後編

 若い頃は綺麗だったのにどうしてずっと独身だったのかですか?

 いえ、この写真では多少良く写ってますけれど、私は若い時分もそんなに美人だとか器量がいいとか目立って言われる方ではありませんでしたよ。若い内は誰でもある程度までは綺麗ですしね。

 ただ、一度だけ一緒になろうと考えた人はいました。

 どういう人だったかですか?

 そうですね、ご奉公を初めて二年ほど経った春のことでした。

 坊ちゃまは小学校の二年生になり、私は学校の行き帰りはいつもご相伴しておりました。

 学校からお屋敷までの海沿いの道には桜並木がありまして、その日はちょうど満開でした。

――ポッポー、ガタゴトガタゴト……。

 花霞の向こうから汽車の近付いて来る音が響いてくると、坊ちゃまはパッと目を輝かせて

「ねえや、汽車だ。ここだとはっきり聞こえるね」

と仰いました。

 ええ、男の子には良くあることでしょうけれど、修吾坊ちゃまも汽車がお好きで、おうちにある本を見て外国の汽車の名前まで覚えておいででした。

「僕もいつか汽車に乗って遠くへ行ってみたい」

 連れて行ってくれとどこかせがむような調子でした。

「そうですね」

 もう少し丈夫にならなければ汽車に揺られる旅には耐えられないだろうと思いました。

「でも、今年はちゃんと学校に通って組のお友達と仲良くなれるといいな」

 舞い散る薄紅の花弁を見送りながら、坊ちゃまは急にどこか寂しく仰いました。

「病気で休んでいる間に僕は皆から置いていかれてるんだろうね」

「坊ちゃまは良くお出来になるから大丈夫ですわ」

 これは空世辞や贔屓目ではなく、坊ちゃまは学校には年に数えるほどしか通えませんでしたが、たまに学校に行って試験を受けるといつも首席でしたから、先生も驚かれておりました。

 ちなみにその時次席だったのがあの杉田博士なんですよ。

 ええ、今は医大の学長も退されたそうですけれど、テレビや新聞でお見かけしますね。

 おや、博士の自伝には

「子供の頃、学校にまともに来ていない同級生からいつも首席を奪われるのが悔しくていっそう勉強した」

「後にも先にも首席を奪われたのはその同級生だけである」

とあるのですか?

 そちらは存じませんでした。

 それはさておき暫く止んで今度は遠ざかっていく汽笛の音を聞きながら桜の並木道を半ば以上進んだ所で、向こうから小さなトランクを持った若い男が歩いてくる姿が見えました。

 相手もこちらに気付いたようです。

「千代?」

 男としては中背ほどの、毬栗頭にした、色の浅黒い、はっきりした一文字眉にやや吊り上がった切れ長い目をした、しかし、どこか見覚えのある人懐こい表情をした相手は微笑みました。

「そういえば、津川のお屋敷に勤めに出たんだったね」

直彦なおひこ!」

 故郷の近所に住んでいた幼なじみでした。

 あれ、でも、確かこの人は他所よその中学に行ったはずでは……。

 家が貧乏子沢山で小学校までしか行けなかった私に対して、直彦はお屋敷の坊ちゃまほどでなくてもそれなりに裕福な家の一人っ子だったはずでした。

 相手はこちらの思いを見透かしたように苦笑いすると続けました。

新田にったのお屋敷に勤めることになった」

 ええ、新田のお屋敷があったのは今は新しい大学のキャンパスが立っている辺りですね。

 そのせいであの浜辺も今でこそ若い方を良くお見掛けしますけれど、あの頃は近隣のお屋敷の者でもなければ滅多に近付きませんでした。

 何でも新田の旦那様がその辺りの漁を取り仕切っていて自分の敷地近くの沖で獲ることは断固として禁じていたので、近隣のお屋敷の者以外は子供すら遊びに来なかったという話です。

 その間、坊ちゃまは見知らぬ人が怖いのか表情の消えた面持ちで直彦を見詰めていましたが、ふとにっこり笑って尋ねました。

「ねえやのお友達?」

「そうですよ」

 先に笑顔で答えたのは直彦でした。

「津川の坊ちゃまですか?」

 屈み込んで坊ちゃまの姿を改めて見直すと感嘆したように呟きました。

小公子しょうこうしみたいな坊ちゃまだなあ」


 *****

 それから暫くの間、直彦と顔を合わせる機会はさほど多くありませんでした。

 坊ちゃまが元気で学校に行かれる日は週に一度あるか無いかでしたし、外にお使いに出ても必ず向こうと折りが合うとは限りません。

 それでも、会えば短い間でも必ず言葉を交わし、郷里の誰某だれそれは今どうしてる、同級生のあの子は何処其処どこそこにいるそうだという話を聞くと、長らく帰っていない私にはとても懐かしい気持ちになりました。

