最終話 邂逅(かいこう)

 五分ほどで浜辺に辿り着いた。

 海はいつも通りの穏やかな海で、ただ波の押し引きを繰り返していた。青空と青海、白い砂浜に挟まれて、母子は立っていた。

 背中に包丁を突き付けらたままカオリが話し出した。

「あんた、本当に私を殺すつもりでここに連れてきたの? いったいどういうつもりなんだい?」

 諾人は静かに答えた。

「今日、この島に津波が来るんだ。ここで母さんを殺して俺も死ねば、海が死体をさらうから殺人があったなんて誰も思わない」

 カオリの背中が震えた。笑いをかみ殺しているようだった。

「バカな子だよ、津波が来るだなんてそんな話しを信じて。この島の人間たちに騙されているんだ。馬鹿な子だ……私に似て本当に馬鹿な子だ」

 カオリの震える背中を見て、母さん、と呟くと、諾人は突然その膝裏を突き刺した。

「ぎゃっ」

 と絞め殺される鶏のような声を出すと、カオリは崩れ落ち、諾人と向かい合う形でしゃがみこんだ。

「ホントに刺したんだね! ホントに刺したんだね! 痛いよぉ、痛い!」

 カオリは刺された部位に手をやると真っ赤な血がついた。痛みで顔をゆがませるカオリの顔を諾人は冷徹な表情で見下ろしていた。

「これで逃げられないよ。母さん、死にたいって言ってたじゃないか?」

 諾人がじりじりと近づくのを、カオリは手を使って後ずさりをした。

「そんなこと……確かにお前の前で漏らしたかもしれないけど、嫌だ、嫌だ! まだ、死にたくない! 殺さないでおくれ! 殺さないでおくれよ!」

 命乞いをしながら、痛みで歪んだ表情で、両手と、まだ動く左足で這いずるように後退した。諾人はそんな母親を殺そうとせず、じりじりと歩み寄った。

「母さん、なんで俺が海を選んだのかわかる? まだ本島の町にいたときに、父さんに暴力を振るわれて、よく一緒に近くの海辺に逃げてきたよね。その時から、母さんは俺のことを殴ったけど、でも一緒に逃げてくれたのが嬉しかった。あの時だけは、俺は守られているような気がした。だから、大好きな海で母さんと死のうと思ったんだ」

 波の砕ける音が繰り返し聞こえた。白い砂浜に、カオリの血が点々と落ちていった。

「そうだ、あんたの父親はなにか気に食わないことを見つけると私とあんたに暴力を振るった。このままだと殺されると思い、逃げるように施設に逃げ込んで、そのまま離婚をしたんだ。これで平穏な生活が送れると思ったけど、あいつの存在が恐くてね。だから、こんな辺鄙な島に引っ越してきたんだ」

 カオリは投げつけるように言葉を言い放った。

「でも島に来てからも、俺への暴力はなくならなかったよね。どうして、俺はずっと殴られなければならなかったの?」

 すると、カオリは視線を落として、明らかに顔を曇らせながらも、這いずりながら後退を続けていた。後ろには、神浦の森が迫っていた。

「そうだ……そうだ、町を離れて静かな島に引っ越せば、あんたを殴らない幸せな生活を二人で送れるんじゃないかと思った。環境が変われば……あたしだって……だけどそうはいかなかった。暴力でしかあんたと接することができなかった」

 答えにならない答えを言われ、初めて、母親より優位な立場に立っていることで、諾人は母親に対しての強い負の感情が湧き上がってくるのを感じた。それは今までずっと抑圧してきた漆黒の感情で、気が付けば、諾人は母親に向けて感情をぶつけていた。

「どうして俺はずっと否定し続けられたんだ! どうして俺はずっと暴力で押さえられ続けなければいけなかったんだ! どうして他のお母さんのように大切にしてくれなかったの? 俺はいてはいけなかったの? 俺は、俺は、一度でいいから母さんに、大切にしてるって言ってほしかった! 抱きしめて欲しかった! いい子だと言ってほしかった!」

 諾人の吐き出す言葉を聞いて、カオリの目には涙が浮かび上がっていた。後ろに這いずりながらも、カオリは叫んだ。

「ごめんよ、ごめんよ、諾人! 周りの母親のようにあんたと普通に接することができなかった! あんたが生まれた時、私は嬉しかったんだ! この子と幸せな生活を送ろうって思ったけど、私にはできなかった!」

