第4楽章

(第 1 話)

「ほれ、ちゃんと押せ!まだ 2 個も残っているから、急げよ!」

パーカッションの工藤先輩が俺らの後ろから怒 鳴る。頑張ってんすよ、これでも。俺と森山とが後ろから押し、リヤカー引っ張るのは樋口。明日の定期演奏会=定演は、尾川市民会館の大ホールで行われる。そのための楽器運搬は、 当然ながら 1 年男子の役目だ。つか、ティンパニーって重いのよ実際。なんで車で運ばないかな~!これ、トータル 3 回やるわけ。はあ~。


尾川市民会館は、学校から直線距離で 800 メートルくらい。しかし、その 800 メートルはひたすら「上り」。くう~!川合先輩が

「音楽部は、実は体育会系」

と言ってた意味が最近は痛切に感じる。

3 年生は明日の定演で引退してしまう。ああ~ 淋しい!


俺が音楽部に入って、早くも半年が経った。

中学ではサッカー少年だった俺が、ここまでヴ ァイオリンそしてクラシック音楽にハマるとは、実は俺自身がいちばん驚いている。この半年間で、俺はまるで別の人間になったように思う。 それもこれも、斉藤先輩や信山先輩をはじめと する優しい先輩たち、和尚こと三神さんを筆頭にOB の方々、さらには同級生の樋口や森山、富岡たちとの友情。これらの存在が本当に大きい。

加えて。

いつか三神さんが言った、『自分の演奏を作曲者に聴いてもらえない悔しさ』が、無限の大海原ともいえるクラシック音楽の世界の魅力に、さらに深みを増してくれていた。


(第 2 話)

失恋?ああ、川合先輩とね。

あれから、確かに乗り越えるには辛かった。けど、終わったものは、終わり。そこはサッカーで学んだ潔さが、まだ俺には残っていた。負けは、負けだ。あとは、それを引きずらず、切り替えて、次の勝負に挑む。

とはいえ、仲が良くなっていた樋口にだけ、一連のことを話そうと決めた。そうでもしないと、流石に吹っ切れない。

樋口は管セクションだから、俺と川合先輩が普段の練習中にじゃれている姿は見ていない。


あの別れの日から 10 日経って、俺は樋口をEve に呼び出した。そして、最後は泣きながら、俺の失恋ストーリーを洗いざらい、ぶちまけた。

樋口は時折、驚いた顔をして聞いていたけど、途中から機械的な表情になり、だまって聞いてくれた。そして、まだ泣いている俺に向かってこう言った。

「浩太、つまりお前、何が言いたいんだ?」泣くだけ泣いたから、俺はちゃんと樋口の言葉を理解した。

「樋口。・・・・そうだな、俺の話には結論がねえ」。

「川合先輩には、その後、LINE も何も送ってないんだろ」

「うん、何もない。消してはないけど、LINE も何も、全く送っていない」

俺は最後のLINE のやり取りの画面を樋口に見せた。

「じゃあ、あとは、やること決まってんじゃねえの?負けた試合の次の日、何すんだ、普通?」

樋口は、男が惚れる男だ。いちいち、言うことがカッコイイ。

「・・・・おう、そうだな。練習だ。樋口、あんがと」

「別に、いいよ。何か驕れ、なんて言わないから。ただしその代わり、だけどな」

樋口はニヤっと笑い、

「悠木さんってさ、どんな感じ?誰かと付き合ってんのかな?」と訊いてきた。

ちゃん、ちゃん!


(第 3 話)

てなわけで、俺はヴァイオリンの練習に、 ますます没頭するようになった。


弦楽器奏者の必須テクニックは、言わずもがな「ビブラート」。つまり音色を美しく揺らすワザ。これがないと、ヴァイオリンの音は針金みたいな無機質な音色にしかならない。もっとも、最近は「ピリオド奏法」といって、作曲された当時の響きを再現するために、敢えてビブラートを用いない演奏法も出て来てはいる。とはいえ、俺ら初心者にとっては、「サード・ポジション」の次に身に付けるべきは、「ビブラート」だ。


明日の定期演奏会で、1 年生の俺たちも実はステージに立つ。

1年生だけの弦楽合奏、そしてメインの交響曲『運命』のあと、アンコールで演奏されるブラームス『ハンガリアン舞曲 第 5 番』に1 年生も加わる。当然ながら、後者はサード・ポジション或いはそれ以上の音域を求められるし、ビブラートがないとロマン派特有の香りが出ない。1 年生のヴァイオリン・パートをまとめるよう信山先輩から指名された俺は、みんなより少しだけ早くサード・ポジションをマスター出来ていた。で、教える側にもなった。それで分かったことは、人は『誰かに教える』という経験こそが最も自分が学べるということ。これはサッカーでも経験したことではあったのだが、音楽でも同じことがいえた。

俺は生来の『根拠のない自信』を更に強め(笑)、ヴァイオリン弾きとして、ひいては指揮者としてオーケストラをまとめてみたいという大それた望みさえ、持つようになってきたのだった。


(第 4 話)

明日の定演を迎えるまで、実にいろいろなことがあった。


まずは、6 月末。部内が大分裂しかけた。


斉藤先輩と川合先輩を筆頭とした、「止めるなら、今」派と、渡瀬先輩と俺たち 1 年との

「諦めずにやる」派との確執があった。

尾川中央音楽部始まって以来、『交響曲の全楽章演奏』に挑戦しているのが今年の 3 年生たちだった。しかも、ベートーヴェンの『運命』という、大曲かつ定番中の定番。弦楽器を弾き始めて 2 年や 3 年で演奏すること自体が無謀といっちゃ無謀な試みだ。それがどれだけ大変なことなのか、当時はちゃんと理解は出来なかったと思う。それでも、俺の尊敬する斉藤先輩が言い出しっぺで「止めるなら、今」という動議を部内に定義したのだった。

「はっきり言って、俺らの演奏レベルでは、恥ずかしくてステージに乗れない。確かにあと 3 か月あるけど、これまで半年以上練習してきて、それでもまだこのレベル。『勇気ある撤退』も、時に選択しなければならない」

プロのチェリストからレッスンを受けている斉藤先輩ならではの、厳しい意見だったと思う。こっそりと、合奏練習の様子を録音して、先生に聞かせたことろ、先生は何も言わずに、目で

「止めるなら、今」

と伝えたという。

練習が 6 時に終わって、それからの部内会議。

その斉藤先輩の言葉に食って掛かったのが、なんと森山だった。


(第 5 話)

「・・・あの、ボクからいいですか?」いきなり森山が手を挙げた。

司会の信山先輩が、発言を促す。


「斉藤先輩の意見は分かるんですけど、つうか、たぶん、ちゃんとは分からないかもしれませんけど」

(前置きは、いいんだよ森山!)

「音楽が、登山と同じように『勇気ある撤退』って、ヘンじゃないですか」


「ヘンって、どういうことだ森山」

斉藤先輩が静かに反応。


「ここで、演奏会止めたら、誰か、死にそうな人が助かるんですか」

信山先輩がイラついて口を挟む。

「森山、もっと具体的に言え。遠慮、要らないから」

「はい。・・・つまり、演奏会をここで止めて、誰が、得するんですか?」

「・・・・来てくれるだろうお客様に、迷惑をかけずに済む」

斉藤先輩がゆっくりと答えた。

「ボクは、・・・・違うと思います。得するのは、お客様の前で恥をかかない、先輩たちですよ」

斉藤先輩の顔色が変わる。

(バカ、それ言い過ぎだよ!)

「森山!つまりお前、俺たちがただ『恥をかかない』ために、演奏会止めるって思っているのか?お前、音楽を何も分かってないで、生意気言うなよ」斉藤先輩が気色ばむ。

「人様に聞かせる、最低の演奏レベルってもんがある。少なくても、楽譜に書いてあること、作曲者が書いた楽譜通りの音を、出すこと。それすら、今の俺たちにはままならないんだ。ベートーヴェンに対して、失礼なことをしたくない。それだけだ」

斉藤先輩の厳しい言葉に、森山はひるむどころか、さらに驚くべきことを言った。


(第 6 話)

「いや、斉藤先輩の説明では、ボクは納得できません。それは、詭弁にしか、聞こえません」

森山は、すごい表情で斉藤先輩を睨んでいる。


「楽譜に書いてある音を 1 個たりとも間違えちゃいけないとしたら、誰もステージに立てなくなります。この前、テレビでやっていたポリーニだって諏訪内だって、ミスありました」

「一流のプロと、俺らのレベルを一緒にすんな!」

完全に、斉藤先輩を怒らせた。なおも森山、続ける。さすが柔道で鍛えただけあって、全くブレないんだな。

「本番を前にして、あと 3 か月もあるのに、『もう止めました』っていうことの方が、ベートーヴェンに対して申し訳ないことだと、ボクは思います。ボクは『運命』を弾くわけではないけど、そう思います」

「だったら!そこまで言う資格、ないよ。森山くん」

同じパートの、川合先輩が森山を諌めた。

オーボエ 2 番で『運命』を吹く、樋口が立った。

「俺は、・・・・『運命』、やりたいですよ。下手くそなの、自分がいちばん良く知っています。お客様からも、笑われるかもしれない。でも、吹きたいですよ」

「やりたいのは、誰だってやりたいんだよ!『運命』弾きたくないオーケストラなんて、世界中で、あるわけないんだって!」

斉藤先輩が怒鳴る。部内の雰囲気が凍る。

それでも信山先輩は表情ひとつ、変えない。


突然、ホルンが鳴った。『運命』第 1 楽章の中のフレーズ。誰?