 相手にとってもそれは一緒だったのでしょう。

 お使い帰りに露草の脇に咲く道を途中まで連れ立って歩きながら

「千代がこっちに奉公に出てからは学校の休みで帰省しても会えなくて寂しかった」

 遠慮がちにそう告げられた時には顔がカッと赤くなるのが自分でも分かりました。

 同時に、主家の見えてくる辺りに差し掛かるとそれまでの人懐こい笑顔からどこか怯えた憂鬱な表情に変わる相手の様子に胸が痛くなりました。

 本人は切れ切れにしか語りませんでしたが、私が津川のお屋敷に奉公に出た二年の間に直彦の両親は相次いで亡くなり、父親が事業で新田の旦那様から融資を受けていた縁で中学卒業と同時にお屋敷でお世話になっているとのことでした。

 新田の旦那様は高利貸めいたこともされていたようで、私の幼なじみは要は親の借金の形に使用人にされたのです。

 直彦は田舎の小学校でずっと級長をして中学に行ったような子でして、十七歳の大きな若者になっても粗暴な振る舞いを好んでするたちではありませんでした。

 むしろ、年上の相手などには大人しいとすら言えました。

 そうした若者が高利貸のやくざじみた奉公人たちの中に入ればどういった扱いを受け、どのような思いを抱くか。

 それは十七歳の私にも何となく察せられなくはありませんでした。

 しかし、どうすることも出来ませんでした。


 *****

 その年の夏は、坊ちゃまと良く浜遊びに行ったことを覚えております。

 皮肉にも修吾坊ちゃまは行きたがっていた学校が休みに入ってからの方がお加減の良い日が多くなり、旦那様が送って寄越した舶来の水兵服に真っ赤なシャベルを持って、新田のお屋敷近くのあの砂浜に通ったものでした。