「嘘だ! 嘘だ、嘘だ、嘘だ! そんな嘘、今さらつかないでよ! もうなにもかも遅いんだ! 母さんが俺を真夏の部屋に閉じ込めて、食べ物も与えないで俺を殺そうとした時、なにもかも諦めたんだ! 愛されることも、必要とされることも、生き続けることもすべて! だから、もう遅いんだ! 母さんを殺して俺も死ぬんだ!」

「あれは違うんだよ! あんたが黙って家を出て行ったりするから懲らしめてやろうと思って! 飲み物さえあれば三日だったら死なないと思ったんだ!」

「あれだけの水で……どれだけ苦しかったか。生きることはこんなに苦しいのに、どうして俺を生んだりしたの? どうしてお腹の中で殺さなかったの?」

 カオリはついに目から涙をこぼしながら、声を震わせた。

「私だって……私だって幸せになりたかった! 私の父親もあんたの父親と同じように暴力を振るう人だった。私の母親も私も、ささいなことでいつまでもいつまでも殴られて、頭から血を流したことだって何度もある。だから、あんたが私のお腹に出来た時、私はあんたと普通の幸せな家庭を作ろうって決めたんだ。だけど、だけどダメだったんだよ! 私にはそんな普通のことができなかった。普通にお前を抱きしめたり、遊んだり、触れたりすることさえできなかった! 私にはそんなことすらできなかったんだよ!」

 カオリのすぐ後ろには神浦の森が広がり、刺し傷のせいでそれ以上後退することができなくなった。諾人も立ち止まると、息を荒々しく吐きながら、カオリのことを黙って睨みつけていた。


 緊張を多分に含んだ視線を絡ませながら二人は対峙していた。だが、諾人が包丁を持った手を振り上げたその時、森から小さな女の子の声が聞こえてきた。

「そこにいるのは誰だ? タオは津波のことをみんなにまだ教えてないのか」

 突然の声に、諾人は息を呑んだ。見ると、透明な肌をもった少女が木々の間に立っていた。

「オチヨ様だ……」

 と諾人は呟いた。そこに立っていたのは、タオとシロツメグサの群生地で見つけた一人の少女だった。

 オチヨは呆然と諾人のことを見つめながら、

「お前、オラのことが見えるのか。タオに教えられなかったのか? 今日、この島を大きな津波が襲うんだぞ、どうしてここにいるんだ?」

「やっと会えた……やっとオチヨ様に」

 諾人は質問には答えず、振り上げた手を下ろすと、包丁をぽとりと落として、その場にひざまずいた。

「俺のことをわかってくれる人……」

 すると、オチヨの方から諾人へと近づいてきた。

「その女の人、ケガしてるじゃないか。だから逃げられないのか」

 カオリの方を見ると、カオリもオチヨのことが見えているようで怯えた顔を浮かべていた。

「そうじゃないんです。津波が来ることは知っています、タオが教えてくれました。だから、ここにいるんです……この人は俺の母親です。母親は俺に毎日のようにひどい暴力を振るうんです。殺されかけたこともあります。毎日が地獄のようです。死にたくて、死にたくて……母親も死にたいともらすことがあります。だから津波が来る今日、この人を殺してから俺も死んで、津波にさらわれようと思ったんです。そうすれば、俺がこの人を殺したってみんなにはわからないから」

オチヨは真っすぐ諾人のことを見つめ、独白を聞き届けると、歩み寄って諾人の前にしゃがみこんだ。オチヨの顔を間近にみて、鼓動が激しくなったのを感じた。今までにない高揚感だった。

「お前、名前は?」

 とオチヨが尋ねてきた。諾人は、吸い込まれそうなその瞳を見つめながら、

「諾人、諫早諾人です」

 と答えた。オチヨは静かな声で諾人を語りだした。

「諾人。この女の人を殺してはいけないよ。たとえどんなに憎い人間でも、お前の心に一生の傷がつく。死んでもし成仏できなければ、ずっとその傷は残り続けるかもしれないんだ。そうしたらお前は永遠に苦しむことになるんだよ?」

