第3楽章

(第1話)

俺のファースト・キスの相手は、あゆみ先輩。何度も、・・・・残念だが、全て夢と妄想の中だった。

俺の初恋?

小学校 5 年から中 2 まで、幼馴染の美保に片思いだった。

俺の想いは美保も知っているはずだったが、ついに実ることはなかった。それで俺は、中 2 の夏に潔く諦めた。

で、時は流れて 3 年、受験の時。俺は自分のことしか眼中になく、違うクラスの美保がどこを受けるのかなんて知らなかった。でも、尾川中央の合格発表の夜。珍しく、その美保から電話が来て、俺はその電話で美保の尾川中央合格を知ったのだった。

「浩太くん、なんか、結局は腐れ縁ね。尾川中央でも、よろしくね」。

結局、尾川中央に共に進学することになった。ただクラスは違っていたし、美保は前からやっていた新体操の部 活に入った。俺は音楽部に入ったから、接点はなにもなし。ま、フェイドアウ トってやつだ。


音楽部の、新入生歓迎演奏会・・・・音楽に興味がない方のための演奏会・・・で、司会をやっていたのが、妄想の相手のあゆみ先輩だ。そのへん の女子アナより滑舌がよく、石原さとみに似てて、唇がキラキラしている。サッカー一筋だった俺が音楽部に入 部することを決めた、何%かの要因は、あゆみ先輩だったと言って良い。

あゆみ先輩は、その演奏会が終わってすぐに俺に話しかけてきてくれたし、その後も、仮入部で迷っていた俺が図書館の前でウロウロしているのを見つけると、必ず声をかけてくれた。俺は単純だから、俺が音楽部に入部したら、あゆみ先輩が真っ先に喜んでくれるかな~と期待していた。


だから、俺は最初に誘ってくれた斉藤先輩ではなく、あゆみ先輩に、こっそり

「あの、俺でも音楽部に入っていいんすか?」

って、恐る恐る尋ねた。それが事実上の入部宣言で、あゆみ先輩が

「やった~!」

って飛び跳ねてくれたこと、今でもは っきりと覚えている。ポニーテールが、ぴょんぴょん、跳ねていた。俺の心と シンクロするように。


(第2話)

あゆみ先輩はヴィオラだったけど、必 ず俺に声をかけてくれた。そのたびに、

『俺のこと、いち後輩って以上に意識してんじゃね?』

と本気で思い込んでいて、ヴィオラの森山とかチェロの富岡とかに、馬鹿呼ばわりされた。ちぇっ片思いは、勝手だろっての。

今から思えばだけど、あゆみ先輩は純粋に上級生として、可愛い 1 年生を面倒見てくれただけだったのだ。その証拠に、森山とか富岡にも同じように声をかけていたと、後からその 2 人が証言してくれた。しかし、あゆみ先輩に恋心を抱いたのは俺だけ。これって、どういうことだ?

正式入部を決めて、帰ろうとした仮入部の最終日。井川先輩たちとお喋りしながら楽器を片付けていたあゆみ先輩に向かって、俺は半分ふざけて、

「先輩!晴れて、来週から正式入部します!なので、来週から、川合先輩じゃなくて、あゆみ先輩って呼んでいいですか?」

と訊いてみた。

すると、あゆみ先輩は一瞬

「え~?」

と不思議そうな顔をした。 俺は覚悟を決めていたから、

「ダメすか?なら、俺、音楽部に入るの、考え直しますよ」

と言った。すると、井川先輩が

「あゆちゃん、随分とモテるのね~。いいんじゃない、別に」

とあゆみ先輩を肘でつついた。

あゆみ先輩は少し困った顔をしたけど、したり顔で、こう言ってきた。

「じゃあ、私もスポーツ君じゃなくて、浩太くんって、呼ぶけど、いいの?」

「はい!勿論ですよ。俺、もうサッカー部でなく、音楽部の浩太になるんですから」

「じゃあ、わかった。いいわよ。頑張るのよ、浩太くん」

俺は、天にも昇る気持ちだった。

「はい!頑張ります、あゆみ先輩!」これが青春でなくて、何だろう。

その日の帰り道、俺は全速力でママチャリを漕いだ。


そんな俺とあゆみ先輩のこと、『先輩』としてではなく『異性』として急接近する出来事があった。


(第3話)

あれは、6 月のテスト前のこと。翌日からテスト期間となり、部活動はない。だから多くの先輩は楽器を持って自宅に帰るところだった。俺もまだまだ 音階がやっとの段階だったから、勿論 学校のヴァイオリンを借りた。それを持って自転車置き場に向かっていたら、サッカー部の中山たちに出くわし た。


「おお~“さのまさし”、じゃねえか」中山がからかった。

うるせえ。俺は、無視した。

「浩太、何か弾けるようになったのか?お前なら、足で弾くほうが、上手くできるんじゃねえか?」

さらに、俺は無視した。


あいつらは、俺とは違い、サッカーボールを持っている。明日は、対外試合なのか、あいつらの荷物も多い。

「浩太、マジでさ。左サイド、先輩が怪我して、控えいないのよ。非常事態になったら、キーパーの俺が、出なきゃないわけ。どう思うお前?」

俺は自転車の後ろに、ゴム紐でヴァイオリンケースをくくりつけた。無視。

「スルーかよ!」

いきなり、俺の自転車を中山が蹴った。サッカー部の足!条件反射で、俺は自 転車よりも、くくりつけたヴァイオリ ンケースを守っていた。

「何、すんだよ!」

俺はキレて、中山を睨んだ。

「無視したの、お前じゃねえか」

さらに中山が、俺の自転車を踏みつける。

「なんだお前、この野郎」

別のサッカー部員も、俺に詰め寄る。俺はサッカーのことになると気が変わる。いや、試合になると更にヒートアップする。ただ、その逆で、そうじゃない時は意外とチキン。3 人から囲まれると、それ以上は言い返せない。


(第4話)

雰囲気、ヤバかった。俺はとにかく、ヴァイオリンだけが気がかりで、こいつらから守ってやらないと、との一心だけだった。ヴァイオリンケースを、自転車からおろして抱きかかえた。

「俺は・・・・もうサッカーは辞めたから」

と絞り出すのが精いっぱいだった。

中山が詰め寄る。

「知ってるよ。だから、ヤ・サ・シ・く、テ・イ・ネ・イ・に、誘ってんじゃねえかよ」

「ゴメン」

俺は、うなだれるしかなかった。

「もう 1 回、お前のシュート止めたかったな」

中山がようやく俺の自転車から足をはなした。スポークが 2 本、折れていた。中山につられるように、他の 2 人もその場を後にした。

ふう、なんとか収まった。俺は胸を撫でおろした。


自転車に乗ってすぐ家に帰ることもできたけど、しばらく俺はその場から動かなかった。音楽部に決めた動機をもう一度、思い返していた。中学校の 3 年間、あれだけ打ち込んだサッカーを、俺はあっけなく辞めて、いまヴァイオリンを手にしている。そのことに後悔はないけれど、放課後の2 時間を、ほぼずっと音楽室で、基本の反復練習に明け暮れている自分が、何か空しかった。そして、少し考えて、ヴァイオリンはやはり借りずに、家に置いて帰ろうと思いなおした。考えてみると、自宅では安心して音が出せる場所もない。結局は練習にならないかもな。俺は自転車に鍵をかけ、音楽室に戻ることにした。


