危ない芳香剤

吉永凌希

全1話

 奪い取った芳香剤の小容器を、左手の指先で弄びながらサトルは教室を出ていった。その後ろ姿を眺めつつ、僕は軽く唇をかんだ。

(うかつだったな)

 体育の授業で汗をかいたので、せっかくだから使ってみようと、こっそり取り出したつもりだったんだけど……。

「とても危ない副作用があるらしいんだぞ」と忠告したけど、そんなもの、自他ともに認める学校一の問題児であるサトルの耳には念仏にもなりゃしない。

 ただ、僕だっていじめられっ子というわけじゃない。自分で言うのも何だけど、学業は優秀といえる成績で、運動神経もそこそこ良好だと思う。クラスはもちろん学年でも一目置かれる存在の端くれにはつけているので、もっと頑強に抵抗していれば「もう、うるせえや。ほらよ」とか言って、サトルは返してくれたかもしれない。

 あえてそうしなかったのは、今にして思えば、憎らしい鼻つまみ者の身に何かのトラブルが降りかかることを期待する、性悪な下心があったのだろう。「使い方を間違えると大変なことになる」と、あの男はくり返し警告していたのだから。


 昨夜のことだった。

 塾のテストの点数が思いのほか悪くて、かなりヘコんでいた僕は、まっすぐ家に帰る気になれず、公園のベンチに座って時間を潰していた。親に対する言い訳をあれこれ考えているうち、ふと気がつくと目の前に人が立っていること気づいたんだ。

 それは身なりのいい中年紳士だった。

「中学生が夜こんなところで何をしているのか」とか「塾の帰りで休んでいるんだ」とかいう会話を交わしたように覚えている。

 男の喋り方に妙なたどたどしさを感じたけど、彼の物腰はいたって穏やかだったので、僕は少し安心して「テストの点が悪かったから、どうしようか悩んでいるんだ」なんてことも言ったっけな。

 すると男は、手に下げた小さなバックの中からメガネケース大の箱を取り出して、僕の方に差し出した。

「これを君に差し上げよう。きっと役に立つはずだ」

 と言う。

 危険な人ではないようだけど、未知の他人から得体のしれないものをもらうのはイヤな感じがしたので、僕は丁重に断った。

 でも男は意に介さず、こんな説明を続けた。

 箱の中に入っているのは芳香剤だ。でも、そこらの店で売っているようなありふれたものではなく、ごく少量でも香りを嗅いだ人間の気持ちを急激かつ劇的に変化させる効果を持つ。具体的には、落ち込んでいる者が使うと激しくテンションが上がり、気分が高揚している者が使うとその逆になるのだ。

「そして、これが重要なのだが……」と、そこで男は急に表情をひきしめて、厳しい口調で言った。「人間以外の生物に対しては、きわめて強い殺傷能力をもつ毒薬として作用するのだ」

 思わずひいてしまった。そんな物騒なものは欲しくない。

 僕は重ねて受け取りを拒否したが、男は強引にその箱を僕の手に握らせて、そそくさと立ち去ってしまった。

「くれぐれも間違った使い方をしないように」

 と、何度もクギを刺しながら……。

(だから、こんなもの要らないんだって)

 公園のゴミ箱にでも捨ててしまおうかと思ったけど、まだあの男が監視しているような気がして何となく捨てそびれ、家まで持ち帰ってしまった。

 遅かっただの何だのと、うるさくまとわりつく母親を適当にいなして自分の部屋に入り、箱を開くと、出てきたのは手のひらに収まる大きさのプッシュ式の容器。表面に短い説明書きのようなものが刻まれているが、見たこともない文字か記号の羅列だ。

 使うべきかどうか迷ったあげく、思い切って容器を握り直し、空中に向けてごく控えめにプッシュしてみた。

 たちまちやわらかなハーブの香りが周囲を包む。

 するとどうだろう。今まで心の容積の大半を占めていた将来への不安や苛立ち、その他の嫌な気持ちが、まるで霧が晴れていくようにたちまち消えていくではないか。すごい効果だ。

 ネガティブな感情と入れ替わるように、次第に高まってくるテンションを感じながら、僕は思った。

(あの男の言葉は、本当だったんだ)


 ところが、その芳香剤はたった今、サトルに奪われてしまった。

 プラスの効果は実証済だけど、問題は副作用。殺傷能力とやらがどれほどのものなのかは、さっぱりわからないのだ。サトルのやつが僕の忠告を真剣に受け止めているはずはないから気がかりではあるが……こうなったら成り行きに任せるしかない。


 そして翌日。

 サトルは学校に来なかった。

 次の日も欠席。

 さすがに心配になり始めた三日目の朝、登校して来たサトルの顔を見て、僕は目を疑った。

 サトルは別人のように憔悴していた。毛穴だらけの頬はこけ、うつろな眼は濁り、全身からは普段の威圧感が完全に抜け落ちてしまっている。

 クラスメートも騒然とする中、僕を見つけたサトルは恨みがましい顔で、

「おい、これ、いったい何なんだよ」

 と、例の容器を僕に突きつけながら力ない口調でなじった。

 サトルが語ったところによると──

 彼は自宅で無謀にも芳香剤を一気に使い切ったらしい。

 むせ返るほどのハーブの香りがたちまち部屋に充満したであろうことは聞くまでもないが、その後は僕の場合と逆のことが起こった。

 サトルの全身にみなぎっていた無用な覇気があっという間に抜けてゆき、代わりに不安や悲観がどっと襲ってきたというのだ。

 それだけではない。

 ベランダの飼い犬──クラスメートたちによると近所で評判の悪い猛犬だったらしい──が泡を吹いて倒れ、隣家との境にある塀の上を歩いていた野良猫が地面に落ち、しまいには家の隅々に潜んでいたゴキブリや床下のムカデやナメクジまでぞろぞろ這い出してきて、次々にコロリとひっくり返った。今や家中の床は、数百数千の得体の知れない虫の死骸で埋め尽くされているという。

 いや、何とも悲惨な目に遭っているようだけど、正直なところ、まったく同情する気になれなかった。コーヘイをはじめとするサトルの取り巻き連中も、さすがに「自業自得だろ」といった諦め顔である。

(それにしても……)

 と、僕は考えるのだった。

 サトルに芳香剤を強奪されなかったら、どうなっていたか。

 僕は必要に応じてそれを使い続けていることだろう。もちろん動物や昆虫などを殺傷しないように注意しながら、ではあるけれど。

 でも、ここが肝心な点なんだけど、殺傷能力以外にもっと深刻な隠された副作用がないとは言い切れないのだ。例えば、使い続けることによって麻薬のように虜になってしまうとか、その結果、頭の作用に変調をきたしてしまうとか……。

 そもそも、あの中年紳士はいったい何者だったのだろう。

 喋り方のたどたどしさといい、容器に刻まれた意味不明な記号といい、突飛な思いつきかもしれないけど、僕には彼が地球人ではないような気がしてならないのだ。

 芳香剤も何らかの──地球人にとっては好ましくない──意図のもとに、僕に与えられたのではないか。

 するとサトルは、自分の身を犠牲にして芳香剤の危険性を実証し、宇宙人(?)の野望を妨害したことになる。

 サトルが地球を救ったヒーロー? 僕たちは彼に大いに感謝するべきなんだろうか。

 突き返された空の容器を手にしたまま、僕は呆然としてサトルのやつれ切った横顔を見つめていた。


 ─了─

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危ない芳香剤 吉永凌希 @gen-yoshinaga

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