「どうして? ……オチヨ様ならわかってくれると思っていたのに。だってオチヨ様は自分を殺した父親を祟って殺したじゃないですか?」

 オチヨは、一瞬視線を落としてから、また合わせた。

「そうだ、だから言うんだ。たとえどんなに憎い人間でも、殺してしまった罪悪がずっとオラを苦しめたんだ。あんな親父でも、一人の人間であることがオラを苦しめるんだ」

 諾人は瞳を揺らしながら、言葉を吐き続けた。

「そんな、そんな! 俺はこんなに苦しめられたのに! 一緒に大好きな海に呑み込まれて死ぬつもりだったんだ! なのになんで、オチヨ様がわかってくれなかったら誰が理解してくれるんだ」

 顔が歪んでいった。視界が薄ぼけて、オチヨの顔も滲んで見えたが、視線を一切外さないでこちらを見ていることはわかった。

「諾人、生きるんだ」

 とオチヨは続けた。

「お願いだから生きてくれ。お前が受けた苦しみはお前の身体のアザをみればわかるよ、オラもそうだった。だから、死にたいのもわかる。だけど、オラは生きたかったけど生きられなかった。父ちゃんに殺されたから。オラだって生き続けたかったのに! だから死ぬなんて悲しいこと言わないでくれ。生き続けてくれ、諾人。例え、お前以外の人間がお前が生きていることを非難しても、お前だけはお前が生きることを肯定し続けなければいけないよ。だって、お前の身体は最後まで、お前を生かそうとしているじゃないか」

「生き続けて欲しいだなんて……」

 今度は涙がこぼれ落ちてきた。視界をぼやけさせながらも、オチヨを見つめた。木漏れ日が、彼女の透明な肌を突き抜けて、諾人の目を射した。

「今まで、僕が存在することをみんなに否定され続けてきたのに……まさかそんなことを言ってくれる人がいるなんて」

 すると、オチヨは抱きしめるようにざっと近づいて、諾人の肩に顎を乗せ、首に両腕を回した。だが、オチヨは触れることはできないので、その恰好だけだったが、諾人は胸の高鳴りを抑えることができなかった。独特な甘い香りで鼻腔は満たされた。

「わかるか、諾人。死んだら触れることもできないんだ。タオとか、お前とか、特別な者でないと話しをすることもできない。死ぬっていうのはそういうことなんだよ?」

 諾人は頷くことすらできないまま、その甘美な声を耳元で聞いた。心地の良い風が吹いて、目前の草木が揺れて、暖かな陽射しに包まれるのを感じていた。

「だから、生き続けて、オラの分まで幸せになってくれ。せっかくその身体があるのにもったいないじゃないか」

 オチヨは回していた腕を解くと、また諾人の目を見た。諾人は涙を溢れさせながら、何度も無心に頷くと、ポケットから鯨の骨の櫛を取り出し、タオの前に広げた。

「お前、その櫛……」

 とオチヨは目を丸くした。

「ごめんなさい。俺がずっと持ってたんです。オチヨ様の大切な物だって知ってたのに……。これ、お返しします。受け取ってください」

「そうだったのか。でも、オラは直接それには触れないから、鯨女神社の本殿に戻してくれないか? そしたらオラはまた眠ることが出来る」

 素直に諾人は頷いた。

それを確かめると、オチヨは柔和な笑顔を最後に浮かべると、すぅっと消えていってしまった。

「諾人くーん!」

 振り向くと、町の方からタオが砂浜を走ってこちらに向かっていた。その後ろからタオの父親も走ってきた。

「タオ……どうして?」

 タオは息を切らしながら、鬼気迫った顔をして、

「ホントはもっと早く来てあげたかったんだけど、ちょっと避難所でトラブルがあって……それより、早く車に乗って! もういつ地震が来てもおかしくないの」

 と催促すると、父親が諾人に、

「お前、男の人のこと刺しただろう?」

 と言い放った。諾人はそれには答えなかった。

「お前の母親が心配で、部屋まで行ってみたら男がうずくまってうめき声をあげているから青ざめたよ。応援を呼んで、その人は別の人間に神浦の避難所まで運んでもらった。その男が二人が海にいるって教えてくれたんだ。二人は鯨女神社の避難所まで来い」

