第5楽章
第1話
きつく抱きしめた両手が離れるのと、唇が離れるのがほとんど同時だった。
はる香はすぐにうつむいて、俺の胸に顔を埋めた。
「・・・嬉しい」
そう言うはる香の頭を撫でながら、俺は世界中の星の数ほどいる女性の中からたった一人を選んだ幸せを噛み締めていた。
身長は俺よりもずっと小さいけれど、はる香は俺にとっては誰よりも大きな存在になっていた。
そう、そのきっかけは、2年の秋。
ひとつ下の学年でヴァイオリンを弾いていた はる香を俺が指導していた時のこと。
それまでは、何人もいる後輩のうちの1人、としてしか見ていなかった。でもその日、練習が終わり楽器を片付けている時に、
「佐野先輩・・・・」
と声がする。振り返ると、はる香。
「へ?何?」
たぶん俺は、すっとんきょうな声を出したと思う。
「ちょっと、佐野先輩に質問があって、書いてきましたから、あとで、読んでください」
と、小さな手紙をくれた。そしてすぐに
「じゃ、お先に失礼します!」
と部室から出て行ってしまった。
あゆみ先輩、改め川合先輩との恋に破れた俺は、以来、誰にも特別な思いを抱くことがなく、専らヴァイオリンの技術を高めることと、楽曲に対する見識を増すことに没頭していた。
(樋口は悠木さんに多少気があったようだが、悠木さんが渡瀬先輩に気があると分かるや、早々に撤退した)
(第2話)
はる香からの手紙、てっきり
「ビブラート、どうすれば上手にできますか」
みたいな質問だとばかり思っていた。だから、家に帰って学生服を着替えてもその手紙のことを忘れていた。いよいよ寝るときになり、ハンガーに学生服を架けようとして、その手紙を思い出した。
ズボンのポケットに手を突っ込み、手紙を開いた。
「佐野先輩って、誰かと付き合っていますか?」
は?何これ?ま、まさか?
基本、後輩の女の子のLINEアドレスは交換していなかった。なので、もうこの時間では、真意を確かめようもない。困った。
くう~、どうする、俺?
こんな時は、曲を聴く。何が、いいかな。もち、バッハだ。(→なんで?)
無伴奏ヴァイオリンのための、『シャコンヌ』。古今東西のヴァイオリンの楽曲の中で、最高峰に位置する名曲。幾多の名演奏があるが、俺はシェリングの演奏が好きだ。当然、CDで全集を買った。高かったけどね。
バッハが朗々と流れる中、俺はいつも伏し目がちに俺を見ている はる香のことを思い出していた。どちらかというと目立たない子だったから、印象は薄い。でも考えてみると、たいがい最後まで楽器を片付けようとしなく、友達から
「はる香、先に帰るよ!」
みたいに急かされて、それから慌てて
「待って~!」
みたいに追いかけていく。それがいつもの姿だったように思う。
江川はる香。そういえば、顔をしっかり見たことはなかったかも。
いきなりの手紙に、俺は久しぶりに高まる胸の鼓動を感じていた。
(つづく)
(第3話)
次の日。俺はどんな顔をしてはる香に声をかければいいのか、正直、分からなかった。
サッカーの頃からだけど、俺は基本、何でも『自分から行く』。だから、自分から告白することばかりで、誰かから告白されたことはない。そんな日が、来るとは全く思っていなかったから。
こんな時は、先輩に聞け。
卒業された後もちょいちょい、斉藤先輩とは連絡を取り続けていた。東京の私立音大に2次募集で滑り込み合格。夢に向かって進んでいるのだ。
斉藤先輩なら、コクられることは馴れているはず。さっそく、メールだ。
俺は後輩の1人からこんな手紙をもらったけど・・・・という内容のメールを、授業が始まる前に送った。
すると、昼休みに斉藤先輩から電話。慌てて、出る。
「斉藤先輩!お久しぶりっす。T音大、どうですか??」
「おう浩太。久しぶりだな。大学?滅茶苦茶忙しい。先生も、厳しい。でも、最高に楽しいぞ」
「そうすか~羨ましいなあ~!朝から晩まで、チェロ弾いてるんですよね!」
「ま、そういうこと。で、さっきの。なんだお前、モテるな?あゆみ先輩のこと、忘れたのか?」
くう~!それを言うなって!
「先輩、それは過去のことですよ」
「ああ、そうだったね、悪い悪い」
「いやマジ、俺、テンパってるんすよ。どうしたらいいんすか、こういう場合?」
斉藤先輩は、豪快に笑った。
「俺が知るか。そんな経験、したことないもの」
えっ?俺は耳を疑った。
「先輩!冗談っしょ?先輩、モテまくっていたじゃないすか」
「バーカ。あれは全員、ミーハー。だれ一人、真剣にコクる奴なんていなかったよ。だから3年間、俺はフリーだったの」
え~マジかよ!
(第4話)
「だから。俺には経験がないから、相談には乗れない。悪いな!じゃあ」
と言って、電話は切られた。
ええ~!ちょっと待ってよ!
俺は購買へアイスを買いに行きながら考えた。
「こんな時、どうする?」
そう、誰にも頼れない時だ。
「だったら・・・行くしか、ないっしょ!」
独り言を言いながら、モナ王をガブリとかじる。知覚過敏で、歯茎に沁みる。くう~!
とにかく俺は、はる香にちゃんと話す時間をとろうと決めた。
そして部活の時間。
はる香は、いつものように伏し目がちに音楽室に入ってきた。俺とは目を合わせない。俺も特別に意識はしないようにした。
時間があっという間に過ぎた。その日、はる香は中川さんから指導を受けていた。時間になり、皆が楽器を片付け始めた。どうしよう、どうしよう。俺は「らしくない」と思ったけど、思っていることを実行できないでいた。
ああ、どうする?どうする?
皆が帰る。だんだん、人数が少なくなる。例のごとく、はる香は最後まで練習を止めようとしない。
「浩太、お前、モーツァルトの29番のCD、持っているよな。明日、貸してくれない?ベームが指揮の」
よりによって、森山が絡んでくる。うるさい、早く帰れ。
「浩太!聞いてんのかお前。ベームの29番、だよ!」
森山が詰め寄る。ああ、ダメだ。
「・・・分かった分かった。明日、持ってくるから。ちょっと、先に帰っててくれ」
「?何かあるのか、これから?」
はる香がじっと、こっちを見ているのが分かる。
「いや、・・・ないけど」
「じゃあ、帰ろうや。昇降口で、待っているからな」
くそ~!空気、読めよな森山!いや、でもそれはムリだ。だって、あいつは何も知らない。ふと見ると、はる香は部室から出て行ってしまっていた。ああ~!俺は、ヘタレだあ~!(泣)
(つづく)
(第5話)
マズイ。今日のうちに、何とかしなきゃ。こんな時は・・・・悠木さんだ。急げ。
「ちょっと!悠木さん!相談があるんだけど」
大声で、呼び止める。
「何よ~浩太くん。私、もう帰るんだけど」
不機嫌な顔をしてイヤイヤ近寄る悠木さん。
「ごめん。ちょっとさ、折り入って頼みがあるのよ。ちょっとこれ、内緒ね」
両手を合わせて、頼みこむ。
「何よ、いきなり!まさか、彼女でも紹介しろってか??」
(う、す、鋭い)
「いや、・・・違うけど」
「なら、何よ」
「だから、・・・ちょっと、Eveに行かない?」
真っ赤な顔になった。
「ちょっと!浩太くん、何考えてんの?あゆみ先輩の代わりなわけ、私?」
いや、違う。だからその・・・・
(あゆみ先輩、もとい、川合先輩と俺との一件は、先輩たちの卒業とともに、部内の全員の知るところとなっていた)
「いや、そうじゃないって。ただ、ここでは、話しにくいっていうか」
中川さんも、富岡も、こっち見ている。マズイよ、マズイよ。
「だから、ごめん。驕るから、Eveにお願い!」
「もう~何よ勿体ぶって。ここじゃ、ダメなの?へえ~、そうなんだ。じゃ、パフェ1杯で、買収されてあげる。みんな!何、見てんのよ!これから浩太くんとデートなの。何か文句ある人??」
富岡が吹き出す。
「おお~デート。行け行け。悠木さんに、シュート決めろよ浩太」
だから、そうじゃないっての。でも、なんか時すでに、遅い感じ。
そこで部室のドアからはる香が見えた。どうやら一連の会話が聞かれてしまったらしい。
ああ~!どうなるんだよ!
(第6話)
Eveに着くなり、悠木さんがパフェを頼む。ここのは、巨大なのがウリ。750円はイタイけど、ま、仕方ない。また姉貴から小遣いをせびることにする。
「それで、何?誰ちゃんのこと?」
は、それ、なんで?
俺は平静を装った。
「誰ちゃんがって、何?気になるんだけど」
「後輩の誰かに、『コクられた』って顔、しているよ。今朝から」
ぐっ!なんということか。悠木さん、予言者かよ。
「いや、その、なんつうか」
「だってさ。今日は絶対1年生の方、見ないように練習してさ。分かりやすいの、浩太くんは」
はあ~。お見通しか。俺は頭を掻いた。
「うん・・・そうなの実は」
「それで?すず美ちゃん?彩乃ちゃん?そうねえ・・・・分かった!美貴ティ、でしょ?」
次々と、1年生の名前を出す悠木さん。いずれも、可愛い子。でも、違うんだな~これが。
「違う」
「じゃあ、誰よ?」
「・・・・はる香ちゃん」
「ええ~!!!!!!!」
Eveに悠木さんの声が響いた。マスターが、こっちを見る。俺はスミマセンとマスターに頭を下げた。
「バカ、うるさいっての!」
「・・・ゴメン。でも、超、意外なんですけど~」
「・・・ウン。俺も、正直、まだびっくりしててさ」
悠木さんが背もたれに身体を押し付けて言う。
「ええ~!はる香、大胆だな~!それ、いつ?」
「昨日。手紙、もらったの。質問があるって。俺、てっきりヴァイオリンについてのことだと思ったんだけど、『誰か付き合っている人、いますか』って書いてあってさ」
「ええ~!」
「バカ、うるさい」
マスターが、また、こっちを見た。
「ちょっと、これ、食べちゃうね」
悠木さんが、猛然とパフェを食べ続ける。俺も自分のアイスココアをずずっと飲み干した。
(第7話)
ま、ここからの話は長いんだけど。
悠木さんが分析した乙女心によると。
あくまで、俺が悠木さんにこのことを相談したことは内緒にするほうがいい。なぜなら、自分の知らないところで俺と悠木さんがこんな会話をしているってことは、決して、はる香にはいい情報ではない。だから、あくまで悠木さんは『黒子』になる、ということ。
ふむ、ふむ。
で、やっぱり直接、手紙を書いて渡すべき。LINEとかじゃ、ダメ。
「誰からアドレス聞いたんですか」
みたいに、面倒になる。だから、手紙には、手紙で。それがいい、と。メルアドの交換は、慌てなくても、いつかそのタイミングが訪れるから、それを待つ。
ふむ、ふむ。
さっそく俺は、100均に行って、それらしい手紙セットを買った。
「どうして、こう、女の子チックなものしか、置いてないのか~」
と思ったけどね。
家に帰った俺は、部屋に引きこもった。
さあ、何て書く?
「付き合っている人、いますか?」
に対する返事だから、
「いません」
→それは余りに、あっさり過ぎ。
「とりあえず、今はいません」
→“とりあえず”、とは言わないほうがいいかも。
「いません。もし、俺で良ければ喜んで」
→イヤイヤ・・・このタイミングで俺が“立候補”することって、ヘンでないか?
「これって、どういう意味でしょうか?俺と付き合いたい、ということでしょうか?」
→イヤイヤ・・・禅問答みたいに、質問に質問で返してどうするのよ。
「うわあ~!分からね~!」
思わず大きな声を出した俺に、隣の部屋から
「うるさいぞ~!」
と姉貴の声。はいはい、分かってますよ。
(第8話)
迷った末に、俺は手紙だけでなく、オススメのCDを貸してあげるフリをし、その中に小さな手紙を入れることにした。そのほうが、自然に手渡せる。
何がいいかな・・・そう、いま練習している“アルルの女”にしよう。クラウディオ・アバド指揮、ロンドン交響楽団。俺のお気に入りの1枚だ。
(※ちょうどその頃、俺たちは来年の定期演奏会のために、「アルルの女」第1組曲と第2組曲からの抜粋を練習していた。作曲者?ビゼーですよ、フランスの)
部活の時間。俺は森山に貸すベーム指揮のモーツァルト29番のCDと、はる香に貸す「アルルの女」のCDとを持って部室に行った。こういうのは、早いほうがいい。
「森山!ほれ、29番」
森山にCDを渡す。ケースが傷つかないよう、TSUTAYAのショッピングバッグに入れて。だってこれ、貴重品だもの。(もう、今は絶版だ。だから、森山は手に入れられない)
「おお、あんがと。あとで、俺のiPodに入れたら返すよ」
「ノー問題」
さて、と。あとは はる香にどうやって渡すか、だ。
練習の時のどさくさで、目立たぬように渡したい。俺は悠木さんに目で合図。
「はる香ちゃん!今日は浩太くんと組んで練習してくれるかな?私、ちょっと職員室に行かないと。ゴメンネ」
くう~、見え透いたウソ。悠木さん、ありがとう。
はる香は、恐る恐る、俺を見る。俺も、必死に作り笑い(苦笑)。
「・・・じゃあ、やろうか」
「・・・はい」
はる香が楽器を出して、調弦をはじめた。練習しているのは、第1組曲の「キャリヨン」。
よし、今だ。
「あの、・・・はる香ちゃん。このCD、“アルルの女”。良かったら、聴いてみないかな」
「えっ?・・・いいんですか?」
「もちろん!プロの演奏、聴いてみたらいいよ。しばらく、貸してあげる」
はる香は顔を真っ赤にして
「あり・・・がとうございます」
と頭を下げた。
そこまで、恐縮しなくてもいいのに。俺はTSUTAYAに入れたCDを渡す。
「じゃ、練習、始めよう」
部室のドアから、悠木さんがガッツポーズをするのが見えた。
(第9話)
練習が終わった。
相変わらず、はる香は時間になってもモゾモゾしている。もう~早く、帰れよ!
