する誹謗中傷が激化し自殺が起きてしまったことがある。
その流れで、萬日報は発行停止処分を受けてしまった。裏付け取材した報道をしているのにも関わらず、だ。
再開後、萬日報社は社会主義を実現する媒体として今まで以上に手堅い報道を心がけるようになったという。
大槻はその事件に心を痛めていた。
傷付いたと声高に叫び、誰もが自分の正義を振りかざしては知らないうちに誰かを傷付けている。――恐らくは大槻もそうなのだろう。
この世は欺瞞に満ちている。何が嘘で何が本当なのか。誰を信用すればいいのか。情報操作とプロパガンダ。搾取されるのはいつだって情報弱者なのだ。
物事に真摯に向き合い、納得のいくまで真実を追究していきたいと大槻は思っていた。
「………………」
全く集中出来ない。大槻は溜め息をついて席を立った。気分転換の為だ。
「少し外の空気を吸ってきます」
すぐ戻る、と同僚に声を掛けて事務所を後にした。先程迄雨が降っていたせいか石畳が濡れている。表通りに出て歩を進めるごとに腹に澱が溜まるのを大槻は自覚していた。
すれ違う人、人、人。喧騒に満ちたこの街の人々は現在日本中で起こっている出来事など、みな他人事なのだろう。
――半年前から伝染病が蔓延していた。
罹患すると視力が低下して失明したり、最悪命を落とすこともある。
伝染病が流行り始めると眼鏡を求め店へ購入者が殺到し、購入出来なかった人々は裸眼での不便な生活を余儀なくされた。
しばらくして目薬が市場を出回ったが、副作用という理由で自主回収されてしまった。
そんな中、政府は沈黙を貫いている。まるで伝染病に対しての対応を放棄しているように思えた。
解決に至る原因究明は東京府内の伝染病研究所にてなされている。
以前研究所の社長でもある博士から対策が発表されたが、すぐに撤回された。直後に政府から公布された内容は人々を大きく困惑させるものだった。
一、流行リ病ハー過性二過キス
一、外出ヲ推奨スル
一、眼鏡ノ販売ヲ禁シ、所持スル者ハ破棄スヘシ
一、
一、
…………………
公布により眼鏡が世間から消えた。眼鏡を掛ける者は見つかり次第没収され、眼鏡屋も眼鏡工場も畳まざるを得なかった。反抗する者は警察に連行された。
南蛮貿易による眼鏡の輸入が本格化し、手細工職人による製作から国内の機械生産で量産が始まった矢先のことだった。
眼鏡を求めて長崎へ赴き、舶来品の眼鏡を買い付けて各地へ密かに運び込む交易係も現れた。
隠れて眼鏡を所持する人物たちを総じて『隠れメガネシタン』と呼ばれるようになった。
隠れメガネシタンの存在は、間もなく政府に認知されることとなる。眼鏡の所持者を見つけ次第、密告する者も現れた。
警察に連行されると戻ってこないことも度々あった。噂では拷問まがいも行われているらしい。
眼鏡の取り締まりは悪化の一途を辿っていた。
病が流行ると同時に匿名の悪意により炎上が多発し、多くの者が疑心暗鬼に陥ったり心を病んだ。耐えきれずに自ら命を絶つ者も続発した。恐らく今後も増えるだろう。
視界のぼやけたこの社会で、適応している者、無気力状態の者、密かに憤る者、罹患していないからと他人事のように楽観視する者など様々だ。
大槻も数ヶ月前に罹患している。幸い視力低下のみに留まったが、それ以来視界の悪い状態で過ごしている。無論眼鏡は手元にない。
ぼんやりとした世界は自分が薄い膜で覆われて周りから隔絶されてしまったように感じた。自分の表情も感情も摩耗したように思えてしまう。
そんなことを鬱々と考えながら歩を進めていると、公園に出た。日比谷公園だ。緑を眺めてリラックスしようと思い立ち、大槻は足を向けた。
心学池のゆったりとした水面の揺らめきに和み、洋風花壇の華やかな色に頬が緩んだ。やはり自然はいいものだと大槻はしみじみ思う。
樹木に差し掛かった所で、大槻は妙な視線を感じた。気にしないようにしていてもその視線はついてくる。じぃっ、と一定の距離を保ったまま。
「…………」
大槻は気分を害した。何であっても自分の時間は邪魔されたくないのだ。
「私に何か用か」
