第49話 君のことが好きなんだ。

 音無千鶴は有馬真一の腕の中にいた。

 頭の中が真っ白になっていて、今何が起きているのかすぐに理解出来ない。分かっている事といえば、真一の腕の力が強すぎて苦しいという事だけだ。

 いや、苦しいどころではなかった。骨が軋んで、折れるのではないかと思うほどだ。


「──い、痛い! 痛いから放してっ!」

「! ごめん……」


 僅かに焦った声と共に、千鶴を拘束する腕の力が緩む。

 だが、千鶴の体に回された腕が外れることはなかった。


「……そうか、痛いんなら夢じゃないね」


 嬉しそうな声が聞こえてきた。


「夢じゃない?って、誰に確認させてんのよ! 自分の頬でもつねって確認すればいいでしょうが!!」


 痛みのあまり肩を怒らせて見上げれば、鼻が触れるほど近くに幸せそうに頬を緩める真一の顔があった。少し潤んだ瞳をきらきらと輝かせている。千鶴は物凄い勢いで目を逸らした。頬だけでなく、全身が火照る。


「……それで?」


 爽やかな木の香りがする真一の腕の中で、千鶴はもっとも気になっていた事をさり気なく訊ねてみる。

 恥ずかしくて、ついぶっきらぼうな言い方になってしまった。きっと可愛げなど感じなかったに違いない。

 だが、本当に余裕などまったくなかったのだから大目に見て欲しい。


「それで、って?」

 

 まったく千鶴の意図が伝わらなかったらしく、どこか夢の中にいるようなぼんやりとした声で聞き返されてしまった。

 どうやら恥ずかしがっている場合ではないようだ。今を逃しては、真一の気持ちを確認できる機会は無いかもしれない。千鶴は意を決して真一の気持ちを直球で尋ねる。


「……し、真一はどうなの? わ、私は自分の気持ちを言ったよ。私のこと……、その……どう思って……ぐふっ!」


 すべてを言い終わる前に、今度は覆い被さられるように抱きすくめられた。見た目より広い真一の胸に顔が埋まる。


(苦しい……)


 今度は呼吸困難になりそうだった。


「……好き、……好きだよ」


 不意に熱のこもった囁きが星屑のように煌めきながら頭上から降ってくる。

 藻掻いていた千鶴は動きを止めた。


(好き? 好きって言った?!)


 ぶわっと涙が浮き上がって来る。

 いろんな感情が千鶴の心を翻弄した。足に力が入らなくて真一の胸元にしがみ付く。それに気づいたのか、真一が支えるように抱きしめてくれる。そのまま千鶴は逞しい腕に身を任せた。真一の心臓の音を聞いていると、ずっと見つけられなかったパズルのピースがぴったりとはまったような安堵が胸の奥から広がってくる。ずっと千鶴を悩ませていた黒くモヤモヤとしたものが、いつのまにか一掃されていた。

 つと顔を上げれば、真一が千鶴を見つめていた。ついその顔に見とれてしまう。


「君のことが好きなんだ」


 まるで誓うような真摯な声に胸が震えた。真一の澄んだ瞳の中に自分の姿が映っていて、今まで感じたことのない不思議な感覚にくらくらする。ふいに千鶴の体を抱きしめていた真一の腕が外れた。ほっとする一方で、かなり残念な気持ちを持て余しながら、再び見上げた千鶴の頬を、大きな手が包み込んだ。


「お願いがあるんだ」

「? 何?」

「おれの彼女になってほしい」


 こんな声が出せるのかと驚くほど、甘い声でお願いをされた。


「! ……い、いひぃよ」


 噛んだ。

 たった三文字の『いいよ』を言うのに噛んでしまった。かなり恥ずかしい。いろんな意味で顔から火を噴きそうだ。

 だが、真一の眼差しは変わらず甘い熱を含んだままだ。面白がる様子もない。

 

「……キス、していい?」

「!」


 さらにハードルの高い要望に、千鶴は硬直する。既にキャパを超えていた。フリーズした千鶴の姿を見つめていた真一の口角がさらに上がる。


「もちろん、千鶴はお子様だから頬にだね?」

 

