混線と冷笑

草森ゆき

concentration


(――疲弊した頃合に私は森羅万象を悟ったのだ。接続しているとは即ちコンセントレイション――五感を高ぶらせた結果の第六感――なのだと、眩しい程の青空を仰ぎながら悟ったのである。)

「混線と冷笑 深戸緑之介」



 わだかまった糸くずを伸ばす仕草がワンランク上のものにのみ許された日は近いながら遥か彼方で、お前まだ繋がってないんだあ、と浴びせられる見下しと冷笑に侘び寂びもクソもない、こんな日常が終わる日また別の渇望が始まった。さて俺の元に現れた紙コップには赤い糸が続いていて、それはそれは延々と続いていて、どこまで続いているのかはこちらからでは一切わからない有様だった。ひとまずからっぽの紙コップ、の、底にめがけて声を吹き込んだ。返事はあった。ショウくん、と俺の名前を正しく呼んだ。覚えがあった。フミだった。榎本正史。小学生の頃の知り合いだった。

「フミじゃん、なんで?」

 俺の素朴な疑問にフミはあははと笑った。なんだかどれもこれも昔のまんまで俺は楽しくなってきた、紙コップを引き摺りながら出勤して同僚にやっと俺も繋がったんだわと話しかけて、同僚はこれまた紙コップに向かってなにかを話していたのだが、俺の言葉にさっと振り向きやっとかよー遅かったなーいや平泉もやっと繋がったらしいんだわーと、口元に紙コップを当てながらやにわに喋って喋って、紙コップの底に続く青色の糸を人差し指でぐるぐるぐるぐると巻き取っていくとそのうち飽きたようにさっと解いた。同僚の背後を紙コップを耳に当てながら笑う後輩が過ぎっていった。デスクの下にはさまざまな色の糸が落ちていた。絡まりあっていた。俺はそれらを見つめていた。地球上は混線していた。部長がポケットの中から伸びる糸を手繰り寄せながら朝礼! と体育会系に叫んだ。始業後みんなコップを手放した。俺も手放して、仕事をした。窓の外は晴れていて青空が冗談のように広がっていた。たぶん冗談なのだった。

「つうかマジで、紙の相手を変えたりできねえってさ、デリヘルみたいにチェンジとかあればいいのにな」

 昼休みの間、俺は卵のサンドイッチをがりがりと齧りながらあちこちで聞こえる話に耳をすませた。

「デリヘル、あんたそんな言い方しないほうがいいんじゃない」と女の声。「いやでも中井だって思うだろ? マジでおまえの紙相手が誰かしらないけどさあ」と不平不満の男の声。「でも紙が決めてるんだから仕方ないんじゃないの。どうせ会えるわけでもないんだし、見えないところでやるぶんにはなんだってフリーなんだから。ていうか歌野、あんた今日もパン? 馬鹿じゃん、ほらこれ」野菜ジュースはどのくらいの栄養価が約束されているのだろう。「マジでさあ!」マジでは口癖か。「歌野そういいつついっつも紙コップ覗いてんじゃん、大事にしてるってことでしょ、それならそれでいいんじゃないの」「話は毎日するよそりゃ、糸が震えれば相手するもんじゃん」「たまに無視するよ、あっちもたまに無視してくるし。節度でしょ、節度」「セツドとかリンリとかドートクとかそういう?」「そういう。野菜ジュースうまい?」「ありがと、くっそまずいよ」呼び出しの放送が鳴り響く。平山さん平山さん、至急二階会議室に……。「でも覗いてもからっぽっていうか、ほんとにあっちに誰かいんの? ってマジで思うんだよね、思わない?」「そりゃあ思うけど、でも糸辿っていくの法律違反だし」法律ねえ。「法律ねえ」歌野が俺とリンクした。別のテーブルでどっと大きな笑い声、それから

