君に花を葬《おく》る

吾妻栄子

前編

 いや、お車に乗せていただいて助かりました。

 年を取ると、山道はきついですね。

 まして、今日のように雪が降ったりすると。

 ええ、でも、今日のお墓参りだけは外せなかったんですよ。

 昔、お世話になった方の命日でして、今では私くらいしかお参りする人もいないもので……。

 着きましたね。ありがとうございます。

 せっかくですから、お茶でもいかがですか?

 この通り、年寄りのむさ苦しい一人住まいですから、楽になさって。


 *****

 お茶入りましたよ。

 そんなに美味しいですか? ありがとうございます。

 いや、昔、お屋敷の女中をしておりまして、そこで厳しく教え込まれたものですから。

 ええ、津川つがわのお屋敷です。今は廃屋で幽霊屋敷とか呼ばれていますね。

 私は十五の年にそちらの小さい坊ちゃまの子守りとして女中に入ったのです。

 ちょうど津川の奥様が亡くなって、六歳の坊ちゃまの子守りが必要になったのです。子守を新たに付けるにはちょっと大きなお年でしたけれど、生まれた時から弱くて病気ばかりしている坊ちゃまでしたから。


 *****

 その坊ちゃまの名は修吾しゅうごと仰いました。

 こちらがその写真です。古くなりましたが、今も持っています。

 ええ、とても可愛らしいでしょう?

 見る人は大体、最初は坊ちゃまではなく嬢ちゃまと間違えたものです。

 隣の私も若いというよりは子供ですね。


 *****

 この可愛らしい坊ちゃまがどのような方だったかと?

 そうですね、初めて坊ちゃまにお会いしたのは、桜がもう散って代わりにお庭に牡丹が咲いていた頃でした。

 ええ、仰る通り、津川のお屋敷の庭園は、往時はそれは見事なものでした。亡くなった奥様が病弱で自由に外にも出られない息子のために様々な花を植えて丹精を込めて作られたとのことで。

 ただ、その日、坊ちゃまにお会いするまで、私は正直、とても憂鬱でした。それまで生家にいる時も弟や妹の世話はしておりましたけれど、お給金を貰って他所のお子さんの面倒を見るのは初めてでしたし、こんな立派なお屋敷で生まれた時から使用人たちに仕えられて暮らしている坊ちゃまならきっとわがままな、自分のような貧しい生まれの子守娘など人とも思わぬ子供に違いないと思ったのです。

 初めてお屋敷に来て先輩の女中から

「修吾坊ちゃまなら今、お庭にいるから。今日はいくらかいいけれど、いきなりお熱を出したりすることもあるから、これからはあなたが気を付けて」

と言い含められて庭に向かいながら、早くもみすぼらしい我が家に戻りたいような気持ちでおりました。

 ええ、口減らしに奉公に出されたのだとは知っておりましたけどね。

 病気の坊ちゃまの付きっきりの世話なんて下手をすれば自分も妙な病気を伝染うつされる恐れもあるから、他の使用人たちも避けて新たに貧乏な娘を子守りに雇い入れたのだという気配も察しなくはありませんでしたし。

 足を踏み入れたお庭にはそれは見事な大輪の牡丹が咲き誇って馥郁とした香りが漂っておりました。

 しかし、それすら恐れ入った貧しい娘の身には

「ここは本来お前のようないやしい者の来る場所ではない」

という無言の蔑みのようで却って気が重くなったのを覚えております。

 さて、庭の真ん中に作られた池の所には大きな岩がありまして、そのすぐ傍に水仙の花が一輪だけ咲いており、花の上には烏揚羽からすあげはが一羽留まっているのが見えました。

 あの水仙は植えたものかしら、それとも自然に生えたものかしら。

 そんなことを思いながら歩いていくと、ふとその鮮やかに黄色い花か、黒地にあおい光を秘めた蝶かのあわいに、すっと雪のように白い、細く長い指をした、縦長に揃った爪は紅水晶じみた滑らかな薄紅うすくれないの手が伸びました。

