恋する被写体

佐渡 寛臣

恋する被写体

 ――それは夢に見たような景色だった。



 薄っすらと広がる浅い層を作った雲で白んだ空。曇った太陽の日はぼやけた輪郭を作って淡い光を私へと届ける。

 心は暗いトンネルの中にあるようで、私はその正午過ぎの街並みをたくさんの人の波をかき分けながら、独りぼっちで歩いていた。


 連絡先をすべて消したテキストチャットアプリは、もう不要だと電車を降りたときには削除をしてどうにも空虚な心持ちを、私はSNSに投稿する。誰とも交流していないSNSでも、私は一人で言葉にならない文字を吐く。


 すれ違う人々は白い息を吐き溢し、どこかへ向かって歩いていく。取引先へ向かう人、会社へと戻る人。私は何の目的もなく、そんな人たちの流れに身を任せてただ歩く。


 歩き疲れては立ち止まり、変わらぬ白い空を見上げて、それは私の心のようだと思う。薄くもやのかかったような空の向こうにあるのは本当に青い空なのだろうか。

 星も輝かない暗い空があるような気がして、私は視線を地面へと向けてただ歩く。

 冷たい風が頬を撫で、身体の芯にある心を冷やしてしまいそうで、私はマフラーをきゅっと縛って身体を縮める。

 鼻にふんわりと甘い匂いが漂ってきて、私は思わず顔をあげた。香ばしい焼き芋の香り。屋台なんて珍しい、私は思わず足を止めて乏しい財布を開いて、店の店主から一つ、芋を買った。


 熱いお芋を入れた紙袋を持って、私はスマートフォンで地図を開いて、近くの公園を探した。少し歩くが大きな緑地公園がある。この街に引っ越してきてからいつかは行ってみたいと思いながら、ついぞ今まで行くことのなかった場所だ。

 私は疲れた身体を引っ張るように、ゆっくりと足を進めた。


 公園へたどり着き、枯れ葉が敷き積もる街路樹の傍を歩いて公園の中央の湖が見えるベンチに腰を掛けた。

 袋を開けるとふんわりと、お芋の匂いが漂う。


 私はその日、初めて微笑み、まだ熱いお芋を持ち上げて二つに割って口にした。


「――おいしい」


 湖に鴨の親子がぷかぷかと浮いている。私は親についていく子鴨を眺めながらほくほくのお芋をゆっくりと齧る。平日の昼間だからか、あまり人の姿はない。湖の柵に手をのせて、立派な一眼カメラを構える青年と、芝生で遊ぶ母子がいるくらいで私はその穏やかな光景に何とか溶け込もうとぼんやりと湖を眺めていた。


 次はどうしようか。半分まで食べたお芋を袋にしまう。私を連れてくれる人波から外れ、行く先すら見えなくなった私はこの白いベンチに縫い付けられてしまったように動けなくなっていた。


 ――誰かに連れ出してもらいたい。


 私には主体性というものが欠けている。いつも友人の輪の中で愛想笑いを浮かべて意味を持たない返事を返す。そうして必要ではないが不要でもない人の立場を確保して、毎日を過ごしていた。

 自分の考えを口にすることはない。そんなものを持たないことがひとつ、自分の身を守る手段でもあったからだ。


 足元に一羽の雀が飛んでくる。私の溢した芋の食べかすをちょちょいとつつく。小首を傾げるような仕草は愛らしく、私はそれを微笑んで見つめた。


 小鳥が羽ばたいたのは、私の隣に男が座ったからだ。一眼カメラを手にした男が、その長い足を組んで、太ももに乗せたカメラを操作し、小さな画面を見つめている。


 私はその男を見ないようにそっぽを向いて、もう遠くに行ってしまった鴨の親子を見た。対岸の老人と孫が餌を投げていた。


 パシャ、とシャッター音が響いて私は驚いて振り返る。男は私と同じ視線の先の鴨たちへとカメラを向けていた。


「あ、すいません」


 高い、男の声。黒髪のぼさぼさの髪を掻きながら男は言った。視線はこちらを向かずに少し逸らし、その表情は乏しく思えた。


「いえ……」


 同じく乏しい表情で、私は男から視線を逸らし、鴨を見る。子どもが一生懸命に餌を投げ、子鴨もまた一生懸命にそれを食べる姿があった。


「――ああいうの、いいですよね」


 男が話しかけてきて、私は少し困惑しつつも頷く。男は鞄から水筒を取り出して蓋を開ける。コーヒーの匂いが漂う。


「ああいう、家族って感じのこと?」

「そうですね。家族って感じ。よくないですか? ああいうの」


 男はそう言って、餌を上げる老人と孫の姿に目を細める。私もその視線を追うようにその家族の姿を眺める。




 いつもイライラしている祖母の姿が脳裏に過る。発語の遅かった私をなじる周囲の人々、そのストレスに耐えられなかった母。関わりの薄い父。

 それを今はもうなかったかのように接する家族と、今の私。


 羨ましいな、と思う私は複雑な気持ちだった。


 横目に見ると男は穏やかな目をしていた。そういう環境を受け入れられるだけの心をしているのだろうと私は思った。


「写真、好きなんだ」

「――えぇ、そうですね。風景とか動物とか撮るのが好きです」


 私はふぅん、と相槌してカメラを傾けて画面を見せる男のカメラを覗き込んだ。そこには野良猫のくつろぐ写真や、山から見上げる星空の写真などがあった。


「いろんな写真を撮るんだね。いい趣味してるわ」


 無趣味な私は当たり障りなくそう言う。当たりなく、障りなく言ったつもりの言葉に男はにっこりと微笑んだ。


「ありがとうございます」


 乏しかったはずの表情が、嬉しそうに、はにかんだのだ。私はその表情に目を奪われ、胸の内をトンと叩かれたような心臓の鼓動を感じた。

 年齢のわからぬ気配をしたその男は途端に少年のように思えた。長い手足、ぼさぼさの髪から覗く穏やかな瞳。その瞳がきらきらと輝いて見えるくらい、男は照れた笑いを零し、私が見つめていることに気付いて、慌てて視線をカメラへと落とした。