「法律ねえ。でもそんなことよりあれでしょあれ、なんとか緑之介? が書いたっていうわっけわかんねえ昔話。足首に結ばれた不明の赤い紐がさあ、つうかこれマジで小学校のとき暗記させられたから空で言えんだわ。聞けよ中井。私は凡そ空虚であったが、足首を篭絡せしめんと巻きつく紅紐に感じ入った瞬間に、途方も亡き幸福に襲われたのである。ぐいと引けばぐいと引かれ打ち震えたのだ。遥か彼方の亡羊に、たった一指しの光明を見出した。縁の所在に涙が流れて私は旅立つ準備を行う、紅紐の先に私の運命が待ち受けている。さもありなん、何故母も父も教えてくれなんだか、それはこの僥倖を、天啓せしめんとするための……」

 昼休憩終了のベルがすべてを塗り潰すように鳴る。ばらばらと移動する職員に混じって中井と歌野も移動する。俺は齧り付いたままの体勢で止まっている。即座に飲み込んで滑らかな卵ペーストをマヨネーズ入れ過ぎだなと思いながらペットボトルの蓋を開ける。ショウくん。上を向けて置いていた紙コップが喋る。ショウくん、卵おいしい? あんまりおいしくはなかったな、と心の中で呟くとフミは笑った。職員がぞくぞくと食堂から去っていく。閉め損ねた蓋が床に転がって、そこには無数の糸がとぐろを巻いて混線している。青色、黄色、白色、茶色、黒色、色、色、色、赤色、は、俺の糸だった。



 小学生の頃だ。俺はいわゆる都会っ子だったがフミは違って、祖母がいるクソ田舎に渋々引き摺られていく夏休みや冬休みによく会い、よく遊び、日々を共にした相手だった。大人の用語で言うならフミは俺の団地妻だった。子供で言うのなら、やっぱり団地妻だったと思う。それも抜群に都合のいい。フミの家はほとんどいつも両親が不在で、古びた日本家屋の中は広いのに無音でフミはひとりぼっちだった。俺はフミの家に入るとはじめに仏壇に寄った。ちぃん、と間抜けな音を立たせながら仏壇の鐘を叩いて両掌を合わせてみた。おばあちゃんはおれが五歳の頃に死んだんだよ。フミは訥々と話した。でもお爺さんの遺影しかないな。俺が言うとフミは頷いた。おばあちゃんはおかあさんが殺したの。俺を自分の部屋に招きながら更に話した。でもどっちでもいいんだ、あんまり変わらないからさ。フミは読めない顔で笑う。笑うときになぜか目を閉じる。一重の重たいまぶたの奥で、丸い眼球が探し物でもするみたいにゆるゆる動く。

 田舎の夏はクソだった。とにかく暑いし、虫が至る所にいた。真っ青な空にぶんぶんと蝉が飛んでいた。蛆が固まった壁に寄りかかりながら、フミは都会の話を聞きたがった。都会は都会でずいぶんなクソだったが、コンクリートの壁とごった返す交差点と濁った大気は最悪でもそれらの合間に浮かんだ青空だけはどこにいようが変わらないと話した。フミはにこにこしながら話を聞いて、ショウくんはいいねえ、なんてそれほどいいと思っていないように言うからたぶんこいつは同調っていう処世術をすでに会得していて誰相手だろうが適応されてそれがすなわち、両親がほとんど不在でおばあちゃんがおかあさんに殺されたなどと言い出す治安の原因なのだろうが団地妻扱いをしている俺からすればお前は可哀想だなとこっそり思うだけに留めるしか特に手立てはないし深入りもしたい話ではなかった。

 団地妻こと榎本正史は俺がいない、休み期間ではない間、どうやって過ごしていたのか、まるで知らなかった。中学生に上がる頃には会わなくなったし、今こうして紙コップ越しに声を聞いてみてもまさかこんな形でまた話す日が来るとはと驚いたし、団地妻は団地妻、都合よく小学生の俺の暇つぶしとして消費された相手が運命の名前の下に紙相手となるなんて、不思議を通り越してどうにも不気味で仕方がなかった。



