忘却の梨子

@ulysses-1011

私を忘れないで

梨子、自分を忘れるなよ。」

祖父は死に際にそう言った。

今も妙に祖父の言葉が頭の中で引っ掛かっている。

私はなぜ祖父がそう言ったのか理解できずにいた。

はじめは・・・。


「きて・・・おきて・・・梨子おきて・・・梨子起きて!」

「わあっ。」

カーテンの隙間から差し込む光が、部屋に入りたそうにしている。

「もう7時よ!起きなさい!電車に乗り遅れるわよ!」

「やば!ママごめん!」

我が杉原家は家族四人で構成される、ごく一般的な核家族である。父の光輝に母の由紀、弟の空に姉の私だ。父の光輝は社会福祉協議会の職員、公務員だ。母の由紀は私達を送ったあと大学へ向かい、そこで事務の仕事をしている。弟は小6になった。もうすっかり可愛さをなくしてしまった。


高校までは約二時間かかる。八時半に出席のため、六時半には家をでなければならない。

なぜそんな遠い学校にしたのか。


自分を変えたかった。


理由はそれだけで十分だろう。


親には、この高校のなになにっていう取り組みをやってみたい、と嘘をついたほどに欲しかったのだ。

中学校は私の人生において最も苦痛と言わざるを得ない出来事が山のように起こった。

本当は逃げたかったのかもしれない。


急ぎ支度を済まし私は朝に駆け出した。

駐車場の天井に張り付く燕の巣から、ちょんちょんと可愛らしい音が聞こえてくる。


応援をしてくれているかのように思えた。


人をかき分けやっとの思いでたどり着いた車内。

そこにも当たり前のように人が敷き詰められている。

大勢の降りる駅を過ぎたところで、少しメイクを施す。

今日だけ電車早くなってくれないかなぁ、と思ってみたりする。

時刻表通り駅に着いた電車から飛び出し、すぐさまバス停へ駆け寄る。

まだ落ちたての鮮やかな落ち葉に足をとられそうになった。

やっとのことで学校に着いたのだが、時計の針は横一線となっていた。


職員室に駆け込み、先生へと連絡を告げると、すぐさま1年7組へと向かった。

教室に入ると、国語の山口先生がもう隙間の少ない黒板にさらに字を詰め込んでいるのが見える。

この人には今の私に役立つ言葉を沢山もらったものだ。

高校生の頃、山口先生を嫌う人も少なくなかっただろう。それは彼の黒板と、優しさの見えない口調と、頑固な性格が物語っている。しかし、大人になってまでもこの人を嫌いで居続ける人は、まず居ないはずだ。

国語の授業を通して学べる偉人の名言は、誰しも一度は助けになったことだろう。

「遅れてすみません。寝坊しちゃいました。」

「杉原、今後は気をつけろ。」

「はいっ。」

かつてクラスの真ん中にいた私は、沢山の人からの挨拶をもらった。

私は笑顔で、おはよう、と返した。

山口先生はすかさず、うるさい、と怒鳴った。


窓際の席の最後尾に座る。隣の席の山口阿須加が話しかけてきた。

「もー、りこの嘘つきぃ。一緒にバス乗るっていってたじゃぁん。」

「ごめんね阿須加、久々に寝坊しちゃって(笑)。」

彼女とは高校で初めて会ったが、始めに話しかけた時、音楽で意気投合した。同じアイドルグループを好きだったのだ。初めの話題はこれで持ちきりだった。

しかし出逢いから三ヶ月、ついに私達は本当の友達となったのだ。

昔の私に教えてやりたい。

阿須加とは今でも仲良くやっているということを。


「じゃあ明日は一緒に行こうね!」

「もちろん!あ、ノートうつさせてくれない?」

「いいよー。」

他愛ない会話を終え、授業に戻る。しかし、今まで走ってきて溜まった疲れがどっと押し寄せて来てしまった。さらに追い討ちを掛けるように教室を照らす日光が、私を眠りへと誘っている。