昇降口から音楽室に向かうと、まだ誰かいるようで、音が聞こえる。弦・・・ヴィオラか?誰だろう?怖々、音楽室の重い扉を開けた。すると、俺が一番会いたい女性がそこにいた。


(第5話)

俺が場違いなほど、明るいトーンで声をかけた。

「あゆみ先輩~!どーしたんすか、独り残って?」

あゆみ先輩が振り返って、微笑んでくれた。

「浩太くん。あれっ帰ってたんじゃなかったの?楽器、持って帰って、家で練習するんじゃなかったの?」

俺は、ヴァイオリンケースを持っていた。

「はい、つーか、考えたんすけど、多分俺、家では練習しないっす。音だせる部屋、ないし」

「え~そうなの?ミュート(弱音器) も、消音器もあるけど、貸してあげようか?」

あゆみ先輩は、いつも優しい。

「いや、なんつーか、俺のはただの騒 音だから、家族にヒンシュクかなって」俺は頭を掻いた。

「誰だって、最初から綺麗な音は出ないよ」

あゆみ先輩も、楽器をケースにしまいはじめた。

「あゆみ先輩は、楽器、持ち帰らないんですか?」

「うん。うちね、おばあちゃんが寝たきりだから、楽器なんて鳴らせないのよ」

知らなかった。そうだったのか。

「そうなんすね~だから、独りで残ってたんですね」

「ま、それもあるし、他にも」

「他にも?」

「三神の和尚から、この前、こってり絞られたでしょ。だから、もっとリーダーの私が弾けるようにならないと」

「いや、俺が言うのはマジ変なんすけど、あゆみ先輩、一番うまいっすよ」あゆみ先輩の笑顔が弾けた。

「それ、ウケるわ浩太くん」

あ~このまま、ずっとあゆみ先輩とお喋りしたいな!


(第6話)

それから、俺はさっきの、自転車置き場でのやり取りをあゆみ先輩に話した。ただ聞いて欲しい、その気持ちだけだったのだけれど、あゆみ先輩は俺をじっと見ながら、真剣に聞いてくれた。


「そう・・・浩太くんは、悔しいって思ったの?サッカー部に入らなかったこと、後悔した?」

「いや・・・・悔しいっていう感じじ ゃ、ないんですよ。俺、このままでいいのか?音楽部で 3 年間、マジやっていけるのか、心配になったんですよね」

「ふーん」

あゆみ先輩は、何かを考えるような顔になった。

「参考になるか、わかんないけど、さ」

こう断ったうえで、自分がどんな思いでいまヴィオラを弾いているのか。さらにさかのぼって、なぜ 1 年生の時に音楽部に入ろうと思ったのか、その経緯を話してくれた。

あゆみ先輩は、きっと俺のために、迷っている俺に少しでもいいアドバイスが出来ればって思って、いろいろ話してくれていたと思う。しかし、当の俺は、あゆみ先輩が話している内容はどうでも良くて、このまま、あゆみ先輩を独占したいという気持ちが勝っていた。今、思い出すと、なんて失礼な奴なんだ俺って。

「・・・だからさ、まずは、目の前のこと。浩太くんなら、そうね、G-dur(ト長調)の 2 オクターブの音階をマスターすること。これが出来たら、次の目標もまた、見つかるわよ。」

「そうっすね・・・はい」


何気なく、時計を見た。7 時になるところ、だった。

たしか、あゆみ先輩はバス通学。自宅は、市内だけどかなり遠いはず。

「あゆみ先輩?帰りのバス、何時ですか?」

「えっ?今、何時?」あゆみ先輩の顔色が変わった。


(第7話)

あゆみ先輩が時間を確認する。7時? あ~っ!」

まさか、まさか。

「あゆみ先輩、何時なんすか、最終?」あゆみ先輩は楽器を迅速にかつ丁寧 に棚にしまい、音楽室から駆け出した。

「7 時 2 分なのよ!」え~!あと 2 分?


尾川中央高から、最寄りの「尾川中央駅」までは、直線で500 メートルほど。帰りは降りだけど、さすがに 2 分では駅まで着くわけもない。昇降口で靴を履いた時点で 1 分経過。校門をくぐって最初の信号機まであと 50 メートルというところで、信号が変わった。信号待ちをしていた、バスが動き出す。

「ああ~!待って!」あゆみ先輩が、叫ぶ。

しかし、それで待ってくれるバスなど ありはしない。バスはゆっくりと右折。こうして、俺たちはあゆみ先輩が乗る はずだった最終バスを、見送るしかなかった。2 人で、脱力した。


俺のせいだ。俺は必死に、あゆみ先輩に謝った。

「すみません!すみません!俺が、引き留めちゃったみたいで・・・」

「ううん、いいのよ。仕方ないわ。こんな日もあるって」

「いや、そうは言っても・・・どうやって、帰りますか?」

「これまでも、乗り遅れたことあるわ。大丈夫。アニキか、お父さんから、迎えに来てもらう」

そう言って、あゆみ先輩はスマホを取り出す。俺は、自分の責任を痛感していたものの、まだあゆみ先輩と一緒に過ごせる時間を貰えたことに、何か喜んでいたかもしれない。


(第8話)

スマホでメールを打っていたが、あゆみ先輩が少し溜息をついた。

「連絡、つきました?」俺は、気が気ではない。

「うん、アニキは今日、飲み会だって。だから、最初から車を置いていった。で、お父さんだけど」

俺は、ゴクリと唾を呑みこむ。

「今日、出張から帰る予定だけど、新 幹線が何かで止まっていて、今日中に、帰れないかもだって」

ええ~!俺たちは、いや、あゆみ先輩はどうなる?俺の顔色、真っ青なのが自分でも分かる。

「ま、お母さんも運転できるから、来れないこともないんだけど。でもおばあちゃんのことがあるから、家を留守にしたくない。だから、タクシーで帰って来なさいって言われた」

「でも、・・失礼ですけど、ここから、いくら、かかるんですか?お金、あるんですか?」

「うん、それは大丈夫。いつも、緊急マネーは持っているからね」

パスモのケースから、1 万円を取り出してヒラヒラさせた。そうか~バスと か電車通学になると、こういうことは、絶対ないとは言えないからね。

俺はほっとしたのもあるけど、ちょっと残念に思った。(くそっ俺って、どこまで利己的なのか!)

駅に向かおうとしているあゆみ先輩に向かって、俺は自分でも信じられないことを言ってしまった。「あゆみ先輩!タクシーなら、・・・俺の自転車の後ろに乗ってください!」


(第9話)

あゆみ先輩は、きょとんとした目で俺を見つめた。

「タクシー? 自転車?・・・浩太くんが?」

「はい!俺、乗せていきますよ。足、太いし、体力は自信あるし」

何、言ってんだ?俺?

いや、これはチャンスだぞ、きっと。

「あのねえ・・・家まで、どのくらい遠いか、分かっている?」

遠いほうが、俺にとっては好都合だ。

「大丈夫っす。そのお金、次に本当に困ったときのために、使ってください」

「でも・・・・浩太くん、私、重いからタイヤ、パンクさせちゃうよ」

重くない!重くない!石原さとみは、重くない!あゆみ先輩は、重くない!