 部長が出奔した。なんでも糸を辿る人生を選んだらしい。法律で禁止しているのが問題なのだ。そう喋る中井は紙コップの上を掌で塞ぎながら歌野の耳元で何かを話し、深い部分を共有しているような含み笑いで部長の悪口を言っていた。糸を辿る人間は後を絶たない。糸を辿ってこそ人生という宗教団体もいる。神様ではなく紙様を祀っている。わからなくもない。俺も知りたい。紙コップの相手の所在っていうか、構造を。

「なあフミ、お前は今どこにいるんだ?」

 何も入っていない紙コップの底から声が溢れ出して来る。

「どこにって、どこかにはいるよ。ショウくん、来るの?」

 そうだな。そうしてもいいけど。そうしなくてもいい。でも気になってはいるんだ、なんでお前が俺の相手なのかって。

「じゃあおいでよ。待ってる」

 紙コップ越しにフミは無責任に言う。ので、俺も無責任に出発する。会社では多分平泉が部長に触発されて出奔した、あいつ紙くんの遅かったもんなあ、そりゃ仕方ないんじゃない、でもいいんじゃないか、いいとおもうよ、かわりなんていくらでもいるしはいてすてるほどいるし紙相手がいちばん大事だってなったなら関わらなくてもいいんじゃないって、色々言われているんだろうが好きにしてくれ。

「ショウくん」

 底から常に声がする。「ショウくん、小学生の頃楽しかったねえ」そうだったかな。「おれの家すきじゃなかったでしょう」ああ、気付いてたのか。「勘で聞いたよ、ショウくんに話しかけるときはいつも勘だった」なんでだよ。「なにを考えているのかわからなかった、おかあさんよりおとうさんより、おばあちゃんよりわからなかった」お前の母さんが婆さんを殺した話、してくれ。「前にもしたと思うけど」してくれ。「忘れたの」いいからしろよ。「うん、いいよ」

 ビルとビルの合間を抜けて、ゴミだめの路地裏を抜けて、垂れ下がった赤い糸が、からっぽの赤い糸が延々と続いている方向を目指して歩いた。人の群れを抜けた。振り返ると夕暮れの空があり、その手前に突き出したビルディングの黒い影は簡単にへし折れそうに見えた。「ショウくん」とフミは前置きのように話した。

「おれのお母さんとお父さんはとても仲が良かったんだ。だからお婆ちゃんとお母さんは仲が悪かった。お父さんは一人っ子だったし、お婆ちゃんは旦那さんにあたる……おれのお爺ちゃんか、お爺ちゃんをはやくに亡くしてたから、お父さんを育てて大事にして手元に置いておくのが、たぶん、からっぽの人生の中で一番重要になっていたんだ。わかるかな」

「うん、わかる」

「良かった。それでね、ゲホッ、ごめん空気薄いんだ、それでね、お父さんを盗ったお母さんが、やっぱり嫌いだったんだと思うんだ。おれはそれを……子供ってけっこうバカだけど、でも大人の皮肉とか悪意とか、気付くじゃないか。お婆ちゃんはお母さんに似てるおれをかなり嫌いだったし、あの子に似てれば良かったのにって、お婆ちゃんの言葉でいうならほんににくらし顔で生まれよって気休めにもならん、なんだけど、もしかしたらこれおれがおかあさんと同じ標準語で言葉覚えちゃったから余計だったのかもしれないねえ。それで、ええと」