そこに、森山が来た。何だよ、今度は?
「浩太!お前、間違っただろ」
は?う、うそ?
「俺、見ちゃったもんね~」
TSUTAYAをぐるぐる、回す。 ああ~!やらかした俺!ふと見ると、はる香は顔を真っ赤にして、同じTSUTAYAのショッピングバッグを思わず隠していた。
「こ、これ間違った?あ~ゴメンゴメン」
俺は不自然なほど大きな声を出し、森山からTSUTAYAをぶんどった。
「何?何?」
富岡が寄ってくる。うわ~、来るな!
「いや、何でもないって。な、森山」
(俺は必死に、ウインクした)
「・・・お、おう。お前、“アルルの女”と間違ってるぞ。明日で良いから、持って来いよ。じゃあな!」
足早に部室を出る森山に、俺は心の中で両手を合わせた。(サンキュー!)
このタイミングを逃したら、次はない。俺はさっと近づき、小声でささやく。
「はる香ちゃん。ごめん、間違ってさ、こっちのCDだったみたい。来週まで、貸してあげるから」
はる香は、相変わらず、恐る恐る俺を見る。俺はゆっくりと、頷いた。
「じゃあ、・・・ありがとうございます。こっちは、お返ししますね」
俺の手元に、TSUTAYAが戻った。チラリと中を見ると、やっぱり。
29番のCDだった。
ああ~、焦った。森山には、すぐに口封じで何かで買収しないと(笑)。
(第10話)
俺が森山を『すき家』に誘うと、呼んでもないのに、樋口と富岡も加わってきた。もう~余計なんだよ!
「・・・てな、わけで。森山、頼む。黙ってろ」
俺が伝票を拾い上げ、『今日は俺の奢り』と目で合図。ただ、解せないのは樋口と富岡。
「何だよ、何だよ!お前ら、秘密の会合か?」
(うるせえ、豚汁でも食ってろ)
俺と森山は終始ニヤニヤし、ついに口は割らなかった。で、樋口も富岡も深追いせず、この話はフェイド・アウト。よしよし!
え?手紙の内容?うーん。恥ずかしいんだけど。
「はる香ちゃんへ
この前は、手紙をありがとう!俺らはスマホ世代だから、手紙を貰うって、すごく新鮮でした。嬉しかったです。
例の質問の、「付き合っている人はいるか?」という質問ですけど、その答えは「はい、そして、いいえ」です。
俺は、知っていると思うけど、中学ではサッカーをやっていました。なので、中学の3年間はサッカーボールが恋人でした。でも、いまはそれに代わって、ヴァイリンが俺の恋人です。
でも、誰か女の子と付き合っているか、ということなら、「いいえ」です。
佐野浩太」
たしか、こんな内容だった。けっこう長いな。でも俺は、封筒なんかに入れることをせず、CDの解説が入っているところにただ折って入れただけだから、森山が何だろうと思って手紙を開いてしまったことは、まあ、分からなくもない。
誤算は、最初に「はる香ちゃんへ」と書いてしまったことだ。それを、見られたのだから。
ま、終わったことは仕方ない。森山の友情を信じよう。
(第11話)
次の日。はる香はすぐに、CDを返してきた。
「佐野先輩、ありがとうございます。聴きました、素晴らしかったです」
TSUTAYAの上には、何やらお菓子が。
「これ、御礼です。下手くそですけど、私が焼いたので、良かったら食べてください」
「え~!ホント?ありがとう!」
「おお~!CDの御礼に、手作りクッキー?」
悠木さんが割り込む。ま、今回の功労者だ。
「1個、貰うわね。・・・美味しい~!はる香ちゃん、すごいすごい」
「そんな・・・たままた、です。レシピ通りにやっただけで」
はる香が顔を赤くして、下を向いている。俺も、食べてみた。う、美味い!
その日は、俺は違う子の指導になったけど、心はもう上の空だった。きっと、はる香のことだ、TSUTAYAの中には手紙が入っている。
(実は、さっきチラリと見えた)
俺は早くその中身を確かめたくて、仕方なかった。TSUTAYAは、学生カバンの中にしまったけど、気になりまくっている。
いま練習している“アルルの女”は、フランスの作曲家・ビゼーの代表作。ビゼーは“カルメン”も有名だけど、俺は「第1組曲」「第2組曲」とある、こっちが好き。特に第2組曲の「メヌエット」は、朗々としたフルート・ソロのある、フルーティストにとっては最高の曲。そして、第2組曲の最後「ファランドール」は、大変な盛り上がりで曲が閉じられる。アバドの演奏は、最後のアチュレランド(=加速)が史上最速ではないかと思われる程、凄まじい演奏だ。以来、俺は調子に乗ってくると「ファランドール」のメロディを口ずさむのがクセになっていた。
俺は速攻で帰り、夕ご飯が出来ていたけれど部屋に直行。ファランドールを歌いながら、さっそくTSUTAYAを開ける。
(第12話)
案の定、はる香は手紙を添えてきた。
「佐野先輩
お手紙、ありがとうございました。そうだったんですね!中学の時はサッカー部だったって、なんとなく、聞いていましたけど。佐野先輩がサッカーするの、見たいです。いま中1の弟も、サッカーやっています。キーパー、なんですけどね」
ほお~、そうなのか。
「出来れば、いろいろお話したいので、よければここにLINEください」
・・・ということで、LINEのIDが。よ~し、これからは手紙でなく、LINEにしようか。
俺はさっそく、スマホからLINEを送った。夜の、8時頃。
▲俺▲
「浩太です。登録、お願いします」
すると、すぐに返信!すげえ。まさか、待ち構えていたのか?
♥はる香ちゃん♥
「佐野先輩、ありがとうございます!はい、登録しました!ハートつき、にしました♥」
な、なんと・・・。見た感じとは真逆、すごい積極的。悠木さん、言ってたけど。
「・・・ああ見える子のほうが、激しいから」
そ、そうなのか・・・・?
戸惑いながらも、俺。
▲俺▲
「あんがと。ハートは、ちょっと重いかな」
(けっ!余計だったか)
♥はる香ちゃん♥
「重いですか?」
(あ、いや、・・・)
▲俺▲
「いや、重くないよ。嬉しいよ」
返信が、ない。
うわ、どうする??
あ、来た!
♥はる香ちゃん♥
「ありがとうございます。ちなみに、私のアドレスはなんて名前で登録しました?」
(えっ、それ聞いてどうする?)
▲俺▲
「はる香ちゃん、って入れたけど。まずいかな?」
♥はる香ちゃん♥
「いいですけど・・・いつか、『はる香』って、入れてくださいね」
げっ!この積極さ!うわ~!
(第13話)
当然だが、俺らはそれから毎日、LINEを送りまくった。
で、いつしか俺は「はる香」って呼んでいたし、はる香は俺を「佐野先輩」でなく「浩太さん」と呼ぶようになった。
ただ、これを部活の時に悟られまいと、結構俺は気を遣っていた。だって多くの1年女子の中で、はる香だけ呼び捨てに出来ない。けっこう、神経、使うのよこれ。
4時から6時の部活の時間は、何事もなく。で、はる香は電車通学だから、駅まで歩く。俺は自転車だから、当然、一緒に駅まで行けるわけではない。尾川中央のカップルは駅まで並んで歩くのが名物なのだが、俺らには決してその日はやって来ない。今となっては、それが残念で仕方なかった。
ま、それはそれ、これはこれ。
2年の秋は、言わば俺たちの代。3年l生が夏の定演で引退し、俺らが最上級生となった。昨年の定演は9月だったけど、さすがに受験を考えると夏休み過ぎまで部活をやるというのは勧められないと、定演の時期が見直されたのだった。で、今年は8月上旬に。来年は、なんと6月末。なので、いつもよりも俺らは準備期間が少ない中で、最後の演奏会までの練習を積むことになった。
本番の曲目だけれど、“アルルの女”からの抜粋、たぶん3曲。それと、シベリウスの名曲:交響詩「フィンランディア」。弦楽合奏の代わりに、第1部はモーツァルトの交響曲第29番を選んだ(森山に貸したCDの曲)。オーボエとホルンだけが、加わる。
去年、川合先輩が『次の次の、コンマスは浩太くん』と言ってくれたけど、その予測の通り、俺は今年8月の定演のあと、尾川中央オケ第何代目かのコンサートマスターとなった。一番ヴァイオリンが上手いとは思わないけど、それでもコンマスは自分以外いない、と思っていた。その通りとなり、例の『根拠のない自信』を更に深める結果となった。ま、これが俺だ。文句、ある?(笑)
(第14話)
時が流れて、2年の春休み。つまり、もうすぐ俺らは3年生に上がるってこと。いよいよ、だ。定演までは、もう3か月といったところ。
「おい、浩太!聞いたか?」
樋口が、音楽室に駆け込んできた。
「何?どうした?」
「村岡先生が、・・・・・異動だ」
ええ~!!!!!!!!
音楽室が、騒然となった。
教職員の人事異動は、当然ながら避けられない。これまで10年以上、音楽部=尾川中央オケの発展に大きな貢献をしてくださった村岡先生。俺は勝手に、自分の最後の定演では村岡先生のエネルギッシュな指揮で「フィンランディア」や、「ファランドール」を演奏するものだと、信じ切っていた。
それが、異動とは・・・・
身体から力を抜けていくのが、分かる。
「で。新しい先生は、高井先生っていうらしい。尾川商業から」
げ、尾川商業は姉貴が出た高校。なら、姉貴、知っているのかな。
すぐに、電話を入れる。昼休み?だったか、すぐに出てくれた。
「浩太。なに?」
「ねえねえ。尾川商業の音楽の先生って、憶えている?高井先生っていうらしいけど。うちに、来るらしいんだ」
「ああ~、それ本当?」
は?何それ?
姉の声の、トーンが、低い。
「悪いけど浩太、・・・・最悪だよ、あの先生」
ええ~!
俺はそんなことを言えるはずもなかった。樋口が、悠木さんが俺のリアクションを見つめている。俺、リアクション芸人じゃないっての。
最悪って、・・・・。
(第15話)
不安なまま、新学期を迎える。そして新任式。異動になってきた先生方を一斉にお迎えする日、だ。
凝視、する。どの先生だ?
3番目。あの人だ。
「音楽を担当する、高井です。よろしくお願いします。部活動は、吹奏楽部を担当します」
(ちっ、吹奏楽部じゃねえから!)
悪い予想が当たってしまい、テンション下がりまくる。
今日の部活から、練習に来るのだろうか。昼休みに、部長の樋口とコンマスの俺は、それを確かめに行った。
「高井先生。音楽部の部長の、樋口です。すみませんが、吹奏楽部ではないので、そこ、よろしくお願いします」
なるべく丁寧に、樋口が間違いを正す。
高井先生は、俺たちに向き直った。
「ああ、そうらしいね。悪かった。音楽部、ね。はいはい」
はい、は1回だろ。
「僕はコンサートマスターの、佐野です。高校では珍しく、オーケストラがある部なんです」
「ほお、オーケストラ。で、何を演奏しているの?」
「フィンランディアとか、アルルの女、とかです」
樋口が胸を張った。
「フィンランディア、アルルの女。じゃあ、今日の練習で、それ、聴かせてくれるの?」
「はい、勿論です。よろしければ、ご指導、お願い致します」
俺らは揃って、頭を下げる。
「指揮?ふうむ、・・・まあ、いいけど。私の専門は、合唱なんだけどね」
最後まで、高井先生には笑顔がなかった。
(俺はこの先生の指揮で定演を迎えるのか・・・)
暗くなってきた。ヤバい。
(第16話)
そして、部活の時間。高井先生が現れたけど、どっかりと椅子に腰かけた。
「部長!樋口くんって言ったかな。今日は、君が指揮しなさい」
「ええ~、私ですか?いや、オーボエ他にいないので、練習の時はいつも浩太が振っています。浩太、でいいですか?」
げっ俺かよ?まあ、でもいい。俺は練習の時はいつも指揮をさせてもらっていたから。その時のコンマスは、中川さんにお願いしている。
「ああ、そうか。なら浩太くんの指揮で、いちど聴かせてください」
先生が俺に指揮棒を渡す。よーし、望むところだ。俺は楽器をしまい、指揮台に上がった。
「じゃあ、いきます。“アルル”の、前奏曲から」
指揮棒を構える。皆も一斉に、楽器を構える。高井先生に、いいとこ、見せてやれ。
ハ短調の勇壮なユニゾンで曲が始まる。
「さん、しっ!」
指揮棒を振り下ろすと同時に、音楽室に骨太の音量が響く。
「弓、いっぱい使って!」
俺が身振りと同時に指示を出す。中川さん、頷く。よし!息も合っている。だいぶ、完成度が上がってきた。次に、木管がメロディを引き継ぐ。やっぱ樋口のオーボエがないとここは締まらない。本当は、イングリッシュ・ホルンなんだけどね。
俺はちらりと高井先生を見た。きっと、驚いて目を見張っているはず・・・・と思ったけれど、違った。
スマホ、いじっている!
