からのつま
ドント in カクヨム
【割】
妻がこなごなに割れたのはほとんど事故のようなものであった。わめきなから夫の服の袖をつかんだため夫が「離せよ」と腕を引くと妻は身体の均衡をくずした。廊下に夫の実家から届いた林檎の詰まった箱があったのも災いした。
「あっ」
箱につまずいた妻はよろけて膝から倒れた。すると膝が砕けた。厚手の食器の割れるのとよく似た音がした。勢いをそのままに身体が廊下に倒れ伏した。太股から上、頭の先までががしゃん、と壊れて散った。膝から下は残った。このようにして妻はこなごなに割れた。
この一連の出来事を見た夫はしばし呆然とした。夫は人間が割れた瞬間を見たことはなかったし、また、人間は割れるという知識も持ち合わせていなかった。
父も母も祖父も祖母も割れたことがなかった。友人や知人、赤の他人が割れるのを見たこともなかった。肉体の全体としても部分としてもなかった。TVや映画でも観たことはなかった。猫が壁や床に激突し砕ける様子を観賞した記憶はあった。しかしあれはアニメでありこれは現実であった。
ではこれは夢ではないかと夫は考えた。「二人暮らしのマンションの廊下で妻がこなごなに割れている」、これが現実であるはずがなかろうとそのように考えた。
夫は自分の頬をつねってみた。信じられない出来事との遭遇への対処としては典型的、あるいは類型的な行動であった。痛ければ現実であり痛くなければ夢であろうと想定した。
しかし、頬は痛かった。
なるほどこれは夢ではないのだな。夫は思った。それでは妄想か幻覚であろうかと次に思った。かがんで3cm程度の妻の破片を持ってみた。部位で言うならばこめかみのあたりであろうと思われた。肉体ばかりではなく髪の毛までも割れていた。髪の生え際が指先に触れた。裏返してみるとこれがつるりとしていて陶器の内側そのものであった。ごく軽かった。
夫はこれは幻覚ではないし妄想でもないと判断した。たとえば倒れた拍子に打ち所が悪くて死んだ妻という現実からの精神的遁走状態の可能性を疑っていたもののこの破片の存在感と手触りからしてそのようなそれではないと判断した。
つまるところこれは現実であり現実として妻はこなごなに割れているのであった。大きさとしては大きいものでは10cmほど、小さなものだと2cmほどの破片となって妻は廊下に広がっていた。残っている膝から下が外側だけを残し筒のように空洞であるのと同じくして、妻の膝から上もまるで空洞であるようだった。臓器も血管も骨もないのであった。
これが本当に現実であるのか、と夫は自身に念を押すように考えた。そしてどうやらそのようであった。
夫はこのような状況への対処法を知らなかった。そのためとりあえず右の尻ポケットからスマートフォンを取り出した。救急車を呼ぶべきか警察を呼ぶべきか逡巡したものの、119に電話をかけた。
呼び出し音が1回も鳴らないうちにつながった直後に夫はこれをいかに説明すべきであるか言葉を持っていないことに思い至って一種愕然とした。電話の向こうで「火事ですか救急ですか」女の声がする。その二者択一であるなら選ぶことができた。
「救急です」
夫は言った。
「どうされましたか」
「妻が」
ここでまた夫はまた一度絶句した。妻がこなごなになっているとの現状説明が先方に受け入れられるとは思えなかった。
「妻が、怪我をしまして」
取り繕う口調で告げた。そこから奥様の意識はどうですか、そちらは何処ですか、などと質問され、適宜回答していった。
「では数分で到着しますので落ち着いて、余裕があれば外廊下に出て手を振っていただけると助かります」
先方は言い残して電話は切れた。夫はスマートフォンの画面をぼんやりと見つめた。自分と妻が並んで肩を寄せあった写真であった。1年前、旅行先の伊豆で撮影したものだった。この旅行は楽しかったと夫は感じ入った。
結婚して2年目であった。双方共働きで時を同じくして職場の労働環境が大きく変化したためか、二人ともに少なからず苛々が溜まっていた。苛々の蓄積が我が家たるこの部屋の居心地を悪くしていき居心地の悪さが積み重なり今日の口論と破損と相成ったのだった。
先ほど拾った妻の欠片を元の位置に戻した。夫は考えた。これが妻かと考えた。出会い、付き合い、接吻をし、肌を合わせ、婚約し、結婚し、共に住むようになった妻がこなごなに砕けているのだった。夫は妻の肌を思った。きちんと温かかったはずだった。唇の熱さを思った。あれは人の体温を宿していた。しかし人の体温とは実際どのようなものだったろうと改めて考えるとわからなくなるのだった。
夫の耳に聞き慣れた警告音がかすかに聞こえた。夫は部屋の外に出た。二階であった。白い車体に赤い線が入り赤い光を点滅させた車が近づいてきたので夫は手を振った。救急車は建物の前に停まった。
夫は救急車を迎えたこともなかった。どのような顔で救急隊員を迎えればよいのか知らなかった。その上、伴侶が割れている状況下であった。いかなる表情を浮かべるべきなのか見当もつかなかった。