「お母さんもお婆ちゃんが嫌いだった?」

「うん、そう」

 そうだよ。そうなんだ。フミは唸るように繰り返してからまた喋った。お母さんはお婆ちゃんが嫌いだった。嫌がらせ、嫁いびりをされてたからだって隣の家のおばさんから聞いた。お母さんはお婆ちゃんの足腰が使い物にならなくなって介護しなきゃいけなくなったときに嫌がった。お父さんはお母さんの味方をした。お婆ちゃんは怒った、それはもう、怒った。家の中でお婆ちゃんはたくさん暴れた。色んなものを投げた。お母さんの頭に茶碗が当たった。血が出て、おれは外に出てろってお母さんに怒られて、星が出てる時間だったけど玄関の前に座り込んで待ってた。星空が綺麗だった。後ろでは叫び声とか物音とか色々していた、けど大きな音がしたな、と思ったら静かになった。お父さんがそのうち帰ってきた。玄関先にいるおれを見てびっくりしてたけど、ちょっと待ってろと言ったからまた待った。流れ星が左から右にするっと流れた。三回願い事を言った。しばらくしてお父さんが出てきた。入りなさいって言われて入って、ぐちゃぐちゃの家の中が怖かったけどお婆ちゃんとお母さんはって聞いた。お婆ちゃんは死んでた。お母さんは、台所の床にぺたんと座り込んでいた。手は赤かったけどそれはどうしたのっておれは聞けなかった。その日からいろんなことが変わったんだ。どっちも全然家に帰ってこなくなっちゃった。それで、そうか、そのあとに、ショウくんがよく来るようになったんだ、ショウくん、平泉翔太くん、おれの友達。おれの逃げ場。それからおれの「フミ」

 星空が見えていた。歩き続けて疲れていた。草原のようなところに立っていた。どこかはわからないが多分なにかの空き地だと思った。家の数が少なかった。俺はとりあえず、座った。りんりんと虫の声がした。紙コップを覗いてみると底には薄いくらがりが煮凝っていた。

「寝るよ。おやすみ」

「うん、おやすみ、ショウくん」

 俺は転がって目を閉じて、寝ている間に紙コップを踏み潰したらどうなるだろうなと考えながら眠りについた。



 紙コップがあらわれたのは俺が中学生の頃で、瞬く間に世界に蔓延して誰も彼もが紙コップと糸を携え先にいる運命と会話をして日々を過ごす日常を義務付けられた。そういう法案はけっこう前から議論されていたのよと言ったのは確か従姉妹のフェミニストだったし、彼女は紙相手が女性であると知って一瞬凄い顔をしたが許容しなくてはならないと言ってから、翔太、あなたも紙相手がセージニンとセーシュコウとチガッテイテモドウニカコウニカウンヌンカンヌンとまくし立ててその時点でかなり女を嫌いになった。男が好きなわけでもなかったが、女よりはだいぶマシだと思った。

 糸があちこちに広がって伸びていた。引っ掛かって転んだりはしないので不思議だった。ごろごろと転がる糸の群れが、人類が繋がっている証左なのだと政治家は話した。母親と父親も、お互いではない紙相手とよく会話をしていた。早ければ高校生にもなれば紙コップがあらわれるのだがおれのところにはまあ来なくて、両親ともに思い切り見下した視線を寄越しながらへっ、と息だけで笑った。一人前というか成人というかなんらかの「大人」という、格が上だという事実を仮託するための物体が、たぶん紙コップだった。問答無用で自分と繋がる他人が社会こと世界と、なんなら宇宙と繋がっている証なのだと道徳の時間に教わった。なるほどと思った。高校になれば更になるほどと思った。糸を手繰り寄せ或いは摘んで均すように伸ばして、へえオマエまだ紙相手いないの、なんてマウントが横行していたからなるほどと思った。「それは大変だったね」モノローグに割り込んだフミはけらけらと笑った。なにか鼻歌を歌って、深戸緑之介って知ってる? と言い出した。昔の作家だ。空で言えると喋り始めた同僚の話をした。フミは笑った、いつも笑う。やけくそなのか嘲笑なのか、それとも感謝なのかもしれなかった。