あり得ねえ。あり得ねえ。
俺は怒りに震え、指揮棒を振り上げた。
(ふざけんな!ちゃんと、練習見ろよ!)
睨んでやったけど、高井先生は気づかない。
最悪。姉貴はウソを言わなかった。
(第17話)
その日、俺は はる香に自分の怒りをぶちまけた。
▲俺▲
「あの高井ってやつ。ふざけてる!ロクに見もしないで、顧問面、すんなよって感じ」
♥はる香♥
「わたしも、思った~。ちょっと、信じられないんですけど」
▲俺▲
「だろ、だろ?姉貴が言ってたけどさ、尾川商業の吹奏楽部でもやる気なくて、『私は合唱が専門だから』って言って、名ばかり顧問だったってよ」
♥はる香♥
「ええ~マジ信じらんない。せっかくの浩太さんたちの定演、どうなっちゃうの~?」
それは、俺のセリフだ。
▲俺▲
「こうなったら、本番は俺が振る。樋口にも、そう言おうと思っている」
♥はる香♥
「ええ~、でも、浩太さん、弾きたいでしょ。最後だし」
▲俺▲
「だけどさ。・・・俺しか、いないじゃん。樋口のオーボエ、いないとダメだもん。ま、29番は指揮者なしで、俺が弾き振りするからいいよ」
♥はる香♥
「それはそれで、カッコいいから見たいな♥」
はる香はこのやり取りで盛り上がっていたみたいだけど、俺のテンションはついに上がることはなかった。
学校の、特に高校の部活動は、顧問の先生次第でどうにでもなる。これはスポーツ部では顕著だった。事実、俺が落ちたK大付属は、西川コーチが就任してから3年目で全国大会出場、そして初出場にしてベスト8の成績。その後は毎年全国大会に名を連ね、一昨年は準優勝。まさしく、西川コーチの手腕なのだ。
これが逆に、情熱のない顧問だったらどうなるか。答えは、明白。高校生だけでの練習なんて、たかが知れている。やはり良い指導者に恵まれない部活は、成績も振るわないしモティベーションも上がらない。それだけ「指導者」というのは大きな影響力を持つ。
俺はたった1日だけれど、高井先生とうまくやっていく自信を持つことは出来なかった。つくづく、村岡先生がいかに素晴らしかったのかを、失ってから思い知ったのだった。
(第18話)
「浩太、高井先生、どうだったの?」
姉貴が心配して、俺に訊く。
「ああ、・・・・勘弁して」
応じたくない、俺。
「分かるよ。吹奏楽部の幸恵たち、演奏会の前に泣いていたもん。『あんな顧問なら、いないほうがいい』って。」
(げっ、やっぱりそうなのか)
頭が、クラクラしてきた。
でも、難しい状況は何とかして打開しないと。こんな時こそ、声を出す、上を向く。うじうじしていても、始まらない。俺は樋口に電話してみた。
「おう、樋口。いま、いいか?」
「浩太か。俺もいま、電話しようと思ってた」
やっぱ、俺ら考えること同じだ。
「高井のことだろ」
2人で同時にハモる。一緒に、笑った。既に、呼び捨てにしているし俺ら。
「・・・ったく、困ったよな」
「いや、何も困らないよ」
「どうしてさ?」
「顧問は顧問。顧問が指揮しなければならないって、何か決まりでもあるのか?」
「決まりは、・・・・ないよ」
「そうだ、決まりは、ない」
樋口の言葉に力がこもる。
「・・・てことは、だ。例えば、俺らが別の指揮者を立てて、その人の指揮で演奏したって、何もおかしなことはない」
「そうか!なるほど」
「だろ。だから、いま俺が考えているのは、斉藤先輩。斉藤先輩に来てもらって、振ってもらう。現役音大生だ。誰もが納得する。どうだ、このアイディア?」
くう~!樋口、お前、天才!
「斉藤先輩!いいな、それ!だけど、それをどうやって高井に伝えるんだよ?」
ちょっと間があった。
「そこなんだよ浩太。で、ちょっと戦略を練らないといけない。俺の考えはさ、・・・・」
樋口のアイディア、いささかびっくりした。でも、このまま高井が指揮台に乗って情熱なく指揮されても迷惑なだけ。斉藤先輩に振ってもらったら、一気に問題は解決するだろう。俺はなんとか、指揮者=斉藤先輩を実現させようと、ない知恵を樋口と一緒に絞った。
(つづく)
(第19話)
俺たちの予想は、ある意味、現実になった。
次の日も、また次の日も、高井は音楽室に来なかった。結局、お願いをしにいったその日だけだ。つまり、熱意がないってこと。オーケストラの指揮ってことで、恐れをなしたか。そりゃ、そうだ。合唱や吹奏楽とは全然違うんだ。何年音楽の教師をやっているか知らないけど、オーケストラのことは俺らの方がよく知っている。いないなら、もともとその方が好都合だ。俺は毎日のように指揮台に立ち、「フィンランディア」や「ファランドール」を指揮した。あとは、斉藤先輩にどうやって、いつ頼むかだ。
「お前ら、クーデターやる気なのか」
いきなり誰だよ!気づいたら俺らの後ろに立っていた。
「おお、森山か。お前も、入るか?」
で樋口と俺が連日のように作戦会議をしていたのを、遠くから森山が見ていたらしい。
「浩太、樋口。お前ら、このオケを私物化すんじゃねえぞ」
森山が、睨んでいる。
「私物化、じゃないよ」
俺が慌てて否定。
「だってさ、あんな情熱のない顧問なんて、迷惑でしかない。だから、どうせ別の人を立てるんなら、早い方がいいって」
森山、表情を変えない。
「何だよ。言いたいことがあるなら、言えよ」
樋口も負けずに睨み返す。
「オケにとって、指揮者は何より重要だ。それを、お前らだけの勝手な考えて、どうこうされてたまるか」
と森山。
俺「何、言ってるんだよ。これ以上、高井に期待したって時間のムダでしか、ないじゃん。だから、そのための危機管理だろ」
樋口「じゃあ、何か、お前?このまま、来たり来なかったりの気まぐれ顧問に振り回されて、それでいいのかよ」
森山「じゃあ、誰か、あてがあるのかよ」
俺「あるさ。斉藤先輩」
森山「へっ!ちゃんちゃら、おかしいんだよ。斉藤先輩が、『わかった、じゃあお前たちのために』って、言ってくれるって思っているのかよ?」
ああ、勿論さ。斉藤先輩は俺らの味方。村岡先生が去った後の俺らの窮地を喜んで助けてくれる。俺はそう確信していた。
(第20話)
森山の主張;
あくまで俺らは「尾川中央高校」の音楽部。部活動も教育の一環、という観点から、顧問の指導がないというのはあり得ない。好むと好まざるとにかかわらず、高井先生は音楽部の顧問として演奏の指導には第一の責任がある。ダメな顧問を育てるのも生徒の責任。まだ自分たちの情熱や努力がきちんと高井先生に伝わっていないなら、そこまで伝える努力をするべきだ。
ふむ。それは理想論だろ。俺らには、時間がないんだ。俺らの定演、6月末なんだよ。あと3か月、ないんだよ。いくら言っても、森山は全く引かない。さらには、部の全体会議での決定でなければ、それは部長(樋口)とコンマス(俺)が単独で行うクーデターで、それには断固として反対するし、全体会議で俺ら2人の解任決議を発動する、とまで仰った。おお~!ホント、森山は融通ってもんが効かない。やりにくいぜ。
そんなこんなで、新年度の「仮入部」期間がスタート。俺らは3年として、新しい1年生を迎えることになる。はる香も、先輩になるってわけだ。
とある金曜日の夜、はる香と俺は示し合わせて、皆がすっかり帰る7時に部室で待ち合わせた。もちろん、部員は皆が帰宅した。部室は大きな講堂のステージ上のところにあり、部員は楽器をそこに全て収納してから帰る。最後はコンマスの俺か部長の樋口、そして副部長の塩川さん(チェロ)のいずれかが施錠をする。楽器って、決して安くないからね。だから、いったんカギが締まったら、その3人しかカギを開けることは出来ない。俺はその特権を乱用して、はる香とその部屋でイチャイチャしようと思ったわけ。あ、言っておくけど、そんなエッチなことはしないよ。2人で面白い動画を見ながら、あれこれ喋るだけ。それだけでも、充分に楽しいのだ。
すっかり陽の落ちた講堂は薄暗い。はる香はカギがないから、俺が先に入って部室の電気を点ける役。3分もしないうちに、
「浩太さん~」
と、はる香が入ってきた。
「誰も、いないよな」
「うん、ちゃんと確認した」
電灯の光がもれないよう、カーテンを閉める。そして部室の入口の思い扉を、ぐいっと閉めた。これで、俺ら2人きり。
ここんとこ、会えない土日の淋しさを埋めるよう、金曜日の夕方はいつもこのパターンで、7時半までの30分間、2人だけの時間を過ごすことが俺らの楽しみになっていた。
カベに向かって、折りたたみ椅子を2つ出して並べる。いつものように、俺と はる香はくっついて座った。
「この前の代表戦、ありえね~試合だったな。見たでしょ?」
つい数日前の、ワールドカップ最終予選のシリア戦。0-0で引き分けに終わった試合の結果だ。
「弟と、見たよ~。眠かったけど」
「・・・ったく、シュート外しまくり、では勝てねえよな~」
「うん、私も見てたけど。調子、悪かったのかな~」
「いや、気合の問題だね、気合の」
ぐいっと、はる香を抱き寄せた。はる香が、くすくす笑う。
「浩太さんの、好きな言葉よね。気合って」
「おう!人生、気合だよ気合」
俺たちは顔を見合わせて、笑った。
と、そこで俺はヘンな気分になった。今まで何度かこんな雰囲気になったけど、その時の気持ちは初めてのことだった。
俺の中で、何かのストッパーがはじけ飛んだ。
自分の表情が変わったことが、自覚できる。
「・・・なに?浩太さん、どうかした?」
自分の中から、どうしようにも抑えられない情動が沸き起こってくるのを感じて、はる香を今までにないほどの強さで抱きしめた。そう、息も出来ないくらいに。
「・・・はる香」
「ちょ、ちょっと、い、痛いですよ。やめて」
はる香の言葉を無視して、俺は強引に はる香の顔を覗き込んだ。キスはもう何度目かだったけど、はる香は身体を硬直させていて顔を上げない。
「・・・やめ、て」
それでも俺は無理矢理、自分の唇をはる香のそれに近づけようとした。
その時だった。
「お前たち!ここで何やっている!」
いきなりの怒号が響いた。俺とはビックリしてその声のする方に目をやった。
閉めたはずの扉が開いていて、サッカー部顧問の岩橋先生が仁王立ちしていた。すごい顔をしていた。
(つづく)
第21話
そこで、はる香も驚いて俺から離れた。俺ら、つかまった子猫みたいに動けない。動けるわけ、ない。
「・・・ったく!佐野、お前、何のつもりだ!」
「・・・・」
「あれだけサッカー部に誘っていたのに、お前は音楽部で、こんなことやるために、入ったのか?」
「・・・・」
はる香を見て、
「名前!何年、何組だ?2年生だな、確か」
「・・・・岩橋先生、この子は悪くないっす。俺が一方的に誘っただけで。先、帰ってろ」
はる香を、帰るように促すも、
「いや、帰りません。わたし、2年B組の、江川はる香、です」
はる香は、しゃんとした視線で岩橋先生を直視ている。
「エガワ・ハルカ、だな。2-Bの」
岩橋先生は、メモ帳にはる香の名前をメモした。うわ~最悪!俺ら、どうなる?