 そうなると、約束をした訳ではありませんでしたが、直彦が使いの帰りや合間の休み時にちょくちょく浜に現れるようになりました。

 そんなある日のことです。

 修吾坊ちゃまが浜辺で大きな貝殻を見つけて喜んで私たちに見せに来ました。

「ねえや、見て。おうちの図鑑に載っていた目安の倍はあるよ」

「確かによく落ちているのはもっとずっと小さいですね」

「またもっと別な貝でも型破りがないか探してみる」

 水兵服の背が遠ざかっていくのを眺めながら、直彦はどこか苦く微笑みました。

「坊ちゃまは上の学校にも楽に進めそうだね」

「ええ」

 私は自分のことでもないのに得意になって続けました。

「休みがちだけど試験を受ければいつも首席だし」

 幼なじみの目にすっと差した影に初めて気まずくなりました。

「直彦も小学校ではずっと首席で級長だったじゃない」

 相手は笑いをいっそう苦くして首を横に振りました。

「うちの父さんは無理して他所よその中学に行かせてくれたけど、入ったら周りは秀才の坊っちゃんばかりでさ、俺は席次せきじも大したことなかったんだよ」

 浜の風に吹かれながら、幼なじみの浅黒い顔が眩しいような、寂しいような表情を浮かべました。

「でも、出来るならもっと上に進みたかった」

 伏せた目の見詰める先には、かもめの羽根が一枚だけ落ちておりました。

「町で高等学校の制服を着た奴を見ると、やりきれなくなるんだ。そういうのに限ってフラフラ遊び歩いてたりするし」

 どういう言葉をかけてやるべきか。元から貧乏で小学校しか出ていない私が言うどんな言葉も直彦の救いにはならないのではないか。

 そんな風に迷っていると、急に後ろから声がしました。

「あんな所にいやがった」

「おい、直彦!」

 振り向くと、新田のお屋敷の下男二人が浜を降りてくる所でした。

 どちらも年の頃は二十一、二でしょうか。

 他家の使用人と比べて身なりは決して悪くないのですが、顔つきなどがいかにも無頼な感じがしました。

 まあ、その二人に限らず新田のお屋敷の使用人は概してそんな風だったのですけれども。

 直彦はビクリと身を起こしました。

「すみません」

 先輩二人に向かって毬栗からやや伸びた短髪の頭を深く下げます。

 しかし、二人は収まらず、一人は

「お前、ちょっと休むって出ていつまで油売ってんだよ」

と直彦の襟首を掴みました。

 もう一人は

「仕事は半チクなくせに怠けることだけはいっちょまえに覚えやがって」

と直彦の肩を小突きました。

 間に挟まれた幼なじみはまるで思い切り殴られたように俯きました。

「すみません」

 この二人の先輩はまだ人前だから手落ちをした後輩を殴るまではせずにいるのだと朧気に察しながら、私は声を掛けました。

「こちらが立ち話に引き留めたんです」

「はあ?」

 直彦の襟首を掴んだ方の下男はめ付けるように振り返ると、私の旋毛から足元まで値踏みするように眺め回しました。

 肩を小突いた方の下男はプッと吹き出すと、俯いた後輩の顔を覗き込む風にして嗤いました。

「お前、もう他所の女中に惚れられて逢い引きしとんか、えらい色男だなあ」

 言い終えると、ふっと笑いを消してさっきより強く直彦の肩を小突きました。

 どうやら私は却って余計なことを言ってしまったようです。

 次に何をすべきか分からず、ただ震えました。

「あった!」

 唐突に離れていた場所に群れ咲いていた浜昼顔の傍に屈んでいた坊ちゃまが無邪気な声を上げると、こちらに笑顔で駆けてきました。

硝子玉がらすだまがやっと全部見つかったよ」

 小さな白い掌には砂粒をいくらか着けた色とりどりの硝子玉が光っていました。

「僕が浜辺で落としてなくしちゃったからねえやとお友達が一緒に探してくれたんだよ」

 曇りの無い笑顔と晴れやかな声で坊ちゃまが語ると、下男たちも一瞬、虚を突かれた風に固まってから苦笑いします。

「そうでしたか」

 襟首を掴まれていた手をいきなり放され、直彦は一瞬、ふらりとよろけて踏み止まりました。

「どうもありがとう」

 坊ちゃまは陽だまりのような笑顔で直彦を見上げて掌を示しました。

「お礼に一つだけ上げるよ」

 八歳の坊ちゃまはそこで急に真面目な顔になりました。

「宝物だから一個だけだよ?」

 傍らで眺めていた下男たちはそのいとけない声に吹き出します。

 十七歳の直彦だけはどこか凍った面持ちで自分より遥かに小さな坊ちゃまを見下ろしていましたが、急にふっと諦めたような笑顔で頭を下げました。

「ありがとうございます」

 小さな掌から色のない透明そのもののような一個を選んで握り締めたのを今も良く覚えています。

「じゃ、帰るぞ」

 先輩の下男たちに連れられて直彦は主家に戻っていきます。

 後ろ姿になると、先輩たちと比べても幼なじみは服も靴も磨り減って身なりが一段貧しいのが目立って悲しくなりました。

「全部見つかったし、僕らも帰ろうよ」

 私が答える前に、坊ちゃまは下ろしたての水兵服の背を見せて歩き出していました。

 前にもお話しましたように旦那様が送って寄越した舶来品のそれは非常に坊ちゃまに似合っておりましたが、同じ日本人の八歳の子供と比べても骨の細い、薄い体つきが今更ながらに目についてきてもの寂しい気持ちになったところで、波の音に紛れるほど幽かな声が届きました。

「もう一個もなくしたくない」


 *****

 それから何日かは坊ちゃまが熱を出して寝込んでしまい、浜に行くことはありませんでした。

 やっと少し熱が下がり食欲が出たので、果物を買いに出た夕方のことです。

 坊ちゃまの好きな水蜜桃が折良く手に入り、急ぎ足で屋敷の通用門に近付いてきたその時、

「千代」

と呼び掛けられました。

 振り向くと、直彦が立っていました。

 夕陽に照らし出されたその顔の左の頬には治りかけの痣がはっきり認められました。

「これ」

 こちらが何か言うより先に相手が手に持った物を示しました。

「給金で買ったんだ」

 荒れて節くれだった掌には透明な硝子ビーズの飾りが着いたヘアピンが光っていました。

 一瞬、沈黙が二人の間に流れました。

――カナカナカナカナ……。

 ひぐらしの鳴く声が私たちの上に降ってきました。

「貰って欲しい」

 相手はまるで詫びるように目を落としていました。

「私、こういうの着けないし」

 胸が早打つ一方で、「ダメだ」と自分を抑え込む気持ちがその時は優勢でした。

「もうそっちも色々忙しいみたいだし、妙な噂が立つとお互いに良くないから」

 茫然とした目でこちらを見詰める幼なじみに背を向けて通用門の鍵を開けようとしたその時、やにわに後ろから抱きすくめられました。

「何で」

 固まって振り向くことも出来ませんでしたが、すぐ耳の後ろから聞こえる直彦の声には涙が混ざっていました。

「千代に会えなかったら俺にはもう何の希望もない」

 人が来たらどうしようとおののきつつ、私には振りほどけませんでした。

 萎れかけの向日葵が一本だけ傍に咲いていたのを覚えています。

「どうか離れないでくれ」

 幼なじみの服や靴は日暮れの目にも擦れて汚れ、抱き締める腕からは汗と埃の匂いがしました。

 それでも不思議と「汚い」とか「嫌だ」とかいう気持ちは起こって来ず、ただ胸が締め付けられるような感じを覚えたのでした。

 そんな風にして直彦から受け取ったヘアピンですが、それまでそういったものを好んで着けたことのない私がいきなり着ければ周りからも怪しまれますし、何より坊ちゃまの前で直彦から貰ったものを身に飾るのは憚られました。