「大丈夫っす。これも、トレーニングになります。身体、鈍っているから、ちょうどいいです。どうぞ!」

俺は誇らしげに、自転車の荷台を示した。まさかママチャリがここで役に立つとは。せめて、クッションが欲しかったけど・・・まあ、いい。

「なんなら、途中であのバス、追い越しちゃいますよ。だったら、そこから、乗ればいい」

「・・・・でも、ホントに、いいの?」

「勿論ですって!さ、行きましょ行きましょ」

俺はわざと豪快に、自転車にまたがった。

「・・・分かった。じゃあ、行けるところまで、行ってみて。途中でダウンしそうになったら、その時点で、タクシー呼ぶわよ」

途中でダウンなんて、するもんか。きっと、家まで送り届けます。

「じゃあ、・・・・浩太くんお願い」。あゆみ先輩が、恐る恐る、俺の自転車に乗る。当然だが、チェロを弾くように足を開いて乗るわけない。横に座って、カバンを抱えた。でも、それだと危ない。


(第10話)

「・・・あゆみ先輩、片手でいいから、俺につかまってください」

「・・・こう、かな?」右手が、俺のもう一つのベルトになった。心が、身体が、火照ってきた。

俺は、さっき絡んでくれた中山に、心から感謝したい気持ちになった。

俺は、ぐいぐいとママチャリを漕ぎ始 めた。全然、あゆみ先輩は重くなかっ た。メインの県道に沿って走る裏通り、ママチャリがスピードを上げる。もと もと育った町、通りがかりの八百屋の母ちゃん、薬局のおばちゃん、みな、俺の同級生のお母さん。恥ずかしいったらありゃしない。でも、そんなこと は関係ない。4 分に 1 回くらい、あゆ み先輩が小さな声で

「ねえ、重くない?」と訊いてくる。

「全然、重くないっすよ!」

と答える俺。爽快だった。時よ、止まれ!

裏通りを過ぎ、ほの暗くなり、大きな国道の歩道を走りだした。心なしか、俺の腰に回したあゆみ先輩の腕の緊張感が薄れているのに気づいた。安心して、乗ってくれているのかな。俺は、上機嫌だった。


「あゆみ、先輩?」声をかけてみた。

「なに?」

いつもより大きめに、返事をくれた。

「先輩、さっき、アニキって言ってましたよね。ほかに、兄弟とかいますか?」

「いるよ。6 つ上に、姉がいる」「へえ~そうなんすか。離れていますね」

「うん。結婚してるんだけど、今年、赤ちゃん生まれたの。だから私、オバサン」

「え~信じられないっす。オバサン、だなんて」

俺の声も、いつもより大きめ。


(第11話)

あゆみ先輩の声も、心なしか、弾んでいる。


「でもさ、赤ちゃんって、ホント、可愛いわね。自分の姪ってだけで、他の赤ちゃんより、格段に可愛く見えるからね。親バカならぬ、オバサンバカ」

「ははは・・・!」

あゆみ先輩が、いつか赤ちゃんを産む。きっと、石原さとみに似て、・・いや、 あゆみ先輩に似て、可愛い赤ちゃんだ ろう。その父親は・・・・なんて馬鹿な妄想だ。俺は悟られまいと、ぺダル を踏む足に力を込めた。

「疲れて、ない?」

あゆみ先輩が俺を気遣ってくれたけど、不思議なほど、全く疲れはない。

「はい、全然。でも、あゆみ先輩が大変でしょうから、次のコンビニで、止まりましょう」

「うん、そうしよう!」


ファミマには、数分で到着。気分とは裏腹に、太ももがヤバイ感じだった。でも、それに気づかれてはいけない。

「久しぶりにマジ動いたから、甘いもの摂らないと」

「分かった、何がいい?」

「じゃ、すみませんけど、モナ王ひとつ」

「はーい。タクシー代だと思ったら、お安いご用ね」

「いや、むしろガソリン代ですね」 一緒に、笑った。疲れが、吹き飛ぶ。


10 分くらいの休憩の後、再びママチャリを走らせる。これから、徐々に上りにさしかかる。1 級河川にかかる大橋を超えれば、あゆみ先輩の住む地域まではもう少しだ。


「あゆみ先輩。お母さんには、何てメールしたんすか?」

「素敵な彼に、送ってもらうってことになっている」

あゆみ先輩の笑顔が見えないのが悔しい。

「やった!俺って、素敵な彼ってことですか?」

「何よ、浩太くん。冗談に決まっているでしょ?バカねえ」

バカ?ええ、喜んで俺はバカになりますよ!こうして、一緒にいられるなら。


(第12話)

よく、結婚すると奥さんの尻に敷かれる旦那さんっているけど、俺はそれが いいと思っている。ウチの両親?まあ 昭和だから、親父はでんと座って動か ない、母さんがいろいろ動いて、休む間もない。それで 2 人はいいと思っているみたいだけど、俺からしたら、もっと親父が母さんをいたわって、休ませてあげたらいいのに、と感じること も多い。俺なら、喜んで、あゆみ先輩の尻に敷かれたい。えっ?その頃、なんて呼んでいるのかな。『あゆみ』って、呼び捨て?まさかね。『あゆみ、ちゃん』?これも、ヘン。じゃあ・・・・妄想は広がる(笑)


いよいよ坂がきつくなってきた。あゆみ先輩が、

「いいよ、降りて歩こう」

と言ってくれた。俺の太ももも限界に

近かったので、「助かります」

とだけ言った。でも、今度は並んで歩ける。これまた、俺にはポイント高かった。

それから、いろいろな話をした。俺が、小児喘息で激しいスポーツが出来なかったこと。それでもトランペットを吹いたことで快方に向かい、中学でサッカーに打ち込めたこと。

あゆみ先輩も、いろいろ話をしてくれた。お祖父さんがいたけど、その記憶が殆どないこと。お母さんが実は双子で、そっくりな叔母さんがいること。幼稚園では、いつも泣いていて先生から心配されたこと。納豆に梅干しを混ぜて食べるのが好きなこと。アニキの部屋に勝手に入ってヤバい本を見つけてしまい、それから半年くらい口をきかなかったこと。毎朝、ヨーグルトを食べていること。どんなことでも知りたかった俺には、全部が嬉しい情報だった。

「あの家、だよ」

あゆみ先輩が、手で示した。

街頭の先にある、1 軒の家を示した。

(ここが、あゆみ先輩の家・・・)

犬が、吠えている。


(第13話)

「キャッピー! ただいま! お客様よ!」

あゆみ先輩が、犬に向かって駆け出す。すると、ガラガラと玄関が開いて、お 母さんらしき方が出てきた。

「あゆみ!・・・彼氏って、こちらさん?」

「彼氏じゃないわよ、部活の後輩の、浩太くん。わざわざ、自転車に乗せてくれたの」

(えっ彼氏じゃないのか、俺?くそっ)

「あら~すみませんでした。後輩、なの?あれまあ、なんてこと。こんな処まで・・・お疲れでしょ?さあさ、ジュースでも飲んでいきなさい」

俺は必死になって、抵抗した。

「いや、なんつうか、成り行きですから。俺、まだ家に連絡してないんで、すぐ帰らないと」

「ええ~浩太くん。連絡して、なかったの?それマズイよ~、あたしから、話してあげる」

「いや、ホント、いいです。疲れてないですし、帰りは下りですから、楽勝です。ホント、これで失礼します。サヨウナラ」


逃げるように、ママチャリを漕ぎ出した俺を、あゆみ先輩が追いかける。

「ちょっと、浩太くん!」


俺はプレストで、あゆみ先輩の家を後にした。

プレスト?音楽記号でイタリア語、意味は「きわめて速く」。

まだ家に帰る前に、LINE が 3 通、届いていた。たぶん、あゆみ先輩だろう。俺はそれらを見ずに、ペダルを漕ぎまくった。

結局、その日に家に帰ったのは 11 時を回っていた。高校 1 年生にしては、遅すぎる。あゆみ先輩の家が見えなくなってから、母さんに電話を入れた。友達の自転車がパンクしてしまい、それで乗せていったとウソ。ま、正直に言うこともない。