「糸の話はもっとたくさんあるけどね。有名なのはほら、芥川龍之介の蜘蛛の糸とか。逸話にあるのが運命の赤い糸、それを土台にしているのが」

「深戸の混線と冷笑だろ」

 そうだよ。フミは手を叩く。パチパチパチパチとコップの底で細かい破裂音が振動として伝わってくる。

「まるで今の社会だね」

 それはそうだと思う。ということは今の社会は深戸の考えた世界が体現された世界なわけだった。でもそれに関しては違うとフミは言う。赤い糸がゆらゆらと揺れる。先はまだ見えない、俺は糸の奥、見える限りの奥を覗って森の方向に続いていると確認してからそうかこれはこいつの、フミの住んでいたクソ田舎に向かっているのかそりゃそうだなと納得する。目を転じると糸がいくつも見える。誰かの紙コップと紙コップを繋ぐ糸は緑色で、風にそよいでふらふら揺れている。

 また歩いた。山なんてない人工の大地からやってきた俺は、深い影を落とす山脈に郷愁はあまり抱かない。あれらは俺のものではなかった。たぶんフミのほうが近い。

「ショウくんはおれをよく見てたよね」脈絡のない言葉が紙コップから飛び出す。

「そりゃな、お前しかあそこにはいなかったし」

「うん。おれの家の中で、おれたちは色々したよねえ」

「そうだな」

「田舎はだめだよ」

 ふっと声のトーンが下がった。呼応するように雲がかかって大地に影が張り付いた。

「お母さんとお父さんはお婆ちゃんが事故で死んだってことにした。たぶん、そうなんだと思う。それで、あそこは田舎だから、みんなうっすらでも勘付いてたんじゃないかな。でも秘匿した。田舎だから。そんな恐ろしい事件があるわけがないってみんな思った。それでお父さんとお母さんはクソ田舎に耐えられなくなっちゃったんだろうね、帰ってこなくなって一人息子をほっぽって、どこでなにをしているのやら!」

 あはは! と笑い声が続いた。無邪気極まりなかった。

「フミ。もうじきお前の家につきそうだよ」

 話の腰をわざと折ったがフミは気にした様子もなく、早かったねえ、と間延びした声で言った。紙コップが話しているように思えてきた。なにもない紙コップの底。空虚な底。田舎だろうが、糸があった。人を繋ぐ糸だ。古びた家はほとんど隣接していない。間には草むらや田んぼや荒れ果てた畑があって、人の気配はかなり少ない。糸の通り道だった。俺は俺の糸を手繰った。まっすぐに、フミの家を目指していた。終わりは近かった。ゆっくり歩くことにした。フミの笑い声がコップの底からまだ続いていた。ショウくんもうすぐ会えるね。紙相手と会った人がどうなるかショウくんは知っているの。「知らないな」じゃあ混線と冷笑を最後まで読んだことがあるの。「それはある」あるんだ。「あるよ」どうして?「覚えてないのかよ、お前の部屋にあったんだよ。だから読んだ、ほかにやることと言ったら」おれ遊ぶくらいだもんね。

「そういうこと」

 フミの家をずいぶん久し振りに見た。赤い糸は、団地妻が住んでいた古い日本家屋の奥へと続いていた。広く取られた庭には茫々と草が生えていた。手入れをする人間はいなかった。かなり前からいなかった。庭へとまず足を向けた。膝から太腿辺りまで伸びた雑草は俺が進むと左右に分かれた。意思があるような分かれ方だったがそう見えただけだ。三輪車があった。横倒しになっていた。錆が全身に広がってサドルの布地は破けていた。なにかのキャラクターが書かれていたらしいが判別できなかった。ばちゃん、と音がした。蛙だった。池はなかったと思うのだが庭のすみ、転がった三輪車の奥にそれなりの水溜りが出来ていた。黒い糸が浸かっていた。糸の先は塀の向こうまで続いていた。「あ、その水溜りお婆ちゃん」フミの問題発言に納得をした。仏壇にはお爺さんの遺影しかなかった。ということは、そういうことだった。水溜りに近寄った。赤茶けた泥水の中に浮かぶ灰色の塊を視認してから踵を返した。糸は家の奥を目指していた。土足で家に入った。埃だらけの泥だらけの家に土足以外で入る選択肢はなかった。