見ると、オレ様:渡瀬先輩が満足そうに吹き終わった。


(第 7 話)

「あのな、斉藤。川合さん」

いつになく、言葉に力がこもっていた。いつもの渡瀬先輩とは別人のようだ。

「本当はやりたいんだけど、みたいに言うのって、ズルいよな」

渡瀬先輩が、立ち上がった。

「本当は自信がないから、止めたい。そう言ってくれる方が、正直に聞こえるけどな、俺には」

沈黙が、音楽室を支配した。

「本当はやりたいんだけど、って言っている時点で、本気じゃねえんだよ」

渡瀬先輩の言葉に賛成して、俺は思わず立ち上がって言った。

「そうです!俺も含めてですけど、まだ、みんなで『本気』のレベルまで頑張っていないんじゃないんですか?」

井川先輩が振り向いて俺に言う。

「いいえ。充分、本気よ。これまで本気で、みんな頑張ってきたわよ」

俺は負けなかった。負けたくなかった。

「いや井川先輩。皆さんにも、聞いてみたい。これまで 9 カ月で、残りがあと 3 か月。サッカーで言うと、まだ後半の 25 分ってところです。あと 20 分あります。その 20 分、何があるか、分かんないですよ」

信山先輩が俺を制した。

「浩太。サッカーの話はいい。分かりやすく言え」

「分かりました。じゃあ表現を変えると。まだ 3 か月もあるのに、諦めてしまうって、俺、絶対、イヤです」

斉藤先輩が、俺にも矢を放つ。

「じゃあ何か?演奏会の前日まで頑張って、それで前日になって『すみません、演奏が仕上がらなかったので、明日の演奏会は止め ます』って、お客様に頭下げるのかよ?バカ かよお前」


(第 8 話)

渡瀬先輩が、立ちはだかる。

「浩太の言うとおりだ。俺は、やる。まだ 3 か月ある。やる気のねえ奴は要らねえ。浩太、お前、『運命』練習しろ。それだけ言うんだ ったら、やるよな」

げっ、渡瀬先輩、そ・それは・・・。その思いとは裏腹に、

「やりますよ。俺、練習しますよ」

と言っちゃった。・・・でも、もう後には引けないぞ。


「ボクも、・・・・ヴィオラ弾きます」

森山、泣いている。ったく、涙もろいぞ、もう!


「おう!いいぞ森山。どうだ。9 月の定演、ステージに乗る気持ちのない奴。さっさと、辞めちまえ。目障りだ。俺はやる。おう、どうなんだ、みんな!」

渡瀬先輩が、毒づく。

「ちょっと、止めてよ!渡瀬くん。いま、内輪もめして、どうすんのよ」

川合先輩の金切り声が響いた。


「いや、これは内輪もめ、じゃないね。『ふるい』だよ。『ふるい』。本気な奴と、そうではない奴を区別するのさ。ああ、本気で取り組まないと『運命』なんて出来ない。今ここで、力が萎えちゃっているとしたら、本気じゃねえんだよ。どうなんだ、斉藤?川合?」

渡瀬先輩が、言い放った。こんなに頼もしい渡瀬先輩を、俺は初めて見た。

「2 年生!黙っているけど、どうなんだよ。森山とか浩太のほうが、よっぽど大人じゃねえか」

渡瀬先輩を、もう誰も止められない。

「もういい。やめろ、渡瀬。」

信山先輩が立ち上がった。


(第 9 話)

起ちあがった信山先輩の表情は、いささかも曇っていなかった。

「俺たちは、オーケストラだ。ハーモニーを創る。ハーモニー、すなわち『調和』だ。これが『調和』を創る、『調和』を目指す姿と言えるか?」

だれ一人、動かない。だれ一人、答えない。

「渡瀬も斉藤も、ちょっと頭を冷やせ。今日はこれで解散する。明日の 6 時、もう一度話し合って、結論を出そう」。

俺は黙っていられなかった。

「信山先輩!明日まで待ったって、しょうがないですよ!定演まで、時間ないんじゃないですか?今、ここで決めないと!やりたくない人は、今ここで、辞めてもらったらいいんですよ」

久しぶりに、ピッチで熱くなる俺の素性が出たようだった。

「浩太、黙れ。お前に何が分かる。・・・とにかく今日は解散。全員、『運命』の楽譜を持って帰れ。これはコンマスとしての命令だ。そして 9 月 21 日の本番までに、最高の演奏が出来るかどうか、各自、考えてこい。そのうえで、明日の 6 時に話し合う。練習はいつも通り、4 時 10 分からパート練習」。


信山先輩が、指揮台を降りて音楽室を出た。3 年生の先輩たちがノロノロと続く。1 年と

2年の部員は、ガヤガヤとざわつき始めた。

(こんなんで、いい演奏が出来るのかよ) いや絶対に、出来ない。

なんでこの時期になって。俺は斉藤先輩と川合先輩、そして意見は言わないものの二人に同調している先輩たちのことを、心底、軽蔑した。


(第 10 話)

その日、俺と樋口、森山と富岡の 4 人は Eve に直行した。

「・・・ったくさあ、斉藤先輩、マジ意味わかんねえし」

樋口が先輩の批判をするのは本当に珍しい。

「・・・ボクさあ、やっぱ失礼なこと、言ったかな」

森山が心配そうな顔をする。(だったら、最初から言うな!)

何も発言しなかった富岡だけど、あいつも

「演奏者としての自分の評価と、聴衆の評価と、必ずしも一致しないと思うんだよな~」

と天を仰ぐ。俺は完全に熱くなっていて、

「闘志なき者は、去れ。だよな」

と、誰かの言葉を反芻していた。


斉藤先輩も川合先輩も、あれだけ練習に力を入れていたのに。どうしてこの時期に、弱気なことを言いだしたのか。俺らはどうしても理解できなかった。俺はとにかく、やる気のない先輩たちに呆れつつ、自分も 3 か月で『運命』の第 1 ヴァイオリン・パートを練習するつもりになっていた(・・・とはいえ、楽譜を見たら目眩がするようだったけど)。それは森山も同じ。富岡は中立を保つ感じで、自分が加わってもチェロ・パートに迷惑をかけるからと、遠慮する方向。俺はそんな富岡に対して、口には出さなかったけど(お前、男じゃねえな)と、心の中で見下していた。


そして。

予定通り。翌日の 6 時から、再び部内会議が

始まった。


(第 11 話)

全員が揃ったのを見計らって、信山先輩が話し始めた。

「みんな。・・・・偶然だとは思うけど、麻生さんから、昨日俺にメールが来た」。

えっ麻生さん?プロのオーケストラ団員として活躍している唯一の OB。テレビ朝日の

「題名のない音楽会」に良く出るオーケストラの一員。何度かカメラに捉えられて、俺も顔は覚えている。その麻生さんからメールが・・・・。何が書いてあるのか。俺らは、身を乗り出した。

「少し、読みたいと思う。

『親愛なる尾川中央高校音楽部のみんなへ。定演まで、あと 3 か月。練習は、その後、うまく進んでいますか?』

(前回、練習を見てくれたのは 3 か月前。つまり春休みで、俺らの入学直前だ)

『たぶん、本番が迫ってくる割に練習が進まず、きっと不安になっている頃かと思います』

うっまさしく。さすがは麻生さん。

『ベートーヴェンが『運命』を作曲する少し前。ベートーヴェンは、自分の聴覚が衰えてくることに絶望し、「ハイリゲンシュタットの遺書」を書きました。まさかみんなは「遺書」など書かないと思いますが、思うような演奏が出来ないと感じて希望を失っていないか、ちょっと心配しています』


部員一同、信山先輩の次の言葉を待つ。耳がダンボになっている。

『耳が聞こえる。一緒に演奏する仲間がいる。何より、素晴らしい曲が目の前にある。これ以上、みんなは何が心配なのかな』 川合先輩が、涙を拭いているのが見えた。斉藤先輩は、じっと目を閉じている。