 タオは、カオリの側にしゃがみこんでその様子を見た。

「お父さん! 諾人のお母さんも刺されてる!」

 勇一郎は諾人のことを睨みつけて、

「お前、母親のことも刺したのか。話はあとだ、とりあえず乗れ。暴れるようなことはするんじゃないぞ」

 というとタオと一緒に呻くカオリを車まで運んだ。諾人は、姿を消してしまったオチヨがいた場所をしばらく見つめていたが、車へと歩き出した。


 神浦から安室への車中、カオリが「痛い!」と悲痛な声を上げていた。タオが励ますようにカオリに声かけをしていたが、勇一郎と諾人はずっと無言のままだった。

 鯨女神社まであと三分ほどで着く道で、急に揺れを感じた

「揺れてない?」

 とタオが言った。勇一郎も違和感があったのか、ブレーキをかけ車を停めた。

「揺れてる……本当に地震が来た」

 と勇一郎がそう呟いた。タオがカオリを見ると、明らかに動揺を隠せない様子だった。

 それから、どん、という衝撃音と共に大揺れが来た。身体を真っすぐに保てないほどで、周りの木々も揺れ、電線はブランコのように大きく揺れていた。

「やばいな。普通の地震じゃないぞ。オチヨ様の予言の通り、大きな津波が来るな」

 一分ほど揺れが続いたとき、後ろから轟音が聞こえて、バックドアガラスを振り返ると、それほど離れていない場所で土砂崩れが起きていた。全員が言葉を失った。あそこで止まっていたら間違いなく巻き込まれていた。

 ようやく揺れが収まると、

「長かったな。早く鯨女いさめ神社に向かおう」

 といって走り出した。

 鯨女神社の石段の前に車を付けると、勇一郎がいち早く降りて、上に向かって叫んだ。

「おーい、誰か男来てくれ! けが人がいるんだ! 一緒に運んでくれ!」

 漁師が何人か降りてきて、車からカオリを出して上へと運んだ。地震が起きて初めて津波への警戒心が出たのか、新しく避難してきた何人かの住民も石段を上がっていた。

「おい、お前らも早く境内まで上がれ!」

 と勇一郎に急き立てられ、タオと諾人も石段を上がった。気が急いているのが自分でもわかった。

 境内では人々が騒然としていた。それまで半信半疑だった住民も狼狽しているのが、顔色からも窺えた。

「ホントに津波が来るのか」「どうしよう、犬置いてきちゃった。車も……」「家には戻るなよ。いつ来るかわからないぞ」「とにかくここにいれば安全だ」

 人々の声を耳にしながら、その間を縫うように本殿の半ばまで進んでいった。そこへ何人かの老人に声を掛けられた。

「羽刺さんの言う通りだった。事前に教えてくれていなかったら、私たち老人は逃げ遅れて津波にさらわれるところでした」

「えぇ、オチヨ様が教えてくれなかったら、今頃私たち慌てふためいていたでしょうね」

 本殿の前には多くの住民が両手を組んで祈りを捧げているようだった。その中には鯨女教の信者ではないであろう若い人間も混じっていた。タオに話しかけてきた老人も本殿に向けて手を合わせた。

「オチヨ様が姿を現した時、本当の祟りの終わりだと聞きます。オチヨ様、どうかお姿をお見せください」

 タオはその言葉にうろたえてしまった。

「津波はオチヨの祟りじゃないですよ。オチヨの祟りだったら、わざわざ私たちを助けるために教えてくれるわけないじゃないですか」

 だが、その言葉は老人には聞こえないようだった。タオには、そこで祈りを捧げる人間たちが不気味に見えた。オチヨという少女に多くの大人たちが縋っているような、そんな不気味さだった。

 周りを見渡していると、境内のベンチに立って太一が周りの様子をビデオカメラで撮影していた。その姿は不謹慎ながらも、相変わらずな様子に返って安心を覚えた。とにかく、多くの人がすでにこの避難地にいる、誘致は成功したと肩の荷が下りた気がした。

 地震が起きてから二十分後、沖合が盛り上がるのが確認できた。その大きな波が陸へと近づき、轟音と共に陸にあるすべての者を呑み込んでいった。それまで人々が作り上げてきたあらゆる建物、車、船、それから草木がなぎ倒しては陸地の半ばまで押し寄せてきた。

 人々は「なにこれ」と言い続けた。目の前の光景に頭が真っ白になり、言葉を失うのを通り過ぎて、無意味でもなにか言葉を吐き続けた。

「私の家が」「車が流されてる」「俺の車終わった」「これは本当? 夢じゃないの?」「すべてが終わった」「全部流されてる」

 あらゆる言葉を無に帰すほど、自然に起きた超絶的な力が人々からなにもかもを奪っていった。それは到底人間には太刀打ちできないものだった。波は、本殿へ続く石段の半ばまでせり上がって引き、町があったはずの場所から何もかもを海へと引き込んで去った。後には町の残骸だけがあった。