 でも、人目の無い場所で一度だけなら。

 そんな風に思って夜、坊ちゃまが寝付いてから部屋に戻って鏡台の前で着けてみました。

 鏡に映る自分の顔かたちが他人の目にも美しいとは思いませんし、ヘアピンだって例えばお屋敷の奥様やお嬢様がお着けになるような品と比べればちゃちなものです。

 それでも、不思議に胸が高鳴りました。

 同時に様々な思いが押し寄せました。

 自分はこのままずっと人目を恐れて陽の下ではこれを髪に挿して歩くことも許されないのだろうか。

 これをわざわざ買ってくれた直彦と自由に会うことも叶わないのだろうか。

 このお屋敷で坊ちゃまの子守りとして暮らす限りは全部諦めなくてはいけないのだろうか。

 それしか道は無いのだろうか。

 そこから外れればもっと惨めな暮らししか無いのだろうか。

 十七歳の私には胸が引き裂かれるように感じました。

 どのくらい鏡の中の自分を見詰めていたでしょうか。

 不意に鏡の奥に蒼白い、お人形のように整った、表情が無いのでやっぱりお人形のようにどこか冷たい坊ちゃまの顔が浮かびました。

「ねえや」

 私は思わず固まりました。

 と、鏡の中の坊ちゃまの顔がパッと花が開くように笑いました。

「とっても綺麗だね」

「ああ……」

 返事にならない声を漏らしながらヘアピンを外して振り向くと、寝間着姿の坊ちゃまは花のような笑顔のまま近づいて来て小さな白蓮じみた掌を差し出しました。

「よく見せて?」

 考えるよりも先に手が動いて白い掌に渡していました。

「本当に綺麗だ」

 幼なじみがくれたヘアピンは私の髪に飾られている時よりも坊ちゃまの手の中にある時の方が輝いて見えました。

 どうということのないものでも坊ちゃまが手にすれば急に珍重なものに見えるのです。

「僕まで欲しくなってしまうから、分からない所にしまっておいて」

 再び私の手にヘアピンを戻した坊ちゃまの笑顔はどこか寂しそうに変わっていました。

「分かりました」

 心の奥底に消えずに燻る何かを感じながら、もう坊ちゃまの目に触れさせることがあってはならないと心に決めていました。

「喉が乾いて起きちゃったよ」

「お白湯さゆを淹れましょうね」

 夏だというのに坊ちゃまの小さな手も足も冷え切っていました。熱のない時はいつもそんな調子で決して丁度良い体温になることがありませんでした。


 *****

 それからも坊ちゃまの具合の良い日は浜辺に行って、直彦も頃合を見計らってやって来て短い一時だけ会うようになりました。

 浜辺には古い石垣が立っておりまして、その影に隠れれば道からも姿が見えないので、直彦はそこに凭れて、私は少し離れた場所に立って坊ちゃまを見守って過ごすのがお決まりになりました。

 坊ちゃまは直彦が来るといつも花のような笑顔で

「ねえやのお友達が来たね」

と穏やかに仰いました。

 自分の家の使用人たちよりも明らかにみすぼらしい身なりをした、時には顔に目立つ痣や傷を作って現れる若い男を嫌がったり怖がったり蔑んだりする気配などどこにも見えませんでした。

「あまり遠くには行かないで下さいましね」

という私の言い付けを良く守って、少し離れた波打ち際で蟹やヤドカリを追いかけたり砂のお城を作ったりして遊んでいたものです。


 *****

「逃げよう」

 直彦からそう告げられたのは九月に入って最初の日曜日のことでした。

 坊ちゃまは学校が始まった最初の一日はお加減も良く行かれましたが、やはり家を離れて普段接しない人たちに半日も囲まれると具合が悪くなるのか、翌日からはまた高い熱を出してしまいました。