『尾川中央の音楽部が奏でる『運命』。ぜひ私は客席で聴きたいです。当日は、なんとか休暇をとれるよう調整しています。』

(えっ麻生さんが、客席で?チェロを持ってきて、エキストラとして一緒に演奏してくれるのかと思ったけど・・・)

『そうそう。この前、東京で和尚に会ったよ。相変わらずだった。和尚からの伝言が、これ。“道を探せ 迷っても止まるな”

では、9 月 21 日を楽しみにしています。麻生』・・・ということだ」。

信山先輩が、スマホから顔をあげた。


(第 12 話)

「さて、と」

信山先輩が、皆を見渡す。

「昨日、楽譜をもう一度、見直したよな。それで、今はどう思っている?澤部?」

チェロの 2 年生の先輩。急に指名されて、明らか動揺している。

「えっ・・・その、あの、・・・・」

「ああ、言いにくいよな。すまない」

信山先輩が笑って制した。音楽室内を、ぐるりと見渡す。

すると、外から何か爆音が聞こえてきた。バイク?随分と大きな音だ。教職員のものではないはず。俺らがキョロキョロしていると、井川先輩が

「あら~、今日は揃いも揃って」

とあきれ顔。ん?誰か音楽部の OB? 渡瀬先輩が

「なんだよ~、今日来るなんて聞いていたのか信山?」

と水を向けるも、

「いや、俺は知らなかったぞ。海野先輩が来られるなんて」

と、いささか拍子抜けした表情。

海野先輩って?何度か聞いたはずの名前だけど、はっきり思い出せなかった。確か、信山先輩たちの 2 つ上?の代かな。

「おーい、6 時過ぎてまだ電気点いてるから、寄ったんだけど」

と、ライダーズ・スーツに身を包んだ、ガタイのいい兄ちゃんが入っ てきた。

「みんな、起立!」

信山先輩の号令。俺ら、慌てて立つ。

「海野先輩に、礼!」

皆が礼をすると、その兄ちゃん

「イヤイヤ、何もそんなの、いいの。ああ~ 峠道は疲れるなあ~流石に」

と、革のジャケットを脱ぎ始めた。筋骨隆々、とはまさにこのこと。上腕部の筋肉が素晴らしい。

後から気づいたけど、なんとヴァイオリンのケースを持っていた。


(第 13 話)

「なにしてんの、みんな?」

海野先輩、すっとんきょうな声を出す。

「もしかして、クラ~い話し合いなんて、してるの?それでなくても『運命』、暗いのに。お前ら、ネクラか?」

一気にまくし立てる海野先輩に、一同タジタジ。


「ところでさ、信山。バッハの“ロボット” って知ってる?」

「えっ、ロボット、ですか?」

信山先輩も、まだついていけない。

「知らないの?これだよ、これ」

と、海野先輩がヴァイオリンを出して、さっと弾き始める。

ロボット?確かに、バッハらしい感じだけど・・・

「・・・たしかこれって、無伴奏パルティータの 3 番でしたよね」

信山先輩が、恐る恐る、尋ねる。

「そうそう!それよ。それの第 3 楽章。音楽的な正式名称は“ガボット”なんだよね。でもさ、俺の先生いわく、俺の演奏って“ロボット”なんだって。ガハハ!面白いべ?」

俺たち、一斉に固まる。す、すごいギャグ。思わず川合先輩が吹き出す。

「それでさ、それでさ」

海野先輩、間違いなくヴァイオリンは上手い。さらに続ける。

「第 1 楽章が、これなんだよね~」

と言いながら、ものすごい速い曲を弾き始めた。目も回る速さだ。でも音程もリズムも乱れない。革ズボンに白い T シャツ。プロレスラーのようなガタイに、グローブのような手。それでも器用にヴァイオリンを自在に操る。物凄い演奏だ。俺は目を見張った。


(第 14 話)

バッハの「無伴奏パルティータ第 3 番」のプレリュードを、一気にプレストで弾ききった。

「・・・てな感じ。でもさ、先生ったら、“30 点”だって。性格、悪いよな~あのジジイめ。だから俺、言ってやった。30 点満点ですよねって。ガハハ!」

海野先輩のお茶目さに、部員からは笑い声がもれた。

「あ、あの、海野先輩」

信山先輩が、遠慮がちに言う。

「さっきまで、僕たち会議をしていまして」

「ええ? 会議? 何、アンコール何やるとか?もう決まってんだろ、俺の演奏で、チゴイネルワイゼンでしょ。ほかに何、今更決めることあるの?」

もう、海野ワールド全開(笑)。

「いや、実はですね・・・」

信山先輩の言葉をさえぎり、海野先輩がヴァイオリンを降ろした。

「どうせ、ロクでもない相談してたんだろ。だいたいな、音楽家が楽器弾かないで話し合って、良い案が出ると思うか?そんな頭がないから、みんな音楽やってんだろうに」

(えっ俺ら、バカ扱い?)

「あーでもない、こーでもないって考えている時点で、練習が足りないってことじゃねえの。早く帰って、クソして寝ろ。トイレ我慢して、ラッパ吹いてみな。悲惨な結果になるぞ。それこそ、ジャジャジャ・ジャーン!だよな。ガハハ」

な、なんて人だ。凄まじい。

「ホラ、何時まで残っているんだ。遠くの人、バスなくなるぞ。さ、帰れ帰れ。俺は村岡先生と喋っていくから」

海野先輩は、ヴァイオリンをしまうと、さっ さと音楽室から出て行った。強烈、まさに強 烈。後から聞いたけど、ナナハンの後ろにヴァイオリンを積み、峠を越えて隣の県から やってくる、海野秀樹先輩。尾川中央オケ史上最強のヴァイオリニストだ。信山先輩の 話では、突然ぶらりと現れては、チゴイネルワイゼンやらヴィターリのシャコンヌやら、難曲をあっさりと弾いてみせてくれるそう。今日も、そのパフォーマンスにやられた格 好だった。


(第 15 話)

海野先輩の突然の登場で、すっかり、会議の雰囲気がなくなった。信山先輩も、もう笑うしかなかった。

「・・・なんだか、昨日の続きって雰囲気じゃねえな。海野先輩の理屈によると、だ。俺たちはまだまだ練習が足りないってことになる」

俺は思わず、斉藤先輩と川合先輩を見た。2人とも、固まっていて動かない。

「今日はもう遅いな。・・・じゃあ。9 月 21 日。定演のステージに乗る気持ちがある部員だけ、明日の 5 時に集合だ。2 楽章、合奏する。1 年生は、とりあえず全員来ること。今日はこれで解散」。

部員が一斉にばらける。俺は大きくため息を吐いた。

(しかし・・・・さっきの海野先輩の演奏は凄かった)

俺はさっそく、無伴奏パルティータ第 3 番を、Youtube で検索した。


明けて、翌日。

俺は授業もそこそこに、その日の 5 時に何が起こるのか、気になっていた。落ち着かないので、昼休みにも部室に行って、サード・ポジションの練習をしていた。樋口も来て、リードを一所懸命に削っている。森山は丁寧にボウイングの練習。富岡はいつも通り、昼寝の体勢。皆に共通しているのが、落ち着きのなさ。運命の時は、刻一刻と迫ってきている。

なかなか午後の時間は、進まない。2 時、3 時、・・・・。6 時限目で、数学の時間。先生から

「佐野!お前どこ見ている?顔が死んでいるぞ!」

と注意された。くそっ俺としたことが。

さあ、6 時限目の終わりのチャイムだ。荷物をバタバタと整え、俺は音楽室へと走った。


(第 16 話)

音楽室の扉を開けると、誰もいない。 うそ?これでは演奏会が成り立たない。いや、待てよ。

ま、それもそうだ。俺は 6 時限のチャイムが鳴り終わる前に教室を飛び出してきたのだから。なんて俺はせっかちなのか。

俺の他にもせっかちはいて、森山が同じように、バタバタと音を立てて音楽室に入ってきた。

「えっ?みんなは?」

「バカ、時間見てみろ。まだ 4 時にもなってねえ。集合は、5 時だ」

「そうか~だよな~!良かった!」

何が、良かっただよ。落ち着けっての。

4 時を過ぎた頃から、いつも通り、部員が集まってきた。ここまでは、いつもと変わらない。うん?でも、待てよ?ヴィオラ、誰も来ない。まさか?

悪い予感がした。川合先輩が、パート全員を引き連れて、ボイコットしようっての か?いくら何でも、それはひどすぎる。そんなことはないだろう。いや、ないと信じたい。


信山先輩が部屋に入ってきたのは 4 時 20分。合奏開始まであと 40 分ある。いつものルーティーンで、鏡を見ながらのボウイング練習を始めた。何事もなかったよう に。

4時 50 分。合奏開始まで、あと 10 分。チェロは・・・・斉藤先輩ともう一人を除き、揃っている。果たして斉藤先輩は来るのか?来ないのか?いよいよ俺が不安になってきたその時。音楽室の重い扉が開い て、一気に 8 人、入ってきた。ヴィオラ・パートだ。最後尾は、川合先輩。

やった!来てくれたんだ、やっぱり!