 その様子を目の当たりにしながら、タオは震えることしかできなかった。

(本当になにもかもなくなっちゃった……私たちの島が、壊された)

 いつの間にか隣に立っていた勇一郎が誰に言うともなく言った。

「……本当になにもかもさらわれてしまった……俺たちの祖先が残してくれていったもの、俺たちが作ったもの、本当に全部だ。だが、タオとオチヨ様のお陰で人だけは残った。人間が残っていれば、また新しいものを作ることが出来る。俺たちは死ななかったんだ。生き残ったんだ」

 そしてタオを肩で抱き留めるように引き寄せた。タオは「うん」と短い返事だけをして、町の残骸を見つめていた。

 群衆の中から、

「おい、あそこに小さな女の子がいるぞ」

 と声が聞こえた。その声に呼ばれるように、本殿に向かって祈りを捧げていた人々も境内の淵に集まってきた。

「本当だ、逃げ遅れたのか? どうしてあそこにいるんだ」

「裸じゃないか」

 人々が見ている先をタオも見た。

「オチヨだ……」

 とタオが呟くと、人々はざわめいた。

「オチヨ様だって?」

「本当かい、羽刺さん?」

 津波でなぎ倒されたバンタイプの車の上に、透明な肌を持った少女が立っていた。オチヨがすべてを呑み込んだ海をそこから眺めていた。

 その時、花のような乳房のような甘い香りが立ち、どよめきが立ち、ついに人々はオチヨと邂逅かいこうを果たした。

「今まで嗅いだこともないような独特の甘い匂いだ。言い伝えの通り、オチヨ様が姿を現すとき、甘い匂いが漂ったと聞く。あのお姿は、まさしく、オチヨ様だ」

 声のする方を向くと指田だった。指田はそう言うとオチヨの方角に向かって手を合わせた。その場にいた全員がそれにならい、手を合わせた。だが、タオだけは合わせなかった。そこに立っているのが神様ではなく、一人の少女だということが分かっていたからだった。それで、目のやり場もなく後ろを見てみると、諾人が本殿へと向かっていた。タオは駆け寄って尋ねた。

「何しているの?」

 諾人の手元を見ると、鯨の骨の櫛を握っていた。

「うん、これをオチヨ様に鯨女神社に返すように言われたんだ。大切な櫛なのに、今まで隠すように持ってて本当に悪かったよ」

「うん、それがいいよ。オチヨ、ずっと探してたから」

 諾人は頷くと神妙な面持ちでタオに教えた。

「それより、気が付かないか。津波が去ってから、神様とは違うような、この世にいないはずの存在をあちこちに感じるんだ」

「私、祟られてからわからなくなっちゃったから。そんな雰囲気があるの?」

「うん、それがなにかはわからないけど、この世界に紛れ込んでしまったような、そんな感じ」

 その言葉を聞いて、タオはオチヨの言葉を思い出した。

――自然が大きく動くときは、生の世界と死の世界の境がゆるくなるんだって、島の神様に聞いたことがある……。


 オチヨは横倒しになった車の上に立ち、海を眺めていた。もう瓦礫しか残っていない陸地からは海が容易に見渡せた。四百年前、同じような景色を目の当たりにしたことがある。人々が住んでいた村が跡形もなく消え失せ、その残骸だけが広がっていた。そして、目の前で母親が津波に呑まれてしまったことも、オチヨは思い出していた。

(海はまたなにもかもを呑み込んでしまった。いつもは穏やかで、生き物に住処を与え、人々にも恵みを与える海が、どうしてこうも恐ろしい姿に形を変えてしまうのだろう。そしてまた海は、いつもの穏やかな姿に戻ろうとしている)

 海と対峙しながらそんなことを考えていると、胸のあたりに違和感がわいてきた。

(この感覚は……そうか、櫛が鯨女神社に戻ってきたんだ。あの男の子が戻してくれたんだな。これでやっと、また眠りにつくことができる)