 それでも、土曜日の夕方頃には良くなってきて日曜日には自分から

「浜に行きたい」

と仰いました。

 数日ぶりに顔を合わせた直彦は砂浜に飛んできました。

「もう坊ちゃまの砂浜遊びはやめたのかと思ってた」

 一頃の暑さが過ぎた風に吹かれながら幼なじみは寂しく笑いました。

「ここ何日かはお加減が悪かったの」

 相手は寂しい笑いのまま繰り返し頷きましたが、ふと苦い声で呟きました。

「坊ちゃまのお加減次第で、こっちは待ちぼうけ」

 石垣に凭れた直彦はむしろ本人がどこか悪くしたように疲れ切って見えました。

「仕方ないでしょう」

――ポッポー、ガタゴトガタゴト……。

 不意に向こうから汽車のやって来る音が響いてきました。

「汽車だ!」

 シャベルで砂のお城を作っていた坊ちゃまは勢い良く立ち上がって指差しました。

「汽車だよ、ねえや!」

 瞳を輝かせてこちらを振り向きます。

「このお時間になると向こうから来ますね」

 夏の間に少し背が伸びて水兵服がぴったり合うようになった坊ちゃまは大きく頷きました。

「だからこの時分に浜に来るのは好きなんだ」

 それをしおにまた背を向けて屈み込み、勢い良く立ち上がった拍子に少し崩れてしまったお城を建て直し始めました。

 直彦はその幼い姿をどこか凍った面持ちで眺めていましたが、やがて思い切ったように、しかし、声を潜めて切り出しました。

主家うちの人たちから聞いたんだけど、一昨年おととし亡くなったそちらの大坊ちゃまは随分な遊び人だったみたいだね」

 思いがけない名前が出て、私は思わずビクリと身を震わせました。

「その、手を出されたとかそういうことは」

 こちらを見詰める相手の目には何だか恐れているような、しかし、どこか求めてもいるような光が潜んでいました。

「それはないわ」

 私は自分の顔が引きつった風に笑うのを感じました。

「普段はあまり家にも寄り付かないかたで、私なんか名前もちゃんと覚えてもらえなかったくらいだから」

 両の乳房をギュッと掴まれた時の痛みが一瞬、蘇りました。

「そうか」

 直彦は安堵したように笑うと、また声を潜めて念を押しました。

「じゃ、今まで誰とも?」

「そうね」

 私は今度こそ偽りのない笑顔で答えられました。

「ずっと坊ちゃまの子守りだけしてきたから」

 それが私の生きる場所を得られる唯一の仕事です。

 しかし、直彦の顔からは笑いが消えました。

「坊ちゃまが大きくなったら、千代はどうするの?」

 半ば答えを予期した風な、哀しい笑いが切れ上がった目によぎりました。

「そうね、お屋敷で女中を続けるか」

 頭に浮かんだのは、大坊ちゃまに仕えていた、あの白髪のばあやでした。

 二年前のあの痛ましい事故の後、ばあやは女中頭として大坊ちゃまの葬儀を気丈に取り仕切り、十八歳のご遺体が焼かれて骨にされ墓に入れられるまで見届けると、お屋敷の物置きの一つで一人首を吊って亡くなりました。

 その物置きには、大坊ちゃまが小さな頃に練習した自転車や竹馬や諸々の遊び道具が仕舞われていました。

 修吾坊ちゃまがあまりそういったものでお遊びにならないのでその物置きは滅多に開けられることもなく、他の使用人たちからは半ば忘れられていた一角でした。

「縁があればかたづくでしょうね」

 自分はあのばあやのようにはなりたくない。

 それがこちらを見詰める幼なじみを前にまず抱いた思いでした。

「その時、千代は幾つかな」

 笑顔ですが、重たい声でした。

「まあ、年増としまとか言われるくらいでしょうね」

 修吾坊ちゃまが十八歳の時には私は二十七歳。

 当時としてはもう「行き遅れ」と嗤われる年配です。

「それはこっちも一緒だけど」

 直彦は一夏の間に伸びた固い黒髪の頭を緩やかに横に振ると、きっぱり告げました。

「その時までもう待てない」

 訪れた沈黙にザザーンと打ち寄せる波の音が思い出したように浮かび上がりました。

 磯の香りもふと蘇ったように通り過ぎます。

「この街にいたら、その時まで俺の命が多分持たない」

 直彦の目は私を越えて砂のお城の気に入らない部分を叩き壊してまた作り直している坊ちゃまのいる方に注がれていました。

「お前があの坊ちゃまを可愛く大切に思うのは分かるんだ。でも……」

 幼なじみの見詰めているのが修吾坊ちゃまなのか、その向こうに広がる海なのかは図りかねました。

 不意に直彦は擦り切れた靴の足で立ち上がると、どこかよろよろとした足取りで坊ちゃまのいる方に歩き出しました。

 幼い子に何をするつもりか。

 寒気が走るのを覚えて行く手に立ちました。

 と、それは思い違いで相手は私の片手をギュッと握り締めました。

 咄嗟にこちらは坊ちゃまの方を向き直りました。

 向き合って手を握り合う恋人同士の姿をあの無邪気な瞳に見せてはならない。

 そう思いました。

 坊ちゃまは水兵服の背中を向けたまま振り返る気配はありません。

「一緒に逃げよう」

 耳許に囁く声が聞こえたのはその時です。

「今夜の汽車で」

 再び沈黙が訪れてザザーンと波の音が耳の中を通り過ぎました。

 繋いだ手と手の間がジュッと汗でぬめって体が震えるのを感じました。

 どちらの汗なのか分からない匂いも立ち込めてきます。

――一緒に逃げよう。

 あの硝子の飾りの着いたヘアピンを貰った日から心の奥底でずっと待ち望んでいた、しかし、一番恐れてもいた言葉でした。

 駆け落ち。貧しくつてもない二人でそんなことをすればどうなるか。早晩窮地に陥って互いを恨み合う未来しか待ち受けていないのではないか。

 十七歳の私は直彦を好いてはいても、決して盲目ではありませんでした。

「大丈夫だよ」

 汗で濡れた私の指の間を割り込むようにして相手は自分の指を絡ませてきました。

「ずっと前から行く当ては考えてあるから」

 振り向けないまま、がさついた太い指が力の抜けた自分の指を締め付けてくるのを感じました。

――ザン!