「あ……」

 思わず声を上げた私の目の前をさっと羽を陽射しに緑色に光らせて蝶は横切って行きました。

「ちょうちょが逃げちゃった」

 おっとりした、いとけない声で話すその人が自分と同じ人間だとにわかには信じられませんでした。

「あれは光の加減で色が違って見えるんだね」

 絹めいた滑らかな光を放つ真っ直ぐな黒い髪も、日陰の雪のように蒼白く小さな顔も、黒玉じみた大きく円らな瞳も、鮮やかな弓なりの眉も、全てが常の人とは別な物で出来ているように見えました。

 いや、そんな人がいる訳はないとは十五の小娘の頭でも分かりますけれど、その時の私は見蕩みとれるというより、むしろ、恐ろしい化け物にでも出会でくわしたようにただ目を見張るしかなかったのです。

「お客様?」

 つと、目の前に立つ相手が黒髪の頭を傾げて澄んだ声で訊ねました。

 初夏の陽射しを受けた前髪も、その下の大きな瞳も眩いほど輝いていて、こちらの方が遥かに体も大きいのに何故か見下ろされているように感じます。

 私はといえば、みすぼらしい我が家から出てきた時の、着の身着のままのなりをしておりました。

 我に返って深々と頭を下げ、前もって練習していたご挨拶を述べました。

「今日から坊ちゃまのお世話係になった千代ちよと申します」

 こちらが頭を戻すと、目の前の坊ちゃまは相変わらず小首を傾げたままであどけない声で仰いました。

「千代さん?」

 私は思わず吹き出しました。

「ねえやとお呼び下さい」

 すると、坊ちゃまはにっこり笑われました。

 周りの空気がさっと澄むような、体は薄く小さいのに大きく芳しい花がパッと一気に開いたような、目にするこちらはそんな思いに囚われる笑顔でした。

「ねえや、だね」

 ゆっくり頷くと、坊ちゃまはふと思い出した風に手前の池に花開いた薄紅色の蓮を指し示します。

「さっきの蝶はね、最初はこの蓮の花に留まっていたんだ」

 そこまで語ると、小さな白い手が開かれて揺れました。

 何だか薄紅色の蓮の上に、白蓮びゃくれんが新たに花開いたように見えました。

「蜘蛛の巣に掛かると可哀想だから手で払って逃がした」

 仔細に眺めると、薄紅の花には陽射しに幽かに光る糸が掛かっていました。

「蜘蛛には可哀想だけどね」

 清らかな、どこか冷たい蓮の香りが漂う中で坊ちゃまはいとけない声で呟きました。

「蝶なら好きな所へ飛べる。でも、蜘蛛なら自分一人のおうちが作れるよ」

 六歳の坊ちゃまは薄紅の蓮の花に掛かったあえかな白い糸の巣を見下ろして続けました。

「もし生まれ変わるならどちらがいいかな」

 午後の陽を浴びて、主の姿の見えない巣は半ば透き通って煌めいていました。

 その日から今のこの年齢としまで何人も可愛らしいお子さんや、また大人で綺麗な方にお会いする機会は沢山ありましたが、修吾坊ちゃまを初めて目にしたこの時ほどの驚きを持って眺めた方は一人もおりませんでした。

 そんな風にして修吾坊ちゃまの子守を始めたわけですが、不器用で物慣れない私に対しても「ねえや」「ねえや」とよくなついてくれました。

 いえ、他の使用人に対してもおっとりした良い子でしたけれどね。

 そもそも怒るとか癇癪を起こすとかいうことがまずありませんでした。

 私の世話など今、思い出すと、至らない点ばかりでしたけれど、修吾坊ちゃまだから何とか勤められたのだと思います。

 まあ、他の使用人たちは皆、もう大人でしたし、御兄弟も一回りも離れていましたから、修吾坊ちゃまからすれば唯一人の遊び友達のような気持ちだったのかもしれませんね。


 *****

 ええ、修吾坊ちゃまは一人っ子ではなく一回り離れたお兄様が一人だけいらっしゃいました。

 そちらはどのような方だったかと?