「・・・お前らの担任と、生活指導の森本先生には、俺から報告をしておく。追って、森本先生から呼び出しがあると思うから、そのつもりで。さ、さっさと帰れ」
俺は黙っていられなかった。
「岩橋先生、確かに下校時間が過ぎて残っていたのは悪いですが、それ以上ではないですよね?」
「何?」
岩橋先生の顔色が変わる。
「ちょっと、浩太さん」
はる香が止めたけど、俺は動じなかった。
「高校生の男女が夜に部室でイチャイチャ、これだけで充分、問題になると思わないのか」
「・・・だから、それ以上は、・・・」
「バカ野郎。それ以上、ってどういうことだ?それ以上が起こってしまってからでは、遅いんだよ!明日、お前の親を学校に呼ぶからな、そのつもりでおけ」
「ええ~!そりゃ、ないっすよ!親は、関係ないです。純粋に、俺の問題で」
「そうは、いかん。お前はどうあがいても、未成年者だ。親の責任がゼロということはあり得ない」
「いや、ゼロです!」
俺は、岩橋先生を睨みつけた。
(よせばいいのに・・・・はる香の前だから、余計な頑張りを見せていたのかも)
「浩太さん、もう、帰りましょ」
はる香、泣いている。それを見て、俺の高ぶった気持ちも一気に萎えてきた。
「・・・まあ、今日は帰れ。処分があるぞ、きっとな。覚悟しておけ。このバカたれ」
岩橋先生の姿を見ようともせず、俺とはる香は部室を後にした。すっかり、陽は落ちていた。
(つづく)
第22話
確か、「処分」って、言ってたな。
俺は岩橋先生の言葉を思い出しながら、ゆっくりママチャリを漕いでいた。
(ま、厳重注意、ってとこかな)
可哀想なのは、はる香。駅までの帰り道、ずっと泣いていたもの。確実に、俺の責任だ。こればっかりは、間違いない。
家について、車庫のシャッターをガラガラと上げた。ママチャリをしまい、玄関に立つ。
「ただいま」
いきなり、だった。
「浩太!学校からさっき、電話あったわよ」
母さんの声。いつもより、低め。
(うわ、ヤベ~)
母さんが本当に怒っている時の、声だ。
そお~っとリビングの扉を開けると、何かが飛んできて制服の胸にあたった。梅干しが入っている、タッパーだった。梅干しの赤が、ブレザーにばっちり、ついちまった。
「説明、しなさい」
母さんの顔、今までに見たこともない、鬼の顔だった。
「・・・・電話って、どんな内容?」
「バカ。そんなハレンチなこと、親に言わせるのか~!」
次は、まるめたエプロンが飛んできた。
(ハレンチ、って思いっきり昭和な言葉なんですけど)
「・・・・いや、別に、マズイことないってば」
「マズイことがないんなら、どうして学校から電話、来るのよ!」
ズンズンと俺の前に来た母さんの、グーパンチが頭に炸裂した。イテ!
ふと見ると、いつも温厚な母さんの目に涙が溢れている。流石に、俺も事態の深刻さに気付かされた。
「・・・・そこ、座んなさい」
「・・・はい」
沈黙が、流れた。
(ハレンチなことって・・・・そんなこと、やってないし)
(・・・でも、どこまで信じてもらえるか)
(・・・きっと母さん、俺がはる香をニンシンさせるようなこと、やったって思いこんでいる)
さめざめと流した涙を拭いて、母さんがゆっくり、口を開く。
「・・・で、どちらのお嬢さん、なの?」
「・・・大河原町に住んでる、江川はる香。2年生」
「・・・・部活の後輩、なの?」
「うん、まあそんなとこ」
沈黙、再び。大きなため息が聞こえる。
「それで。写真、見せなさい」
「ええ~、ないよ」
俺は、ウソをついた。
「まさか!ないわけ、ないでしょ!見せなさい。スマホ、使用停止にするわよ」
いや~それはカンベン。
俺は観念して、スマホの画像を見つけて見せた。
「・・・・可愛い、じゃない。だけど広瀬すず、とは似てないわね」
(それ、余計だよ!)
母さんは無表情で、俺にスマホを返した。
(つづく)
(第23話)
翌日の3時半。母さんと俺は、職員室の隣の校長室にいた。母さんはそのために、パートの仕事を休まざるを得なかった。
俺らの前には、担任の布宮先生(=2年では別の先生だったけど、3年で再び)、大島教頭、生活指導の森本先生が座っている。
「・・・・このたびは、息子が大変なご心配をかけまして、本当に申し訳ありません」
母さんがテーブルに頭をこすりつける様子を見て、俺も慌てて頭を下げた。
「まあまあ、お母さん。若いっていうことは、ま、時にこのような事も起こります。どうぞお顔をあげてくださいな」
大島教頭はにこやかに、母さんに話しかける。大いに恐縮して、母さんがようやく顔をあげた。
「佐野。お前、何か言いたいことはあるか」
森本先生が俺をギロリと睨む。
「・・・・いや、ないっす。下校時間を過ぎて、部室で女の子と一緒にいたことは、高校生として良くないことでした。すみませんでした」
俺は素直に頭を下げた。
(・・・なんとか、これで逃げ切れ!)
「ええと・・・・江川はる香、2年B組だったな。お前たち、いつから交際している?」
(えっ?意外な質問だ)
「・・・・言いたく、ありません」
森本先生の声が上ずる。
「お前の立場で、言いたくない、じゃないだろう?いつから、だ?」
「・・・・関係、ないと思います」
「ちょっと浩太!」
母さんが俺の背中を遠慮なく叩いた。
「そうか、分かった。反省の色がないと見える。先生たち、いかがですか?」
森本先生が、部屋を見渡す。
布宮先生が
「浩太。何を隠すことがある。男女が惹かれあう。自然なことだ。そのこと自体、何も悪いことじゃない」
と俺を諭すが、俺の耳には入らない。そう、はる香は関係ないのだ。はる香に責任は、ない。
「・・・仕方、あるまい。じゃあ、もっと訊かれたくないことを訊く。お前たち、カラダの関係はあったのか?」
あるわけ、ないだろ!と俺は叫びそうになったが、待てよ?キスって、「カラダの関係」に含まれるのか?どうなんだ?
(つづく)
(第24話)
結局、話し合いは1時間近く、かかった。
森本先生が裁判官のように俺を睨む。
「佐野。今日の時点では、お前に反省の態度が全く見えない。残念だが、何らかの処分は避けられないぞ。そのつもりで、な。教頭、いいですね?」
大島教頭は、さっきと同じように、にこやかだった。
「佐野くん。もう少し、気持ちを開いてくれたら良かったのに、と思うよ。今回はちょっと痛い治療になるかもしれないけどね、この経験を今後のプラスにすることだ」
俺は一切、口を開かない。一方、母さんはずっと下を向いていたけど、涙が数滴、テーブルに落ちるのが見えた。
(そこまで言われるほど、悪いことなのか?)解せなかった。
ある意味当然だが、俺はその日は部活に出ることは許されず、自宅待機となった。早速、はる香にLINEを送る。
◆俺◆
「いや〜、参ったよ。そっちは、どう?」
★はる香★
「私は大丈夫。担任から、いろいろ聞かれたけど、適当に答えておいた」
◆俺◆
「おお〜そうか。今日は部活、出席停止になっちまった。くそっ!今日、合奏だったのに」
★はる香★
「今日から、高井先生が指揮するらしいよ。ごめんなさい、もうすぐ始まるから、また後で連絡します」
◆俺◆
「え〜、高井が? じゃ、連絡、頼むよ」
ふう〜。俺は大きなため息をついた。つい数時間前に、森本先生から言われた6文字熟語が何度も俺の中にこだましている。
『不純異性交流』
どこが、不純だ。高校生として許されている範囲だと心から思っている。確かに同級生の中では、カラオケボックスに行っていろいろ問題行動になった例もある。また、別の高校だけど、中学校の時の同級生の女子が、なんでも赤ちゃんが出来たらしくて、出産費用のカンパの協力依頼が来たこともある。
俺は、はる香と交際して1ヶ月くらいの時、姉貴を通じて母さんに伝わるよう、それとなく、彼女が出来たことは伝えていた。で、ある時に母さんから、
「彼女が出来たそうだけど、恥ずかしくて母さんに言えないようなことは、しないんだよ」
と言われていた。自分としては、そんなことはしていないつもりだけど、こうして母さんが学校に呼ばれて泣かれる姿を見たら、流石に凹んだ。
(つづく)
(第25話)
はる香が一緒に部活停止にならなかったのは、きっと2人揃ってそうなった時の影響を考慮して、のことだと思う。俺の謹慎はとても今日明日で終わりそうもない。で、はる香もそれに合わせて授業や部活に顔を見せないとなると、イヤでもいろいろ勘ぐる奴も出てくるだろう。だから、それは俺も望んでいたことだけど、はる香には目立った処分が下されることはなかった。
自分のことはどうでも良かったんだけど、なんせ楽器が部室にある。今日の帰り道、しれっと部室に寄って楽器を持って帰ろうとしたけれど、布宮先生から
「浩太、お前、謹慎中だってこと忘れんなよ。音楽も当面、禁止だ」
と止められた。それは俺にしてみれば大誤算で、
「ええ〜それは、ないっすよ」
と抵抗したけれど、全然聞き入れてもらえず。もう〜定演まで日にちがないのに、楽器を弾けないのはホント困る。よく言われるけど、1日休むと、3日遅れる。それって、ホントなのよ。困った。
今回の一件は、さすがに部長の樋口には話さざるをえず、LINEだったけど報告しておいた。樋口は
「この、アホ!1日だって惜しいのに、コンマス不在でどうすんだよ!」
と激怒された。ま、当然といえば当然だ。だけど、とにかく俺は1日も欠かさず練習したいことには変わりないから、とにかく樋口に頼んで俺の楽器を部室から持ってきてもらい、どっかで受け渡しをする方法を考えることにした。
で、部活が終わり、早速はる香からメール。
❤はる香❤
「浩太さん、部活終わりました」
◆俺
「おう!どうだった、練習?」
❤はる香❤
「それがね、・・・・ちょっとすごい展開になったの。うーん、何から伝えれば・・・まだ、樋口部長とか中川先輩から連絡、ないですか?」
◆俺
「ないない。で、どうした?」
次のはる香のメールに、俺は打ちのめされた。
(つづく)
(第26話)
❤はる香❤
「高井先生がね、今回の一件で、浩太さんをコンマスから外して、中川先輩にするって」
ほぼ同時に、電話が着信。中川さんからだ。
「はい」
「ちょっと!浩太君、どういうことよ???」
すげえ、音量。耳が痛いほど。
「な、中川さん・・・」
「この大事な時に、何てことなのよ!ちょっと説明しなさいよ!こっちは、大迷惑なんだから!」
うう、かなりのヒートアップ。
と、ここで樋口からも着信。ええい、まずは樋口と話さないと。
「中川さん、ごめん。今、樋口から電話だから、終わったらかけ直す。じゃ、切るよ」
すかさず、樋口の電話。
「浩太。聞いたか?高井がお前をコンマスから降ろすってほざいている」
「樋口、・・・・いろいろ、スマン。ああ、聞いたよ。今さっき、中川さんからも電話があって」
「心配するな、俺が絶対阻止するから。ったく、普段は何もしないくせに、こんな時にばっか、シャシャリ出やがって、高井の野郎」
いつも冷静な樋口が、珍しくエキサイトしている。ま、俺が撒いた種、何だけど。
「で、高井は?」
「うん。・・・・ま、分けて考えなきゃいけないけど、今日、高井は「フィンランディア」を振った。俺は、・・・・びびった」
「?どういう事だ、樋口?」
「高井、ああ見えて、オケ知っているぞ。村岡先生、以上だ」
ウソだ。俺は、信じなかった。
「よくさ、普段は温厚な人が、車のハンドルを握ると人が変わるって話、あんじゃん。まさしく、そんな感じだったよ」
俺はさっぱり、状況を理解できない。
「どういうことだよ、具体的に話せよ」
「高井はH音大卒業。そこの指揮科の教授が、戸塚尚弘だ。もちろん、専攻は合唱指揮だけど、学生の時にオケの指導もやってたらしい。」
なんと。俺は自分の謹慎のことをすっかり忘れ、TVで何度か見たことのある、戸塚の指揮ぶりを思い出していた。小澤征爾の弟子の一人である戸塚先生。ということは、高井は小澤征爾の孫弟子になるのか。
高井・・・・、お前って、いったい誰なんだ?
(つづく)
(第27話)
「そりゃそうと、俺のコンマス降格の話って、何で出たの?」
「正直、分からない。ただ、今日みんなの前で発表していたけど、お前、2週間の自宅謹慎になるって本当か?」
ええ〜、まだ聞いてないよ。2週間?それって、あまりに長すぎないか?