 不意に一際大きな波の音が響いて潮の香りがさっとこちらまで吹き抜けました。

 波が一瞬高く盛り上がって叩き付けられたものの、砂浜への広がりはそこまでではなくゆっくり引いていきました。

 と、坊ちゃまの砂の城の片側が酷く崩れてしまっているのが目に入りました。

 今の波の響きで壊れてしまったのでしょうか。

 陽射しで影になった水兵服の後ろ姿は腕を盛んに払っています。

 思わず駆け寄ろうとする私の手を直彦はグッと引き留めました。

「使用人なんて代わりは幾らでもいるんだよ」

 恋人は虚ろな目で今しがた崩れたばかりの砂のお城を建て直している幼い水兵服の後ろ姿を見詰めました。

「ああいう人たちにとって俺らは捨て石でしかない」

 重い声で語る直彦にとっては確かに身を持って知った現実ではあるのでしょう。

「お前が居なくなっても、あの坊ちゃまにはまた代わりの子守りが付けられて終わりだよ」

 十七歳の下男は肩を竦めて乾いた笑いを浮かべました。

「そりゃ、暫くは恋しがって泣くだろうけどね」

 首を横に振って笑いを消すと、今度は真っ直ぐこちらを見詰めました。

「でも、俺にはお前の代わりはいない」

 黙している私に相手は続けます。

「ここを出たら、遠くに嫁いだ叔母さんのうちに行ってみるよ」

 思い詰めた眼差しがふっと懐かしげに潤みました。

「小さい頃、とても優しくしてくれた人だから大丈夫」

 後ろ手に絡ませられた指がギュッと改めて縛り上げるように締め付けられました。

「じゃ、日暮れにまたここで」

 さっと直彦の手が離れて、掌にひんやりと空っぽな風が通り抜けました。

 相手は返事を待たずに主家への道を駆けていきます。

 自分は一体、どうしたものか。

 冷たい汗が背筋に湧いて流れるのを感じました。

 と、砂のお城を建て直していた水兵服の背中が真っ赤なシャベルを傍に放って振り向きました。

「ねえや、かくれんぼしようよ」

 あどけない、開いた花のような笑顔が走ってきます。

「今日は僕が鬼になるから。百まで数える内に、ねえやは出来るだけ遠くに隠れて」

「分かりました」

 私はこのまま自分の体ごとどこかに消えてしまいたいような気持ちで海辺を少し離れた場所に広がっている木立に駆け出しました。


 *****

「随分お時間が懸かりましたね」

 九月の日はもうかなり傾いていました。

「だって、僕、違う方を探しに行ってとっても疲れちゃったんだもの」

 坊ちゃまは大きな目の下にうっすら隈を作って大層お疲れのようでした。

 混乱していた私は子供には本当に分かりづらい場所に隠れてしまったようです。

「おうちに帰ったらゆっくりお休みしましょうね」

 屋敷に帰ったら、麦茶と塩水に浸けた林檎をお出ししよう。

 そんなことを思いながら、ふと砂浜に目を走らせると、既に全体が形を失って崩れた砂のお城の傍らにシャベルが放られたままになっておりました。

「シャベルをお忘れですわ」

 お疲れの坊ちゃまに代わって砂浜に降りて拾い上げると、真っ赤なはずのシャベルはところどころ塗料が剥げて端が微妙に欠けた箇所もありました。

「もうボロボロですね」

「だって随分使ったもの」

 寂しそうに俯く坊ちゃまを目にして、私は恋人にかまけてまともに坊ちゃまのお使いになる物に注意を払っていなかった自分を改めて恥じました。

 同時に直彦との約束が改めて胸に迫ってきて引き裂かれるような思いでお屋敷への道を急ぎました。


 *****

 お屋敷に帰ると、私が麦茶と塩水に浸けた林檎を用意して部屋に運んだ時には坊ちゃまは疲れていたのでしょう、すっかり寝入っていました。

 別室にお布団を引いてそちらに運びながら耳元で

「ねえや……行かない……で」

と囁かれた時には背筋がビクリとしましたが、単なる寝言だったらしく、お布団に寝かせるとそのままスヤスヤと無心に寝息を立て始めました。

 窓の外はもう暮れかかっています。

 まだ疲れを示す隈の残る、あどけない寝顔を見下ろしながら、頭の中では直彦の言葉が鳴り続けていました。

――坊ちゃまが大きくなったら、千代はどうするの?