(第14話)

久しぶりに、全身から汗。すぐさまシャワーに入り、さっぱり。太もも、もう攣りそう。90 分のサッカーの試合なみに、パンパン腫れている。夕飯は、なんとカツカレー。大皿で3 杯、完食。カツがもう 2 枚、欲しかった。

部屋に入り、ベッドに身体を投げ出す。あ~疲れた。

ようし、ようやく LINE メッセージを確認。やっぱ、あゆみ先輩。これは、8:45、俺が出てすぐの時間。

★あゆみ先輩★「浩太くん、今日は、本当にありがとう。疲れたでしょ?ゆっくり、してね。

まだ、家に着いていないと思います。返信なんて、要らないからね」

2通目。それも、すぐ。8:47。

★あゆみ先輩★「私のお母さんが、すごく心配しているよ。ポカリくらい、持たせてあげればって。あんなにすぐ、帰らなくても良かったのに。でも、さ すが元・サッカー部だね。尊敬!すごい体力だって、あたしもお母さんも驚 いています。じゃあ、ゆっくり、寝てね」

可愛い、スタンプ。

3通目。12 時 10 分前。つい、さっきだ。

★あゆみ先輩★「もう寝た?」


(第15話)

俺、慌てて起きる。すかさず、返信。

◆俺「いや、寝てないっすよ」(出川スタンプ)

返信を待つ。・・・・既読、になっていないから、まだかな。

お風呂かな?・・・・また妄想が・・・・うっ

・・・・まだ、かな?随分、長い風呂だな。ドラえもんの、しずかちゃんかよ?

あっと、『既読』になった。良かった!

俺が LINE に返信をして、『既読』になってから 2 時間、いまだ、返信なし。俺、だんだん心配になる。

Facebook 眺めて、YouTube でいろいろ『お気に入り』聞いて。さらに1 時間、もう 3 時だ。さすがに、眠くなった。明日からは GW、目覚ましはオフにして寝る。でも、あゆみ先輩からの返信が・・・寝るに、寝れない。

翌朝、7 時過ぎに目覚め。すぐスマホ確認、いまだに返事なし。きっと、寝てしまったんだろう。まだ早朝だし、 9 時くらいまで、待ってみるか。

その後、うとうとして 9 時半。

「いい加減、起きなさい~!」

母さんの声がした。スマホを見る。返信、なし。

昼、もうどうでもよくなった。返信、なし。

俺、何か怒らせること、書いたり言ったりしたかな?

試しに、電話を入れてみる。・・・・『電波が届かない場所におられるか、電源が入っていないために・・』

なーんだ。充電切れ、だ。もしくは、朝から家族で出かけた?

やるせなさは、残るものの、俺は気にしないことにした。GW がスタートしたのだから、あゆみ先輩も、いろいろ、あるだろう。


(第16話)

結局、GW の 4 連休のあいだ、あゆみ先輩からの LINE は全く来なかった。

GW が明けて、久々に登校。その日の朝に、ようやく、あゆみ先輩から LINE が届いた。

やった!という気分には、なれない。

★あゆみ先輩★「浩太くん。おはよう!ゴメンね、返信出来ていなくて。また部活でね」

これだけ、かよ。

俺は正直、腹が立った。


昼休みが終わり、午後の授業も終わった。4 時から部活。俺は、あゆみ先輩にどんな顔をして会えばいいのか、分からなかった。

部室から楽器を持って音楽室へ。向こうから、あゆみ先輩と井川先輩が歩いてくる。俺は、どこかきまりが悪く、顔を合わせなくてもいいように、走って音楽室への階段を駆け上った。

いつもとは違う、窓際の奥に椅子をおき、ゆっくり、調弦をしてボウイングの練習をはじめた。徐々に先輩たちも集まってくる。わざと、ヴィオラから一番遠くに椅子を置いたのは、あゆみ先輩の姿が見えないように、だ。


「浩太!G-dur、2 オクターブ出来たか?」

信山先輩の声。遠くから、あゆみ先輩が俺らを見ているのが分かった。俺はあくまで気づかぬよう、信山先輩だけを見て

「出来ました。連休中、毎日、弾きました」

とウソを言った。

すると、ツカツカと信山先輩が寄ってきて、俺にケリを入れた。

「ウソをつくな、ウソを!」

ひえ~っ、すみません!やっぱ信山先輩は誤魔化せない。


(第17話)

「はい、ウソです・・・すみません。友達に誘われて、草サッカー、出ていました」

これまた、ウソだ。

「どれ」信山先輩が、俺の太ももを掴む。

「・・・・それは、ホントらしいな。今日から、ちゃんとやれ」

ふう。まさか、あゆみ先輩を家まで送って、その太ももになったとは言えない。

俺は、平静を装いながら、G-dur の練習をはじめた。

ヴィオラパートから、今日はあゆみ先輩の元気な声は聞こえない。


あゆみ先輩から、声をかけられることもなく、その日の練習は終わった。

音楽室を出る前、井川先輩が、

「浩太くん、あのね」 と何か言いかけたけど、

「今日は、すみません」

とだけ言った。そそくさと、昇降口へと向かう。森山たちが行こうと誘った

『すき家』にも、行かないと断った。


あゆみ先輩、冷たいんじゃないか。あまりにも。

俺はさすがに、キレていた。もう、いい。期待した俺が、バカだった。

所詮、1 人の後輩に過ぎないんだ。勘違いも、はなはだしい。つまり、俺が妄想を膨らませ過ぎたってこと。

つまりは、そういうこと。


夜、あゆみ先輩から LINE が来た。まず 7 時半。バスの中から?

★あゆみ先輩★「ねえ浩太くん。怒っているの?」

無視。既読スルーってやつ。

その 2 時間後。

★あゆみ先輩★「その日に返信できなくて、ずっと返信しなくて、悪かったわ。怒っているなら、ちゃんと知らせて。黙っていたって、分からない」困った顔、のスタンプ。

既読スルー。

さらに 30 分後。

★あゆみ先輩★「あのね。あたしだって、怒ることもあるわよ。後輩なのに、ずっと先輩をスルーって、失礼じゃないの?」

怒った顔のスタンプに変わっている。

無視。俺は電源を切って、布団をかぶった。


(第18話)

愛の反対って、憎しみだとずっと、思っていた。

でも、誰かの Facebook で見たけど、愛の反対って、『無関心』なんだって。

ってことは、俺はあゆみ先輩に対して『無関心』ではなかった。憎しみという言葉ではないけど、期待が大きかった分だけ、それが何もなかった時の落胆は大きかった。

俺は数日前の、夢のようなひとときを思い出していた。石原さとみに似た、素敵な先輩を自転車に乗せ、誰にも邪魔されない時間を過ごせた。キスこそしなかったけど、俺はそれ以上に、あゆみ先輩と強い絆で結ばれたと思い込んでいたのだ。