「カメラ、撮ってみます? 試しに」


 男はそう言って私にカメラを手渡した。差し出されたカメラを私は慎重に受け取って、意外と重たいそれを両手でしっかり持って画面を覗き込んだ。

 画面には大きく拡大された私の太ももが映し出される。カメラを動かすと素早く景色が動き回り、ぼやけた湖の景色に変わる。

 それは私の心のようにぼやけた景色であった。


「シャッターを軽く押し込んだら、綺麗になりますよ」


 男に言われるまま、私は軽くシャッターを押し込む、ぴぴ、という電子音とレンズが動く音が聞こえて、ぼやけていた湖が綺麗な姿を取り戻す。


「そのまま押し込めば、シャッターを切れます」

「うん」


 頷いて、私は強くシャッターを切る。パシャリと良い音が響いて、画面の景色がカメラの中へと切り取られた。

 私はその切り取られた景色に目を落とす。今までだって写真は撮ったことがあったというのに、私はそれがとても特別なことのように思えた。


「じょうず上手。――何か撮りたいものはありますか?」


 男に言われて、私は真っ先に、この目の前の男の姿が頭に浮かんだ。私に視線を合わせないその男は答えられない私の反応を待ちながらきょろきょろと視線を動かす。


 ――あなた、と言えない私はじっと男を見つめる。困った様子の男に私は無言でカメラを向けた。


「僕?」


 男は驚いたようにそう聞き返す。私は小さく頷いて、ベンチから立ち上がり、湖の方へと歩いて、カメラを構えた。短くシャッターを押してぴぴ、という音がする。

 カメラの中の男は困った様子で、カメラを向ける私を見つめていた。目を合わせられないのに、カメラを通すと見つめあえるのが何だか可笑しくて、私はくすくすと笑いながらシャッターを切った。


 私はベンチに戻ってカメラを彼に返した。彼は写真をすぐに確かめてくすりと笑う。


「――上手に取れてるけど、被写体が悪いね。なんだかだらしないポーズだ」

「そうね。撮られるのは慣れてない?」


 そう言って二人して笑う。控えめな声が響くたびに、私の心は少し軽くなるような気がした。


「そりゃあもう。撮るのが専門だからね。それじゃあお返しだ。今度は君がそこに立って」


 男はそう言ってベンチから立ち上がり、カメラを構えた。私はやだ、と言いながらも男の言われた通り湖の傍に立つ。


「――ポーズをとって。視線はあの木の方。うん、もう少し上を見て」


 男に指示されるままにポーズを撮る。胸の高鳴りを感じながら私は空を見上げた。


「あ……」


 ぱしゃりとシャッターが切られる。切り取られた私の景色。私はそのまま空を見つめ、笑う。


 晴れた雲。白んだ空は青くなり、群青色のグラデーションに千切れた細かい雲が白の絵の具を落としたように広げられていた。


 白んだ空の向こうは夜空ではなかった。そこには確かに私を包む、静かで青い優しい空が広がっていた。


 ――それは夢に見たような景色だった。


 振り返ると男が微笑む。カメラを胸元で抱いて、ゆっくりと私の傍に立つ。カメラを覗き込むと、空を見上げてほほ笑む私の姿。湖には鴨の親子が仲良さそうにゆったりと泳いでいる姿があった。


「ありがとう」

「被写体が良かったね。とても綺麗だ」


 彼がそう囁くような声で言った。綺麗という言葉に私は思わず顔を上げると、不意に視線の合った私たちはお互いに顔を真っ赤にして俯いた。

 照れ隠しに、私は残したお芋の半分をさらに半分に分けて二人で食べた。もうすっかり冷めてしまったけれど、どこから来たのか甘い香りとその味に二人で美味しいねと言い合った。


 私はそっと視線を上げる。彼はまだ照れくさそうに視線を逸らし、見つめる私に気付かない。彼の長い髪の向こうで泳ぐ穏やかな瞳は、明るい茶色をしていてとても綺麗だと思った。




 流れるまま、ただ呼吸をしているだけの人生だった。

 白んだ薄雲のように心にかかった靄を無視して、ただそれに気づかぬふりをして、静かに生きるだけ。

 不意に孤独を感じて逃げ出した。申し訳なさそうにされることを嫌って接触を避けた家族。

 言いたいことをいうこともできない友達関係。

 発作的にすべてを断ち切って、逃げ込んだ電車。


 それではいけないと、気付いていた私はその悲鳴をあげることもできず、どうしていいかわからずに、ただ彷徨っていたのだ。


 ――連れ出して、と願っていた私にSNSのダイレクトメッセージが入る。ベッドの中、私はそのメッセージに添えられた写真を見つめてほほ笑む。


 晴れ渡る青空を映した水面に、仲良く泳ぐ親子の鴨。

 自分の足でしっかり立った私が遠くを見つめ、嬉しそうに目を細めていた。


 ありがとうの言葉を乗せて、私の指は意味ある文字を書き記す。


 私が私を連れ出すよ。雲のかかった白い空の向こうが青いと知ったから。

 臆病な私を引き連れて、どこまでいけるか試してみよう。

 カメラを持って、自分の好きを切り取りに。


 会いたいと、気持ちを込めて言葉を描き、私は送信ボタンをタップした。

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恋する被写体 佐渡 寛臣 @wanco168

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