――その時までもう待てない。

――使用人なんて代わりは幾らでもいるんだよ。

――俺にはお前の代わりはいない。

――一緒に逃げよう。

 直彦はもうあの浜の石垣の所に来ているだろうか。

 自分がもし行かなければ、一人で汽車に乗って遠くの叔母さんの家へ行ってしまうだろうか。

 それとも、また新田のお屋敷に戻るだろうか。

 どのみち私に裏切られたと思うだろう。顔を合わせても、もう今まで通りという訳には行かない。

――あの嘘つき女。

――臆病者おくびょうもんが。

 自分への軽蔑や失望を込めた表情で背を向けて行ってしまう恋人の姿を想像すると、十七歳の私には居ても立っても居られなくなりました。


 *****

 買い物籠にあの硝子の飾りの付いたヘアピンと今まで貯めた給金を入れて、といっても実家に仕送りしたりして大した額はありませんでしたけれど、先輩の女中に

「坊ちゃまがお休みの間にお使いに行ってきます」

と告げて外に出ました。

 手にはお屋敷の通用門の鍵をしっかり握り締めたまま、私は道を早足で歩き始めました。

 とにかく一度、直彦と顔を合わせなければならない。

 会ってどうするのかは決めかねたまま、会ったらどうなるのかは図りかねたまま、足だけは約束の場所に向かって行くのでした。

 と、日暮れの浜辺が見えてきた所で、そこにいつにない人集ひとだかりが出来ているのが認められました。

 先に来た人が持ち寄ったらしい灯りもチラホラ見えます。

 と、その私の目の前を先んじて横切って浜辺に降りていく二つの人影がありました。

「とうとうあの石垣が崩れたか」

 一人は米内よないの若旦那様でした。

 ええ、今はホテルに改装して残っているお屋敷の、当時のご主人です。

 大学で建築を学ばれたという方でした。

「古くて危険だと何度も新田には申し入れたのに」

「死人は今の所、一人だけだそうです」

 付き従って駆けていく禿げ上がったお爺さんは恐らく米内の家令のじいやでしょう。

“石垣が崩れた”

“死人は一人”

 頭の中で今、耳にした情報が繋がった瞬間、ワーッと全身の血が沸き返るような感じが起きて、私は手にはなおもお屋敷の鍵を握り締めたまま弾かれたように砂浜を駆け降りていました。