あゆみ先輩からLINE が来なくなった。ある意味、当然のことで、これは俺がまいた種。だからあゆみ先輩だけの所為にすることは出来ない。だけど、それは今になって思えることで、真っただ中では、とてもそんな気持ちになれる筈はなかった。

音楽部の練習も、いきおい、意欲が減退する。

森山と樋口が昼休みに俺の教室に来て、

「浩太、お前、なんかあったのか?」と心配してくれた。だけど、言えるもんか。あゆみ先輩と、ギクシャクしているのが原因なんて。

俺とあゆみ先輩は、誰もが認める、仲 のよい先輩・後輩の間柄だった。『恋仲』と見る人は誰もいなく、姉と弟がじゃ れあっているだけ。だから、もし俺が森山や樋口に、あゆみ先輩とのあの日の出来事を仮に話したとしても、とうてい信じてもらえないだろう。

でも俺は、既に、そのモードに入っていたのだ。


(第19話)

あゆみ先輩を、『先輩」』としてではなく、一人の『異性』として見ていた。それが決定的になったのが、あの日だ ったのだ。もう石原さとみに似ている とか、そんなことではない。あゆみ先 輩と2 人だけで楽しい時間を過ごしたってことが、俺にとっての全てだった。


GW が明けて、1 週間が経とうとしていた。あゆみ先輩とは、相変わらずだ。

昼休み、早弁のせいで食べるものがない。購買部でパンとアイスを買うことにして、席を立った俺に、井川先輩から LINE。何だろ。

▲井川先輩▲「浩太くん。ちょっと、話せるかな。あゆの、ことなんだけど」げっ来た! 井川先輩とあゆみ先輩は、親友だ。俺たちのこと、どこまで井川先輩は知っているのか?俺はどうすればいい?すぐに、2 通目が来た。

▲井川先輩▲「ちょっと、今から購買部に来てちょうだい。今、私はもう着 いている。あとは、その時に。じゃあ!」かわいい、「よろしく」スタンプ。

俺は購買部まで走りながら、正直、パニクった。

やべえ~、どうする、俺?


(第20話)

でも、このままでいいとは、俺も思っていない。ただ、全部をあゆみ先輩の所為にするほど、自分は悪人ではないと思っている。俺から、謝ればいいのか、それとも?ええい、このさいだ。井川先輩の言うとおりにすればいいか。当たって、砕けろ!

井川先輩は、俺の分もアイスを買って、待っていてくれた。いつもながら、優 しい!

「ゴメンね、急に。でもさ、このままじゃ、ダメよ絶対」

俺はわざととぼけた。

「え~?井川先輩、一体全体、何なんすか?俺に?」

「・・・あゆが、怒っているっていうか、困っているっていうか」

(そうなのか、やっぱり)

「へ?俺に、ですか?」

「・・・私、いろいろ聞いているわよ。白状なさい」


井川先輩には、逆らえない。あゆみ先輩のように恋愛の対象ではないけれど、素直になれるもう一人の姉のようだ。

「あ、・・・・ハイ。・・・でも」

「LINE 来ないくらいで、怒ってるようじゃ、まだお子様ね、浩太くんは」

「いや、その、・・・・なんつうか」俺は言葉に詰まった。

井川先輩の向かいの席に座った。もう、覚悟決めよう。

「あゆがバスに乗り遅れて、それで送ってあげたんだって?あんなとこまで」

「えっ・・・だってそれは、俺のせいで遅れちゃったわけで」

「まあ、その場のことだから、私は何も言うつもりはないわ。で、浩太くんは、憧れのあゆみ先輩と、夢のような時間を過ごしたってわけね」

「・・・・・」図星。


(第21話)

「で、その日の晩。浩太くんはあゆからの LINE が途切れてしまって、そこからスルーした」

ああ、全部伝わっている。これだから、女ってのは。

「あゆはあゆで、いろいろ、説明したいことがあったのよ。でも、浩太くんはお子様だから、ずっと無視」

「・・・・・」

それが、どこか悪いのかよ。俺は心中、ふて腐れた。俺だって、無視された。だから、俺も無視してやった。それだけだ。


どうして、あゆみ先輩があの日の晩にLINE を送ってこなくなったか、井川先輩は丁寧に説明をしてくれた。俺は俺で、「爽」のバニラを食べながら、最初は憮然とした顔で聞いていたと思う。

顛末は、こうだ。

あの日の晩、あゆみ先輩とお母さんとで、ちょっとした口論になった。それは、お母さんがあゆみ先輩に対して

『あまりに軽率』な態度をとったこと を注意したという。というのは、あゆみ先輩にしたら、俺なんて弟みたいで、恋愛対象になるべくもない。ただ、男の俺からしたら、自分に少なからぬ感情を抱いていると勘違いすることは間違いない。お母さんは、それをあゆみ先輩に指摘したのだ。

だから、恋愛感情がもし『ない』のであれば、そのような思わせぶりな行動は、逆に俺を傷つける結果になるんだと。

当たっているかも。お母さん、さすが。俺の母さんも、そんなこと言うのかな。


で、外でお母さんと 30 分くらい立ち話というか口論になっている間、おばあちゃんの具合が急に悪くなっていた。でも、2 人は外にいたから、それに気づけなかった。立ち話を終えて 2 人が家に戻った時には、既におばあちゃんの意識はなく、それから慌てて救急車を呼び、お母さんとあゆみ先輩、そして御兄さんとで病院に行った。出張先からお父さんも翌日に駆けつけ、一時期は危ない状態だったらしい。だが、懸命な処置が功を奏し、おばあちゃんは一命をとりとめ、今はようやく落ち着いていて、来週には退院して自宅に戻れる見込みだという。

あゆみ先輩は、GW をほぼ病院で過ごしていたのだ。


(第22話)

俺は途中から、アイスが溶けるのも気にならない程、茫然としてしまっていた。


「確かに、それとこれとは、違う話よ。でもね浩太くん。自分の見えないところで何が起こっているのかって、当たり前だけど全部分かるわけじゃない。人間、万能ではないもの」

うなだれるしか、なかった。

「あゆはね、お婆ちゃんに、定演を聞きに来て欲しいって頼んで、お婆ちゃんは絶対に行くって約束してくれたのよ。だから、あれだけ毎日、終バスのギリギリまで練習しているの。これは、わたし以外、誰もしらないこと。彼氏の信山君にだって、言ってないんだから」

井川先輩が、言ってしまってから「まずい」という顔をした。

えっ?彼氏?信山先輩?

