月夜に咲く陽花

きつね月

月夜に咲く陽花


 起きた瞬間、やばいと思った。


「…おおう」


 だってそうでしょ。九時半っていったら、朝のホームルームが終わって一時限目にまで突入してる時間なんじゃない?

 そう思いながら、木村陽花ひばなは伸ばしすぎのくせ毛をくしゃくしゃ、っとして、ベットから起きて伸びをする。昨日眠ったのが何時か分からないけど、夢も見ず、ずいぶん深く眠ってしまったようだ。身体がバキバキ音を立てて、頭がぼーっとする。

 目をこすると目脂がはらはらじゅうたんに落ちるので、陽花は顔をしかめた。側にあったコロコロでそれを取る。目脂と一緒にくるくるのくせ毛がついてくる。自分の身体から出る要らないものたち。毎日掃除してるのに少しもなくならないのは、私が生きてるって証拠なんかな。

 とか思いながら部屋の掃除を終えると、壁に掛けてある花火の形を模した形の時計は、九時四十五分になっていた。


「なーんで起こしてくれないかね」


 自分で考えて行動しなさいね、もう高校生なんだから。っていうのが最近の母親の口癖だ。

 つまりそういうことなんだろうか。


「ふああ…」


 まあ、なにはともあれ行かなくてはね、と陽花は部屋の扉を開いた。



***



「…ふああ」


 一人の女子が大きなあくびをしながら外を見ていると、もうひとりの女子がてててっ、と歩いてきて「ねえねえ」とそれに話しかけた。


「ふああ…」

「ねえ、鈴木」

「………」

「鈴木ってば…」

「ふああ」

「…鈴木、つき!!」

「んん…?」

「ちょっと、無視しないでよ」

「ごめんごめん、九条くじょうちゃん。なに?」

「もう!」


 九条と呼ばれた生徒は抗議の声を上げながら、向かいの席に座った。


「せっかくの昼休みなのに、誰とも喋らないでぼーっと外を見てるから、なにしてんのかなって」

「…あれ」


 鈴木月と呼ばれた生徒は、その細長の目をますます細めて、三階の窓から下を指さした。指さした先には正門があって、その影にやけに長身の、伸ばしすぎの髪がくるくるしてる女子が身をひそめていた。


「…何あれ」

「たぶん、隠れてるんじゃない?」

「何でよ?」

「そりゃ、こんな時間にのこのこ登校してきたら怒られる、って思ったんじゃない?」


 月はくすくす笑いながらそう答えた。


「こんな遅れておいて、今更怒られるも何もないじゃない」と九条があきれ顔で返す。


「私あの子知ってるよ、木村陽花でしょ?二年生の問題児で、誰の言うことも聞きやしないって、先生が話してた」

「うーん」

「一年の時から不真面目だったけど、進級してから手が付けられなくなったって。鈴木、あの子と知り合いだったの?」

「うん、まあちょっとね。うふふ」

「…ふーん」

「あ、移動した」


 月がくすくす笑いながらその生徒のことを観察しているのを、九条はちょっと不思議そうに横目で見ている。


「ずいぶん楽しそうだね、鈴木」

「うふふ、まあねー」

「…ふーん」



***



「はろー」

「あ、鈴木先輩」

「しっかり怒られたかい?」

「いや、最近はろくに怒られもしないんで…本格的にやばいのかなって」

「あれあれ」

「わたし、卒業できるんですかね」

「そう思うなら時間通りに来なさいよ」


 そう言って、椅子に座って机にもたれている陽花の頭を月はぽん、と叩いた。

 放課後の誰もいない教室に二人の声が響いている。月たちの通うこの高校は、ほとんどの生徒が何らかの部活動に入っていて、彼女たちのように無所属で、放課後に暇してるっていう生徒は少数派だった。


「目覚ましをかける間もなくいつの間にか寝てるんで、お手上げですね」

「あらあら」

「ねえ、先輩」


 陽花はだらけた姿勢をそのままに、視線だけ上げて言う。


「海…行きましょうよ。そのために今日は学校に来たんですから」

「うふふ、いいよ?」


 春が終わりかけて、そろそろ梅雨の気配がしてきそうな五月の空。

 日が伸びてきて、学校終わりにこうしてわざわざ三十分もかけて江の島なんかに来てみても、まだ辺りを見渡せる日暮れ時。水蒸気が多めの空に光が広がって、いちめんをピンク色に染めている。


「あれだね、久しぶりだね。こうして君とここに来るのも」


 海岸を繰り返す波音に交じって、月が口を開いた。

 ふたりがいる場所は、いわゆる観光地としての江の島からは少し外れた小さな海岸で、周りに人はいなかった。波打ち際でしゃがんで波をぱしゃぱしゃ触りながら、水はまだ冷たいなあ、なんて月が思っていると、