 人集りの中から地面に横たえられている砂埃にまみれたトランクと見慣れたズボンの足、擦り切れた靴を目にした瞬間、耳の中から物音が全部消えました。

 体から力が抜けてその場にがっくり座り込むことって本当にあるんですね。

 ええ、二度とは経験したくありませんけれど。

「どうして」

 理不尽に突き落とされた不遇な暮らしの中で一縷いちるの望みを抱いて逃げようとした直彦が死ななければいけない理由がどこにあるのでしょう。

 桜の舞い散る季節に私と坊ちゃまの前に現れてからまだ半年も経ってないのに。

 自分の身なりも構わずに私にヘアピンを買ってくれたのに。

 臆病な私を強く抱き締めてくれたのに。

 お前の代わりはいないと言ってくれたのに。

――ポッポー、ガタゴトガタゴト……。

 ただ泣くしか出来ない私の耳に駅を新たに発った汽車の音が響いてきました。

 暗くなっていく空には半分だけの月が高く上っていて、砂浜には夕闇に半ば透けるような蒼白い宵待草よいまちぐさが群れて揺れておりました。

 直彦の亡骸はまともに連絡の付く引き取り手もないということで無縁仏にされました。

 そちらにも九月の命日にはお参りしています。

 二人とも若いというより子供でしたし、生きていればどうなったかは分かりませんけれど、

「俺にはお前の代わりはいない」

と言って死んだ人ですから。

 それからはご縁談が無いわけではありませんでしたが、お断りして坊ちゃまにお仕えする道を選びました。

 私にはもう他の人に嫁ぐ資格は無いのだと思いました。


 *****

 修吾坊ちゃまは本当に優しい子でした。

 直彦が死んで一月と少し経った頃です。

 ちょうど満月の晩で、その日はお加減の良かった坊ちゃまとお庭の蓮池の近くでお月見をしました。

 松虫や鈴虫のリンリンと鳴く声が涼やかに響いていたことを良く覚えております。

「月がとっても綺麗だね」

 坊ちゃまは透けるように白い、円な瞳の輝くような笑顔で仰いました。

「ああ、そうですね」

 温かいような、冷たいような象牙色の満月が夜空に煌めく星の中で一際大きく陣取っていました。

「まるで手が届きそう」

 半ば独り言として付け加えた私の中に浮かんでいたのは、直彦の浅黒い、切れ長い目の苦く寂しい笑顔でした。

 二人で幸せになろうと懸命に動いた恋人は半月の晩に崩れた石垣の下敷きになって死に、煮え切らない気持ちでグズグズしていた自分はこうして安全な所で生きながらえている。

 これからどれほど月が満ち欠けを繰り返しても、あの人はもう戻ってこない。

「ねえやは近頃、どこかお加減が悪いの?」

 ふと、八歳の坊ちゃまがお池に映る月を見下ろしてぽつりと仰いました。

 松虫や鈴虫の鳴く声に紛れてしまいそうなほど密やかな声でした。

「ねえやはどこも悪くありませんよ」

 答えつつギクリと背筋に走るものがありました。

 直彦のことを引き摺って思い煩っているのが顔に出ていたのだ。

 私は強いて笑顔を作って坊ちゃまの背を擦りました。

 お仕えしてから年相応に背は伸びたとはいえ、相変わらず肉の薄い、骨の細い体です。

母様かあさまが亡くなる前の寂しいお顔にそっくりだ」

 蒼白い中高な横顔の見詰める先では、空の眩しい月より少し暗い代わりにより艶やかに輝く月が水面で幽かに揺れておりました。

 湿った土の甘い匂いが通り過ぎるのを感じました。

「一緒にお庭の牡丹や蓮の花が咲くのを見て草餅を食べようと約束したのにその前に亡くなってしまった」

 こちらを振り向いた坊ちゃまの顔は、大きな両の瞳から透き通った光る雫が伝い落ちていくところでした。

「代わりにねえやが来てくれた」

 人形じみた端正な面が急にグシャリと紅く泣き崩れました。

 私は思わず坊ちゃまを胸に抱き締めました。

「ねえやは死なないで。不意に居なくならないで」

 秋のひんやりした空気の中で胸だけが坊ちゃまの涙と吐息で熱く濡れていくのを感じました。

「僕はねえやが遠くに行ってしまうのが怖いんだ」

 細い腕がギュッと私の腰を抱き返しました。

「ねえやはどこにも行きませんわ」

 坊ちゃまがここで必要として下さる限り、他に行くべき場所などあるでしょうか。

「僕より先に死なないで」

 薄い体が絞り出す声には悲痛な響きがありました。

 賢い坊ちゃまでしたから、病弱な自分の未来にどこか予感があったのでしょう。

「坊ちゃまがお元気になるまでは死ねませんわ」

 これから冷え込むからもっと滋養のある物を食べさせなければと思いつつ、骨の細い相手の背を軽く叩きました。

「ねえやは丈夫なだけが取り柄ですから、すぐには死にませんよ」

 それをしおに坊ちゃまを促して母屋の方に向き直らせました。

「そろそろ冷えますから、お部屋に戻りましょう」

 鈴虫の声が未だ鳴り響く月明かりの下、相手は素直に自分から手を繋いで戻ります。

「兄様もねえやのお友達も死んでしまったよ」

 顔を影にした坊ちゃまはふと寂しい声で仰いました。

「二人ともまだ若くて、僕のように弱い体ではなかったのに」

 大坊ちゃまは十八歳、直彦は十七歳。本人たちにとっても思いがけなく襲った死であったのに違いありません。

「思いがけなく死んでしまう人もいるんですよ」

 私の言葉に八歳の坊ちゃまはどのように思われたのか、それきり口をつぐんだままでした。


 *****

 修吾坊ちゃまが亡くなったのはそれから七年後、十五歳の年の暮れでした。

 私は二十四にもなっておりました。いえ、今なら十分に若い年頃ですし、その頃でも決してお婆さんの扱いではありませんけれども、もう坊ちゃま以外の新たな夢を持つには心がとうに老けておりました。

「もうすぐ死ぬんだね」

 床に就いた坊ちゃまはすっかり大人になった声で、薬の匂いの中でどこか安堵した笑いすら浮かべて仰いました。

「分かるよ。この冬は越せない」

 見詰める硝子戸の向こうでは、積もった雪の上に紅い山茶花さざんかの花弁がまた新たに散って落ちるところでした。

「僕はきっと地獄に落ちる」

 唇まで紙のように白くなってしまった坊ちゃまの笑いは寂しくなりましたが、しかし、確りした声で続けました。

「でも、悔いはないよ」

 弱々しく伸びてきた手を私は思わず握り締めました。

 こちらの荒れた厚ぼったい手が恥ずかしくなるような、滑らかな、白い、薄い、穢れを知らない手でした。

「ねえやが最期まで傍にいてくれたんだから」

 そこで坊ちゃまの顔がぐっと苦しげに歪みました。

「他の人はどうでも、ねえやだけは許してくれるかな」

 白い手が一瞬、ぎゅっと爪痕が付くほど私の手を強く握り締めました。

「僕は……」

 そこまで告げた所でガクリと全てが崩れ落ちました。

 温めようと握り締めてもどんどん私の手の中で冷えて固まっていく小さな手を、それをどうすることもない自分をこれほど恨めしく思ったことはありませんでした。

 硝子戸の外ではまた新たに降り出した雪がお庭の蓮池にも、敷石にも、そして散ったばかりの山茶花の花弁にも積もって覆い隠していきました。


 *****

 今年もまた修吾坊ちゃまの命日が来ました。

 ええ、だから無理をしてあの山にお墓参りに行ったのです。

 ずっとお屋敷にいてまともに学校にも通えない坊ちゃまでしたから、今となっては私くらいしかお参りする人もいないし、自分だけは坊ちゃまを忘れてはいけないとも思いますので。

 え?

 坊ちゃまは本当は実の兄や私の恋人に恐ろしいことを仕出かしたのではないかと?

 そんなことは有り得ませんよ。

 坊ちゃまは大人の汚い世界や醜い欲望など最期まで知らずに逝った、菩薩のように清らかな子供だったのです。(了)

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君に花を葬《おく》る 吾妻栄子 @gaoqiao412

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