二人の救急隊員が外階段をかけ上がってやってきた。
「お電話いただいた方ですか」
「そうです」
「奥様は」
「その、こちらにいるんですが、」
こなごなになっていまして。
こう申し添えることができないまま流れに身をまかせるように玄関の戸を開けた。救急隊員は室内へと飛び込んだ。が、「あれえっ」と間の抜けた声を上げた。
「すいません。よろしいですか」
室内から呼びかけられたため夫は及び腰で覗いた。隊員の片方は腰に両手を当てていた。
「こちらが奥様ですか」
年嵩の隊員だった。そのように聞くのだった。
「そうです」
夫は頷いた。
「転んだんですかね」
年嵩の隊員が林檎の段ボールをちらと見やった。年下のまだ若い方が箱に手をやって側面を見て、「岩手」とだけ口に出した。彼のはじめての言葉がそれだった。確かに岩手から来た林檎であり、「岩手特産 はちみつリンゴ」と書いてあった。
「そうです」
夫は繰り返した。
「それで、このようにお割れになられた。それで、救急車を呼ばれた」
隊員は腰に手を当てたまま言うのだった。いかにも面倒そうな調子があった。
「いけませんでしたか」
「まぁ、いけなくはありませんが、ちょっと」
「そうですか」
夫は自分が悪いことをしたような気分になった。妻が割れたことではなく、救急車を呼んでしまったことがひどく恥ずかしく思えてきた。
部屋に虫が出たからと警察を呼んだ者がいると以前TVで観たことがあった。その際には世間には愚かな者がいるなと呆れたものだったが、もしかしたら自分がそうなってしまったのではなかろうか、いやきっとそうなのだとうっすらとわかった。
夫は恥をしのんで尋ねてみることにした。
「あのう、このようなことははじめてだったので、とりあえず、救急車を呼んだのですが」
救急隊員は目を丸くした。年嵩の方はもちろん年下の方も目を丸くして夫を見やった。年下の方は夫よりもずっと若く、まだ肌もつるつるしているような年齢だった。少年の面影を残す青年にそのような目で見られて夫はいよいよ恥ずかしくなった。
「お知り合いが割れたりしたこと、ないんですか」
青年が心底驚いた口調で問うてきた。夫は身を縮ませ、はい、と答えるのが精一杯だった。
年嵩の方が若い方の服をつまんで引いた。耳元で小さく囁いた。「そういう人もいるだろ」との言葉がかすかに聞こえて、夫は自分のおそろしい無知にいよいよ羞恥が極まった。
青年隊員に失礼しましたと謝られ、夫はいいえ、と手を振った。
「あのですねぇ。こういう場合なんですが」
年嵩の隊員がかんでふくめるような口調で話しかけてきた。
「業者に電話していただきたいんですよ」
「業者、ですか」
「業者です。破損専門の」
隊員は紙を出して書きつけた。それを夫の方にさし出した。
「これがこの市指定の、業者さんです」
確かに市外局番はここのものであった。下に「戸山」「川本」と記してある。
「戸山さんと川本さんが、責任者に当たる人ですから」
「はい」
「いつもどちらかは必ずいらっしゃいますので」
「はい」
「電話、できますか」
夫の動揺に配慮した言葉ではなかった。身近で人が割れたこともないのに業者に電話などできるのか、との揶揄の響きがわずかにこもっていた。
「できます」
夫は若干むきになった。これではまるで子供扱いだと感じた。
「できるんですね。では」
年嵩の隊員は動いた。夫の脇をすり抜けて玄関から出た。
「ご自身で業者にご連絡ください。おい」
若い方に来いと顎でしゃくった。もうここにはなんの用事もないのであった。
何事か小声で喋り合いながら外階段を降りていく二人を夫は眺めていた。会話の内容は無知な自分を笑っているか呆れているかのどちらかだろうと夫には思われた。
救急車が音もなく走り去ったあとで夫は業者の電話番号にかけた。たっぷり5回の呼び出し音を待たされた。ようやく向こうの受話器があがった。
「はいもしもし。破損対応、有限会社戸山の、戸山です」
太い声の中年の男だった。
夫はたとえば、市役所や葬儀屋のような形式ばった硬い応答を想像していた。しかしまるで小売業のような一言目だった。我々は単に仕事としてやっている。そのような体温の低さがあった。
「あの、妻が、割れまして」
夫は素直にそう言った。
「割れて。はい。それはそうでしょうが。どれくらいです」
「どれくらい、と、仰ると」
「割れ方。細かくか、大きめにはっかりとか」
「細かく、だと思います」
「お客さん、慣れてない感じですか」
ずばりと言われた。また羞恥心が膨れ上がった。
「はい。実は、はじめてでして」
「はじめて! へぇ! そうですか! はじめてね!」
にわかにくだけた口調が耳に障った。電話の向こうで中年の男がが机に肘をつき、好奇心で前のめりになる姿が見えるようだった。
「はじめてならしょうがないですよ! じゃあ、どうしようかな。お電話だと何ですので、今からすぐ向かいますよ」
「今すぐですか」
「そうですが。まずいですか?」