俺は川合先輩に向かって、ガッツポーズをした。でも、それには反応せず、川合先輩は粛々と自席に座る。ちょっとガッカリだが、まあ、それはいいだろう。


チェロ。どうなる?

5分前。もう一人・2 年生の片桐先輩が入ってきた。空席は、斉藤先輩のみ、だ。

時間は、刻々と近づいている。

信山先輩が楽器をしまい、指揮棒を出して指揮台に向かった。チェロのトップの席は、空いたままだ。


(第 17 話)

「じゃ、時間だな。樋口、A(アー)くれ」

信山先輩が、指揮台から指示を出す。

頷いた樋口が、チューナーを見ながら慎重に A(アー)を吹く。ピッチは勿論、442。

信山先輩が指揮をする時には、コンサートマスターの席には井川先輩が座る。井川先輩が慎重に調弦をし、各パートに音を分ける。時計は、5 時を回った。斉藤先輩は、本当に来ないのか?

弦楽器の音合わせが終わり、次は井川先輩の指示で、管楽器が一斉にオーボエに合わせて音程を整える。


その時だ。

扉が開き、斉藤先輩が入ってきた。ヴァイオリンの席をかき分け、丁寧に楽器をかばいながら、それでも空いている、チェロトップの椅子を目指している。良かった!これで全員、揃った。尾川中央オケ、これでだれ一人欠けることなく、揃った。

「じゃあ、第 2 楽章」

信山先輩が指揮棒を構える。その直後、

「スマン。ちょっといいか」

と斉藤先輩がその指揮を遮り、立ち上がった。

「これまでのこと、みんなに謝りたい」。

部員の目が、斉藤先輩に集中する。

「今まで勝手なこと言って、ホント、悪かった。申し訳ありませんでした」

深々と、頭を下げた。

「まあ、練習終わってからにしろや、斉藤」

信山先輩が制する。

「じゃ、アタマから。チェロ、行くぞ」

斉藤先輩が、着席し、弓を構える。


第 2 楽章、変イ長調。8 分の 3 拍子。アンダンテ・コン・モート。ヴィオラとチェロの主題から、次々と変奏されていく。

斉藤先輩の顔が真っ赤に紅潮している。川合先輩は、黙々と。それぞれの色々な思いが込められたメロディが、次々と展開されていった。


(第 18 話)

異様な緊張感の中、練習は進んでいった。信山先輩が、いったん止める。

「よし。23 小説まで戻る。そこから、木管にメロディが移るから、弦は抑える。特にヴィオラ、3 連符が急ぎがちだから、インテンポで。音量も抑えて」

「はい」

川合先輩が、そして他のヴィオラも全員が頷く。


「あとは・・・・50 のアウフタクトから。ヴィオラとチェロ、全体的に急ぎ過ぎ。音符が増えようがテンポは変えずに」

「はい」

斉藤先輩と川合先輩が同時に応じる。


「・・・つぎ、128 のアウフタクトから。木管の聞かせどころだな。ちょっとやってみろ。俺は指揮棒を置くから、みんなで合わせてみろ」

その言葉のとおり、信山先輩は指揮棒を譜面台に置いた。

「せーの」

フルート・クラリネット・オーボエの絡み合う、美しいパッセージ。いつもここで弦のメンバーは聞き惚れてしまい、次に入るのが遅くなる。これは、この前、さんざん言われたところ。今日はどう?・・・おお、うまくいった。テンポ、ズレていない(ように俺には聞こえた)。

結局、その日は信山先輩からは明らかなダメ出しも少なく、これまでにない素晴らしい演奏になった。いや、俺には分からないけど、演奏している先輩の皆さんの笑顔が何よりそれを物語っていた。


6時。部活終了の時間。信山先輩が、斉藤先輩に向き直り、

「斉藤。言いたいこと、あったんじゃないのか」と水を向ける。

「ああ」

斉藤先輩が、ゆっくり立ち上がった。


(第 19 話)

「みんな、俺を赦してほしい。また、このオケで弾くのを許可して欲しい」。

頭を下げた。すかさず、

「誰もお前を追放なんてしてねえから。勘違いすんなよ」

渡瀬先輩からの声が飛ぶ。そうだ、そうだ。

「私も」

川合先輩も立った。

「わたし・・・・パートリーダーなのに、パ ートのみんなが動揺するようなことやって、ごめんなさい」

「・・・もう、いいっすよ。そんなこと」

森山が言う。(えっお前が出るとこかよ??)川合先輩が続けた。

「さっきまで、みんなと話し合ったの」

「あゆみ先輩!もう、いいじゃないですか」2 年生の本間先輩が止める。

「ううん。良くない。これは、ハッキリさせるほうがいいから」

ええ~どういうこと?何か、あったの?川合先輩?

「わたしは、リーダー失格。だから、ヴィオラのトップは、梅澤君にお願いすることにしました。梅澤君も、それを了承してくれました」

ええ!川合先輩が、トップから降りる?冗談でしょ。誰より、弾けているのに。

(もちろん、3 年生の梅澤先輩も下手というわけではない)

「だから、次の練習の時から、トップは梅澤君になります。コンマス、それでいいですね?」

川合先輩なりの、ケジメのつけ方か?

「梅澤と、あゆみがそれで良ければ、俺は構わない」

信山先輩は、さも前から知っていたよう静かに答えた。

「どうなんだ、梅澤?」

「・・・俺は、どうでもいい。川合さんがやりにくいってことだから、俺でも良ければって言った」

「分かった。じゃあ明日の合奏前。パートリーダー会議をするから、そこには梅澤が入るってことで」

「・・・・よろしくお願いします」

信山先輩の言葉に続いて、川合先輩が頭を下げた。梅澤先輩も、頷く。

「じゃあ、解散。明日も 5 時から 3・4 楽章の合奏」

信山先輩が指揮台を降りた。

俺はふう~っと、今までで一番大きなため息をついた。

なんとか、空中分解が避けられた瞬間だった。


(第 20 話)

村岡先生は、予定を前倒ししてきた。

7月 1 日に、急きょ、その日から合奏指導をすると言ってきたのだ。予定では、7 月 20 日の夏休み開始を待つことになっていたのだが、さすがにそれでは遅すぎるとの判断。ま、指揮者としては、一日も早く指揮をしたいだろうからね。


合奏初日。

まずは第 1 ヴァイオリンがつかまった。第 3 楽章の、例のところ。

「は~い!それでは、一番練習したところを、聞かせてちょうだい。115 から」

信山先輩が、思いっきり渋い顔をした。

「ワン、ツー」

何度も何度も練習しても、それでも合わない。2 回繰り返して、村岡先生はサジを投げた。

「おお~!みんな。ウィーン・フィルの動画、見といてね!」

それで終わり。これが指導かよ(笑)。

次。2 楽章の、チェロ・バス。楽器の特性上、移弦をするとレガートなメロディがブツ切れになってしまう。そこも、弓遣いの右手が未熟なゆえ。

「斉藤~!麻生さんから、練習のヒント、聞いておくように!」

「次~!ティンパニー!4 楽章の 13 のアウフクタクト。明らか、そこから区別しなさい。惰性で 4 拍め、行かないの」

「はーい」

工藤先輩のトボけた声に、村岡先生のカミナリが落ちる。

「はーい、じゃないだろ!ベートーヴェン様に失礼だろ!謝れよ!」

「・・・す、すみませんでした」

工藤先輩は、本当はドラムが本職。同級生でロックバンドを結成していて、ティンパニーはあまり好きではなさそうだ。

それまで、音楽の授業でしか見たことがなかった村岡先生の凄さが、少しずつ分かってきた。

その村岡先生の指導で火がついたのか、弦の、いや全体の音が変わってきたように思える。『いのち』が吹き込まれてきたようだ。もしかして、これが指揮者の役割?俺は身震いした。

(短時間で、こんなに音って変わるものなのか)

流行りの言葉で言うと、村岡マジック、だ。


(第 21 話)

第 1 ヴァイオリン・パートが、7 月 3 日から 朝練習を始めた。集合、7 時半。約 40 分あるから、そこで徹底して 3・4 楽章を練習するという。すぐに、他のパートもそれに倣う。俺たち 1 年生は出る義務はなかったけど、そんな先輩たちの必死さに引っ張られ、『ハ ンガリア舞曲第 5 番』を毎日、ゆっくり練習した。