「いや、処分は追って、ということで今日は終わったけど」
(まさか、2週間とは)
ゴールデンウィークがかぶるから、謹慎明けとなると、定演までは1ヶ月半ってなとこだ。それまでコンマスがいないってことは、それが高井でなくても、指揮者だったら誰だって受け入れられる筈がない。
「浩太。謹慎期間、なんとか短くならねえのか?」
「いや、俺だってまだちゃんと聞いてないんだから、なんとも言えないよ」
「そうか。・・・じゃ、俺が高井を説得する」
「樋口、ホントにごめん」
だんだん、コトの重大さに気づいた俺。
「楽器は、どうにかして今週中に届ける。だから、練習だけ、やっとけ」
「・・・・ありがとう」
そう言うのが精一杯だった。
樋口の電話を切って、すぐに中川さんに。中川さんは、俺とはる香のことは知らない。そう、悠木さんの口は固いのだ。
「・・・何をしたか、は聞かないけどさ」
明らか、怒っている。当然だ。
「どんだけ、こっちが迷惑しているか、分かってんの、もう!」
謝るしかない、俺。とにかくここで話していても埒があかない。早々に電話を切り、頭を切り替えるために風呂に入った。
長めの風呂から上がり、「アルルの女」を聞こうとYouTubeを開いたとき、下から声がする。
「浩太!布宮先生から電話!」
お、先生。処分の発表か。
一気に階段を降り、母さんから電話を受け取る。
「はい、電話代わりました」
「浩太。さっきまで職員会議だった。で、お前の処分についてだが」
時計を見た。8時半だ。
ゴクリと、唾を飲み込む。
(つづく)
(第28話)
<樋口の話>
合奏は5時からだったけど、高井が部員をその前に集めた。浩太からの連絡が先にあったから、その日に浩太が練習に参加できないのは覚悟していた。ま、こっぴどく叱られて終わり、だろうと思っていたけど。
揃った俺たちを前に、高井が口を開く。
「みんな、聞いてくれ。このたび、この音楽部員の中で不祥事があった」
一同、ざわつく。
「コンサートマスターの佐野浩太に、高校生として問題行動があったと報告があった」
一同、さらにざわつく。俺は思わず江川を見たけど、顔色一つ、変えない。
(たいしたタマだ)
「問題行動って、何すか?具体的に、言って貰えませんか」
おうおう、来ると思った。森山の予想されたツッコミ。
高井はちょっと考えて、
「不純異性交遊だ」
と答えた。一同、さらにざわつく。
(おいおい、穏やかな話じゃねえぞ!浩太の話から、だいぶエスカレートしているじゃねえかよ!)
俺は黙っていられず、口をはさんだ。
「先生。浩太本人から聞いたのですか?」
「いや、森本先生からそのように報告を受けている。本人からの聞き取りに基づいているとのことだ」
それは、違う。
「違います。それは正しくないです」
高井はじろりと俺を見た。
「樋口。それが正しいか正しくないか、よりも、佐野にそのような処分が下されること自体が問題だとは思わないのかね。火のないところに、煙は立たない。違うか?」
「いや、冤罪です。浩太はそんな奴ではありません。俺が断言します」
中川さんが援軍。
「わたしも・・・・浩太くんは、そこまでバカじゃないと思います。定演前の、この大事な時期に」
悠木さんも。
「その・・・・不純なんとかだったら、相手がいるはずです。その相手からの情報も、得たうえでのことなんですか」
高井は微動だにせず。
「そんなことは、私は知らない。2週間の謹慎処分を受けるような生徒を、コンサートマスターにしておけるか。それだけだ。中川さん、今日からあなたがコンサートマスター。あ、女性だから、コンサートミストレス、と言うんだっけな」
「私、納得していませんから!」
中川さんが怒るのも無理はない。
「高井先生は、一度だって私たちの練習を真面目に見てくれましたか?そんな先生の決定なんて、私たち、支持できません」
普段大人しい富岡も
「ボクも、支持できません」
森山も当然ながら
「先生の決定には、承服しかねます」
「・・・・分かった。じゃあ、こうしよう。私の決定に不服かどうか、これからの私の指揮で決めてもらおう。基本、指揮者は独裁だ。棒ひとつで、どうにでもなる。演奏で、答えを出そうじゃないか」
空気が、張り詰めた。
(つづく)
(第29話)
<樋口の話>
こんなの、前代未聞だ。指揮者とオーケストラが、演奏で対決する。これまで、信頼できない指揮者と演奏することなんて、なかった。当たり前だ、相互の信頼関係があって、良い演奏が成立する。
いや、でも、待てよ。よく海外のオーケストラでは、指揮者と団員との確執があるように聞いた。通常、指揮者は人事権まで持ち、自分の気に入った楽員を強引に入団させたり、その逆に、自分にとっての抵抗勢力を退団に追い込んだりすることも珍しくないという。
今までやる気を見せなかった高井が、今日になって指揮をするという。どうせ、素人に毛が生えたレベルだろう。
・・・・と、俺は思っていたけれど、実際は真逆だった。
交響詩「フィンランディア」の冒頭。うめく様なトロンボーンの出だしから、高井は容赦なかった。
「井上。シベリウスがこの曲を書いた時。1900年頃だよ。フィンランドとロシアではどんな関係だった?」
トロンボーン主席の井上は、答えられない。
「・・・・そんな基本的なことも知らず、演奏できるのか。19世紀末ころから、ロシアからの圧政にフィンランドの人たちは苦しんでいたんだよ。言論統制、思想統制。冒頭は、フィンランド人の苦悩を現している。フィンランドの、緯度は?地理を専攻している奴?答えられるか?」
一同、沈黙。
「首都のヘルシンキは北緯60.1度。北海道の稚内が45度だから、それよりもかなり北だ。最低気温は、マイナス35度。今から100年も前、どんな暖房装置があったとしても、その寒さは私たちには想像も出来ないだろう。井上、その寒さを想像して、もう一度、吹いてみろ」
高井の指揮に合わせて出た井上の音は、それまでとは全く異なるものだった。
「もう一度。そこのトロンボーン3重奏。君たち3人が、寒い中、苦しむ中、寄り添って身体を温め合って、辛さに耐えているんだよ。そんな響きを、もう少しイメージしてみろ」
さらに、音が変わる。音楽室の空気が一変する。
「まだだ、もう1回。どんな音が出ているか、ちゃんと聞いてみ。」
なおも、繰り返す。
「もう1回」
「もう1回」
井上の顔が、変わった。
「もう1回」
トロンボーン3人の目から、同時に涙が流れた。なんという響きだ。俺は鳥肌が立った。
(これは、井上の、いや、尾川中央の響きじゃねえ)
「・・・よし。今の響きを忘れないで。じゃ、次にいくぞ」
合奏が始まって、ほんの5分しか経っていなかった。大袈裟かもしれないけれど、俺たちは文字通り、生まれ変わった。
(つづく)
(第30話)
<樋口の話>
練習は、6時きっかりに終わった。
俺たちは、自分たちの演奏がまさしく別物になったことを実感していた。もう、言葉にはできないけど、高井の指揮には、圧倒的な実力と音楽性があり、オケはただひれ伏すばかりだった。
正直、これほどのオーケストラ指揮者が高校の音楽教師にいたのか?と思える。そう考えれば、俺たちは何と恵まれていることか。
森山も富岡も、皆が一様に感じていたことだと思うが、
「だからこそ、俺たちにはコンマスとして浩太が必要だ」。
練習が終わり、俺と森山、富岡も高井のところに行った。
俺から、礼を言う。
「先生。今日のご指導、本当にありがとうございました」
「・・・ま、顧問だからな。最低限のことをしたまでだよ」
森山が興奮して
「先生。ボク、先生を見くびっていました。すみませんでした。本番も、どうか、よろしくお願いします」
と頭を下げる。
「あの、最初の練習で、浩太が指揮していた時、ずっとスマホ見ておられたので、・・・・ボクたちの演奏には興味がないとばかり・・・」
高井が無表情で森山を見る。
「指揮する前に、スコア(総譜)を読みこむのが最低の礼儀だと思っていたのだけど」
(そういえば・・・今日、高井はほとんどスコアを見ずに、それでも的確な指導をしていた)
ええい、まあ、それはいい。
「・・・で、浩太のことなんですが」
じろりと俺を見返す。
「・・・やっぱり、浩太はコンマスから降ろさないで貰えませんか?今回のことは、本人も反省しているようです。しっかり、謹慎すると思いますので、許してやってください」
「俺からも」
「ボクからも」
次々と、富岡と森山も加勢する。
「自宅謹慎、2週間。これって、どれだけ重いことなのか、分かるか」
いや、俺たちには答えられない。そんなの、知るかよ。
「よく、聞くよな。レギュラーでもない野球部員の不祥事で、チームが責任をとり、大会の出場を辞退する」
ああ、高校野球で、よく聞く話だ。
「本人の不祥事で、本人にその責任を負わせ、コンマスから降格。これの、どこがやりすぎなのだ?」
「だから、不純異性交遊、じゃなかったんですよ。実際は」
俺は必死に、浩太をかばった。
「本人から、・・・・聞いています」
「本人から?どういうことだ」
それは、・・・と言いかけた時。ドアをノックする音がする。
「誰だ?」
「・・・江川、・・・江川はる香です。先生に、話があります」
(えっ、江川。お前は出るなよ!)
余計なこと、するなって!
(つづく)
(第31話)
<樋口の話>
「・・・すまんが、後にしてくれるか。今、ちょっと取り込んでいる」
高井は迷惑そうに、江川さんを追いやるが、
「いえ、大事なことなんです。コンマスの佐野先輩のことなんです」
と、江川さんも引かない。俺は慌てて、
「江川さん、ちょうど今、その事で先生と話しているから、俺たちに任せてくれないか」と制した。
でも、そんな事は意に介さず
「失礼します」
と、勝手に部屋に入ってきやがった。ちっ、これだから女は勝手だ。
「・・・江川さん、だね。何ですか、佐野くんの事ですか?」
高井が相変わらず、ジロリと見つめる。
「・・・佐野先輩は、・・・不純異性交遊なんて、していません。」
「ほう、どうして、そう言い切れる?」
「・・・わたしが、当事者だからです」
森山が叫んだ。
「マジかよ、江川さん?」
(←後から聞いたが、森山は最初から二人の関係は知っていたらしい。その場で咄嗟に、知らないふりをしたそうだ)
俺はただ、
「あちゃ〜」って感じだった。
それでも高井は顔色一つ変えず。
「あなたが当事者だとして。それを証明できますか?森山先生からの報告によれば、お前たちは夜の部室で二人きりで抱き合っていたと。」
「・・・・」
「それでどうして、不純異性交遊でないと、言えるのだね?」
「・・・・だって、何もなかったからです」
「何もなかった、って?何も?」
「・・・・はい。佐野先輩にも、確認してくださって結構です。何も、問題になるようなことは、私たち、していませんから」
はる香は、きっとした表情で高井を見つめた。
(この子・・・すげえ、肝据わってんじゃねえの)かなり、ビビった。この状況で。
「・・・・ふむ。疑わしきは、罰せずにすべきだということか」
「・・・そうです」
高井は、向き直って窓際に立つ。
「でもね、私にとっては、そんなことはどうでもいいことだ」
「・・・・」
「本番前の2週間に、その責務を果たせないようなコンマスなら要らないということ。それだけだ」
森山も立ち上がる。
「だから!その2週間の謹慎そのものが、不当なんじゃないんですか?」
「・・・そんなことは、私の範疇外だ。本番までに演奏レベルを高めて、最高の演奏をする。私には、それしか関心がないんでね。すまないが、そういうことだ。さ、みんな、下校時間だ。私も6時半から職員会議がある。帰りなさい」
「先生!」
江川さんも森山も叫ぶが、効果はない。高井はこちらを見ようともせず、帰りの支度をし始めた。
「無駄だ、行こう」
皆に帰るよう、促すのがやっとだった。
(つづく)
(第32話)
布宮先生からの電話。
「浩太。さっきまで職員会議だった。で、お前の処分についてだが」
ゴクリと、唾を飲み込む。
「・・・思いのほか、時間がかかった。大方の線では決まっていたのだが、明日、もう一度ヒアリングを行った上での決定となった」
「・・・もう1回ですか?もう話すこと、ないです」
「まあそう言うな、浩太。明日は、江川さんも一緒に入ってもらう」
ええ〜〜〜〜
「いや、江川さんには関係ないです」
「関係ないこと、ないだろ。高井先生から、江川さんからの情報が入ったそうだ」
?高井が?
はる香?あいつ、喋ったのか?