 そのお兄様は本当の名前は貞吾ていごと仰いましたが、お屋敷では「大坊おおぼっちゃま」、他所よそでも「津川の大坊ちゃま」ともっぱら呼ばれておりました。

 仕えていたお屋敷の坊ちゃまを悪く言うのはこちらとしても気が引けますけれど、私が奉公していた頃にはこの大坊ちゃまについて外でも良い評判を耳にすることはまずありませんでした。

 まあ、この大坊ちゃまの素行については家で直接ご本人から窺い知るよりも他所で噂を耳にすることの方が遥かに多かったのですが、「女郎屋に入り浸っている」とか「カフェーの女給を孕ませた」とか他にも色々ありましたけれど、平たく言って放蕩息子の類いでした。

 高等学校に籍は置いてらっしゃいましたが、どの程度通われていたかは怪しいもので、「父親である旦那様が校長とお友達だから本来は落第、放校のはずなのに進級した」という噂もありました。

 この放蕩者の大坊ちゃまは普段はあまり家にもおられませんで、たまに帰ってきた時には「ばあや」と呼ばれていた白髪の年配の女中が専らお世話をしておりました。

 ちなみにこのばあやは当時お屋敷にいた女中でも一番の古株でして、髪はもう真っ白で顔には深い皺が刻まれておりました。

 十八歳になる大坊ちゃまの乳母だったということですが、本当のところはあの当時でも何歳だったのかは何となく訊けませんでしたし、今となっては知る術もありません。

 そういうわけで奉公に上がった牡丹の季節から紅葉の季節を迎えるまで、私はこの大坊ちゃまとは接する機会も殆どありませんでした。

 それはすっかり涼しくなって蟋蟀こおろぎの鳴く晩のことでした。

 私はその日も少し熱っぽい修吾坊ちゃまに薬湯を飲ませて寝付かせたところでした。

 隣でやっと寝入ってくれた、今夜は旦那様が送って寄越した坊ちゃまの冬物の服を少し手直ししないとなどと思いつつ、何となくウトウトしていると、急に玄関の方からガヤガヤと騒がしい声とドタドタいう足音が聞こえてきました。