斉藤先輩の号令で、チェロは集合時間が 7 時になった。早い人は 6 時前に家を出る計算

だ。それでも全員が 7 時に揃った。さらに驚いたことに、7 月 5 日の夕方。斉藤先輩が師事しているプロのチェリスト・升山先生が指導にきてくださった。国内第 1 級のチェリストで、東京の有名なオーケストラの首席奏者。S音楽大学の教授もなさっている。斉藤先輩が必死に頼み込んで、一度だけ、ノーギャラで見て欲しいとお願いしたのだ。

升山先生は、最初チェロのパート練習につきっきりで指導をしてくれていたが、急きょ、弦セクション全体を見たいと言ってくれた。それで、俺らも含め、全員が音楽室に集まってご指導を受けることになった。

「君たちのように、若い頃に音楽、しかも本物の音楽に触れることができたことは、なんと幸せなことか。この機会に感謝するんだよ」

メガネの奥から、優しい目をして語りかける。俺らは、升山先生の一言一句を、聞き漏らすまいと集中していた。

「モーツァルトなら、こう」

優しく、弓を動かす。

「でも、ベートーヴェンは、こう」一気に激しく、音が鳴る。

「このくらい意識して、もっと弓に圧力をかけて。でも乱暴になってはいけないよ。汚い音になってもいけない」。

大きな音を出すには『力を加える』、でも、『乱暴にはならない』。この矛盾が、どうやれば解決するのか。うーむ、哲学チックになってきた。最初は乱暴に聞こえていた音も、升山先生の

「じゃあ、もう少し、こうしてみよう」

という細かな指示により、少しずつ、雑さが豊かさに変わっていく。

その後も升山先生は、発する言葉によって先輩たちを魅了し、その都度、奏でる演奏に確実な『違い』を生み出していった。俺は、あっけにとられるだけだった。


(第 22 話)

夏休みに入り、合宿を迎えた。


合宿恒例なのが、「OBカレー」。その名の通り、俺らが練習している間に先輩たちがカレーを作ってご馳走してくれる。2 年・3 年の先輩たちは、その美味しさを知っている。

「去年はさ、海野先輩が黙ってハラペーニョ入れてさ」

渡瀬先輩が、面白おかしく話す。

「その塊が、井川さんに当たったわけ」

「あれはねえ~、泣いたわ」

井川先輩が、まだ辛さが残っているように顔をしかめた。


8月の上旬からの、3 泊 4 日。そのOBカレーが食べられる合宿の初日。和尚こと三神先輩の『訓示』があった。ありがたや~。三神先輩はまる 2 日間、俺らと寝食を共にした。お盆前の、忙しい時なのに。でも面白いことに、

「いや、『法事だ』っていえば、何処にでも自由に行ける」

だって。それ、マズイでしょ?

第一印象とは異なり、三神先輩は、底抜けに楽しい人だった。ビブラートがまだ出来ない俺に向かって

「浩太。二人羽織、やろうや」

と誘ってきた。俺が弓、三神先輩が左手を担当する。眼の前で、三神先輩の指がブルブル震え、ビブラートのかかった音になった。

「すげえ~!綺麗っすよ、三神先輩!」俺は有頂天になった。

「ま、せいぜい頑張れ、浩太」

三神先輩は笑って、さらに別の曲を弾くように指を動かす。俺の弓はそれに、追いつかない。信山先輩たちが爆笑する。何人もの先輩が、写メをとった。


あと、音楽部OBで唯一のプロ音楽家である麻生さんとも、合宿の最終日に初めて対面することが出来た。麻生さんが、この前の升山先生のご指導にも一役買ってくれて、交通費は麻生さんが払ってくれたみたいだった。

「本番当日、だけど。なんとか有給が取れた。その日はオペラの本番前なんだけど、ま、1 日くらいは抜けられたから」

と説明。オペラ?俺はさっぱり、分からない。その大切な練習を削って、俺たちの演奏を 客席で聞くそうだ。

でも、それには斉藤先輩はあくまで反対で、

「麻生さん、ダメです。ステージで、弾いてください」

と食い下がる。でも当の麻生さんは

「たまに、客席で聞いてみたいよ。『運命』を」

と、耳を貸さない。村岡先生もそれには賛成で、「麻生くんから褒めてもらう演奏にしないとな!」

と張り切っていた。

本番まで、あと 1 カ月。カウント・ダウンが始まった。


(第 23 話)

音楽室の黒板に、『定演まであと◎◎日』と 綺麗に書いてある。後から聞いたけど、井川先輩らしかった。さすが、美大志望だけある。

そしてその数字が 1 ずつ減り、いよいよ明日が定演の当日となる。ティンパニー運びをようやく終えた俺と樋口と森山で、途中、アイスを買って食べた。

「いよいよ、だな!」

森山が武者震い、する。

「リード、削ろう」

と樋口。オーボエは、リードが命だからな。

「まさしく、絶対に負けられない戦いが、そこにはある」

俺はいつものワンパターンを繰り返す。(悪かったな!)

もちろんサッカーとオーケストラ。同じわけ、ない。サッカーには必ず「勝ち」「負け」がつきものだが、音楽にそれはない。

いや、でも待てよ。本当にそうか?

音楽に「勝ち」「負け」は、よく吹奏楽コンクールとかで、ある。あとは、ソリストの、コンクール。チャイコフスキー・コンクールとかで「優勝」ということは、「勝った」ということ。でも、優勝できなくても、それがイコール「負け」を意味するのだろうか。

例えば姉貴がやっていたバスケ。「勝ち」「負け」は、はっきりしている。

そして陸上。記録が全て、だ。これも「勝ち」

「負け」が明白だ。でも、陸上部の椎名に聞いたけど、例えばレースで 5 位でも、その日に自己ベストのタイムが出れば、自分との戦いには勝ったことになる。そんな「数値」で測れないのが、音楽。たとえば、これまでで『最高の演奏』が出来たとする。でも、それを『証明する』ことは事実上、不可能。そこに音楽の奥深さがあると思う。いや、スポーツに奥深さがない、ということではないよ。そもそも、音楽とスポーツとを同列で扱って良いわけはない。でも、サッカーと音楽と、両方のすばらしさを知る俺にしてみれば、尽きない悩みである。

俺は長い風呂に入りながら、そんなことを考えて、あやうく、のぼせるところだった

(苦笑)。ベッドに入り、スマホを見る。0 時 4 分。いよいよ当日になった。寝なきゃ!俺は部屋の電気を消した。


(第 24 話)

尾川市民会館への集合は、9 時。この日は祝日で、開演は 14 時。演奏会終了は、15 時 30 分ころだ。ステージづくりは、舞台さんによって昨日のうちに終わっている。オーケストラの、ひな壇が出来上がっていた。


扇状に、椅子を並べる。俺はこの作業が好きだ。弦楽器は、2 名 1 組で、ひとつの譜面台を使う。その組み合わせを「プルト」と呼ぶ。前 から、「1 プルト」「2 プルト」となるわけだ。そして客席側を「表」、逆を「裏」と呼ぶ。つまりコンサートマスターは「1 プルトの表」が指定席だ。トップが交代したヴィオラの席を並べる。川合先輩の強い希望で、最後尾の 4 プルトの裏で本番を迎えることになった。アンコールの時、ファーストの 6 プルト表の俺からは、川合先輩は全く、見えない。


ゲネ・プロ=ドイツ語の『本番前の総練習』を意味する『ゲネラル・プローベ』の略。ゲネ・プロは、10 時から 12 時半まで。それから 2 時間後に、演奏会が始まるのだ。先輩たちは演奏の準備に余念がない。でも俺たち 1 年は、会場内の設営にいろいろ忙しい。チケットのもぎり、演奏会パンフレットの準備(アンケート用紙とペンをセットして)、男女の楽屋の準備、弁当の手配、花束などの受付準備、その他もろもろ。会場入り口には、武田先生が書いてくれた『第▲回 尾川中央高校音楽部 定期演奏会』の立て看板。それに、デコレーションを施す。井川先輩のこだわりで、その指示を受けた中川さんを中心に女子がその作業。準備は順調に進んでいるようだ。


10 時のゲネ・プロが始まろうとした時。海野先輩と麻生さんが会場に到着。本気で、麻生さんは弾かないらしい。いつもかついでいる、チェロがない。公約通り、だ。

でも、どうしてだろう。いつもより、表情が硬い。いつも明るい海野先輩も、同じ。まさか、2 人とも緊張しているのかな?思えば、尾川中央オケ始まって以来の、交響曲全楽章演奏だ。それはOB全体としての悲願でもあった。まさしく歴史的瞬間といえよう。

他にも数名のOBの皆さんが続々と到着。あれっ、三神先輩はまだなのかな。俺は目で客席を探したけど、見つけられなかった。まあ、きっと来るだろう。

練習の順番は、逆順。つまり、アンコールの『ハンガリア舞曲第 5 番』からになる。俺たち 1 年生も含めた全員の演奏だ。

村岡先生が、指揮台に立つ。俺たち部員全員が起立した。

「よろしくお願いします」

ステージに照明があたる。眩しいし、熱い。

村岡先生の指揮棒が、降ろされた。


(第 25 話)