 いつもなら警戒すべき変化に気づくのに、千鶴はつい条件反射で、いつものように言い返してしまった。


「誰が、お子様なのよ! どこからでもかかってきなさいよ!」


 ふんと鼻息も荒く応じてしまってから、『しまった!』と紅潮させていた顔を一変させ蒼ざめる。すぐに、千鶴は『間違えました。頬でお願いします』と言おうと顔を上げた。

 だが、すぐさま口に柔らかなものが押し付けられた。真一の唇で口を塞がれたのだ。全身に疼くような痺れるような衝撃が走る。

 息をすることさえ忘れた千鶴を宥めるように、真一は唇を頬へ、そして額へと移動させていく。


「ただいま~」


 突然玄関の方から響いてきた千鶴の母の桜子の声に、千鶴は雷に打たれたかのようにびくっと体を震わせた。思わず真一の体に縋りつき、顔を見合わせる。


「早速、千鶴のお母さんに付き合うことを報告しないといけないね」


 千鶴の額に真一は自分のそれをコツンとくっつけると、微笑んだ。これほど幸せそうに微笑まれては頷くしかできない。

 リビングに入って来た桜子を二人そろって出迎える。


「見て~。キスよ!」

「! キ、キス!!」

「そうよ~。こんなにたくさんのキスをいただいたの! 南蛮漬けにしようかしらね~」

「た、たくさんのキス!!」

「?」


 『キス』という言葉に過剰に反応する千鶴の姿を不思議そうに桜子が見つめてくる。そんな千鶴の背中を真一は落ち着かせるように優しく撫でいる。


「ご報告したいことがあるんです」


 壊れたロボットのようになった千鶴の一歩前に真一が進み出た。その顔に緊張の色を見て取った桜子は少し瞠目した後、すぐにいつもの穏やかな表情に戻し、真一を見守っている。


「今日から千鶴さんとお付き合いをさせてもらうことになりました。大切にします。これからも温かく見守っていただけると嬉しいです。宜しくお願いします」


 お辞儀の見本のような綺麗な角度で頭を下げた真一の後ろで、千鶴も慌ててぺこりとお辞儀をした。


「まあっ! まあまあ!!」


 突然発した桜子の歓喜の声に、二人は同時に顔を上げた。桜子は頬に両手を当て、嬉しそうに目を潤ませて二人を見つめていた。


「すぐに綾芽さんに連絡をしなくちゃ!」

「待ってください! 母へは、直接自分で話します」


 今にも駆け出しそうな母を真一が呼び止めた。少し残念そうにしながらも、桜子は頷く。

 

「じゃあ、お茶をいれるわね? 今から勉強をするのでしょ?」

「はい」

「うん」


 二人はいつものようにリビングで勉強を始める。ギクシャクしていたのは、始めだけだった。


「キノ。ここが計算の順番を間違ってる」

「え? そうなの? ……む、むむむ……これで合ってる?」

「うん」

「……ねえ、どうしてまだキノって呼ぶの? もうキノコ頭じゃないんだけど!」

「キノはキノコの略じゃないよ」

「? じゃあ、何の略なの?」

「君のことが好きなんだ。を略してキノだよ」

「! う、嘘よ!」


 千鶴の頬が一気に赤く染まる。


「嘘じゃないよ」

「だ、だって、小学生の時から呼んでたよね?!」

「うん。ずっと好きだったんだ」

「え? ええ?? ……ずっと?」

「……分からなかった?」

「全然分かんないよ! だって、真一って意地悪だったし……」

「好きな子って、つい虐めたくなるんだよね。どうしてなのかな?」

「どうして? って、聞かれても……、っていうか、それを私に訊く?」

「ぷっ……」


 一瞬噴き出した真一は、その後声をあげて笑った。ぷうっと頬を膨らませた千鶴だったが、真一につられたように一緒に笑いだす。

 どちらともなく見つめ合うと、真一が声を出さずに口を動かした。


 ダ・イ・ス・キ・ダ・ヨ、と。


 あまり変わらないように見えるが、二人は新しい関係を確実に築き始めていた。

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君のことが好きなんだ 待宵月 @Snufkin_Love

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