 何だろうと思う間もなく、急にふすまが開いて先輩の女中の一人に声を掛けられました。

「ちょっと、あなたも手伝って」

 まるで聞き付けられるのを恐れるように相手は声を潜めて続けました。

「大坊ちゃまがお友達を連れてお帰りになったから」

 台所に行くと、既に他の女中たちが揃っており、一番年下で新入りの私の姿を目にすると、互いに顔を見合わせました。

「台所での準備は私たちがするから、あなた、八重やえさんと一緒にお座敷に持ってって」

 八重さんとは白髪のばあやのことです。古株の使用人同士ではそんな風に名前で呼ばれていました。まあ、「ばあや」と呼ばれても本人は気にする様子もありませんでしたけど。

「じゃ、行きますよ」

 既に二人で運んで行く分のお膳を用意した八重さんことばあやは「大丈夫よ」という風に微笑んでおりました。

 お座敷に着くと、まあ、皆さんが脱ぎ散らかしたマントやら制帽やらで空き巣が入った後のようになっておりました。

 既にどこかで飲んできたのか全員ともうっすら赤い顔をしておりました。

 上座の大坊ちゃまだけは飲んでもあまり顔に出ないたちなのか、常と変わらぬ蒼白い顔をしておりましたが。

「この子、初めて見たな」

 お友達の一人が膳を運んできた私の姿を目にしてふと気付いたように言いました。

「弟の子守りだよ」

 十八歳の大坊ちゃまは乾いた笑いを浮かべると妙にざらついた声で続けました。

「普段は六つの坊やの上膳据膳あげぜんすえぜん、背中を流して、おとこまで一緒と来たもんだ」

 周りからどっと笑う声がしました。

「坊ちゃま」

 まだ若い張りのある声で厳しく制したのはばあやでした。

したの者をあまりからかわないで下さいまし」

 そうだ、自分なんか下の者だ。使用人たちの中ですら。他の女中たちもこういう扱いを受けると知っているから配膳役を押し付けたんだろう。

 膳を並べ終えた私は散らかっているマントや制帽を片付け始めました。

 お客様の持ち物に勝手に触れるのはどうかと思いましたが、そのくらい酷い脱ぎ散らかしようだったもので。

「お前には話し掛けてない」

 棘のある大坊ちゃまの声が響きました。

「酒が足りないんだからババアはさっさと持って来い」

 私なら今のこの年でもそんな言い方されたら怒りますけどね、白髪のばあやは表情を消して廊下を戻って行きました。

 大坊ちゃまは苛立った表情で胸ポケットから煙草を取り出して口にくわえると、そこでふと思い直したようにこちらを向きました。

「おい」

 ポケットから新たに取り出したマッチ箱を私の方に投げます。

「火を点けろ」

「はい」

 クスクス笑う声が周りから聞こえる中、震える手でマッチを取り出して擦り、こちらを険しい目で見据えている大坊ちゃまの手にした煙草の先に何とか火を点けました。

あつっ」

 マッチの方に残る火を消し忘れて、指先を軽く火傷してしまいました。

「本当に何にも知らないんだな」

 フーッと向かいの大坊ちゃまから煙を吐き出されて、一気にこちらは煙くなりました。

 この服、部屋に戻ったら替えなくちゃ。こんな煙たい匂いでまた修吾坊ちゃまが咳き込んだら困る。

 肺や気管支の弱い弟がいるのにどうして大坊ちゃまは煙草なんか吸うんだろう。

 そうでなくてもお屋敷育ちの坊ちゃまで上の学校にまで通わせてもらっているはずなのに、どうしてこの人はこんなに自堕落な、嫌な感じなのか。

 もちろん、修吾坊ちゃまとご兄弟ですから、真っ直ぐな黒い髪や蒼白い小さな顔、大きな目など顔かたちは似たところもありますし、一般には風采の良いかたです。

 身につけてらっしゃる物も一見して高価な品と知れました。

 ただ、何というか、この人の病気でもないのにどこか気怠けだるそうに頬杖をついて座している姿や斜から相手を眺めるような表情からは、崩れた、荒んだ気配が感じられました。

 連れてきたお友達も大概似たような放蕩息子風でしたが、大坊ちゃまはその中でも棘を含んだ表情が際立って見えました。

 それとも、大坊ちゃまも修吾坊ちゃまくらいの頃は素直な可愛らしい子だったのにどこかで損なわれてこうなったのだろうか。

 修吾坊ちゃまも大きくなればこうなるのだろうか。

 次は言われる前に上手く動かなければと頭では考えつつ、私は気が滅入るような思いで紫煙の向こうの大坊ちゃまを見詰めました。

 そうする内に煙の靄が消えてきて、ふと相手とかちりと目が合いました。

 大坊ちゃまは一瞬、虚をつかれた面持ちになると、所在なげに灰皿に煙草を持った手を落としました。

 こちらは気まずくなりました。

 きっと、子守娘から自分が落とす風に見られていることをこの人も察したんだ。

 普段から「放蕩息子」「困り者」と影で嗤われていることを本人も知らない訳はないし、家に帰ってきてまで使用人からそんな目を向けられて気分がいい訳がない。

 そう思い至ると、相手に急に申し訳ないような、気の毒な気持ちになりました。

 大坊ちゃまは暫く陰鬱な目で煙草の先をギリギリと灰皿に押し付けて潰すと、急にふっと口の端を歪めて笑う顔をこちらに向けました。

「お前、チエだっけ?」

「千代です」

 奉公して五ヶ月でしたが、大坊ちゃまは私の名前すらまともに覚えていなかったようです。

 すると、傍らで見ていたお友達たちが吹き出しました。

「チエだったらあれと一緒じゃないか」

「ほら、あすこのカフェーに前いた」

 話題にされているチエさんが実際どういう人なのか知りませんが、いつか聞いた“津川の大坊ちゃまがカフェーの女給を孕ました”という噂を思い出して、何となく胸がぞわぞわするのを感じました。