もう眠る他なかろう。

怒られてでもいいから今は寝たい気分だった。


元気な鐘の音で目覚めた。

光が目をおおう。チカチカしてよく前が見えない。

だが、誰かの笑い声と、それに混ざり人の話す声が耳へと入ってくる。

そんな休み時間と、授業の繰り返し。

わざわざ遠くの学校にしたのに、何も新鮮味を味わえないのはなぜだったのだろうかと、頭を起こすために考えてみた。

むしろ、つらかった。

他の人より早く起きなければならない。

他の人より家に着くのが遅い。

他の人より多く電車で揉みくちゃにされなければならない。

本当にこの学校に入ったことが正解だったのか。

でも沢山の友達ができたし昔を忘れられるくらい自分を変える事ができたから良かったのかな、と頭で結論を出した。

やっと目が見えるようになった。


窓の外のカラスが合唱会を開いている。


私を置いて。


私は急いで窓を開けカラスに混ざる。


私が現れたとたん、多くのカラス達が群がってくるのを感じた。


あっという間に帰る時間になった。時間とは長いようで短い。大人になるとつくづくそう思う。放課後、生徒達は思い思いの時間を過ごす。私は九月頃、軽音楽部を退部してしまった。夏の終わりに発表会があったのだ。その発表会で花のように散ってしまい、やけになって辞めてしまった。

他のバンドメンバーには悪かったと今も思っている。


十月にもなった今は誇り高き帰宅部である。家に安全に帰宅するという目標は、三年間連続で達成できたと思っている。車内でいきなりヘビーローテーションを熱唱する人に遭遇したときは、これはやばい、と身の危険を感じたものだ。

しかし絶妙に歌が下手だった。


バスに乗り電車に乗り換え家に着けばもうやることはあまり変わらない。少し休んでご飯を食べて勉強してお風呂に入って携帯を見て寝る。

それだけだ。学生時代、大人が口を揃えて言う、学生の頃が恋しいなぁ、という言葉に疑問を持っていた。だが今では分かる。学生に戻りたい。学生の職業、勉強はやればやるだけ評価される。

社会もそんなものだと思い込んでいた自分が情けなくなる。


明日も普通の1日なのだろうと思っていた。

しかし忘れもしない十月十一日、悲劇が起こった。


ピピピッ。という電子音で目覚めると、今日の太陽は元気がなさそうだった。お陰で少し目を擦っただけで周りが見えるようになった。


何気なく学校に登校し、教室に入ったとたん、女子の甲高い奇声が部屋中に鳴り響いた。男子も男子で太い声をあげた者もいた。

「みんな、どうしたの。」

「梨子、う、うしろ、うしろに何かいるよ。」

阿須加が言った。

「え、うしろ?え、何も居ないじゃん。」

顔に少しシワを付け、阿須加に歩み寄ると、

「近寄らないでキモいから!」

と大声で怒鳴られた。

心臓が鋭い針に刺されたような気がした。

そのせいか、心臓は血が流れ出るかのようにドクドクと鼓動を始めた。


どうやら一年七組の生徒だけが私の後ろに何かが見えるらしい。他の生徒や、登校中に電車で一緒になった人達には見えないようだ。試しにクラスの意地っ張りの男に絵を描いてもらった。しかしそれは絵と言えるものではなかった。ただ黒一色、鉛筆で塗りつぶしている。形は人の形をある程度保っているようだった。写真も撮ってみたが、ただの盛れてない自撮り写真になってしまった。

結局、今日は家に帰ることになった。

高校の教員達は揃って首をかしげたそうだ。


いつもよりバスを待つ時間が長く感じる。いつもは元気よく鳴いているのに、今日はどの生き物も、一言も発してはくれなかった。

耳に入ってくるのは木々のざわめきだけである。

私だけひとりぼっち、なのだろうか。


いつもより歩くのが遅い。太陽も顔を出してはくれない。

すれ違う人達のやけに暗い真顔が私を怖がらせた。


電車を一本逃してしまった。


家に帰り眠りにつくまで私は失意の念に刈られ続けていた。今まで高校でこのような気分に浸されたことはなかった。しかも今一番仲の良い阿須加からも、近寄らないで、と言われた。

そして、キモい、という三文字が、頭の中で永遠にリピートされている。「い」という言葉が終われば、カセットテープは巻き戻しを始め、また「キ」という言葉から再生される。

止まらない。


これじゃ昔のままと同じだ。なぜあなたは私が変わろうとしているのにそれを邪魔するのだ。そう心の中で半狂乱になりながら叫び続けた。


私は中学校の頃、いじめを受けていた。私は他の女子生徒よりも顔が整っていて、何人かは分からないが男子生徒に好意をいだかれていた。小学生の記憶はほぼないが、そんなものだろう。