ブラームスの『ハンガリア舞曲』。もともと、ピアノ連弾用(4 手)に書かれた曲だが、オーケストラ版のほうが断然にカッコイイ。特にこの 5 番は、最初ゆっくりで、その後にどんどんアチュレランド=加速していくのが面白い。これはお約束で、村岡先生もそれは心得ている。

さほど時間を使わずに、練習は終了。その後、『運命』、演奏会冒頭のヨハン・シュトラウスの『美しく青きドナウ』へと続いた。

演奏会の第 2 部は吹奏楽コーナー。甲子園の応援テーマとして定番の『アフリカン・シ ンフォニー』など数曲。第 1 部は、弦楽合奏。グリーグの『ホルベアの時代から』組曲 と、バッハ『ブランデンブルグ協奏曲第 3 番』。いずれも弦楽合奏の名曲だ。

俺たちはアンコールの練習を終えて、会場準備へと戻った。駐車場整理のおじさん& 照明担当さんとの打合せなど、実は演奏会の運営には驚くほどの手間がかかる。演奏家たちだけでは、決して演奏会は成立しない。俺は会場の中と外を行き来しながら、ついでに駐車場を見に行った。三神先輩の車が、まだ見つからない。おかしい。三神先輩は

「葬式が入らない限り、行くよ」

と言っていたけど。まさか、今日に限って、誰かのお葬式なのかな??うわー、それだけはカンベンして欲しいわ~。


森山が、俺を探して走ってきた。

「どうした?何か、忘れた?」

「いや、弁当や。12 時 20 分到着の予定だけど、まだ来ないんだよ」

「ええ~ゲネ・プロ、12 時半に終わっちゃうよ。何やってんだよ。担当の、電話番号?」

森山が申し訳なさそうに

「うん、登録したはずだけど、電話番号、間違ったみたいで、別の人の電話だった」

「バカ!その発注用紙、どこにある?」

「ええと、部室の、青いファイル」

あ、あの棚だな。こんな時、森山より俺のほうが足は速い。

「分かった。俺が取りに行く。あ、いや、その場で、電話入れてみるから、森山は先輩たちに謝っとけ」

制服の上着を森山に投げると、下り坂を一気に走った。無心だった。久しぶりの全力疾走だったけど、それが心地よかった。


(第 26 話)

下りの 800 メートルを、俺は全力で走り続けた。途中で足がもつれてあやうく転びそうになったが、なんとか持ちこたえた。考えてみたら、演奏会用に慣れない革靴を履いていたんだっけ。

ダッシュで昇降口を抜ける。あ、閉まっている。そうだ、今日は祝日だ。学校は、基本、空いていない。教職員玄関から入らないと。

靴を脱ぎ、スリッパを探していると、森山から電話。

「ゴメン~、弁当いま着いたから!なんとかギリチョンだったよ」

くう~!くたびれもうけ、とはまさに、このこと。

「まあ~良かったよ。じゃあ、戻るから」と電話を切った。

革靴を履くためには、靴ベラが欲しい。靴ベラ、靴ベラ、・・・・

「ああ、君は音楽部だったね」

ふと見ると、武田先生。演奏会の立て看板をお願いしに行ったから、顔を覚えていてくれたようだ。


「はい、1 年の佐野です」

ん?武田先生の表情がおかしい。

「三神の、・・・・三神のことは、聞いたのか?君たちは?」

「えっ? 三神先輩が、どうかしたんですか?」

「・・・そうか。知らないのだね。そうだろう、今日は演奏会だものな」

俺は、悪い予感がした。

「武田先生!三神さんに、三神先輩に何があったんですか?先生は、それを御存じなんですよね?教えてください」

武田先生が、明らかに困った顔をした。 しかし、みるみるうちに、泣き顔になった。

「私から・・・・言えるわけない。すまん」

俺は武田先生の両肩をつかみ、何度も揺さぶった。

「武田先生!三神さんは?三神さんは?どうしたんすか?」

武田先生は、いよいよ激しく嗚咽し始めた。

「マジかよ・・・・ウソだろ・・・」

俺は自分の両手から、力が抜けていくのがはっきりと分かった。


(第 27 話)

市民会館に弁当が届く、少し前。まだ弦楽合奏のリハーサルが続いていた時だ。ここからは、悠木さんから聞いた話だ。

村岡先生が、麻生さんと海野先輩のところに行って、3 分くらい立ち話。それからすぐに指揮台に戻ると、部員にこう話したそうだ。

「みんな。突然ですまんが、アンコールは、2 曲やる。春に練習したから大丈夫だと思うが、バッハの『アリア』を、ブラームスの次に演奏したい。どうだろう?」

信山先輩は、こんな時でも表情を変えず、

「大丈夫だろ、みんな?」

と部員の意思を確認する。斉藤先輩もヴィオラの梅澤先輩も同意。むしろ、あれだけ練習して定演のプログラムに入れられなかったことが悔しいって皆が思っていたから、きっと村岡先生が気を利かせてくれたのだと皆は思ったらしい。

村岡先生は、珍しく、指揮棒を持たずに『アリア』を演奏したそうだ。終始、無言で。 それで、リハーサルは終了。悠木さんはその 時に、やはり何か違和感を覚え、村岡先生と、麻生さん海野先輩とがコソコソ 3 人で話している姿を遠巻きに見ていた。


「どうも、すみませんでした~!お待たせしました!」

森山と富岡が中心になり、先輩たちに弁当を配る。中川さんたちはお茶を。ゲネ・プロが終わってからの 2 時間なんて、あっという間に経つから。俺たち 1 年は、先輩たちから散々そのことを言われていたから、それぞれが自分の持ち場でキビキビと動いていた。

「浩太のやつ。遅いな~あの、バカ。アイスでも食べているんだよ、きっと」

樋口と森山が俺の悪口を言っていたちょうどその頃、俺は走る気力もなく、市民会館への道をとぼとぼと上っていった。


武田先生は、一言だけ、言ってくれた。

「村岡先生、麻生くん、海野くん。事実を知っているのは、この 3 人だ」。


(第 28 話)

たぶん、俺は物凄い顔をしていたと思う。ようやく市民会館に着いた俺に、

「はい、お弁当」

と差し出した中川さんが、ぎょっとして俺を見た。

「ちょっと、どうしたの?浩太くん」

「・・・弁当、要らない」

それだけを絞り出すと、俺はとにかく、村岡先生を探した。

「ちょっと!腹が減っては、でしょ?唐揚げの大盛り、浩太くん用なのよ!」

そんなことは、どうでもいい。俺は無視した。


ステージ裏の、楽屋。ここが、村岡先生の控室だ。何か、話し声がする。迷わず俺はノックする。

コンコン。

「おーい、誰だ?」

村岡先生の声。おかしい。いつもは、こんな間の抜けた声は出さない。

「佐野です。1 年の佐野浩太です」

「ああ、浩太か。悪い、いま、ちょっと着替えているから、開けないでくれるか。何か、用か?」

俺はドアに向かって静かに、言った。

「三神先輩は、今日、聴きにいらっしゃいますか?」


「・・・当たり前だろ。来ないわけ、ないだろ。いや、でも待てよ。葬式が入ったらすみませんって言っていたから、もしかするかもな」

構わず、俺は続ける。

「俺、さっき弁当の件で、ちょっと学校に行きました。そこで、武田先生に会ったんです」

「武田先生が、・・・・どうかしたのか?」

まだ、とぼける気か?