「話の続きなんだけどね」フミは話した。「混線と冷笑の一番最後は主人公が赤い糸の先が奈落に続いていると知って、喜ぶでしょ」私の全身を巡る歓喜は足首に絡みついた紅紐を見つけた時以来であった。「それから、ためらいなく深い穴の底に飛び込んでいく」この奥には総てがあるのだと感覚的に理解した。「後ろ向きに、倒れ込むように……」私は大空を仰ぎ見て感嘆の溜息を零さざるを得なかった。「主人公は奈落に溶けていって、そこで終わり」広げた両腕には青空が飛び込んできたのであった。「なんで主人公は喜んだんだと思う?」フミは含み笑いをして、俺は一番奥の部屋の前に立つ。

 扉を開け放った。俺の足元で赤い糸がふわっと揺れた。それを視線で辿っていくとわだかまっていた。お前あれからずっとここにいるのかよ。返事が紙コップの中から来た。赤い糸は薄汚れた部屋の壁に寄りかかっている白骨死体に繋がっていた。胴体にぐるぐると巻かれた糸はそのまま窓を飛び出していた。白骨のフミに近付いた。一歩踏み出すと埃が舞って床が軋んだ。おもちゃが散乱している部屋の中には本棚があった。混線と冷笑の文庫が一角に刺さっていた。引き抜いて丸めながらポケットにねじ込み窓の外を覗いた。真っ赤な糸は真っ青な空に向かってまだまだ伸び続けていた。

「そういう仕組みか、これ」

「うん、そういう仕組みなの、これ」

 紙相手と会った人がどうなるのか知ってるの。フミは前にも言った質問をまた口に出す。俺は紙コップを床に置き、白骨死体の隣に座った。昔によくした座り方だった。混線と冷笑を開いた。ばらばらと捲って最後のページまでやってきて、「ショウくんがおれの紙相手なのは偶然なんだよ」フミが喋るので脳が文字を拾えない。「ランダムなんだ、でも面白いよね。ショウくんがはじめに来たころ、おれは絶賛ひとりぼっちでなにもすることがなかったから、お父さんもお母さんも帰ってこないし夏休みだったから、壁によりかかっておなかすいたなあって思っていたんだけどおなかすいたなあって思うのはおなかがすいたまま死んだからなのかもしれないね。ショウくんはおれで色々遊んでくれたからうれしかったよ。色々刺したり、蹴ったり、笑い飛ばしたり、転がしたり、絵にかいてみたり、ねえ都会の話聞かせてってお願いしたらしてくれたし、ショウくん、きみはおれを友達だと思ってた? どっちでもいいよ、どっちでもいいけどおれが死んだのはたぶん誰のせいでもなかったな。本、読んでも良いよ」

 主人公は奈落に向かって落ちていった。とても幸福そうに落ちていった。目の前には清々しく青い空が広がっていた。目を閉じた。暗転した。それで終わりだった。発行年数とその他の著書が記された文庫本には解説もあとがきも存在していなかった。深戸自体存在していないんじゃないかと思った。教科書にも載っていたこの話の作者はどこにもいなくてこれは、今の世の中を肯定するためだけに作られた啓発なんじゃないかと思った。だからといって、俺がどうするかなにをすべきかなんてものは俺以外の誰かが考えるようなものではないし、ひとまず白骨死体の膝の上に混線と冷笑を放り出して立ち上がった。窓を開けると風が吹き込んできた。田舎は空気だけは澄んでいた。人の臭いがなかった。青空の匂いは緑の匂いに混じって届いた。赤い糸が上に向かって繋がっていた。奈落とは空虚とは、空にあるものらしかった。

