勉強

 うっかりというのは、避けれるものと避けようのないものがある。

 そういう意味ならば、今回は避けられるものだっただろう。

 けれど、実際に起きてしまったものはどうしようもないもので。


 まぁ、つまり、どういうことかというと、忘れ物をしてしまったというだけの話である。


 しかもそれがよりにもよって明日提出の課題だったから、十分ほどかけて学校まで戻る羽目になった。


 別に朝やってしまえばいいと思わなくもなかったが、それは何だか気が引けるというか、落ち着かない。


 そんなわけで、教室。

 どうせ誰もいないだろうと思いっきりドアをスライドさせた。


 三尋木さんが机に向かって作業をしていた。


「わっ……秋月くん?」

「三尋木さん?」

「どうしたの?」

「忘れ物。三尋木さんは?」

「私は……いろいろ?」

「いろいろって」

「日直の仕事と、委員長の仕事。運悪く被っちゃってさ」

「そうなんだ」


 それは何とも運がない。

 二つ同時にこなすのは大変そうだ……と思ったところて、ふと疑問が頭をよぎる。


「日直、もう一人は?」

「あー、どうしても外せない用事があるんだって。それも含めて運がなかったね、私」

「外せない用事って」

「秘密だよ。一応、個人情報だし? まぁ、私が納得してるからいいのさ」

「ならいいんだけど」

「もしかして気にかけてくれた?」

「まぁ、少しくらいは」

「へぇ」


 見ると、三尋木さんが笑っていた。

 ちょっと嬉しそう。……なぜ?