 そう思って、また姿を消そうとすると、遠くからオチヨの名前を呼ぶ声が聞こえてきた。

「オチヨぉ」

 振り向くと、瓦礫の上を歩きながら誰かがこちらに向かって来ていた。女の人の声だった。

(誰だ? タオに声が似てるな)

 訝し気にそちらの方をずっと見ていると、その人はオチヨの名前を連呼しながらだんだんと近づいてきた。背格好はタオに似ているが、近づけば近づくほど違和感が強くあった。

 オチヨは車から飛び降りて、その人が来るのを待った。

 オチヨの側にその人が来た。顔はタオそっくりだが、雰囲気が違う。その人はオチヨの視線に合わせるように腰を屈めると、愛おしそうにその頬を撫でた。

「どうしてオラに触れるんだ?」

 その人は涙を流しながら、オチヨに語り掛けた。

「オチヨ、ずっと会いたかったよ。わからんか? 母ちゃんだよ!」

「母ちゃん?」

 オチヨは信じられない気持ちでいっぱいだった。父親に殺されてから四百年間、ずっと会えなかったその姿を今目の前にしている。

「やっと会えた、オチヨ! やっと、会えた! ごめんな、ずっと独りぼっちにしてごめんな。父ちゃんから守れなくてごめんな。ずっと抱きしめられなくてごめんな。母ちゃん、お前のこと大好きなのに、父ちゃんが恐くって助けてあげられなかった。いつか父ちゃんもお前のことを大事にしてくれるなんてありもしないこと考えていたら、いつの間にか可愛いお前のことを失くしてた。こんなに長い時間かかってしまって、本当に悪い母ちゃんだ。ごめんな、オチヨ、本当にごめんな」

 オチヨはまだ信じられない気持ちでいっぱいだった。

「母ちゃんなの? 本当に母ちゃんなの? タオじゃないの?」

「母ちゃんよ、オチヨ! オラは本当にお前の母ちゃんよ!」

 ずっと押さえつけてきた感情がわっとわいてきて、オチヨは顔をくしゃくしゃにして滂沱の涙を流した。

「母ちゃん、母ちゃん! 会いたかったよぉ、ずっと会いたかった! 抱きしめてよ、母ちゃん!」

 幼い赤子のようにオチヨは泣き叫んだ。その姿を母親であるヨネはひざまずいて強く抱きしめた。永い間求めていた肉体の感覚だった。

「母ちゃん! なんでオラのことずっと独りぼっちにしたの? どうして早く会いに来てくれなかったの? 父ちゃんにずっと殴られて本当に辛かったのに! 冬の海は冷たくて痛かった! 誰も助けてくれなくて、オラは独りぼっちで死んだんだ。誰にも触れられず、誰と話すこともできないで」

 味わった責め苦を訴えると、ヨネも泣き叫びながら謝ることしかできなかった。

「ごめんよ、オチヨ! 堪忍しておくれ! 母ちゃん、お前のこと助けられなかった! 堪忍しておくれ!」

 そして抱きしめる力は一層強くなり、泣き声も一層大きくなった。

「ずっとこうしてお前のこと抱きしめたかった! オチヨのキレイな黒い髪撫でたかった! でも海の底に沈んでしまって、神様に呼ばれてたのにどんなにもがいてもでることが出来なかったんだ! オチヨのいい香りがする、昔と変わらない甘くていい香りだ。オチヨは赤ちゃんの頃から、お乳のような甘くていい香りがしたんだよ」

「母ちゃん、オラもわかるよ! 母ちゃんの匂いがするよ。母ちゃんからは海のいい匂いがした。海の匂いに、甘い香りが混じったような匂いだ!」

「オチヨ、長いこと待たせてごめんな。これからは母ちゃんとずっと一緒にいような」

「うん、オラ、母ちゃんとずっと一緒にいたいよ。今度はずっと一緒だからね、母ちゃん」

「うん、うん……これからは、ずっと一緒よ」


 オチヨとヨネは射してきた光に包まれると、泡のようにたち消え、一筋の光になって空へと昇っていくのを人々は目にした。

「オチヨ、お母さんに会えたんだ……」

 とタオもその様子を眺めていた。人々はどよめき、異口同音にオチヨの名前を呟いた。

 そこにいる人々は、甘い香りが立ち消えたのを感じながら、それぞれにオチヨという一人の存在のことについて思いを馳せていた。


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溺れる櫛 ーオチヨと鯨の物語ー カブ @kabu0210

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