「ああ、あいつか」

 大坊ちゃまはどこか笑いを苦くすると、カフェーの女給どころか女中の中でも地味で垢抜けないなりをした、化粧などもちろんしていない私を指差しました。

「あれ、化粧を落とすとこういう顔だったんだよ」

 また周りからどっと笑う声が上がりました。

 こちらは俯くことしか出来ません。

 他の人と比べてお前は不器量だとか貶されるのも嫌ですが、一緒にされて嗤われるのも屈辱的なものですね。

 上座の大坊ちゃまはどこか見透かすような目で十五の子守娘を見下ろすと、名前を訊ねた時と同じ口の端を歪める笑いで言い放ちました。

「まあ、チエはふくよかだったけど、こいつは痩せっぽちだからここはちょっと違うな」

 着物の上からギュッと押し上げるように両の胸を掴まれました。

 え……?

 一瞬、何をされたか分かりませんでした。

 次に襲ってきたのは怒りや恥ずかしさではなく驚きでした。

 この人、人前で何をしているの?

「あはは」

 驚いて固まっているこちらの様子がそんなにおかしいのか、大坊ちゃまは笑ってこちらに身を乗り出して来ました。

「おい、ちょっと」

「怖がってるよ」

 さすがに周りのお友達も異変を察したらしく不安げな調子に変わりました。

「下の具合はどうかな」

 大坊ちゃまの手が着物の胸から太腿に移った瞬間、全身にゾワッと悪寒が走り抜けました。

 反射的に私は相手の手を払い除けて立ち上がっていました。

 思い切り振り払ったので、こちらの手が大坊ちゃまの片目に強かに当たりました。

「あ……」

 立ち上がった私の目にちょうど酒を持って廊下を歩いてきたらしいばあやの茫然と見つめる姿が入りました。

 シンと嘘のように静まり返った中、すぐ傍に目を移すと、尻餅をついた格好で片目を押さえている大坊ちゃまがやはり驚いた風にこちらを見上げている眼差しとぶつかりました。

 と、その眼差しが驚きから激しい怒りに転じました。

「この……」

「ねえや!」

 不意にいとけない声が響き渡りました。

 全員がそちらを見やると、寝巻き姿の修吾坊ちゃまが泣きながら駆けてくる所でした。

「一人だとお化けが出て怖いよ」

 真っ直ぐに駆けてきて私の胸に抱き付きます。

「真っ暗な部屋に一人は怖いよ」

 あどけない声にふっと周囲の空気が和らぐのが分かりました。

「ねえや、一緒に行こうよ」

 小さな手に引かれる格好で寝室に向かいました。

 誰も止める声はありません。

「もう遅いから、俺らもそろそろ失敬しっけいするよ」

 お友達の誰やらが告げる声をしおにバサバサと立ち上がる気配が後ろでしました。


*****

 添い寝して寝かし付けると、修吾坊ちゃまはすぐに安らかな寝息を立て始めました。

 暗がりの中で私は改めて自分の仕出かしたことを思い出して震え上がりました。

 自分は満座の前で主家の坊ちゃまを殴ったのだ。

 間違えて手が当たったと言い訳したところで大坊ちゃまが

「こいつが殴った。許さない」

と撥ね付ければそれでおしまいだ。

 片目を押さえ付けてこちらを睨み付けた、あのゾッとするような険しい目が思い出されてワーッと恐怖が迫り上げました。

 明日には出ていけと言われるかもしれない。

「ねえや」

 眠ったと思っていた修吾坊ちゃまが不意に声を出しました。

「泣いてるの?」

 いとけないのに労るような声でした。

 私は坊ちゃまの小さな薄い体を抱き締めました。

 これが今夜で最後になるかもしれないと思うと、本当に得難い宝のように思えました。

「ねえやもお化けが怖いんです」

 本当に怖いのは生きた人です。

 その後は二人とも黙っていましたが、私は眠れないまま坊ちゃまを胸に抱いて蟋蟀の鳴く声を聞いていました。

 翌朝、大坊ちゃまはどこにいらしたのか既に姿はなく、白髪のばあやや他の女中たちが何となく固い面持ちでこちらを眺めているほかは変わったことはありませんでした。

 そのまた次の日になっても、また明くる日も「辞めろ」という話は出ませんでした。

 しかし、それで話は終わりではなかったのです。

 先にもお話しましたように、大坊ちゃまは普段は殆ど家にいらっしゃいませんでした。

 しかし、その一件があってから、たまにお帰りになると、必ず用向きを私に言い付けて後からこんな粗相があったと当て擦るようになりました。

 出掛けている間に部屋の掃除をしろと言われてお部屋に行くと、机の上にいわゆる責め絵というか、若い娘が縄で縛られて吊るされているような絵の本が広げられていることもありました。

 白髪のばあやが入ってきてパタリと本を閉じると、

「後は私がやりますから、あなたは修吾坊ちゃまのお世話に戻りなさいな」

と言ってはくれましたが。

 私はといえば一度不興を買うようなことをしてしまっている以上、小さくなっているより外はありませんし、他の使用人たちもばあや以外は大坊ちゃまの気性を知ってか自分に火の粉が来るのを恐れてか見て見ぬ振りです。