「そうだ、秋里くん」


 疑問に答えが出る前に、話が先に進む。


「なに?」

「時間ある?」

「……ないこともない」

「なんだそれ。まぁいいや。だったらさ、少し付き合ってよ」

「手伝いの要請?」

「んーん、話し相手の要請。一人で黙々とやるのは退屈でさ。だめかな?」

「……まぁ、いいけど」


 三尋木さんの正面の席を借りることにする。

 と、その前に忘れ物を回収しておこう。


 自分の机を探り、目的のものを確認。

 しまいつつ、彼女の前に座る。


「数学の課題?」

「うん。明日提出だからさ」

「あれ、そうだっけ?」

「そうだよ。……忘れるのはどうかと思うよ、委員長?」

「あはは、面目ない」


 手を止めずに三尋木さんが苦笑する。


「ま、私はもう終わってるから大丈夫なんだけどさ」

「……早くない?」

「そうでもないよ。だってそれ、配られたの昨日じゃん」

「そうだけど。……もしかして、数学得意?」

「得意か不得意かと言われれば、得意」


 パチン、とプリントを閉じるホッチキスの音が鳴る。


「そういう秋里くんは、数学苦手?」

「苦手か苦手じゃないかと聞かれれば、苦手」

「そうなんだ。だったらそれ、大変かもよ?」

「マジですか」

「マジです。というか、あの先生いつも嫌な問題を出してくるでしょ」

「あー、たしかに。今回も?」

「今回も」


 トントン、と閉じたプリントをまとめ。


「よし、作業終わり」

「お疲れさま」

「ありがと。つき合わせちゃってごめんね」

「いや、本当にすぐ終わったし、大丈夫」


 時間にして数分程度。

 話し相手になる必要があったのか疑問に思う速度で仕事を終えてしまった。


「さて、私はこれからこのプリントと日誌を職員室までもっていくんだけどさ。ここで一つ、提案があります」

「なんでしょう?」

「まだ下校時間まで時間があるから、数学教えてあげる」

「え、いいの?」

「いいの。今日と……ついでに、この間のお礼でもあるから」

「この間? って……あぁ、雨の日の」

「うん。結局次の日は降らなかったからね。なかなか話しかけるタイミングもないから、どうしようかと思ったよ」


 そう、結局あの日、雨は降らなかった。


 だから彼女との縁も切れた……とまではいわずとも、なかなか話すことはないだろうと思っていたのだけど。


 様子をうかがわれていたのか。

 なんとなく、悪いことをした気がする。


「気にしなくてよかったのに」

「そういうわけにもいかないでしょ。まぁ、そんなわけだから、ちょっとだけ待っててくれる?」

「あ、ちょっと……」


 話が終わらないうちに、彼女が教室を出てしまう。

 仕方がない。

 僕はそのまま、課題をやりながら待つことにした。



 数分後。

 三尋木さんが帰ってきた。


「お待たせーって、勉強始めてるじゃん。えらいね」

「まぁ、教えてくれるっていうなら、少しくらいは進めておかなくちゃと思って」

「そこで、丸写しにしようって考えがない時点で優等生だよ」

「リアル優等生の三尋木さんに言われるとなんか複雑な気分」

「リアル優等生って何さ」


 笑いながらのツッコミを入れつつ、僕の正面に座る。


「じゃあ、分からないところがあったら言ってよ」

「……じゃあ、早速。この問題なんだけど」

「ありゃ。秋月くん、ほんとに苦手なんだね」

「数学は一番苦手なんだ」

「そっか。それで、えっとどれどれ……あぁ、これね」


 教科書を取り出し。


「ほら、この公式を使えば解けるよ」

「……それで分かれば、苦手になってないんだよ」

「え、分かんないの?」

「分かんないんです」

「重症だね」

「元からです」

「んー、でもそれ以外に教えるようなところでもないんだよなぁ」


 そんなこと言われても、どうしろっていうんだ。

 頬を掻きながら、前のめりになる三尋木さんを見る。


「んー、これはねぇ、これを……あー、やりにくいなぁ。ちょっと失礼」


 彼女が席を立って、僕の後ろに回る。

 そのまま腕を伸ばし、プリントを指し示す。


「これを、ここに代入して」

「ちょ、ちょっと待って」

「はい、なんでしょ?」

「……近い」

「はい? ……あー、なるほど。そうだったね」

「そうだったねって、何を納得したのさ」

「そりゃあ、秋月くんはむっつりくんだったってこと」

「体が当たるくらいまで身を寄せる三尋木さんにも問題があると思うけど?」


 僕の真後ろに立って腕を伸ばしたせいで、彼女の身体の前面が僕の背中に当たっていた。

 きょとんと、三尋木さんは自分の状態を確認して。


「あはは、まぁ、たしかに。今回はさすがに私が悪いね。ごめん」

「いや、別に、謝ることじゃないけど」

「え、前はもっと距離があったのにけっこう嫌がってたじゃん。やっぱり、直接当てられたらくらっと来ちゃった?」

「やっぱり、もっと誠心誠意謝ってもらおうかな」

「その切り返しはひどくない?」

「僕をむっつりキャラにしようとするのとどっちがひどいかな?」

「……痛み分けだね」


 どこが、と言おうと思ったけど、彼女の顔を見てひっこめた。

 そのかわり。


「顔、真っ赤だよ」

「この部屋の温度が上がったんじゃないかな?」

「そんな馬鹿な……」

「もう、なんでもいいでしょ。それよりほら、問題に集中!」


 背中を叩かれ、僕は改めて机と向かい合った。



 下校時間になり、僕たちは帰路についた。


「あー、疲れたねぇ」

「そうだね」

「それにしても秋月くん、あれはどうにかした方がいい学力だよ」

「そう?」

「せめて公式くらいは使えるようにならないと。こんな調子じゃ、テストもやばいんじゃない?」

「あー、やばいかも。再来週からだっけ」

「うん。今日やった部分も範囲内だし……下手したら赤点とるよ」

「それはやだなぁ……」


 赤点を取ると補習のちに再テスト、という最悪な流れが待っている。

 まだ何とかそんなことになったことはないけど、絶対にめんどくさいんだろうなぁ。


 何とか回避しないと、と遠い目をしながら勉強することを決意する。

 せめて、赤点にならないくらいまでは。


「勉強する気はあるんだ」

「そりゃね。補習はめんどくさいし」

「そうだよねー。……うん。勉強する気があるなら、手伝ってあげようじゃないか」

「へ?」

「勉強を見てあげるってこと」

「え、でも、いいの?」

「いいよ。この際、乗り掛かった舟だよ」

「自分の勉強とか」

「テストで困るような勉強はしてませんから」

「……じゃあ、お願いしようかな」

「おーけー。大船に乗った気持ちでいてよ」


 胸をトン、と叩く。


「それで、どこで勉強しようか?」

「私、いくつかいい場所知ってるよ」

「そっか。じゃあお任せしていい?」

「任されよう」


 どこがいいかなー、なんて言いながら歩く彼女は、分かれ道まで終始ご機嫌だった。

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君との距離感(仮題) 上上下下 @kirinnnobasashi

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