「村岡先生。三神先輩は、本当に、お葬式なんですか?武田先生は、『俺の口からは言えない』って。これって、どういうことですか?」

沈黙があった。永遠友思える沈黙が。

「佐野。分かった。入ってこい」

海野先輩の声がした。


(第 29 話)

村岡先生の控室に入ると、村岡先生、麻生さん、海野先輩。3 人が泣いていた。それで、ただならぬ雰囲気を感じた俺は、もはや口をきくことなど出来なかった。


かなりの時間の沈黙が、あった。

海野先輩が、神妙な面持ちで話し始めたのは、俺が部屋に入ってから 15 分くらい後だったように思う。

「・・・和尚は、三神さんは、今日は来ないよ。」

「・・・・・」

俺は、とても怖くて、その先を聞けない。

「・・・・佐野は、だいぶ和尚に可愛がってもらってたみたいだな。見たぞ、あの二人羽織の写真」

「・・・・・」

(ウソだ、ウソだ、ウソだ)

麻生さんが、口を開く。

「村岡先生。私も、すみませんが『アリア』に加わってもいいですか」

「・・・・ああ。ぜひ、入ってくれ。三神も喜ぶだろう」

俺は経緯が分からないから、

「?アリア?」

という顔をしていたと思う。だから、思い切って、聞いてはいけない質問をした。

「三神さん、どうされたんですか。教えてください!」

「じゃあ、私から話す」

麻生さんが目くばせで、2 人に了解を得る。

「和尚は、・・・・今朝、亡くなった」

覚悟はしていたが、それでも、頭をガーンと殴られたような衝撃を覚えた。目眩がしそうだった。

(ウソだ、ウソだ、ウソだ)

「そ、そんなことって・・・・」

思考停止。


「一昨日の夜。檀家さんに訪問しての帰り道、車に乗ってエンジンをかけようとした、ちょうどその時。くも膜下出血で、意識を失った」。

(・・・・ウソだ、ウソだ、ウソだ)

「不運だったのは、エンジンをかける直前だったこと。これがもし、エンジンがかかったままの状態だったら、誰かが気づけた。でもエンジンがかかっていない状態だったから、そこに停車して、仮眠をとっていたとみなされ、結局、発見が昨日の朝になってしまった」。

俺の身体が、ブルブルと震え出した。


(第 30 話)

麻生さんの話は続く。

「くも膜下出血の場合、初動がすごく大事。それが、生死を分ける。ヘンな言い方だけど、もしあと 5 分早く、檀家さんの家の中で倒れたとしたら、・・・もし発見と救助が早かったら、こうはならなかった」。

海野先輩が、拳を握りしめ自分の太ももを殴る。涙が、再び流れ出す。

「ちくしょう、ちくしょう」

「ご両親の話では、それでも、24 時間ちかく生命が維持されたことは驚くべきことだったらしい。病院に運ばれた時点でほぼ回復の見込みはなく、即死でも不思議ではないほどの症状だったそうだ」。

あまりのショックの所為か、俺は涙も出ず、声も出せず、焦点の定まらない視線で、どこか一カ所をぼんやりと見ていた。


村岡先生が俺に声をかける。

「実は、さっき、信山には伝えた。あいつはメンタルが強い。でも、かなり動揺した。ついさっきまで、ここにいたんだ」

そうだったのか。

「信山は、さっき、こう言ったよ。『私たちが、全力で心を込めて演奏することには、変わりありません』とな。佐野、お前はどうだ?」

ようやく、俺の両目から涙が溢れてきた。ようやく、事実を事実として受け入れることが出来たからであろうか。いや、受け入れることなんて、決してできない。

俺はやっとのことで、絞り出した。

「俺も・・・・頑張って演奏します。心をこめて、和尚のために」。

「そうか、それなら良かった」。

村岡先生が、俺の肩に手を置いた。時計を見た海野先輩が、

「さ、もう 1 時半だ。佐野、お前も弁当食べて、早く着替えろ」

と促す。俺は何度も頷き、ヨロヨロと立ち上がった。

こんなんで、俺はヴァイオリンを弾けるのだろうか?誰かに今の顔を見られたら、どうすればいいのか?その答えなんて、分かるわけなかった。


(第 31 話)

幸いなことに、俺は 2 時から 2 時半まで駐車場誘導だった。つまり、誰とも顔を合わせることなく過ごせる。これも、何かの縁かもしれない。

『道を探せ 迷っても止まるな』

和尚の言葉。俺は特に気に入っていて、『運命』のスコア(総譜)の裏表紙に書き込んでいた。

信じられないことだが、もうこの世に和尚はいない。会うこともない。

実感として湧いてこないから、どうしても、『悲しい』というよりは『なんで?』という感情が勝っている。

(なんで?なんで?なんで?)

「おおーい!交代だ」

樋口が、呼んでいる。あいつは、2 時半からだ。こんな顔、見られちゃいられない。

「おう、頼むぞ」

「浩太。三神さんの車、来たか?」

「・・・いや、見てない。たぶん、葬式でも入ったんじゃねえの?」必死の、ウソをついた。

「かもな~!こういう時、『日頃の行い』が出るのかもな!」

樋口が笑ったけど、とても俺は笑えなかった。


2 時半。ついに定期演奏会が開演した。

最初に『美しく青きドナウ』。それから、弦 楽合奏の部になる。俺たち 1 年生がパーセルの『ロンド』を演奏した。俺はコンサートマスターの席で弾かせてもらった。楽譜を 見ながら、三神さんの姿がチラつく。まずい、まずい。目をつぶった。

次に、2 年・3 年生による弦楽合奏曲を 2 曲。信山先輩を見ていたけど、見事に、何事もなかったように演奏をしている。本当に信山先輩はスゴイ人だ。

しかし、異変が起こった。第 4 楽章だった。


(第 32 話)

グリーグの組曲『ホルベアの時代から』の第4楽章は、センチメンタルなメロディが続く抒情的な楽章。そこで事件は起こった。

弾いていた信山先輩が、突然、弾くのを止めた。斉藤先輩はギョッとして信山先輩を見る。でも、ダメだ。楽器を降ろして、動けない。井川先輩が何度も見るけど、もはや信山先輩は楽器を構えることができない。困った、困った。

この曲は、指揮者がいない。コンサートマスターの身振りで、皆が呼吸を合わせるのだ。

井川先輩が、大きく皆に合図をした。コンサートマスターに代わって、演奏をリードする。信山先輩の身体が小刻みに震えている。でも、

(私を見て!)

と井川先輩がオーバーアクションで演奏を導いていった。

(信山先輩、頑張れ!) 俺は心の中で怒鳴った。

(和尚が、見ているぞ!)

観客がざわつく。それはそうだ。いきなりコンマスが弾くのを止めたのだから。

(信山先輩!信山先輩!)

俺は必死に、何度も何度も、心からのエールを送った。


前半のリピートが終わり、後半の展開部へ。すると、そこから信山先輩が楽器を再び構え、弾き始めた。俺は心底、ほっとした。

「何が、あったの?信山先輩が、体調悪いの?」

中川さんが俺に聞いてきた。事情は知っているけど、とても言えない。

「たぶん、そうなんじゃねえの。でも、もう大丈夫そうじゃないか」

「良かった~」

(全然、良くないよ)

そして第 5 楽章。ヴァイオリン、ヴィオラの超絶技巧ソロが。川合先輩からトップを引き継いだ梅澤先輩が、猛練習して今日の本番に間に合わせた。さすがだ。2 人の息も、ぴったりだ。信山先輩、もう大丈夫だといいけど。


演奏が終わった。聴衆から、割れんばかりの拍手。信山先輩は、いつもよりもかなり長めにお辞儀をした。

(そこで泣くなよ、信山先輩!)

ダメだった。信山先輩は、もうボロ泣きだった。これが最後のステージだから、それで泣いていると、殆どの人が思ったことだろう。でも俺は、本当の理由を知っている数少ない人間の 1 人だった。


(第 32 話)

ステージ袖に戻ってきた信山先輩は、必死に村岡先生を探す。第 2 部、吹奏楽セッションは村岡先生の指揮だ。休憩で、まだ 10 分の時間がある。信山先輩は、つかつかと村岡先生の楽屋目指して歩いて行った。

他の先輩たちは、事情が分からないから、

「最後のステージで、きっと感極まったのよ」

と想像しては、

(信山先輩も、やっぱ人の子ね) みたいなことを言ったりしていた。


再開 5 分前。1 ベルが鳴る。普通はここで、ステージ袖スタンバイだけど、村岡先生が来ない。樋口が、

「俺、呼んできます!」

と走ろうとしたから、俺が

「いい、俺がいくから、お前、待ってろ」

と代わった。

楽屋のドアをノックする。

「おう、時間だな。分かっている」

村岡先生の声だ。


「俺は、反対です。きちんと、みんなに説明すべきです」

信山先輩の声が聞こえた。やっぱ、ここにいた。

「信山。そんなこと、三神は望んでいない」

「俺たちは、絶対、納得しません。後から聞かされたほうは、たまったもんじゃない。お願いします。弦には、俺から説明させてください」

「ダメだ。それは許さん」

「いえ、2 部の最中に、弦の連中を集めて、俺から話します」

「信山!」

村岡先生が怒鳴った。遠くで、2 ベルが聞こえる。やばい。あっちから、樋口が走ってきた。俺はドアを叩いて、

「先生、先生。2 ベルです。時間なんです」と大声で呼ぶ。樋口が

「どうなってんだよ!」

とキレている。無理も、ない。

「信山。・・・・分かった。俺から、みんなに説明をする。第 3 部、『運命』の前に。それでいいな。2 部の演奏中に、勝手なことするんじゃないぞ。もしそうしたら、お前はコンマス、クビだ」

「・・・分かりました」

2 人が、楽屋から出てきた。村岡先生は、無言でステージに向かった。


(第 33 話)