 実際、大坊ちゃまは私に辛く当たるのと並行してばあやに対してもますます酷くなりました。

 秋もすっかり深まり、お庭にも銀杏いちょう紅葉もみじの落ち葉が積もるようになった頃です。

 その日はお加減の良かった修吾坊ちゃまと私が落ち葉や栗やドングリを拾って遊んでいました。

 ばあやはその近くでほうきを持ってお掃除をしておりました。

 そこにふらりと一人帰ってきた大坊ちゃまから

「おい、チエ」

と呼び掛けられました。

 ギクリとして振り向くと、

「ああ、千代だったな」

と相手は口の端を歪めて笑うと続けました。

「お茶を淹れてくれ」

 これはまた当てられる。

 固まっている私に傍らの修吾坊ちゃまはあどけない笑顔で仰いました。

「もういっぱい集めたから僕は部屋でお絵描きするよ」

 遅いとまた当て擦られるので急いで湯を沸かして、それでも茶葉の量と湯を注いでから置く間合いには細心の注意を払って淹れて持って行きました。

 大坊ちゃまは一口飲むと暫く黙っておられましたが、ふっと微笑まれました。

「お前、もうここに来て半年か」

 修吾坊ちゃまに良く似た、優しげな笑顔でした。

「はい」

「仕事にはもう慣れたか」

 穏やかで温かな声でした。

「お蔭様で」

 良かった。やっと大坊ちゃまも認めて下さったようだ。

 安心して笑顔になった私を大坊ちゃまは頷いて見ていらっしゃいました。

 そして、やおら湯飲みを持って立ち上がると、硝子戸を開けられました。

 唐突にガシャンと何かが強く叩きつけられる音がして、湿った落ち葉の匂いのする冷えた空気が入ってきました。

不味まずくて飲んでられん」

 大坊ちゃまの使う高い陶器の湯飲みはちょうどばあやの掃除していたすぐ近くの庭の敷石に当たって粉々に砕け散っていました。

 肩を落とした女中二人の間に立つ大坊ちゃまは冷然と続けました。

「淹れ直しだ」

 再びお茶を淹れて持っていくと大坊ちゃまはもういらっしゃらず、白髪のばあやが脱ぎ捨てた部屋着を畳んで片付けている所でした。

「もうお出掛けになったわ」

 ばあやは沈んだ面持ちで、しかし、そこだけは不思議に若く艶を残した声で続けました。

「男の人は仕方ないんですよ。特に若い内は」

 世間の若い男性が皆、大坊ちゃまのようではない。

 それは小娘の私にも分かることでしたが、大坊ちゃまが致し方ない人であることに変わりはありません。

「貞吾坊ちゃまもその内きっと落ち着くわ」

 ばあやが奥に姿を消すのと入れ替わりに修吾坊ちゃまが飛び込んで来ました。

「ねえや、お絵描きしたよ」

「まあ、お庭の葉っぱをお描きになったんですか」

「紙の下に葉っぱを置いて色鉛筆で塗ると綺麗にあぶり出せるね。この銀杏は本当は枯れかけだったけど綺麗な黄金色に、この楓は真っ赤だったけれど、若葉に戻したかったから、上から緑で塗ったんだ」