俺の表情の変化に気づいた井川先輩は、ふう、とため息をついた。

「ま、今日はそこまで言うつもりじゃなかったけど。そうよ、あゆは、信山君と付き合っている。しかも、真剣に」

「・・・・」

「そのことを知っているから、お母さんはあゆに、注意したんだと思う」

「・・・・・」

たった今、食べたばかりのアイスが、口の中で再び凍りそうだった。

井川先輩は、なおも続けた。

「浩太くん。あゆとは、残念だけど、このままフェイドアウトするほうがいいと思う。しっかりと音楽に集中して、ヴァイオリンで、あゆと信山君とを、見返してやりなさい」

チャイムが、鳴った。午後の 5 時限目

まで、あと 5 分だ。


(第23話)

俺は、文字通り、固まったまま動けなかった。

「ささ、授業、遅れるわよ」

井川先輩が、先に席を立った。きっと俺は、ヨロヨロと、よろめいていたと思う。


どうやって教室に戻ったのか、全く覚えていない。

憶えているのは、授業の途中で先生に、歯が痛くてどうしようもないから、早 退して医者に行かせてくれ、と頼んで教室を出たこと。もちろん、仮病だ。

俺が最初にあゆみ先輩に会ったのは、あの仮入部のときの演奏会。誰でも指揮者コーナーで、斉藤先輩が俺を指名して、俺が拒否していたとき。信山先輩が、たしかこう言った。

「やりたくない奴に、やらせることない。あゆみ、他の人にやってもらえ」

そう、信山先輩が「あゆみ」と呼び捨てにした。その声が、響きが、強烈に思い出された。

あゆみ、あゆみ、あゆみ、・・・・

それは、俺が一番呼びたい名前だった。しかし・・・・

信山先輩とあゆみ先輩は、「真剣に」付き合っている。

俺は学校を出ると、思い切り、自転車を漕ぎ出した。行き先?どこだって良かった。とにかく、学校から遠くに離れたかった。いや、あゆみ先輩から、信山先輩から、遠く離れたかった。

何度か LINE の着信があったけど、煩わしいので電源を切った。

さあ、これから、何処に行こうか。とにかく、出よう。


(第23話)

気づいたら、俺はあゆみ先輩の家を目指して、自転車を漕いでいた。

(バカだな、俺って)

心底、自分がイヤになった。


お前は、フラれたんだ。いや、フラれるとは正しくない。勝手に独りで盛り上がっていただけ。ただの、ピエロ。もともと、あゆみ先輩と信山先輩とは恋人。

俺は、ただの後輩。そう、弟みたいなもん。アウト オブ 眼中。

太ももが悲鳴を上げるほど、俺は自転車のスピードを上げた。そして国道を走り、ゆるやかな、川に向かう坂を猛然と上り始めた。

「くっそ!くっそ~!」

涙なんか出ない。人間、本気で悲しい時は、涙すら出ないと分かった。泣くのは、泣けるのは、まだ余裕がある証拠だ。

太ももが攣りそうになる。構わない。俺は、さらにスピードをあげた。坂を、一気に上りきるんだ。まるでサッカーのロスタイムに、逆転ゴールを決めるんだという気持ちに似ている。そう、まだチャンスはある。諦めた瞬間に、ゲーム・オーバー。『スラムダンク』で学んだセリフだ。

(ううん。浩太くん、ゲーム・オーバーなのよ)

井川先輩の優しい顔が浮かぶ。うるせえ。まだ、終わってねえ。視線が涙で歪んできたことを、俺は認めたくなかった。

あれだ。

あゆみ先輩の家。この前は暗かったからよく見えなかったけど、犬が吠えている。同じ、鳴き声。間違いない。俺は少し離れた場所から、家の様子を伺った。


すると、突然クラクションが鳴った。道の中央にいた俺が驚いて道を譲る。黒いタクシー。猛スピードで俺を追い抜いた。乗っている誰かが俺を見て驚いている。

信じられない。あゆみ先輩が、乗っていた。


(第25話)

俺はあゆみ先輩の家まであと 50 メートルくらいの処にいた。俺を追い抜いたタクシーが、あゆみ先輩の家の前で停まる。降りてきたのは、やはり、あゆみ先輩だった。

「浩太くん!・・・・ごめん」

あゆみ先輩はそれだけを大声で言うと、家の中に慌てて駆け込んだ。


眼の前の出来事に、俺は息が止まりそうだった。

信じられないのと、恥ずかしいのと、とにかく説明がつかない。どうしよう・・・これから。やっぱ、帰るしかないか。

迷っている俺の耳に、悲鳴が聞こえた。

「おばあちゃん~!おばあちゃん! あああ~!」

あ、あゆみ先輩が、あゆみ先輩が泣いている。

ということは、まさか・・・・

全てを悟った。

自転車を持つ手が震えて、持てない。自転車が横倒しになった。

どうすることも出来ない、身体に力が入らない。

「うわあ~!!!」

声にならない声で、俺は絶叫した。気が狂いそうだった。


あゆみ先輩の泣き声は、おそらく30 分以上は続いた。


この前、自分はおばあちゃんっ子で、可愛がってもらったことを嬉しそうに話してくれたっけ。だから、おばあちゃんには、何としても高校 3 年間の集大成である定演に聞きに来て欲しいんだと言っていた。もしもの時のために、会場の脇に救急車を待機させておけないか、真剣に悩んでいたほどだった。

その場にへたり込んだ俺は、無我夢中 で、道端に咲いていたタンポポやら何 やらを、泣きながらむしり取っていた。涙がとめどなく、流れた。とぼとぼと、あゆみ先輩の家の玄関に立つ。


(第26話)

中から、あゆみ先輩のお母さんがゆっくり出てきた。泣きはらした目をしていた。

「・・・?確か、この前の後輩くん?」

「・・・・・」


「後輩くん、・・・お名前、聞いてなかったわね」

「あっ佐野、佐野浩太です」

「ああ、あなたが浩太くん。サッカー、やってたって?」

「・・・・」

「お察しのように、こういう状況なの。だから、今日はお引き取りいただける?」

「・・・・」

俺は何も言えなかった。手に持っていたタンポポが、震えていた。

「・・・すみません、失礼します」

「・・・・あゆみも私も、落ち着いたら、ちゃんと一度、招待するから」

「・・・いいえ、結構です、気にしないでください。じゃ、さようなら」

俺は一刻も早く、お母さんの、あゆみ先輩の前から逃げ出したかった。

自転車を荒々しくさばき、帰り道へと一目散に走り出した。基本は下り、どんどんスピードが出る。振り返ることは、一切、なかった。

(俺は、バカだ)

さっき手に着いた土が、汗と混じり泥になる。

このまま、消えてしまいたかった。

むろん、その日俺は部活を無断欠席した。電源を切っていたスマホには、樋口、森山、井川先輩からの着信とメールがあった。事情を知っている井川先輩からは、

「今は、とにかく、あゆをそっとしておいて。浩太くん、今あなたには練習するしか、ないのよ」

と短いメール。痛かった。


(第27話)

夜、8 時頃。ベッドに寝転んでいると、なんと信山先輩から電話。慌てて、出る俺。

「浩太。・・・お前、今日はどうしたんだ」

「・・・体調、悪くて早退しました」

「そうか。欠席連絡くらい、入れてから帰れ。で、今はどうなんだ?明日は来れるのか?」

「・・・わかんないすけど、たぶん、行けると思います」

「わかった。ま、ムリしてまで来いとは言わんが。次からサード・ポジションの練習を始めるつもりだから、そのつもりで。じゃあな」

電話は、乱暴に切られた。

信山先輩には、当然だけど、あゆみ先輩のおばあちゃんの件は伝わっているだろう。どう、思っているのだろう?お悔みに、行くのかな。真剣に付き合っているということだけど、おばあちゃんに、会ったこと、あるのかな。

俺はどうでもいいことを、あれこれ、考えていた。Youtube で、パッヘルベルのカノンを再生しようとしたとき、LINE が届いた。

げっ

俺は、目を疑った。あゆみ先輩だ。

恐る恐る、文面を見る。


★あゆみ先輩★「浩太くん。今日は、どうして、あそこにいたのかな?」 考える風の、かわいいスタンプが俺を見る。

返事は、打てない。リアクションに合う、スタンプもない。

でも、スルーは絶対にいけない。どうしよう、どうしよう。

俺は必死に考えた。どうしよう、どうしよう。

すぐに、次のメッセージが。

★あゆみ先輩★「なに?またスルーなの?」

どうしよう、どうしよう、どうしょう。とりあえず、返信しなきゃ。


(第28話)

◆俺「いいえ、スルーしないっす」すぐに、『既読』。

ゴクリと、唾を呑みこむ。

ドキドキしながら、返信を待つ。1 分、3 分、5 分、10 分。・・・・・

届いたのは、17 分後、だった。

★あゆみ先輩★「今日、部活ズル休みしたでしょ」

ほっ、良かった。これは返答に困らない。

◆「はい、すみません」


★あゆみ先輩★「未来のコンサートマスターが練習さぼっていいわけ、ないでしょ!反省、しなさい(怒 スタンプ)」

えっ?