「紙相手と会った人がどうなるか、じゃなくて、紙相手に会おうとした人がどうなるか、ならなんとなくわかった」

「うん、大体失敗しちゃうからね」

「ジャックと豆の木みたいだな」

「どんな話だっけ?」

「忘れたよフミ。それから俺がお前を友達だと思ってたか、だけど」

「うん」

「お前のことは団地妻だと思ってた」

 間があった。ばたばたと鳥が飛び立つ音が響いた。遠くに見えていた大きな樹から、カラスのような鳥が数匹離れて羽ばたいていった。フミは急に笑い出した。呼吸困難になるんじゃないかってほど笑って、笑って、笑いつくして、「ああショウくん! おれを人間だと思ってたのはきみだけなんだね! 両親もお婆ちゃんもおれのことなんかちっとも見てなかったのに、あはは、あっはっはは、そうなんだ、じゃあやっぱりこれは、紙相手がショウくんだっていうのは、神様の思し召しってことなのかな!」紙やら神やらややこしかった。フミは可哀想なやつだなと呆れてしまった。空に続く糸が合わせたようにぶらぶら揺れた。「さあどうするの」見えているらしくフミは聞いてきた。「でも実際、空に向かおうとして落っこちて死んだら、こっち側にはなると思うから、それでいいならそうすればいいと思うけれど」ふふ、と笑い声が挟まった。「どうする? ショウくん。そこからとべるよ」

 赤い糸を指に巻き取った。数回ぐるぐると指に巻き付けて、たわみがなくなるまでぐるぐるとぐるぐると巻き続けた。ぴんと張り詰めてから巻き取るのをやめて一度息を吐いた。フミは黙っていた。俺は紙コップを拾い上げて相変わらず空々しいからっぽ極まりない底を覗き込んでまずバカじゃないのかと言った。

「さよならだよ、フミ」

 来てくれてありがと。フミの言葉を聞いてから赤い糸をぐんと思い切り引っ張った。巻き取った糸がぎりぎりと指に食い込んだ。かなり痛かったがどっちが千切れるかは運頼みにしようと決めながら更に引っ張って、そのうち赤い糸に赤い雫が伝い始めていてえなクソがという罵声を飲み込んだ直後、ばつん! と大きな破裂音が響き渡った。同時に俺の中指は落っこちた。転がって、白骨死体の足元で止まった。糸も切れていた。空から繋がっていた糸は数秒空中をゆらゆらと彷徨っていたが、そのうちにふっと見えなくなった。それっきりだった。だが足元に紙コップだけは残っていて、俺は無事な左手で紙コップを拾い上げた。フミ。呼びかけには無言が返った。溜息を吐いて、転がっている指を拾い上げた。切れた指の先からはとめどなく血が流れ出していて白骨の上にだらだらとこぼれていた。糸が千切れた瞬間、あっちからも引っ張る力が加わった。じゃあそれはそういうことだった。ほぼ見殺しだった俺をフミは特別憎んじゃいなかった。それだけわかればもういいんじゃないかと言えてしまった、繋がりっていうのはそういう話だろうって納得できてしまった。法案を可決したどこかの誰かにはわからなかったし可視化されたこそではあるともわかっていたが、ともかく俺はこれでよかった。

 からっぽの紙コップの中に、ちぎれた指を投げ込んだ。俺の指は第一関節をひくひくと動かしていたがやがて止まった。痛みが段々強くなっていった。思わず笑った。冷やかな笑い声が出た。紙相手だろうが神相手だろうが俺の知ったことではなかった。集中する。痛みがなくなるように集中する。空は今日も青い。糸は今日もあっちとこっちを繋げている。集中する。馬鹿げた未来にありったけの祈りと呪いと、指一本分の悼辞を込めて、プライドの数だけ増え続ける糸電話に向けて、お前らみんな頭の中身が空っぽなんじゃないのかって思いながら、紙コップの底にゆっくり溜まっていく赤黒い血溜まりを眺め続ける。


 いてえよクソが。

 奈落に中指を捧げた今こそ誰かに吐き捨てる。

 吐き捨てた今、俺は嬉しい。

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混線と冷笑 草森ゆき @kusakuitai

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