 *****

 そして、そんな風にして迎えたお屋敷での初めてのお正月のことです。

 その年は旦那様が洋行からお帰りになるはずの日にちが暮れから年明けに延びてしまったので内々だけのひっそりしたお祝いでした。

 それでも、盆暮れとなりますと、お屋敷の使用人はとにかく忙しい季節ですし、寒くて乾燥した季節になると修吾坊ちゃまは熱はもちろん咳の止まらない日が続いたりして目が離せませんでした。

 大坊ちゃまもこの時期は二階のベランダに時たま出て煙草を吸う外はお部屋で大人しくなさっていました。

 正月の三日目のことでした。

 その日は修吾坊ちゃまのお加減が良いので、お庭で凧上げをしていました。

 やっこの絵が描かれた凧自体は器用に上げられるのですが、勢いを付けて駆けるとちょくちょく咳き込むこともありましたし、何より晴れ空とはいえ寒かったので、頃合いを見て止めさせようと思いながら私はお手伝いをしておりました。

 すると、二階の窓から

「千代」

と呼ぶ声が降ってきました。

 見上げると、大坊ちゃまが口の端を歪めて笑っておりました。

「正月くらいは正しく呼んでやる」

 確かに最初からどこぞの女給の名と間違えずに呼んでくれました。

「ちょっと、繕い物を頼む」

 奴凧を抱えた子守り女中と上げ糸を手にした幼い弟を見下ろす目に、一瞬だけ寂しい影が通り過ぎたように見えました。

「僕、一人で上げられるから大丈夫だよ」

 修吾坊ちゃまは笑顔で仰いました。

「危ない所に引っ掛からないよう気を付けて下さいましね」

 繕い物の方は“ちょっと”では済むまい。正月早々重たい気持ちを抱えながら二階のお部屋に向かいました。

「同級の新年会に行くから制服とマントを繕ってくれ。マントはこの前引っ掛けて端がほつれてるし、制服のボタンも緩んでるから新しい糸で全部着け直してくれ。両の袖口とズボンの裾もまつり直しだな」

 バサリバサリとこちらに投げ付けるようにして衣類を寄越します。

「分かりました」

 こう答えるより外はありません。

「正月から同じ組の奴らになんて別に会いたくもないけど、顔出ししないと『津川君はとうとう死んだらしいよ』とか言われるからな」

“津川君はとうとう死んだらしいよ”の所で取り澄ました口調を真似る風に言うと、十八歳の大坊ちゃまは誰を嘲っているのか分からないような笑いを浮かべて続けました。

「三時には出るからその時までには全部仕上げろ」

 壁時計を見やると、二時半を回ろうとしています。

「手落ちがあったら、今度こそ承知しないからな」

 そう言い捨てると、今度は何だか妙な風に笑ってあの晩と同じように私の着物の太腿を撫でると、そのままその手が上まで這い上がって両の胸を一瞬潰さんばかりにギュッと掴みました。