低く問うた途端、ざぁっと風が強く吹いた。と同時に風に飛ばされてきたのか、何かが顔面に張り付いた。
引き剥がすとそれは人の形を模した紙だった。大槻はそれに既視感を覚えた。どこかで見たことがある。どこかで……
――ほぅ、やはり素質はあるようだ。
何処からか声が聞こえた。大槻は周りを見渡す。
「誰だ」
――僕が何者かはさして重要ではない。
どこから聞こえるか判別がつかない。否、この声は……
――お前は為すべき事を為せ。
大槻の頭の中に直接響いている。大槻は怪訝そうに眉を上げた。
「為すべき事?」
――主人の許、理性に基づき正義を貫け。お前の主人とは……『自由』だ。
大槻ははっと手元を見た。確かに手にしていた人形の紙は、今や眼鏡に姿を変えていた。耳を澄ましていても声はもう聴こえてはこない。
「正義……自由……」
先程の言葉を反芻する。そして思い出した。人形の紙――正確には形代というが、それは実家で見たものだ。
大槻家は南都の陰陽道を家業とする、賀茂氏の末裔だった。その昔、大槻家は興福寺と事実上主従関係を結び、その力で陰陽道や歴道全てを取り仕切り、更には政治顧問的な役目を果たしたという。
後継者争いの最中に大槻家は南都陰陽師の支配権を没収され、土御門家の配下になることを誓約させられていた。だが、興福寺などの南都社寺との関係は今もなお深い。
大槻柊公は陰陽道を幼い頃に遊びの一環として慣れ親しんでいた。年齢を重ねるごとにつれて忘れてしまっていたが……先程の声が言った、素質というのはこの事を指していたのだろうか。
大槻は周りに誰もいないことを確認し、恐る恐る眼鏡を掛けた。
「……!」
物の形が、色が、はっきりと見える。視覚情報が今まで以上に鮮烈に飛び込んできて、見えるということがこれほどに感動するものなのかと大槻は喜びを噛み締めた。
同時に、自身に纏わりつく黒い気配が“視えて”いた。
――お前は為すべきことを為せ。
先程の声が脳裏に甦る。力が沸々と沸き上がるのを大槻は感じていた。
「……なるほど」
大槻は逸る心ごと眼鏡のブリッジを押さえた。
反射した眼鏡の奥の眼は鋭く、怜悧な光を帯びていた。
夜の静寂が支配する老朽化した建物の地下。
暗がりの中で、ぽつ、と明かりが灯った。昏い闇は明かりに遠慮して遠ざかり、辺りは薄闇が広がった。
カツン、と階段を降りてくる誰かの足音に連動して影が揺れる。足音と影がだんだん近付き――不意に止まった。
[
声を発したのは影の主だった。流暢なフランス語だ。
声が薄闇の向こうへ響くと、薄闇の中で何かが身動ぎした気配がした。木が軋む音や衣擦れも微かだが耳に届く。
「そのままで構わない。動ける体じゃないだろう」
「…………」
「今日は面白いショーがあってね。どうしてもお前に聞かせたかったんだ」
「……その為だけに、ここまで来たのか」
薄闇の人物は淡々と呟いた。そう、と影の主は事も無げに頷く。
「お前は逆賊として追われた。死にかけのお前を保護するように指示したのがこの僕なのは知っているね。しかしお前の命は風前の灯だ、いつ死んでもおかしくない。だが――お前が生きているのを民は信じているそうだね」
「……それがどうした」
「――眼鏡革命家の誕生、だよ」
「!!」
「お前と同じように、あの男も民の希望の星になるのかと思うと嬉しいよ。大丈夫、お前の亡骸は薩摩に葬るから安心して。僕は慈悲深いんだ」
屈託なくぽろぽろと話を続ける影の主。薄闇の人物は愕然として呻いた。
「……あなたのような方がそんな…そんな真似をなさるなど……!」
「この世を正したい気持ちはみな同じだ。これは国内だけじゃない、海外でもみな自由と正義の名の元に戦っている。お前もそうだったろう?」
ぴしゃりと言い放つと薄闇の人物は押し黙った。
影の主は満足げに見やり、にこりと笑った。その首筋に浮かび上がったのは――左三つ巴の家紋。
「僕はね、あの男にとても期待しているんだよ。――革命家としても、陰陽師としても」
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