未来のコンサートマスター?俺が?

◆俺「?どういう、ことですか?」分かんない、って顔のスタンプ。

★あゆみ先輩★「決まっているじゃない。信山君の、次の、次のコンマスは、浩太くん、君なのよ」

◆俺「・・・・俺は、そんなガラじゃ、ないっす。中川さんのほうが、上手いですよ」

中川さんは、ピアノを 5 歳からやっていて、音感は素晴らしくスキルの覚えも早い。

★あゆみ先輩★「バカねえ。信山君が、浩太くんに特別メニューで教えているって、知らないわけ?」

俺は、はっとした。

さっき、「サード・ポジションの練習」って、信山先輩は言ってた。

すぐに、次が来た。

★あゆみ先輩★「とにかく、やっとスケール(音階)が出来るようになった 1 年生は、私たちより何倍も練習しなきゃ、ならないこと、分かるよね?(プンプン 怒)」

ごもっとも、です。

反省スタンプ、送信。

次のあゆみ先輩からのメッセージに、俺は思わず「えっ」と言葉を発した。


(第29話)

★あゆみ先輩★「お葬式、今度の土曜日になりそうなの。で、次の日曜日、うちに来てくれないかな」


俺は、困った。正直、何をどういえば・・・・おっと、スルーだけは、避けよう。

◆俺「いや、お忙しいと思うし、遠慮します」

★あゆみ先輩★「日曜日は、ほとんど、もう何もないのよ。だから、大丈夫」

うーむ。

★あゆみ先輩★「家で、じゃなくて、近くの小学校のグランドで話そう」

小学校、なんて、あったかな。あっ、この前、チャイムが遠くから聞こえてきたような記憶が。

とにかく、返事。

◆俺「いいんすか?」

★あゆみ先輩「だから、わたしがお願いしているの。遠いとこ、悪いけど。」

“お願い”スタンプ。なんと、石原さとみ、だ。

ぐっ、これには弱い。

★あゆみ先輩「もう 3 度目だから、道には迷わないわよね。土地勘も、あるよね」

断れない。

いや、これはチャンスを貰ったのか??

◆俺「分かりました、何時に行けばいいですか?」

★あゆみ先輩★「そうね、3 時でどう? 家で迎えるといろいろ面倒だから、ちょっと前の郵便局から、メールちょうだい」

ああ、郵便局。あったあった。

◆俺「分かりました。じゃ、日曜日に」

★あゆみ先輩★「ありがとう、じゃあね。おやすみ」

リラックマ、が寝ているスタンプ。

あまりの急展開に、俺はますます目が冴えてきた。


(第30話)

俺は何度も、あゆみ先輩のメッセージと、いちいちつけてくれたスタンプを見つめていた。

その中のひとつ、石原さとみ、に目がどうしても行ってしまう。

(あゆみ先輩、自分が石原さとみに似ているって、自覚しているのかな)

ま、そんなことはどうでもいい。

とにかく、次の日曜日に、久しぶりにあゆみ先輩に会って話せる。

俺が、いちばん、会いたい女性。いちばん、話したい女性。一緒にいたい女性。

それは石原さとみではなく、あゆみ先輩だ。

つい2 時間ほど前はもうこの世の終わりかと思っていたのに、俺はなんと、おめでたい奴なのだろう。あゆみ先輩のおばあちゃんが、亡くなったのはほんの数時間前なのに。

そんな自己嫌悪の感情すら、薄れていきそうだった。


翌日、俺は練習に出た。 信山先輩が、待っていた。

「浩太。もう、いいのか?」

「あ、はい。大丈夫っす」

「OK。じゃ、話していたように、今日からサード・ポジションをやる」

ヴァイオリン初心者にとって「サード・ポジション」とは、まず乗り越えるべき第一関門。楽器を構えてそのままの左手の位置が「ファースト・ポジション」。これは、比較的、すぐに覚えられる。指と指の感覚をつかむ必要はあるけれど、まずは繰り返し練習すればいい。

しかし、この「サード・ポジション」が厄介なのだ。


ちょっと、ヴァイオリンの構造の話。開放弦、つまり何も指を押さえない状 態で、いちばん低い弦は G 音。いわゆる、ゲー(ドイツ語読み)音。その一番低い弦の 1 本だけで、バッハの「ア リア」を弾く、ヴァイオリン独奏のために編曲された曲が「G 線上のアリア」。これを、「ジー線」と読むのは間違いで、「ゲー線」と読むのが正解。とはいえ、ゲームセンターでは、ありません。


(第31話)

とにかく、そんな曲を弾くためには、弦の上で押さえる指を、手前にどんどん動かしていかなければならず、その第一段階がサード・ポジション。このテクをマスターすれば、音域が高い音も弾けるようになるし、音色も違った音を出すこともできる。奏でる音楽の幅が、ぐんと広がるのだ。

ファースト・ポジションで 3 の指、つまり薬指を置いていた場所に、1 の指、すなわち人差し指をずらす。それがサード・ポジション。

理屈は、いい。あとは、そのとおりに腕全体がいつも同じ距離で手前に移動できるか?これが大変。信山先輩の指導も、厳しさを増す。マジ体育会系。もう 1 回、が繰り返される。この練習に、と、信山先輩は練習曲を渡してくれた。バッハの、ブランデンブルグ協奏曲第 3 番。練習していた、G-dur, ト長調。楽譜、真っ黒。なんつうか、難しすぎて、細かすぎて、目が眩んだ。

バッハ直筆の楽譜を見たことがあるけど、実に美しかった。見た目のとおり音楽も理路整然としていて美しい。俺は、バッハの虜になった。なんとか、小節一つ一つ、音符一つ一つを手探りで進んでいった。

バッハの曲に夢中になった俺は、それでも、次の日曜日が気になっていた。


3 時に、あゆみ先輩の家の近くまで行ける。今度こそ、きちんと気持ちを伝える覚悟を固めていた。サッカーに例えるなら、負け試合の後に、相手チームのお情けで、PK 戦に応じてもらったようなものか。正々堂々、相手チームならぬ、あゆみ先輩のハートに、俺のシュートを決めるのだ。キーパーが一歩も動けない強烈なシュートを。フリーな状態で、ゴールマウスを外したら笑いものだ。


(第32話)

日曜日の朝から、俺は落ち着かなかった。あまり多くない服をあれこれ引っ張り出し、あーでもない、こーでもないと、コーディネートに迷っていた。姉貴が何かを察したらしく、バイトで貰ったお金の中から、5,000 円をくれた。ラッキー!持つべきものは、良き姉なり!俺はお金を握りしめ、1 駅先のユニクロに向かった。既に裾上げが終わっている薄いベージュのチノパンと、春色のニットベストを買った。よし、イケてる。


片道 90 分と見ていたが、俺は 1 時には家を出た。フライング上等、フライングゲット。先んずる者、人を制する。あれ?違うか?

