第48話 いい加減にして!

 もどかしい衝動に突き動かされ、まるで抗う事の出来ない引力に引き寄せられるように、有馬真一は目をつむる音無千鶴の唇へと顔を近づけていた。

 だが、真一は寸でのところで動きを止める。目を見開き、酷く青ざめた。動揺を隠すように、千鶴の額を指先で軽く弾く。


「痛ッ!」


 千鶴は額を両手で押さえ、声を上げた。


「ちょっと! 何するのよ!」


 憤慨する千鶴から目を逸らし、真一は呼吸を整えようと大きく息を吐き出す。視線は床に落としたまま、吐息のような声で呟いた。


「……デコピンで良かったね」

「何がよ?! 良いわけないでしょ!」


 さらに千鶴の怒りに火を注いでしまったようだが、今はそれどころではなかった。真一は狼狽していた。心臓が飛び出してくるのではと思うほどドクドクと激しく脈打ち、全身が燃えるように熱くなっていた。少しでも鼓動を治めるように、強く握りしめていた右手をそのまま胸に押し当てる。


(危なかった。……本当に、危なかった。もう少しで、千鶴の唇に触れてしまうところだった。……告白さえしていないというのに唇を奪うなど、言語道断だ!)


 さらに真一を困惑させていた事は、なぜあの状況で千鶴が目を閉じたのかだ。


(無防備にも、ほどがあるだろう ……それとも、おれは試されているのか?)


「──悪い女だね。キノ」

「は?」

「本当に、やめて……」


 両手で顔を覆い懇願するように囁けば、突然胸にドンと強い衝撃を受けた。驚く真一の目に、両手で真一の体を押している千鶴の姿が映る。俯いている千鶴の肩は震えていた。


「……して」

「え? して?! な……!」


 低く呟く千鶴の声がうまく聞き取れず、自分勝手な淡い期待に再び鼓動が激しくなる。


(あのまま、キスをしても良かったのか?)


『何を?』と確認しようとした真一に向かって、千鶴が勢いよく顔を上げた。


「いい加減にして、って言ったのよっ!」


 睨んでいる千鶴の目には涙が浮かんでいた。固まっている真一を、再び千鶴が力いっぱい突き飛ばす。一歩後ろへよろめきながら真一はただ茫然と千鶴を見つめ続ける。


「もう分かんないよ……」


 千鶴も混乱しているようだった。彼女の声が震えている。


「すっごい意地悪なくせに、信じられないくらい優しくしてきたり、訳わかんない事ばっかり言ってきたり、なのに! 私に何かあれば、必ず側にいるし、助けてくれる……。もうっ! 何なの? 真一に振り回される私の身にもなってよ!」

「……」

「気が付いたら真一のことばっかり考えてるんだよ! どうしてなのか自分でも分かんないっ! だって、気になっちゃうんだもん! 真一がそばにいるだけでドキドキするの! 私がこれ以上変わったらどうするのよ! 頭も心の中も、もうぐちゃぐちゃなんだから! バカッ!」


 そう大声で叫び、千鶴はゼイゼイと肩で大きく息を吸う。感情的になっている千鶴は、自分が何を口走っているのか分かっていないのかもしれない。

 だが、真一には告白としか聞こえなかった。

 

「……千鶴、落ち着こう」

「やだっ! 触んないでよ!」


 気が立っている千鶴は、肩に触れようとした真一の手を振り払うように身を捩った。それでも真一は我慢強く、千鶴を落ち着かせようと試みる。

 

「千鶴。聞いて」

「嫌! 何も聞きたくない!」

「お願いだ。聞いてほしいんだ。千鶴……」


 千鶴は両手で耳を塞ぎ、頭を左右に振る。その姿はまるで無意識に自分の気持ちから逃げようとしているように真一には見えた。


『私がこれ以上変わったらどうするのよ!』


 この言葉は千鶴の本音だ。

 千鶴は怖れている。二人の関係が変わってしまうことを。

 しかし、真一は変えたい。変えられるのは、きっと今だ。だから、どうしても千鶴には変化していく自分の心に向き合って欲しかった。真一はすでに千鶴の事をただの幼馴染としては見られなくなっている。


(愛おしくて仕方がないんだ!)


 今も出来る事なら強く抱きしめて、『好きだ』と、大声で言ってしまいたかった。


「……ねえ、千鶴。おれの事、どう思ってる?」


 身の内で暴れる欲情を抑えるため、拳をぎゅっと握りしめる。期待と不安が入り混じる声で真一は尋ねた。

 すると、千鶴の肩がぴくりと反応した。僅かな動きでさえ均衡が崩れそうな静寂が真一と千鶴を包み込む。

 ただ時だけが二人の間を無常に流れていく。


「……嫌い?」


 沈黙に耐え切れず、真一は自虐的な笑みを浮かべながら呟いた。


「……」


 俯いたままの千鶴は、何も答えてはくれなかった。諦めと失望のどす暗い渦に真一は飲み込まれていく。

 と、その時。


「嫌い……じゃない」

「千鶴……」

「……す……き……だと、思う」

「!」


 千鶴の声は小さく、後の方はほとんど囁きのようだったが、真一の神経はすべて聴覚へと注ぎ込まれ、一言一句しっかりと胸の奥に刻み込まれた。

 真一の目が徐々に大きく見開かれていく。失望から歓喜へと心が大きく動く。


「……本当に?」


 確かめようと発した声は掠れていた。


「そうよ! 悪い?!」


 まるでやけになったように千鶴は腕を組んでそっぽを向いた。その頬は明らかに赤く染まっている。 


(捕まえた!)


 真一は千鶴の体を強引に引き寄せた。右手は彼女の小さな後頭部へ、左腕を細い腰に回す。

 そして、思いのまま強く千鶴の身体を抱きしめたのだった。

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