中一の時、付き合ってはみたものの、時間には遅れるわデートを忘れて友達と遊ぶ予定を入れられたりと散々だった。言動も悪く呆れてしまった。

それ以来中学校では付き合うのを辞めようと思い、告白してくれた男子生徒達を振った。

二年生の夏を終え、本格的に受験という文字が立ちあらわれてきた9月。ついに女子の反感を買い、軽い陰口が蔓延し始めた。

すぐ収まるだろうと思い、何も言わなかった。


それが間違いだった。


陰口というウイルスは日に日に成長し、さらに私を苦しめる。

人通りの少ない、かつて使われていた教室の側のトイレに押し込まれては鋭い刃物のような言葉を突きつけられ、何度も何度も刺された。

刺し傷は私の心にざくざくと蓄積されていく。

その一ヶ月後だろうか、いじめはさらにエスカレートし、暴行を加えられるようになった。

先生達に痣を見られたくない一心で、言葉を発するのをやめた。

私の目は日を重ねるごとに目の色を失っていった。


季節は秋になった。


紅葉の葉がはらはらと、力なく地面に倒れこむ。


美術の授業中、窓の外に見える家をただただじーっと見ていた。いや、目を動かせなかった。

「杉原、大丈夫?ぼーっとしてるけど。」

私はその声を聞いて、ようやく我に帰った。

彼は松坂祐希。彼を一言で表すとするのならば、優しい、という言葉がお似合いだろう。野球部に入っていたため、丸刈りで、体型も顔もがっしりしていて、マンガに出てきそうな野球少年そのものだったが、柔らかな声と無垢な心を持ち、誰に対しても優しく接していた。

初めて声を聞いたときは思わず目を見開いてしまった。


「あ、ごめん。ちょっと考え事してて。」

「そう言ってもう三十分たってるけど・・・。」

「あはは、しっかりしなきゃね。ありがとう。」

・・・。

「言えとは言わないけど、何か悩みがあったら聞くからね。」

彼の言葉が暖か過ぎて、一瞬気が緩んでしまったが、ぐっと堪えた。

「うん、ありがとう。」


師走の候、ちょうど今年の初雪が観測された頃、私はついに決意を固めた。松坂にいじめの事を伝えることにした。時間はかかったがこれが私の見いだした結論だった。放課後に校舎裏に来るように誘い、今まで起きたこと、感じた事を頭に思い浮かんだ言葉をそのまま吐き出した。

思いっきり吐き出した。

これで良かったんだと今でも思っている。


「わかったよ。辛かったんだね。今まで気づいてやれなくてごめんな。」

今は泣きたいと思った。

この人の前では泣いてもいいんだと思った。


彼は優しく背中を撫でてくれた。


それから、私は次第に彼に心を開いていくようになった。そして自分の感情に嘘はつけないと思った。


松坂祐希を好きになった。


産まれて初めて感じたこの感情。


クリスマスの前日、告白をした。


クリスマス当日、私は一人で夜をあけることとなった。


彼には好きな人がいた。

それでも諦めきれず、私は何度も何度も告白をした。

いじめられながらも、彼と話したいがために登校を続けた。


気づけば3月になっていた。そして終業式閉会後、彼に告白をした。


「ここまでくると、ごめんだけどキモい。」


私は彼に執着しすぎた。彼の事を考えているつもりで、相手がどう受け取っているかも知らずに、自分の気持ちしか考えていなかった。

そしてその日から、キモい、という三文字を聞くと・・・。


今まで貰った様々な傷が一気に吹き返し、

一瞬にして心が砕けた。


始業式、教室に空席が一つ、

太陽に照らされている。


いじめが明るみに出たのもそれがきっかけらしい。


何とか高校へ行けるよう取り繕ってもらって、私は高校に行くことにした。

出来るだけ遠い所へ。

過去を忘れるために。

私を忘れるために。


私は今までの自分を全て捨てた。


十月十一日、私は一人ベットの上で叫んだ。

あなたはいったいだれなのよ!


何か、とは、私だった。


過去の自分の嫌な思い出だけを思いだし、私は過去に感じたよろこびを全て忘れてしまった。


高校に入った私は、まるで別人だった。いや、別人だった。


嘘で造られた嘘の自分。


だからあなたは現れてくれたんだね。


ありがとう。


私はあなたを忘れない。


何があっても。


私は、私だから。

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