余計なことをしやがって。でも、もしかしてそれで、停学の期間が短くなるかもしれない。
「あの、江川さんがヒアリングに参加することは・・・」
「心配するな。情報は漏れないようにする」
「お願いしますよ、そこ」
「言われなくても、わかっている。じゃ、明日の昼休み、13時に職員室に」
「わかりました」
電話を切った。
母さんが
「どうなのよ?」
と訊いてきたけど、
「決定は明日以降だって!」
とだけ言い、部屋に上がった。もち、はる香にメールするためだ。
◆俺◆
「ちょっと!はる香!」
❤はる香❤
「あ、浩太さん。今、学校から電話があって」
◆俺◆
「高井に何か言ったのか?」
❤はる香❤
「いや、特になにも」
◆俺◆
「とぼけんなよ!」
❤はる香❤
「・・・・・・」
ええい、面倒くさい。電話にしよう。
(つづく)
(第33話)
俺はすかさず はる香に電話を入れた。
「はる香」
「・・・・はい」
「高井に、何、喋った?」
「・・・・・」
俺は流石にキレて、電話口で怒鳴った。
「余計なこと、すんなよ!」
「・・・・・だって」
はる香は、泣いているようだった。でも俺は関係なく、更に続けた。
「お前は、悪くないんだよ。全部、俺が悪いの。だから、頼むから、黙っとけ」
「・・・・だって、だって、・・・・浩太さんだけ謹慎なんて・・・」
「そうだよ。それで、いいんだよ。なーに、謹慎するほうが、朝から楽器弾けるから、よっぽど練習になるわ」
「・・・・わたしも、・・・・浩太さんと一緒に、謹慎する・・・」
「だ・か・ら!わかんねえ奴だな。はる香も謹慎したら、俺らのこと、ばれちゃうだろうが!」
うっ、突然、姉貴が部屋のドアを開けて
「大丈夫?」
って顔をしている。
見てのとおり、大丈夫じゃないってば。あっち、行って!
「・・・浩太さんは、私と付き合っていること、知られたら困るの?」
「・・・困るってことはないけどさ」
「だったら、いいじゃん。学校も先生も公認の仲になれば、いいわけでしょ」
はる香、開き直ったのか?
うーん。公認って・・・・
「・・・わかった。浩太さんは、私みたいなショボい彼女がいるって思われなくないのよね、きっと」
え~!なんで、そうなるかな??
「ち、違うよ。そういうことじゃない。ただ、・・・」
「ただ、・・・・何ですか」
(はる香の声が、俄然、強気になった)
「・・・ど、どうしてもさ、お付き合いって、女の子のほうが、不利になるじゃん。いろんな面で」
(と、俺はここで悠木さんからの忠告を思い出した)
「私は、ぜんぜん、そんなこと、思わないけどな」
はる香の涙は、すっかり、乾いてしまった。
(続く)
(第34話)
やばい、沈静化するのが、逆に怖いかも。これも悠木さんから、
「ああ見える娘ほど、気持ち強いからね」。
うーん。どうする、俺?
とにかく、沈黙は避けないと。
「ま、ま、はる香、分かったよ。気持ちは、ありがとう。でもさ、まずは、俺が明日はひたすら謝るから、それでなんとか2週間の自宅謹慎ですませるってことで。はる香は、繰り返すけど、なーんにも悪くないんだから。な?」
「・・・・やだ」
もう~、分かってくれよ~!
「・・・じゃ、とにかく、あとは明日ね。今日、いろいろあったから、俺も疲れたわ。はる香も、もう寝な」
「はーい」
電話を切った。
しかし、だ。
2週間の謹慎。コンマスが、演奏会の前に2週間いない。そりゃ、樋口も中川さんも怒るに決まっているな。うーむ、ここはかつての川合先輩のように、コンマスの席を中川さんにお願いして、おれはプルトの後ろで弾く・・・・・。
いや!
考えられない!最後の演奏会、俺がコンマスでないなんて。
俺にとって、コンマス席で弾かないヴァイオリン弾きは、もはや、ヴァイオリン弾きとは言わない。生意気だとは分かっているが、どうしてもここは、譲れない。
それだけ、俺にとっては、コンマスの席は重要なものだった。
(・・・・高井の野郎・・・!)
俺は自分の不始末を棚に上げ、指揮は一流らしい高井を恨んだ。と同時に、樋口が絶賛している高井の指揮で、ぜひコンマスとして「フィンランディア」を弾いてみたいと心から思った。
(続く)
(第35話)
・・・ったく、何だったんだ?
一連のことを思い出すだけで、頭の中が「?」で一杯になる。
翌日のヒアリングは、覚悟して行ったものの、拍子抜けするほど、あっさりとしたものだった。
『不純異性交遊』が、具体的に、どこまでなのか、根掘り葉掘り、森本先生と布宮先生、あと保健室の野川先生とに、俺とはる香から別々にヒアリングさせられた。
その後、俺だけが保健室で野川先生と1対1で話をすることになった。
「佐野くん。女の子のことが好きになって、抱きしめたい、キスしたい、もっと先のことをしたいっていう気持ち。これは、先生たちだって、みんな、通ってきた道なのよ」
「はい」
「でもね、その異性を求める強い気持ちっていうのはね、実は、神様から授かったものなのよ」
神様?へ?
「男性が女性を好きになる。その逆も、これは極々、当然のこと。ま、とどのつまり、佐野君だって、ご両親が愛し合って惹かれあって、その愛の結晶として生まれてきたんだからね」
げっ、オヤジと母さんが・・・・うう、想像したくない。エロいわ。
「・・・私の尊敬する、パッカーさんっていう老夫婦がいてね。アメリカの人なんだけど。その人がね、90歳を過ぎて、奥様も健在で、こんなこと、言ったのよ。ちょっと、聞いてね」
野川先生が、iPadを取り出して画面を読む。
(つづく)
(第36話)
『愛し合う若者同士が創造の力を通して経験する喜びこそ最も崇高な愛の表れであると考えている人は,長い結婚生活における献身や慰めをまだ経験したことのない人です。結婚した二人は,誘惑や誤解,金銭問題,家族の危機,病気などを乗り越えながら愛を深めていきます。そのようにして育てた成熟した愛は,新婚の夫婦には想像もできないような無上の喜びをもたらします。』
つまりね、エッチすることが最高の喜びであり恋愛の目的である、って思っている人は、本当の「愛」を知らないって言っているの。
『真の愛を育てるには,命の源である神聖な力を解き放って二人の愛を分かち合うことを,結婚するまで待たなければなりません。これは,結婚前の二人の関係が肉体的な欲求に支配されないようにするためです。』
だから、佐野くんも、はる香ちゃんも、相手のことをもっともっと、好きになっていいの。でもね、本当の愛は、必ず、今の自分の気持ちよりも、「相手の将来」を優先すること。だから、その場の感情に流されてしまってはダメ。お互いに望んでいるから、その先まで行っていいということにはならない。なぜなら、「愛」の先には、とっても神聖な「新しい命」があるからよ。
「命」、か。
俺は野川先生の言葉を聞きながら、今後、はる香を恥ずかしい思いにさせることは絶対にするまい、と誓った。
この日の野川先生の言葉は、思春期の俺らにとって少なからぬインパクトを残した。
保健室から職員室に戻ると、はる香はもういなく、教頭先生と布宮先生、生活指導の森本先生が待ち構えていた。
「佐野くん。今回の一件での、学校としての処分を伝えます」
森本先生の言葉。
「はい」
もう、覚悟を決めるしかない。
(幸い、ヴァイオリンは今日の午後に樋口が俺の近所の高橋を経由して俺の家に届けてくれることになってる。ま、楽器さえ弾ければいいや)
教頭先生が立ち上がり、口を開いた。
「佐野浩太、あなたは@月@日の放課後に、本校生徒の2年生A子さんと高校生として相応しくない行動がありました。不純異性交遊とまでは言えないものの、軽率かつ思慮に欠けた、高校生としてあるまじき行動でありました。本学は今回の一件を大変重く受け止めています。
よって、私たちは佐野浩太を、本日から1週間の自宅謹慎処分とし、800字以内での反省文を謹慎処分明けに提出することを求めます。」
(おお!1週間に短縮された。良かった〜!)
「さらに、自宅でのトイレ掃除を毎日行い、ご両親に監督をしていただくことを依頼します」
(ト、トイレ掃除ね。はあ、ま、やるしかないな)
「以上が学校の決定です。
佐野くん、この決定を受け入れますか。今、どのような気持ちですか。あなたの言葉で話してください」
教頭先生が、どっかりと椅子に腰掛けた。
俺は心底、「助かった〜」と思った。
「はい、・・・この度は、皆さんに大変なご迷惑とご心配をかけてしまい、本当にすみませんでした。母親に泣かれてしまって、事の重大さにようやく気付きました。って、遅いんですけど」
先生たちは皆、微動だにしない。
「寛大な処置を本当にありがとうございました。これからは心を入れ替えて、軽率な行動は慎み、勉強に部活動に頑張っていきたいです」
「・・・・浩太。お前、部活は100点なんだけど、勉強がなあ〜」
布宮先生が、残念そうに顔をしかめた。
「これが終わったら、家に帰る前に高井先生に顔を出していきなさい。いろいろ、便宜を図ってくれたのは高井先生だ」
森本先生の言葉に、俺は心底、驚いた。
(あいつが・・・・)
(つづく)
(第37話)
もう5時限目は始まっていたけど、とにかく俺は高井に会いに音楽室へと急いだ。途中、樋口からLINEが。
「浩太、お前の楽器が見当たらねえ。どこにしまった?いつもの棚にないけど」
ええ〜!どうして?命より大事な俺の楽器。そのために毎朝、2年間新聞配達をしたんだ。
ん?まさか?
・・・そうだ。きっと、高井だ。
俺のヴァイオリン・ケースにはSANOというでっかいキーホルダーを付けている。
あいつがきっと、預かっているんだ。
あの野郎。
俺は走りながら、まだ高井の意図を図りかねていた。
音楽室について、教員の控え室のドアを叩く。
「高井先生、佐野です」
「入りなさい」
重い防音のドアを開けると、高井の近くに間違いない、俺のヴァイオリン・ケースがそこにあった。
(やっぱり)
いや、でも、2週間と聞いていたのを1週間にしてくれたのが高井だとしたら、まずは感謝しなければならない。
「佐野くん。処分を聞いたのか」
「はい・・・・1週間の自宅謹慎ですみました。布宮先生からは、高井先生が色々とお力添えを頂いたと聞きました。本当にありがとうございます」
俺はゆっくりと、頭を下げた。
「ま、1週間とはいえ、コンサートマスターがオーケストラから不在となる。そのことを、君はどう考えますか」
「・・・・本当に申し訳ないと思います。・・・でも、たった1週間ですから、すぐに戻って、皆に追いつきます」
「それは、どうかな。」
高井の、冷たい目。
「昨日、『フィンランディア』を振らせてもらった。昨日だけで、だいぶ、音が変わったよ」
「・・・・はい、樋口や森山から、そのように聞いています」
「・・・・これは、君の楽器だよね」
高井が、俺のケースを指差す。
「そうです」
(続く)
(第38話)
「君が考える、コンサートマスターの姿とは?」
禅問答かよ。俺は胸を張って答えた。
「はい、第一ヴァイオリンの首席奏者ですから、音楽的にも技術的にも最高のヴァイオリニストでなければなりません。また指揮者の意図を正しく汲み取り、必要に応じてメンバーにそれを伝えます。」
「ふむ、教科書通りの答えだけど。じゃ、君が本当にこのオケの最高のヴァイオリニストなのかな」
「もちろんです」
「じゃあ今、ここで『フィンランディア』の後半の主題。私の前で、弾いてみなさい」
おお、いいとも。望むところだ。
俺は高井からケースを預かると、楽器を取り出し調弦をする。
(久しぶりだ・・・4日ぶりかな?)
「・・・じゃあ、ソロのつもりで、自由に弾いてみなさい」
「わかりました」
今や、フィンランドの国家とも言える有名なメロディ。それこそ、何百回も練習したメロディだ。時折、目を閉じながら心を込めて、ビブラートを多用して俺は精一杯の演奏をした。
(どうだ!これが俺の実力だ)
演奏を終えた俺に、高井は顔色一つかえずに
「ふーん」
と言った。
「感想はいかがですか」
俺の質問に対し、
「いやあ、聞かないほうがいいよ」
と高井。
何?ふざけんな。
「感想を、お願いします」
「それでも聞きたいかね。中川さんのほうがコンマスには相応しいと思うな、現時点では」
なに〜!!