「先輩が忙しそうなんで自重してました」


 と、後ろのベンチに座った陽花が、長い足をふらふらさせながら答えた。


「自重?」

「先輩、三年生になったし、受験だし。色々大変そうなんで、邪魔しちゃ悪いかなって」

「そんなこと思ってたの?」


 陽花が目を合わせずに「…たぶん」と呟くと、月は立ち上がってベンチまで近づいて、彼女の頭をぐりぐり撫でた。波に濡れた手で触るので、くるくるのくせ毛が濡れていく。

 陽花は無抵抗に身を任せていた。


「相変わらず強力な寝ぐせだよね、もはや寝ぐせとかじゃないよね、これ」

「そうですか?」

「そうだよ、ちゃんとケアしてる?」

「…風呂には、入りましたよ」

「それでそのまま眠っちゃうんでしょ?目覚ましをかける間もなく」


 月はくすくす笑う。

 陽花はふい、と顔をそむけた。

 月はベンチに置いていたバックから櫛を取り出して、彼女のくせ毛をとかし始める。


「二重の目が大きくて、鼻筋がすっきりしてて、おまけに小顔で長身。その全部を台無しにしていく君のやり方、嫌いじゃないよ、ぜんぜん」

「…はあ」

「自分のことにはこんなに無関心なのにね、私には気を遣うんだね」


 月の手が丁寧に、慎重に彼女の髪をとかしていく。

 やがて「…だめだ」と言って櫛をほうり投げた。


「お手上げだ。まったく、君みたいに頑固なくせ毛だよ」

「…先輩」

「んー?」


 陽花が立ち上がる。二人の間にはちょうど頭一つ分ぐらい身長差があって、こうして向かい合うとえらく迫力があるなあ、と月は思った。

 重なる影がみるみる大きくなって、まるで巨大な動物に捕食されるみたいだ。

 やがて至近距離まで近づくと、陽花は腕を左右にがばっと広げて、月の身体を抱きしめた。

 …うん、でかいなあ、色々と。


「先輩」


 彼女が耳元でささやく。


「私は先輩のことが好きなんです、すごく」

「うん」

「それ以外のことは、あんまり…どうでもいい。それだけじゃ、だめですか?」


 そう話す陽花の声は、何かに戸惑っているような感じで耳元で唸っていて、まるで迷子の子供みたいだな、と月は思った。


「だめじゃない、と思うよ。私はうれしい。君がそう思ってくれて」


 月がその大きな背中をぽんぽん叩きながら言うと、陽花は不満げな低い声でさらに唸った。


「どうしたの、木村?君らしくない。君ってさ、いつもむっとした顔で無口だから誤解されがちだけどさ、時間を守らないとか、言うことを聞かないとか、そういう性格ではなかったと思うんだけどね」

「………」

「なんか悩んでるなら、言ってよ」

「…悩み」


 陽花はそう言うと、背中に回していた両手を離して月から距離を置いた。

 くせ毛の奥の大きい茶色の瞳が月のことを見下ろしている。何かに怒っているような、諦めているような、その表情。

 海の方から春のまだ冷たい日暮れの風が、びゅう、と吹く。

 やがて陽花は口を開いた。


「…先輩は、やっぱり、あと一年で卒業しちゃうんですよね」

「ん、そりゃ、まあ」月は言った。

「するんじゃない?順調に行けば」

「なんとかそれを阻止する方法はないかなって、最近考えてるんですよね」

「ええ?」

「いや、だって」陽花は言う。

「今って、私たちにとって理想的じゃないですか。こうして毎日でも会おうと思えば会えるし、時間もある。でもそれもあと一年だけなんだなって、自分が二年生になって…ようやく実感したっていうか」

「木村…」

「そりゃあ、卒業したって別れるつもりはないですし、普通に会えるとは思うんですけど。それでも、なんか変わっちゃったらやだなって、子供みたいなことを本気で考えてるんですよ。高二にもなって、へんですね」


 そう言って陽花は唇をゆがませて、ぎこちなく笑った。

 相変わらずたまに見せる笑顔がへたくそだなあ、と月はそれを見上げる。

 いつの間にか、陽花の後ろの水平線に陽が沈みかけていて、昼間から夜に変わる途中の藍色が日暮れのピンクと溶け合っている。

 

