急【終】
「ずっと探していました。あなた、だったんですね」感情のままに怒りをぶつけるわけではなく、彼女の声は静かで冷たいものだった。「返して。お父さんを返してよ」
俺は彼女の言葉に何も言えなかった。
あれから何年の月日が経っただろうか。俺はもしかしたらこんな日がいつか来ることを想像していたのかもしれない。俺は驚くほど、冷静に彼女の言葉を受け止めていた。
正確な時期なんてもう忘れてしまったが、すくなくともあの頃の小学生を、少女と呼ぶにはためらってしまうくらいの時間は経ってしまったのだろう。
「お父さんの死に、俺は関係ないよ」
「知ってた? お父さん、遺書を残してた、って」そんな俺の言葉を無視して、彼女は言葉を続ける。「『大切なひとを失ったから、俺は死を選ぶ』って、実際はもっと長いものだったけど、要はこういう話だった。最初、私とお母さんはお父さんに愛人がいたんだと思ってた。でも、そんな相手なんて見つかるわけがないよ。だって実際にそんなひとは一人もいないんだから。まさか、あなた、なんて思わなかった。別に同性に想いを寄せていたって驚きはしないけど――」
「俺たちはそういう関係ではなかったよ」
「でも、お互いに特別な存在だったことは否定しないでしょ」
あの日、自宅に彼を呼び出した俺は、俺が今まで抱えていた憎しみの感情のすべてを彼にぶつけて、もう二度と会う気がないことを告げた。彼は悲しそうな表情を浮かべながら、静かにその話を聞いていた。それが俺を哀れんでいるようにも見えて、さらに俺の怒りを煽った。彼は何も言い返さなかった。
その日以降、俺が彼と会うことは、一度もなかった。仮にどちらかが会いたい、と思っても、もう会うことはできない。
俺と彼が最後に会った日の夜、彼は自ら命を絶ったのだ。
俺は関係ない。彼の死に俺は関係ない、と自らに言い聞かせ続けた。今日は暑い。暑い夜におかしくなって、あいつは死んだんだ、なんてよく分からない理屈を付けて。
この死に俺は一切、関係がない。
だってあんなの、ただの口喧嘩じゃないか。そんな口論程度でひとが死ぬわけない、と俺は心にもないことを心に思っていた。繊細な彼ならば、そういう行動を取ってもおかしくない、と思うほどに彼の性格を知り尽くしていたにも関わらずだ。
言い聞かせ続けると、嘘が真にすり替わっていく瞬間がある。俺は彼女の言葉を聞くまで、本当に彼の死と俺は無関係だ、と思い込んでいたのだから。
自分自身で過去を捻じ曲げていたのだ。
だけど彼女がそれを剥がしにきて、塗り固められたものは言葉によってぽろぽろと零れ落ちていく。
「俺は――」
「私は知りたいだけ。あの日、何があったか。当時だったら違ったかもしれないけど、このぐらい時間が経つと、憎しみをぶつけるよりもそっちのほうが大事になってきたんだ。それにお父さんが死んだ時、私はまだ小さかったから。……教えて」
「俺は――」
詩を貰った俺が、お返しとして友人へと贈ったのは死だった。そしてそれをいままでなかったことにしていた俺は、その友人の娘から問い詰められている。
『記憶ほど信用できないものはない、と思うんだ。ひとは都合よく自分自身の記憶を捻じ曲げる。たとえば、昔は良かった、なんていう記憶の美化はその最たるものじゃないか。僕はいつだって怯えている。誰かが急に僕の目の前に現れて、身に覚えのない罪を糾弾するんだ。それを嘘だと思っているのは僕だけで、それこそが真実なんじゃないか、って』
ふと、また彼のあの言葉が浮かぶ。
「今日は、もういいや――」
急に、彼女がそんなことを言った。
何故……?
「自分の顔、鏡で見なよ。そしたら分かるから。今日はもう帰る。また来るから、その時に教えて。お願いだから、絶対に嘘はつかないでね。そしたら許せるかもしれなかったものも、一生許せなくなるから」
「あ、あぁ……」
それは返事というより、うめき声に近かった。
「小さい頃、あなたが家に来ると、お父さんがすごい喜んでたの、私、覚えてる。私のこと、よく抱っこもしてくれたよね。なんか安心するんだ。なんとなくうろ覚えの記憶を辿った時のあなたの印象って、自分のことをしっかりと見てくれる安心感がある、っていうかね。それが嬉しくて、安心するんだと思う。私がそう思っただけに過ぎないんだけど……、私、よくお父さん似、って言われるから。じゃあ、今日は帰る。後、お母さんは知らないよ。いまは別のひとと結婚して、私とは離れて暮らしてるし、聞きたくもないと思うから、言わなかった」
彼女が俺の目の前からいなくなり、俺は駆けるようにして洗面所に向かった。
鏡がある。
自らにまで嘘をつき続けた哀れな男は、いまどんな顔をしているのだろうか。
想い出の詩 サトウ・レン @ryose
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