「分かったか?」

 震え上がった十五の女中の顔がそんなに面白いのか、こちらの両の頬を挟み込むように掴んで自分の方に向かせ、念を押します。

 目だけが異様にギラギラした、ゾッとするほど陰湿な笑い顔が見下ろしていました。

「分かりました」

 私はこう答える以外は許されません。

「じゃ、さっさとやれ」

 それだけ言うと、大坊ちゃまはまた二階の窓際で吸うつもりらしく煙草の箱をポケットから取り出しながら部屋を出ていきます。

「大坊ちゃま」

 いつの間にやってきたのか、廊下から白髪のばあやの声がしました。

「明日の朝早くには旦那様もお戻りになりますよ」

「だから何だよ」

「もう言わなくてもお分かりでしょう」

 ばあやの声には耳にするこちらにもやり切れないほど苦いものが滲んでいました。

「うるさい。もう構うな」

 大坊ちゃまは投げやりに返すだけです。

「お前は大事な親父を出迎える化粧でもしていろ。それとも白髪染めが先かな」

 ドシンドシンと音高く廊下の板張りを踏みしめて遠ざかる音とトントンと静かに階段を降りていく音が相次いで聞こえました。

 改めて針を取り上げてマントの裾からまつり直しながら、私は涙が止まりませんでした。

 良く出来ていようがいまいが、大坊ちゃまは「手落ちがあった」としか言わないだろう。

 そして、今度こそは相手をさせられるんだ。

 そんな女郎みたいなお務め、絶対に嫌だ。惨めすぎる。

 大坊ちゃまは私のことなんか蔑んで嫌ってるくせに何でそんな相手をさせるのか。というより、蔑んで嫌ってるからこそ辱めて楽しんでいるんだろう。どこでどう育ち間違えたのか知らないけど、そういう陰湿な、薄気味悪い色狂いだ、あれは。

 十五歳の私には気持ちのない相手から無理強いされるのは「針を飲め」と命じられるのと殆ど変わらないような恐怖でした。

「ねえ、兄様」

 針を進めていると、不意に廊下から修吾坊ちゃまのいとけない声が聞こえてきました。

「凧があそこの軒に引っ掛かっちゃった」

「本当だ、随分絡まってるな」

「兄様の背なら届くから取って」

「分かった」

「踏み台にこの椅子、使って」

「ああ、ありがとう」

 あんな下衆な放蕩者でも修吾坊ちゃまの前では優しい兄なのだ。

 修吾坊ちゃまにとっては優しい兄様なのだ。

 私が後どのくらいこの屋敷にいられるか分からないけれど、坊ちゃまの目には大人の穢らわしい間柄を見せることがあってはならない。

 そんなことを思いながら針を進めていると、今度は大坊ちゃまの声がしました。

「やっと取れたぞ。あっ!」

 ガタンと椅子が倒れる音、次いで、ドシンと地面に重いものが叩き付けられる音が耳に届きました。

「兄様!」

 続いて耳にした修吾坊ちゃまの引き裂かれるような悲鳴は今も耳の底に残っております。

 大坊ちゃまは本人にとっても全く不慮の出来事だったのでしょう。

 奴凧を抱えたままお庭の飛び石に叩き付けられた死に顔は、両の目を驚いたようにカッと見開いていました。

 遺体から流れて出来た血溜りに正月の真っ白な椿がぽとりと落ちた光景を今でも覚えています。

「大坊ちゃま、ああああ……」

 他の使用人、特に若い女中たちは明らかに既に事切れた大坊ちゃまを遠巻きに眺めている中、遺体に取りすがって泣いたのは白髪のばあやだけでした。

「私の貞吾ていご坊ちゃま、どうして……」

 六歳の修吾坊ちゃまはその様を虚ろな瞳で眺めておりました。

 私にはただ、小さな坊ちゃまにそれ以上痛ましいものを見せないようにその場を離れることしか出来ませんでした。

「ねえや」

 それから暫くの間、夜になると修吾坊ちゃまは私の胸に顔を埋めて泣きました。

「僕のせいで兄様は死んでしまったんだ」

 その寂しい声を聞くと、亡くなった大坊ちゃまが本当はとても可哀想な人だったように思えて私まで悲しくなりました。

「坊ちゃまのせいではありません」

 小さな背中を撫で擦って宥めて、夜半過ぎに漸く眠りに就いたあどけない寝顔を見詰めながら、この無邪気な魂を何に代えても守らなければならないと心に決めました。

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