「へんじゃ、ないんじゃない?」月は言う。

「そう言うことで悩むのはへんじゃないよ、」

「そうですか?」

「そうだよ、だって私たちはまだ子供だもん。子供から大人に変わっている最中なんだから、それに悩むのは当たり前でしょ」

「それじゃあ…先輩もそういう将来のこととかで悩んだりするんですか?」


 「そりゃあそうだよ」と月が言うと、陽花は意外そうな顔で「へえ…」と首を傾げた


「そんなに意外かな?」

「意外ですね。先輩、成績もいいし、いつもへらへらしてるから…悩みなんてないと思ってました」

「……

「えっ?…あ、はい」


 普段呼ばれない下の名前で呼ばれたので、陽花は驚いた声を出した

 月はちょいちょい、と手招きして陽花の顔を手元に呼び寄せると、その頬をつまんで、ぐいっと引っ張った。


「い、痛い、痛い!」

「悩みがなさそう、なんて、君が言っちゃだめでしょ」


 月はそう言うと、ぐいぐい引っ張っていた手を離した。

 ひりひり痛む頬を押さえながら月の方を見ると、その顔は今まで見たことがないくらい真剣で、陽花ははっとした。


「せ、先輩?」

「そうでしょ?陽花。だって私たちはさ」月は言う。

「私たちはもう、んだから」

「…あ」

「だから、君にはそんな風に言われたくなかったな」


 そう言って月が俯くと、陽花の表情がみるみる青くなっていく。


「す、すいません」

「………」

「あ、あの、ごめんなさい」

「………」

「………」

「……むっ」

「う…」


 少しの沈黙の後、月が横目で陽花のことをキッと睨むと、陽花は「うう…」と唸りながら、くせ毛の髪をくるくる触ったり、月に手を伸ばそうとして躊躇ったり、あからさまに慌てだした。

 月はそんな彼女の様子を俯いたままの上目づかいで眺めている。

 二重の目が大きくて、鼻筋がすっきりしていて、おまけに小顔で長身。癖っ毛にさえ目を瞑れば誰がどう見たって美人のそんな彼女が、眉毛をへの字にして子供みたいにおろおろしている。

 それが何だか可笑しくて、

 

「…ふふ」

「あっ…」

「うふふ、ごめんごめん、そんなに怒ってないって。うふふ」


 思わず笑ってしまった月がそう言うと、今度はあからさまにほっとした表情になった彼女が、砂浜にへたり込んだ。

 「あれ、そんなに怖かったのかな…」と思いながら、月もその横に座った。

 日はいよいよ沈んでしまって、一筋の藍を水平線に残すばかり。再びの沈黙。

 黒くなった海から、ざーん、ざーんという波音だけが聞こえていた。

 やがて陽花が口を開いた。


「…でも、無神経でした」

「それはお互い様でしょ」月が言う。

「私だって、君が将来のことでそんなに悩んでるなんて知らなかったんだし」

「でも…あの、すいません」

「真面目だねえ、陽花、君は真面目だよ」


 月はくすくす笑う。


「そうですか?」

「そりゃあ、将来のこととかで悩まない人はいないと思うけどさ、それでいちいち生活に支障が出たりはしないよ。眠れなかったり、起きられなかったりさ。みんな分からないから考えないようにしていることを、いちいち立ち止まって考えてるんだから、真面目だよ」

「…そうかな」

「そうだよ、陽花。君は君が思うよりも、ちゃんと自分のことに向き合ってると思うよ」

「……うん」

「でもね、」月が言う。

「それでも、ちゃんと卒業はしてもらわないと困る。ただでさえ私たちの間には一年のブランクがあるんだから」

「ブランク…」

「そうだよ、私だって君と離れたくなんかない。一年もさ…長いよ」

「あ…」

「卒業なんかしたくないし、受験とか大学とか、就職とかのことなんて考えたくもない。君とこうして、海を眺めながらずっと話していたいさ」

「………」

「でも終わってしまう。止められない。それなら、より良い将来を探すしかないでしょ」


 そう言って月は立ち上がった。

 すっかり暗くなった空には、満月が昇っていて、銀の光が月のことを照らしていた。

 陽花はそれを見上げながら「…見つかりますかね」と聞いた。


「必ず、見つかる」月は答えた。

「君と一緒なら必ず見つかる。どんなことがあっても、大人になって色んなことが変わってしまっても、そんな私の横に君がいれば大丈夫だって、本気で思ってる。それだけ持ってればいい、それで、いい」

「………」

「だから、君から見て私は平気そうに見えてるんじゃない?」


 そう言って「うふふ」と月はその細い目をさらに細めて笑った。

 陽花はそんな彼女のことを見上げている。

 ふたりきりの海岸。月と、それに照らされた陽花がそこにはいた。

 いつか思い出すかもしれない、そんな時間。

 やがて陽花が口を開いた。


「…じゃあ、勉強、教えてください」

「え?」

「先輩、成績いいじゃないですか。私も同じ大学行きたいんで」

「…やっぱり、真面目だね」

「先輩がそういうなら」陽花は笑って答えた。

「私は真面目です。これからも、きっと」

「…うふふ、一緒に、頑張ろうぜ」


 月は彼女のことを見下ろしながら、そう言って手を差し出した。

 陽花もそれに応じて立ち上がった。

 春の夜の海岸に、二人は手を繋いで立っていて、沈んだ太陽に照らされた月の光が彼女たちのことも照らしていた。

 こんな風にお互いがお互いのことを照らしあうことができればさ、これから先…目の前に広がる黒い海のような将来も、何とか生きていけるんじゃないのかな、なんて、どちらからともなく考えていた、


―――そんな月夜のこと。




 




 


 

 

 





















































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