村岡先生と、信山先輩とのただならぬ雰囲 気に、皆が気づき始めた。さっき、ピンチを救った井川先輩が珍しく感情を露わにして、怒っている。

「まったく!先生も信山君も、どうかしている!演奏会の、本番なのよ!」

斉藤先輩も、信山先輩に詰め寄る。

「お前。何があった?何か、隠しているんじゃないのか?おい!」

信山先輩は、身じろぎもしない。

他の 1 年生までもが、ざわつき始めた。やばい雰囲気になってきた。

「みんな!いよいよ『運命』だな!さ、気持ちを切り替えて、準備しないと!」

麻生さん、だった。客席からこっちに来てくれたようだ。

麻生さんは俺に目くばせした。俺も黙って目礼。

「みんな。これまで 1 年近く、本当によく練習したな。さっきのゲネ・プロ、素晴らしかった。私は客席で、楽しませてもらう。ところで、さっき」

スマホを出す。

「升山先生から、皆にメールが届いている」

麻生さんが文面を読んでくれた。

『尾川中央オーケストラの皆さんへ

今日はいよいよ演奏会ですね。皆さんが素晴らしい演奏をしてくれることを心から願っています。一つ一つの音に魂を込めて、ベートーヴェンの大傑作を、胸を張って演奏してください。『運命』の真髄は、第 4 楽章にこそ宿っていると私は思っています。最後まで集中力を切らさずに、若者らしく思い切って、演奏してください。

東京ヴィルトオーゾ交響楽団

升山 繁樹』

「わざわざメールをくださった升山先生に恩返しだ。最高の演奏をしようじゃないか!」

信山先輩が号令をかける。

「おう!」

皆が一致した。麻生さんは安心したように、客席に戻りかけた。俺がすっと近寄って、

「村岡先生が、皆に、三神さんのことを話すそうです。第 3 部の前に」

と囁いた。麻生さんの顔色が、変わった。

しかしすぐに平静を取り戻し、

「村岡先生の判断なら、それがベストだろう」

と言い残し、客席へと向かった。

第 2 部が、終わった。休憩は 10 分だ。これからの 10 分、何が起こるのだろう。


「みんな。3 部開演の前に、大会議室に集合だ。急げ」

信山先輩の号令。みな、不思議な顔をして、2 階の会議室へと移動した。


(第 34 回)

会議室のあの光景を、俺は、俺たちは一生、

忘れないだろう。

斉藤先輩が、泣きながら会議室のカベを何度も何度も叩いた。川合先輩が号泣して、井川先輩と抱き合っている。渡瀬先輩だけが、

「先生!悪い冗談は止めてください。この本番前に、なんてこと言うんですか!俺は、信じません!絶対に信じませんから!」

と絶叫。樋口はせっかく削ったリードをケースごと落として、台無しにしてしまった。


遠くで、1 ベルが聞こえた。

あと 5 分で、演奏に入れるとは思えなかった。

「みんなに、この知らせを伝えるように進言したのは、俺だ」

信山先輩が、ポツリと言った。

「お前・・・・こんな精神状態で、どうやって演奏しろって言うんだ!」

珍しく、梅澤先輩が激高している。

「・・・・私、ムリです。とてもそんな気持ちになれません」

井川先輩も、肩を落とす。

「みんな!」

信山先輩が、涙を浮かべながら声を張り上げる。

「今のみんなを見たら、和尚は、何て言う?」もはや、誰も顔を挙げられない。

「俺たちは、弾くしか、ないんだよ。精一杯、和尚の分まで、『運命』を、心を込めて、演奏するしか、ないんだよ!」

嗚咽する声だけが、会議室に響く。

「さあ時間だ。開演まで、もうすぐだ。俺は行くぞ。お客様が待っている。俺は、ベートーヴェンを弾く」

信山先輩が、独り、会議室を出て行った。

俺は事情をちょっと先に知った者として、言わずにいられなかった。

「斉藤先輩!川合先輩!弾いてください。あれだけ練習したじゃ、ないですか!梅澤先輩、井川先輩、弾いてください。三神さんのために!いや、私たちみんなのために」

ちょっと考えたけど、俺は次にこう付け加えた。

「何より、ベートーヴェンのために!」


(第 35 回)

第 3 部の開演時間が遅れていることで、客席がざわついている。独り、ステージに現れた信山先輩が、頭を下げた。

「えー、皆様。開演時間となっておりますが、少々、お待たせしてしまい申し訳ありませ ん。まもなくメンバーが揃いますので、もう 少しだけ、お待ちください」

それでも、ざわつきは収まらなかった。

結局、予定時間を 8 分過ぎて、全員がステージに揃った。みな、一様に強張った表情をしている。俺たち 1 年は、『運命』だけは、客席で聴いていいことになっているので、最後列に陣取って、演奏を待った。


村岡先生が現れた。ひととおり拍手が終わり、オケに向き直る。指揮棒を、構えた。

「ジャジャジャ・ジャーン。ジャジャジャ・ジャーン」

いわゆる『運命』の動機。この音型が第 1 楽章を、いや曲の全体を支配している。信山先輩が、梅澤先輩が、もの凄い表情だ。なんという緊張感。第 2 主題を導くホルンのファンファーレ。おっと、珍しく渡瀬先輩がミスる。残念!でも、またすぐに持ち直す。俺たち 1 年は、身を乗り出すようにして、演奏に耳を傾けた。


何度も何度も練習した第 2 楽章。ホールの残響のせいなのか分からないが、今日は特段に美しい。木管のアンサンブルも絶品だ。本当に今日の演奏は特別な思いのこもった、鬼気迫るものがある。

第 3 楽章は、チェロのうめきから始まる。『運命の動機』の変形で、再びベートーヴェンの葛藤が表現されている。そう、そこ!トリオの前、ヴァイオリンが何度も何度も練習したところ。くう~!なんとか、インテンポで、ついていく。そうそう、縦を揃える。和尚が何度もやってくれたところだ。見事な演奏で、難所を切り抜けた。

『苦悩から歓喜へ』の、第 4 楽章は、前の楽章から切れ目なく演奏される。

ハ短調で重厚に始まったシンフォニーが、最後にハ長調で輝かしい栄光の響きに包まれる。トランペット、ティンパニー、そしてチェロ・バス。オーケストラ全体が生き物のように、壮大なドラマを演出していく。もはや、息をつくのもためらわれる。隣の席で、森山がぼそっと呟く。

「すごい・・・・すごいな、浩太」俺も、ゆっくり頷いた。


(第 36 回)

『運命』の、最後のフェルマータが終わるや否や、俺ら 1 年生は急いでステージ袖に集まる。アンコールに加わるためだ。ブラームスを、弾くんだ。

お約束で、大きな拍手が鳴りやまない。村岡先生が 3 度目で指揮棒を持つ。俺はヴァイオリンを構えた。

『ハンガリア舞曲』がゆっくり、始まった。でも、すぐに加速。うっそ!早すぎるよ先生!信山先輩のリードに、ついていけない。ヴァイオリンが、ズレてきた。ちらりと、後ろを振り向く信山先輩の弓に合わせ、俺たちはテンポを再び掴んだ。助かった。滑稽な 中間部も無事に終え、最初のテーマに戻る。今度は大丈夫。皆が音楽に身を任せている。俺は存分にビブラートをかけながら、三神さんとの二人羽織を思い出した。

演奏が、終わった。客席からは、ものすごい拍手が沸き起こった。村岡先生の指示で、全員が起立。さらに大きな拍手が寄せられる。一向になり止む気配がない。村岡先生が、左手を挙げてその拍手を制した。


「皆様、今日はこの演奏会のためにお集まりいただき、誠にありがとうございます」

どっかから、マイクが差し出された。会場の担当の方のようだ。

「・ ・ 本日の演奏会の直前のことでした。私たちの大切な仲間が、不慮の出来事で、この世を去ってしまいました」

会場が、どよめいた。

「彼のために、もう 1 曲だけ、アンコールとして演奏させてください。心を込めて、演奏致します。

バッハの『アリア』です」

指揮棒を譜面台に置くと、村岡先生は柔らかい手で身構えた。信山先輩以下、2 年と 3 年の弦の先輩がスタンバイした。

美しい、この上なく美しい『アリア』が、ホールに響き渡った。

演奏が始まってすぐ、客席で海野先輩がこらえきれずに嗚咽した。その声は、ステージ上の俺たちにまで聞こえた。

俺は思わず、川合先輩を探した。人と人との間から、わずかに見えた川合先輩の目にも、涙が。斉藤先輩は、震えながら、しゃくりあげている。

だめだ。井川先輩が、もはや弾き続けられない。肩を震わせている。

視界が涙でかすむ中、俺は和尚の言葉を何度も何度も、胸の中で反芻していた。

『道を探せ 迷っても止まるな』


『アリア』の最後の音が、長い長い響きを残してホールに溶けていった。


(第 4 楽章 完)

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