天気は、最高だった。

(あわよくば、キスまで…いやいや)

何度目か、もう数え切れない妄想を吹き飛ばそうと、自転車のペダルに力をこめた。


2 時 20 分には、言われていた郵便局の前に着いていた。さすがに、まだ早い。移動する予定の小学校を探すことにした。おそらく、あゆみ先輩が通ったであろう小学校。この道を、通学路として毎日歩いたのだろうか。

小学校はすぐに見つかった。

ブランコを見つけ、乗ってみる。何年 振りか、ブランコに乗ったのは?いさ さか俺の身長がデカすぎて、上の支柱 にぶつかりそうになる。それでも俺は、ぐんぐんとブランコを漕いだ。

「浩太くん」

いきなり背後から、声が聞こえた。俺は慌てて振り向いたが、それでバランスが崩れ、危うくブランコから振り落とされそうになった。

「バカねえ、危ないじゃない」

「あ、あゆみ先輩がいきなり声かけるから」焦りながらも、あゆみ先輩が早めに来てくれたことが嬉しくてたまらなかった。そんな俺の気持ちを見透かすように、隣のブランコにあゆみ先輩が座った。


(第33話)

「ありがとうね、こんな遠くまで」

「いや、別にいいっす。俺、ヒマですから」


あゆみ先輩も、ゆっくりブランコを漕ぎ出した。髪が、なびく。ポニーテールが揺れる。初めて見る、あゆみ先輩の私服姿。ご不幸が終わったばかりだからか、落ち着いた黒のニットに、グレーのチェックが素敵なロングスカート。身体のラインがくっきりと出ているニットをなるべく見まいと、俺もブランコを漕ぐ。

「美紀が、おせっかい焼いちゃってさ」美紀、とは井川先輩の名前。

「まあ、聞かないでおくわ。」

あゆみ先輩のブランコに勢いがなくなった。俺もつられて、漕ぐのを止める。

「・・・・浩太くん。私の事、他の先輩と同じように、名字で呼んでくれるかな。今日から」

えっ?

俺は動けなかった。

「だから、川合先輩、になるわけ。あゆみ先輩、じゃなくなる。・・・いいよね?」

「・・・・・」

(・・・良くない)

「今日は、それをお願いしようと思って」

(イヤです)

俺は無言でブランコを降り、グランドの反対側へと歩き始めた。わざと、ゆっくり、歩いた。あゆみ先輩が、追いかけてきてくれるように。

本当に好きなら、愛しているなら、その人の幸せを願い、その人の望みをかなえてあげるべきだ。理屈では、分かる。理屈では。

でも俺は、その理屈に歯向かっていた。今更、川合先輩なんて言えるか。信山 先輩みたいに、名前で呼びたい。


(第34話)

ゆっくり歩いている俺を、あゆみ先輩は追いかけてこなかった。まだ、ブランコに座って、ゆらゆら揺れている。くそっこれが答えか。

俺は意を決し、またブランコへと戻った。あゆみ先輩は、これまでに見たことのないような悲しそうな顔をしていた。

「の、・・・信山先輩は、あゆみ先輩を幸せにしてくれるんですか?」

返答は、ない。

「俺は、俺は・・・あゆみ先輩が好きです!最初に会ったコンサートで司会している時から、今日の今日まで、あゆみ先輩が大好きです!」

あゆみ先輩の目から、涙がこぼれた。そして、ゆっくり、首を振る。縦にではなく、横に。

「・・・正直言って、浩太くんから、その言葉は聞きたくなかったな」

沈黙。

「・・・本当に、弟が出来たみたいでさ」

沈黙。

いや、俺は弟じゃない。異性として、あゆみ先輩を見たいんだ。見てきたんだ。

「信山先輩のことが、やっぱ、好きなんですか?」

声が上ずる。ダメ押しのシュートを、敵のゴールにではなく、オウン・ゴールするような俺。

もう一人の俺が言う。

(浩太、撤退しろ。勇気ある、撤退を)

「手紙、書いてきたわ。後から、読んでね」

俺に手渡すと、あゆみ先輩は小学校のグランドを出ていく。ゆっくりと、出ていく。

ロングスカートが、ひらりと舞った。


(第35話)

これで、本当に終わりだ。

俺は受け取った手紙をみた。

封筒には、「佐野浩太様」と書いてある。なんと他人行儀な。でもその書き方か ら、逆にあゆみ先輩の想いが伝わって くる。

あゆみ先輩が、だんだん小さくなっていく。俺は思い出したように自転車に乗り、猛然と追いかけた。そして急ブレーキをかけ、あゆみ先輩のところで停まった。

やっぱり、あゆみ先輩は優しかった。ゆるやかな笑顔で俺を見つめている。そこには、「異性」の顔ではない、「姉」としての顔を俺に見せようとする決意があった。涙は、もう渇いていた。

俺は、心にもないことを言った。

「今まで、夢見せてもらいました。ありがとうございました。これからも、よろしくお願いします。川合先輩」。

あゆみ先輩、いや川合先輩がこっくりと頷いた。あくまで、姉の顔で。不思議なことに、もはや石原さとみには少しも似ていない。

俺はママチャリにまたがり、これ以上は出ないくらいのスピードで漕ぎ出した。俺の家までは、長い下り坂だ。車道に思い切りはみ出す。時々、車からクラクションを鳴らされたけど、車のスピードに負けないくらい、俺はペダルを漕いだ。

一級河川にかかる橋の上。俺は自転車を止めた。

意を決して、川合先輩の手紙を読む。


(第36話)

「佐野浩太様

気持ちをうまく伝えられないといけないので、手紙にしました。

今まで、いろいろありがとう。特に、この前は人力タクシー、本当に楽しかったし、助かったよ。

あなたが音楽部に入ってくれて、一緒に音楽が出来ること、本当に良かったと思っています。

よく考えた結果だけど、やはり私とあなたは、先輩と後輩との間柄がいいのだと思う。

・・・誤解されやすいけど、彼はいい人よ。あなたには、分からないかもしれないけれど、私だって彼を 2 年も見ているの。

あなたの気持ちは、とてもよく分かる。けれどもこれだけは、不動のものなの。これしか言えない、ゴメンナサイ。

正直言ってあなたから、そんな言葉を聞きたくなかった。本当に弟が、出来たみたいで。

あなたの想いは、私には重荷でしかない。

キツイかもしれないけれど、本当なんです。

彼はそばにいるだけで、安らぎをくれるんです。

ヴァイオリン、頑張ってね。あなたは、未来のコンサートマスターになる人だから。

無理かもしれないけれど、元気を出してね。

今度、また会う時には、いつもあなたでいてください。

川合あゆみ」


俺はちょっと考えたけど、その手紙を、橋の上から投げ捨てた。ひらひらと、舞いながら手紙が落ちていく。水面に 届く前に、どっかの木の枝にぶつかって見えなくなった。

「うわあ~っ!」

通りかかる車のドライバーが、驚いて俺を見た。そんな事は気にも留めず、流れる涙を拭くこともなく、俺は橋の上に佇んでいた。

(第 3 楽章 終わり)

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