(つづく)
(第39話)
「せ、先生。中川さんのほうが、俺より上だと仰りたいのですか」
「そうだよ」
そっけない。
いや、ここで反発して高井のご機嫌を損ねたらかえって損だ。俺は気持ちとは裏腹に、
「高井先生、俺、いや僕は頑張って練習します。ここ4日、謹慎で楽器を弾けていませんでした。ですから、来週の謹慎明けに、もう一度、チャンスをください」
と頭を下げた。
(・・・ここさえ、凌げば)
「佐野。君は『謹慎』という言葉の意味を知らないようだ。まさか、今日は自分の楽器を持ち帰って、1週間がっちり練習しようって思っていないか」
(そりゃ、そうでしょ)
「あ、その、謹慎っていうのは理解しています。ちゃんと反省するっていうか、家のトイレ掃除もするように言われましたし」
それとこれとは、違うだろ。
「・・・じゃあ、謹慎期間中にヴァイオリンを練習する。それは問題にはならないと思っているのか」
「もちろんです。定演も、近いですし」
俺は、胸を張った。
高井が席を立った。
「そこまでバカとは思わなかった。謹慎、って辞書になんてかいてある。
『言動を反省し、行いを慎むこと』。
1週間、学業も部活動も慎むことだ。わかったな。楽器は私が預かる」
「せ、先生!」
慌てて頭を下げる。
「お願いします、お願いします」
「佐野、とにかく楽器は顧問の権限で私が1週間、預かる。謹慎が1週間に短縮されたのも、私が君の大好きな楽器を預かってしっかり謹慎させるって条件で、森本先生が承知してくれたのだ。さ、分かったら帰りなさい。まっすぐ、寄り道をしないで帰りなさい」
威厳を伴った高井の言葉に、俺は渋々、退散するしかなかった。
あと1週間も、楽器が弾けない。俺にしたら、死ねと言われているようなものだった。
(つづく)
(第40話)
樋口が何度も高井に仲裁をしようとしたけれど、全くのムダだった。
ということで、俺は定演前の1週間、その前の期間を含めると10日以上も愛するヴァイオリンを弾けなかった。
当然といえば当然だが、母さんも
「あったり前でしょ、そんなの」
とそっけない。親父も揃って、
「ま、好きな楽器を好きなだけ弾けて、それで謹慎でございます、とはいくまい」
と俺には援軍がなし。
唯一、姉貴だけが
「高井の、やりそうなことよね」
と俺に同情してくれた。
(くっそ~!)
しかし、悪いことばかりではなかった。
幸い、「アルルの女」と「フィンランディア」のスコア(総譜)は手元にあったから、それでひたすらイメージ・トレーニングをすることにした。
それまで自分のパート(第1ヴァイオリン)の譜面はほぼ暗譜していたけれど、時間があったおかげで、その他のパートの流れもじっくりと読み込むことができた。それまで、村岡先生が転任されてからは俺が指揮台に立つことが多かった。でも、指揮をするうえで、じっくりとスコアを読むことって、実はあまりなかったと思う。
自分が指揮すると、思うように奏者が反応し、自由自在に音楽を操れる。その「気持ちよさ」だけに酔っているだけだったかもしれない。だから、調子に乗って
「ここは、フォルテッシモ!」
とか、
「ここから、アチュレ(=加速)するぞ!」
とか、いわば独りよがりの指揮をしていただけかもしれない。
この時に(スコアの前書きを読んでいて)初めて判ったことだが、「アルルの女」の「第2組曲」は純粋にビゼーが作曲したものではなく、ビゼーの死後に友人のギローが劇音楽からの断片をつなぎあわせて「第二組曲」として完成させたのだった。
「第一」と「第二」は、どちらかというと有名な「メヌエット」「ファランドール」の含まれている第二組曲が演奏頻度が高い。
(この現実を、ビゼー本人はどう見ているのかな)
今まで、作曲者の立場になって考えてみたことはなかった俺にしては、新鮮な感情がもたらされた。
(つづく)
(第41話)
ヴァイオリンが弾けない俺は、数日経ったら気が狂いそうになった。しかし、その感情が落ち着くにつれて、これまで自分が無我夢中になっていた「音楽」について、いろいろと考えを巡らせることとなった。
そして、もともとサッカー少年だった俺が、高校入学をきっかけにヴァイオリンやクラシック音楽の虜になり、本当にメシの時間も惜しんで練習に明け暮れてきた。
最初に図書館前で声をかけてくれた、斉藤先輩。
怖かったけど、俺にヴァイオリンを最初に持たせてくれて、「真摯に」音楽に向き合う背中を見せてくれた、信山先輩。そう、チャラチャラしていた俺に、「真摯に」という言葉を教えてくれた。
ホルンの渡瀬先輩は、ちょっと話が長いけど、先輩たちが定演をやるかやらないか揉めていた時、「本気で最後まで努力する」ことを教えてくれたっけ。
あゆみ先輩、改め川合先輩との、ほろ苦い思い出もあった。
先輩だけでなく、樋口や森山をはじめ、悠木さん、中川さん、富山。皆でいろいろ楽譜を見ながら、あーでもない、こーでもないと、曲の選定には遅くまで話し合った。
そして、やはり「和尚」の存在を抜きには俺の音楽は語れない。やっぱり僧侶のお父さんが、和尚の告別式で必死に涙をこらえながら
「太く短く生きた、息子のことを、どうか忘れないでやってください」
と話したことは、今でもはっきり、憶えている。
和尚の告別式では、海野先輩と、和尚の楽器を信山先輩が使い、バッハ「2本のヴァイオリンのための協奏曲」の第2楽章が演奏されたっけな。
和尚、和尚、和尚。
(俺、こんな時に、どうすればいいんですか?)
和尚なら、今の俺に、なんて声をかけてくれるだろう。
ダメだ。和尚のことを思い出すと、やっぱ泣けてくる。
いま、和尚ってどこにいるのか。
人は死んだら終わりって言うけど、でもどうしても俺には、和尚という存在が『消えてなくなった』とは思いたくなかった。きっと、姿は変わっても、俺らのことを天から見守ってくれている筈。そうであって欲しかった。
和尚が教えてくれた、レスピーギ「リュートのための古代舞曲とアリア」第3楽章を聴く度に、ギイギイと義足を鳴らしながら音楽室への階段を昇ってくる和尚の姿が思い出された。
(つづく)
(第42話)
自宅謹慎もあと2日で明ける。
意識しまい、と思っていたけど、やはり、どうしても気をもんでしまう。
謹慎期間中は、当然ながら、自分だけで外出はままならない。家族同伴でないと、勝手な外出は許されないのだ。仕方ないので、学校から命じられた「トイレ掃除」だけでなく、家の仕事も、当然ながら引き受けざるを得ない。
親父は職人だから、朝は誰よりも早い。7時前、現場によっては6時前に家を出て行く。でも、いつも弁当持参だから、母さんはその1時間前には起きていて、毎日必ず弁当を作っている。で、(それまでは実感なかったけど)弁当って、1個詰めるも、2個も手間は変わらないらしく、社会人の姉貴の分も同時に作って詰めていた。
母さんから、
「浩太。あんた、謹慎なんだから、いちど弁当詰めるの手伝ってみなさい。毎日やるのが、どんなもんか、はい、経験・経験!」
ということで、何度か6時に起こされたけど、ついに一度も実現しなかった。
「ワタシ的には、トイレ掃除もいいけど、毎朝の弁当作りを、学校から言って欲しかったな」
と母さんがボヤいていた。
ところで、樋口ら友達とのLINEのやり取りは毎日続けていたけど、実は、はる香とのやり取りは、一時、中断していた。
俺自身、今回のことでいろいろ考えるきっかけを貰ったと思っている。普段、ある意味、無我夢中でやってきたけど、ここで「パウゼ」(休憩)を入れることで、自分の生活や「あり方」を見直す時期にもなったからだ。
だから、はる香には
「悪いけど、謹慎開けまで、ちょっとLINEは止めとくわ」
と伝えた。
「ええ~淋しい淋しい淋しい淋しい・・・」と、延々と描かれたけど、しばらく既読スルーしたら、やがてメッセージが来なくなった。時々、2日に1回くらい、ヘンなスタンプが来るだけになった。
(トレンディ・エンジェルの斎藤さん、とか)
ま、いずれにせよあと2日だ。
「アルルの女」と、「フィンランディア」、モーツアルト「交響曲第29番」のスコア(総譜)を毎日見まくっていた俺は、いちコンサートマスターとしてだけではなく「指揮者」「作曲者」の視点から曲を解釈しようという気持ちになってきていた。
(つづく)
(第43話)
明日で謹慎が開ける、という日の夕方。布川先生から、俺に電話があった。たまたまその時は俺がスマホを家に忘れた状態でスーパー銭湯に親父と行っていたので、母さんがその内容を伝えてくれた。
「高井先生からの伝言。楽器を返すから、朝の8時に音楽教員室に来るように」。
おお~。良かった。
でも、待てよ。何か、嫌な予感がするぞ。また、その場で何かを弾け、ということかな。ううむ、10日くらいのブランクだから、音程が定まっている自信がない。ヴァイオリンは、ピアノと違って「叩けば、その音が出る」わけではないし、ギターのようにフレットがあって、音程が決まっているわけでもない。指と指の間隔は、本人が毎日練習して、微妙な指遣いを身に付けていかねばならない。高校1年の春にヴァイオリンを弾いて以来、10日間も楽器から遠ざかったことはなかった。修学旅行でも、4泊5日で京都だったけど、西京極のアーケード内に楽器やさんを見つけ、森山と一緒に、そのお店にあった楽器を試奏させてもらったほどだ。友達からは、
「京都に来てまで、ヴァイオリン弾いてるぜ、浩太は」
とバカにされたけど(笑)。
仕方ないから、俺は玄関にあったプラスチック製の「靴ベラ」を顎に挟んで、腕や指の位置をなんとか確認しようと、やっきになっていた。
それを見て、母さんも姉貴も呆れていた。
言わば、言え。
俺には、あのコンマスの席がある。まだ高井の指揮は見たことがないけど、樋口や森山が逐一、
「今日の練習では、~」
と報告をしてくれたので、高井が本気を見せてオケを指導してくれていることは把握していた。
森山の話では、最初はコンミス(=コンサート・ミストレス)をイヤイヤ務めていた中川さんが、日を追うごとに自信を増していき、弾きっぷりも堂々たるものになっているという。
嬉しいけど、ちょっと微妙。
俺は本当に、コンマスに戻れるのだろうか。
それもこれも、明日の8時だ。
今日は、早く、寝よう。
(つづく)
(第44話)
その日が、やってきた。
俺は指定の8時より早く、7時50分には、教員室の前に立っていた。
階段をコツコツと上がる音がする。そう、和尚がギイギイと義足を鳴らしながら昇った階段。今日は高井が、冷徹な音を鳴らして上ってくる。
いつもと同じ表情の高井が、俺に気付いた。
「おはようございます」
「おはよう。待たせたな、いま開けるから」
入口のカギを開け、部屋に入る。
「入りなさい」。
眩しい朝の光が部屋に差し込む。カーテンを開けるとその明るさがさらに、増す。
「高井先生、・・・・このたびは大変、ご迷惑をおかけしました。」
俺は素直に頭を下げる。
「・・・まあ、詫びるのは私にではなく、まずオケの仲間にだろう」
イスに座るように俺を促したので、それに従った。
「さて。まずは楽器を返す」
見慣れたヴァオイリン・ケースが、ようやく俺の手元に戻ってきた。
「ま、私はもちろん、ヴァイオリンの専門ではないが、ね。」
「はい」
「同級生の篠崎に、コンサートマスターってどんな役目なのか、聞いてみたよ」。
?篠崎って?
「なんだ。知らないのか、横浜フィル、横フィルのコンマスだよ」
「えっ!篠崎さんがお知り合いなのですか?」
「ああ、大学の同期で、同じアパートだった」
篠崎順二。名前しか聞いたことはないけど、小澤征爾の「サイトウ・キネン・オーケストラ」の常連で、コンマスも務めたことがある人だ。
「佐野。この前、『お前の考えるコンサートマスターの姿とは』という質問をしたよな。憶えているか?」
「・・・はい」
「その時の自分の答えは覚えているか?」
「・・・・はい。」
(第一ヴァイオリンの首席奏者ですから、音楽的にも技術的にも最高のヴァイオリニストでなければなりません。また指揮者の意図を正しく汲み取り、必要に応じてメンバーにそれを伝えます)
たしか、こう言った。
「佐野。篠崎がどう言ったのか、興味あるだろう」
もちろん、だ。
(つづく)
(第45話)
俺は前のめりになって、高井の言葉を待った。
「篠崎は、こう言ったよ。
『コンマスはまず、全楽員のために「仕える」ことが出来なければならない。指揮者と楽員との橋渡しをする立場だから、あくまで、まとめ役であり、メッセンジャー。間違っても「主役」ではない。だから、“俺についてこい”というコンマスは嫌われる。
そして、指揮者の意図を正確によみとって、それをいち早く楽員に伝えるには一瞬の判断と指示が出来ること。フレーズが始まるとの時々に、瞬時の判断とその伝達が求められる。それが出来て初めて、オーケストラには生命が吹き込まれる』
佐野には、この言葉の意味が、わかるかな」
全楽員に「仕える」?
家来のように?
まさか。
俺は、コンマスこそ、オーケストラの主役であり、花形演奏家だと思っていた。
そして、他のメンバーは、俺に従う。それで統率をする。
サッカーでいう、ゲーム・キャプテンだ。
(ま、絶対にムリだけど、ベルリン・フィルで日本人として2人目のコンマスに就任した、樫本大進が、俺の究極の目標だ)
俺はそんな立場に心酔していた。だから、コンサートマスターではないヴァオイリニストは、もやは、俺にとってはヴァイオリニストではなかったのだ。
高井は更に続ける。
「この前、私が、中川さんがコンマス、いやコンミスに相応しいと言ったことを覚えているよな」
「・・・はい」
(悔しかったけど)
「じゃあ聞くが、中川さんにあって、佐野にないものって何だと思う」
ええ??
自慢じゃないけど(って、自慢だけど)
俺は1年生の頃から、誰よりも早く、ビブラートもサード・ポジションもマスターしたし、ヴィヴァルディやバッハの協奏曲も自分からどんどん練習していた。演奏会で弾く曲以外にも、どんどん、難しい曲を自主的に練習していて、それが俺のコンマスとしての技量に寄与していると思いこんでいた。
中川さんはというと、そんな俺とは違い、つまらないエチュード(練習曲)を飽きもせず、毎日繰り返している。もともとピアノをやっていたから、音感は優れていて、俺よりも音程は正確だ。よく、
「浩太くん、小指のH(ハー)音、いつも低いよ」
と注意されたりする。
「・・・音程が正確、ということでしょうか」
おずおずと答えると、高井は首を横に振った。
(続く)
(第46話)
「中川さんにあって佐野にないもの。それは音楽に対する謙虚さだ」
高井の言葉が、ガツンと俺を打ちのめした。
「私が最初に君たちの演奏を聴かせてもらったとき。佐野、君が指揮をしたよね」
「・・・・はい」
(あまりのショックで、声がかすれてしまっていた)
「アルルの女、の前奏曲。君はビゼーの、何を表現したかったのか。或いは、スコアをどれほど読んだのか。第一ヴァイオリンの主旋律だけが頭に入っている状態で指揮をしていたとしか思えなかったよ」
(・・・)
「聴いていて、弾いていて気持ちいい旋律だけをイメージして、好き勝手に指揮していればそれでいいのか?ああ、佐野だけじゃない、このオケには、「謙虚に」、楽譜に、作曲者に、音楽に向き合う生徒はいないのか?とがっかりしたよ。コンマスからして、そんな感じだったからね。
そんな指揮者であった君の好き勝手な指揮に対して、忠実に演奏しようと誰よりも必死だったのが、その日のコンミスだった、中川さんだった」
(・・・)
「ピアノで(弱く)演奏するフレーズは、どうしても演奏がハダカになるから、みな音程やフレージングに注意するよ。でも中川さんは、オケ全体がフォルテになって、演奏がやや雑になりそうな部分でさえ、冷静さと注意力を失っていなかった。佐野が不在中の練習でも、まさにそうだ」
(・・・そういえば、俺はフォルテになると弾き方が乱暴になると、信山先輩から何度か注意された。先輩たちが卒業してから、誰も俺に注意しなくなった。・・・そう、中川さんを除いて)
ぐうの音もなかった。
「さ、もうすぐ授業が始まる。今日の合奏から参加することになるが、1週間は、一番後ろのプルトで弾いてみなさい。中川さんのコンミスの姿から、何を学ぶか、だ」
促されて、ようやく俺は立ち上がり、よろよろと歩きながら音楽教員室を後にした。
(つづく)
(第47話)
噂に聞いた通り、高井の指揮は素晴らしかった。
俺は第1ヴァイオリンの最後尾で、はる香の斜め後ろに座り、1年生が固まっている中から、誰よりも大きな音で演奏に加わった。
「第一と第二ヴァイオリン。125小説のG(ゲー)に上がる所。ひとつのフレーズで、移弦すると音色が変わるから、ここはE線ではなくA線のハイポジションで。」
「はい。(後ろを振り返って)みんな、ここでのサード・ポジションへの移動、毎日やろうね」
中川さんが、的確に反応してメンバーに伝える。
(これが、俺だったら・・・)
きっと、こうだろう。
「まー、ここは当然、A線でしょ。3年生はマストね!2年生は、難しいだろうからE線でもいいよ。音程さえ合っていれば、どっちでも。テキトーでいいから」
さらに高井の指示は続く。
「91から。サックスのソロになるけど、工藤さん、楽譜見ないで吹いてみて」
「ええ~!まだ、自信ないです」
「いやいや、やる前にそう言うなよ。ここは、指揮者を見て演奏するところでもない。聴かせどころだから、インテンポで、自由に鳴らしてみなさい」
「・・・・はい」
高井の数回のアドバイスで、工藤さんの演奏がガラリと変わった。凄い。
「じゃ、66まで戻る。全体、フォルテッシモから。いち、に」
オーケストラが吼える。ヴァイオリンとヴィオラの弓が一斉に平行に動く。横に動く、チェロとバスの弓も、きっとそうだ。
見事に統一された動きに、俺は新鮮な感動を覚えた。
(・・・・どこかで、見たことがある)
そう。
「ハンガリア舞曲第5番」。
1年生のとき、初めてオーケストラで演奏した時の、あの景色が蘇った。
当時も、俺はヴァイオリンの最後尾の席だった。信山先輩が、井川先輩が、ほかのみんなが一斉に弓を上下させてひとつのメロディを奏でる。今となっては「当然」と思えるヴァイオリン奏者の動きだが、当時、本当にその整頓された秩序だった動きに感動したものだった。
数百年前に、一人の作曲家の「頭に鳴った」響きが楽譜となり、演奏者がそれを再現する。その大きな歴史の流れの中で、いま俺たちはそれを受け継ぎ、演奏することを許されている。
偉大な芸術の前に、俺は初めて謙虚な気持ちになったような気がする。
(つづく)
(第48話)
高井の指示の通りに、俺は1週間、最後尾で合奏に参加した。
その経験は、明らかに俺の音楽・演奏に対する考え方を変えたと思う。
もはや、「どの席で」演奏することは、どうでもよくなっていた。
ビゼーの、シベリウスの、モーツァルトの素晴らしい音楽の一部になれること。これ以上、何が欲しかったのだろう。そんな俺の変化に、最初に気付いたのは樋口だった。
合奏が終わって、俺に近づいていた。
「浩太。お前の弾いている姿、1年生の時みたいだな」
「・・・うん。今は、純粋に、演奏しているのが楽しいっていうか、幸せっていうか」
「・・・じゃあ、本番も、そこの席で演奏するのか?」
ちょっと迷ったけど、
「うん。俺はそれでもいいと、思っているよ」
「マジかよ」
樋口が笑う。
そこに、ツカツカと靴音を立てて、中川さんが寄ってくる。
「浩太くん。ちょっと、話があるんだけど」
(顔が、コワイよ)
「な、なんでしょう、コンミス」
さらに怖い顔になった。
「あのねえ。好き好んでのコンミスじゃないからね!もう、たくさん。高井先生に、明日から交代って、言っておいたわ」
ええ~そうなのか。
「で、高井はなんて?」
「知~らない。直接、聞けば?」
あっという間に、中川さんはコンミスの席に戻ってしまった。
ううむ。
もちろん、俺はコンマスとして最後の演奏会に臨むつもりでいた。
しかし、さっき樋口に伝えたように、今となっては、もう、どの席で弾こうとあまり気にならなくなってきていた。
「佐野。ちょっと教員室で」
高井が俺を招いた。
「おら、行ってこい」
樋口の目が笑っていた。
楽器を丁寧にしまい、俺は高井のもとへ向かった。
(つづく)
(第49話)
音楽教員室に入ると、高井が座るように目で指示した。それに倣い、椅子に座る。
「この前に話した、篠崎だけど」
ああ、横フィルのコンマスの。
「こんど、CDを出したそうで、俺に2枚、送ってきた」
へえ?2枚?
「で、1枚、お前にプレゼントだと」
と、1枚を無雑作に俺に差し出した。
ええ~篠崎さんの??バッハの無伴奏、じゃん!
「ついでに。頼んでいたわけではないが、佐野宛てにメッセージが入っていた。後から、読みなさい」
高井からCDを受け取ると、中にサインと、長めのメッセージが手書きでかいてあった。
「尾川中央高校 コンマスの佐野くんへ
もうすぐ演奏会ですね。コンサートマスターの仕事は、実は地味で目立たないものです。自分の我を捨てて、指揮者、他の演奏者、そして作曲家の意図を一致させるための、縁の下の力持ちです。その気持ちを持ち続けられれば、君は良いコンサートマスターになれるでしょう。
演奏会、頑張ってください。良かったら、わが団のコンサートにもいらしてください。
横浜フィルハーモニー交響楽団 篠崎順二」
なんか、胸がじーんとなった。
「佐野、この1週間で、何か気づいたこと、変わったことがありますか」
これまでずっと固い表情だった高井が、いや高井先生が、俺を優しく見つめた。
「・・・はい、変わりました」
(つづく)
(第50話)
「・・・さっき、樋口にも言いました。少し前の俺は、いや私は、コンマスでない自分を想像できませんでした。コンマスではないヴァイオリニストは、ヴァイオリニストでないとも誤解していました」
「・・・それで?」
「・・・・でも、今は違います。純粋に、音楽に素直に感動している自分になれました。別に最後尾でも、構いません。素晴らしい芸術の一部になれるのなら、どこだって気にしません」
「・・・・なるほど」
「・・・私は、もしかして、音楽をナメていたかもしれません」
「・・・ナメていた、とは?」
「・・・つまり、自分が『ええ恰好をする』ための手段と勘違いしていたってことです」
「・・・それが勘違いだった、と君は言いたいのですか」
「・・・はい」
「じゃあ、別の質問をしよう。モーツァルトの交響曲29番。これは彼が18歳の時の作品だ。いまの君と同じ年代だ。この曲を演奏する際に、最も大切なことって何だと思う?」
難しい。これまで半年間、毎日スコア(総譜)を見てきたけど、こう訊かれると、一番大切なことって何なのだろう?
「・・・楽譜に忠実に演奏する、ということでしょうか」
「それは勿論、そうだよ。楽譜に忠実に演奏することで、私たちは何を成し遂げようとするのだろう」
考えたこともなかった。長い、沈黙があった。
「じゃあ、この質問に対する答えを、これから定演まで考えておきなさい」
「・・・はい」
さらに高井先生が続けた。
「・・・今朝、中川さんから、コンミスは荷が重いから、佐野にコンマスに戻って欲しいとお願いされた」
「・・・はい、さっき中川さんに聞きました」
「で、私からは、それは中川さん個人の意見なのか、それとも楽員の総意なのか、それを確認しなさいと言った。その結果、・・・・」
俺は息をのんだ。
(第51話)
「・・・部長の樋口くんをはじめ、全団員の総意で、君にコンマスに戻って欲しいということだった。佐野くん、君はこれを受けますか?」
(・・・・)
俺は胸がいっぱいになり、言うべき言葉が見つからなかった。
「あ、あの・・・・」
身体がガタガタ震えた。どうしてか判らないけど、和尚の言葉が胸に何度も反芻した。
『道を探せ、迷っても止まるな』
あゆみ先輩の言葉が思い出された。
「浩太くん、信山くんの次の次のコンマスは、あなたなのよ」
ちくしょう、ちくしょう。
泣くとこじゃ、ないよ。
でも、でも。
おかしなことに、中学校の鈴木先生の言葉も思い出された。
「お前のこれから。色んなことがある。でもな、俺は知っているぞ。佐野浩太は、たくさんの人たちに、良い影響を与えることが出来る人物だ。いいか、それを忘れるな」
涙を浮かべた俺に、高井先生が、初めて俺に笑顔をくれた。
「佐野くん。明日の練習からコンマスに復帰しなさい。今回の謹慎で、君は音楽をやる者として最も大切な徳を学んだのではないかな。
音楽に対する、人生に対する謙虚さ、だ。
これがない人間は、何をやっても、決してうまくいかないだろう。
さ、演奏会まで日にちがない。コンマスとして、皆をまとめて、尾川中央オケとして、素晴らしい演奏をしようじゃないか」
右手を差し出し、握手を求めてきた。
でも、俺は身体が固まったのと、涙が次から次へと流れるのを止めることができず、どうすることも出来なかった。
***********
その翌日。
合奏はいつも17時から始まる。チューニングはその3分前だ。
俺が音楽室に入ると、あろうことか、皆が拍手で俺を迎えてくれた。いちばん前の、コンマスの席が、空いている。中川さんが、樋口が、森山が、悠木さんが、そして はる香も、拍手をして俺がその席に座るのを待っている。
もう~!泣かせるなよ!
後輩の宇野さんと葛城さんが、
「浩太先輩、早く!」
と背中を押す。
ようやく、指定席にたどり着いた。ほんの2週間くらいだったと思うけど、随分、久しぶりのようだ。でも、ここが、「我が家」だ。俺の、ホームだ。
皆の拍手が終わり、俺はいったん、どっかりとコンマスの席に座った。
指揮台をはさみ、正面で、チェロ主席の富岡がニヤリとしている。
ヴィオラ主席の森山が、
「ほれ、ほれ」
と、オーボエの樋口を指す。
ああ、そうだったな。
トップサイドの席に座った中川さんに目礼をし、俺は席から立ちあがった。
ほぼ同時に、高井先生が音楽室に入ってきた。
「・・・樋口」
「おう!」
ちょっと一呼吸おいてから、俺は丁寧に、でもしっかりと、コンマスとして指示を出した。
「樋口、・・・・442で、A(アー)ください」
(完)
442で、A(アー)ください ONOKEN @axcoop
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