まずくはなかった。あちらは業者なのだという。だから全部任せた方がよいに決まっていた。
しかし夫の中で名付けようのない違和感がわだかまりはじめていた。それが躊躇させた。だがだからと言って、別の手立てもなかった。
「じゃあ、今すぐ、お願いします」
夫は住所を告げた。
業者は2人で来た。
「どうも。はじめまして。戸山です」
太った中年の男はそう名乗って名刺を出した。後ろにいた少し若いが夫よりは年上の男も名刺を出した。夫は「はじめまして」という言葉にいくばくかの刺を感じた気がした。
夫は名刺を眺めてから彼らの服装を見た。人をひとりどうにかするような儀式的な服装ではなく作業服であった。数ヵ月前に調子の悪くなった水道を見てもらおうと呼んだ配管工を思い出した。指先の黒ずんでいた彼よりは小綺麗だったが人間を扱うというよりは建物の内外を修繕する者のように見えた。
「早速ですが、よろしいですか?」
「ええ、どうぞ」
何を言われるものかと動揺しながら夫は2人を招き入れた。中に入った途端に砕けた妻を認めた戸山が「あー」と呟いた。件の配管工が台所下の配管を見て言った「あー」とまるで同じ調子だった。確認した。それ以上の情報のない感嘆符であった。
「今さっきですか」戸山は尋ねてきた。
「は」
「奥様。割れたの」
「そうです。つい20分ほど前で。最初は119番に掛けまして」
「ははぁ、119番に」
言ってからしまった、と思った。余計なことを告げてしまったと戸山と連れの顔を見て直感した。2人は「ふぅん」という表情をしていた。ふぅん、救急車をね、人が割れたのに、救急車を。そのような表情だった。
「まぁねぇ、はじめてでしたら動揺もしますよね」
戸山は夫をはげましたが、心からのはげましではないことはすぐにわかった。形式的な言葉でしかなかった。
「じゃあ早速ですが、えー、これが」戸山は胸ポケットから紙を出した。「見積もりです」
「見積もり」
夫はおうむ返しに言いながら紙を受け取った。
様々な項目があったが目が滑った。人が砕けて散ったというのにいかにも簡単に見積もり書を出されて困惑したためだった。
それに目を通しているうちに、連れの方がメジャーで妻が割れた面積を測った。ひとつの欠片を持って計測器のようなものに乗せて重さも量った。
電卓を叩いていた連れが戸山にその数字を見せた。ちょっとよろしいですかと戸山が言うので、夫は紙を戻した。向こうは紙に何やら書き付けたあとで、夫に差し戻してきた。
紙の一番下には「総計 56800円」と書き足してあった。
56800円、と夫は思った。それからふと、不安にかられた。
「あのう」また小馬鹿にされるであろうと知りつつ聞かざるを得なかった。
「結果的に、妻が死んでしまったわけですが、警察には、届けなくても」
全て言い終わる前に戸山と連れはアッハッハと笑いはじめた。
「あなた何にも知らんのですねぇ」
ひとしきり笑ってから戸山は目の端を拭きながら言った。
「そんな、警察だなんて、アッハッハッハッハ」
再び笑った。同じく笑いながら連れの方が「戸山さん、失礼ですよ。アッハッハッハ」と注意した。
夫は最初彼らの態度に怒りを覚えたものの、あまりに笑われるので気持ちが落ち込んでくるのであった。
どうやら自分は、人生においてとても重要なことというか、やっておくべきもの、知っていて当然と言う以前の当然なことを、知らずに生きてきたらしいのだった。
いたたまれなくなった夫は、一度居間に引っ込んだ。支払いについて確認しておきたかった。
自室にあった財布を出して持ってきた。当然、6万円弱の現金の持ち合わせはなかった。
笑いすぎてハアハア息を切らせている2人に向かって夫は聞いてみた。
「カード払いはできますか」
「えぇ、できます」
ここで「それで妻は、どうなるんでしょう」と尋ねそうになって、夫はやめた。そんなことを尋ねようものなら、また爆笑されることは目に見えていた。心がひどく傷ついていたので、もう笑われるのも、バカにされるのも、珍しがられるのも避けたかった。
「では、カード払いで」
「はい」
馴れた手つきで取り出されたポータブルの機械で、カードを読ませた。暗証番号を入れて、支払いは簡単に済んだ。
「では処理をしていきますので」
「はい、よろしくお願いします」
夫は何となく、頭を下げた。葬儀屋に「どうか丁寧に送ってやってください」と頼む時のような心持ちだった。
下げた頭の先で、また2人は笑った。
「そんなに堅くならないでくださいよ!」
「我々こういうのは毎日何回とやってますから!」
軍手をした手で、妻は拾われていった。ゴミでも拾うような手つきだった。
まず割れずに残った足が持ち上げられ、半透明のビニール袋に突っ込まれた。ビニール袋には「破損人体」と大きく書かれていた。
それから、破片が拾い上げられていった。頭も胴体も腕も足も、部位の上下の順番もなく、乱雑に袋に突っ込まれていった。
途中、戸山が何かをつまんだ。
「指輪ですが」
結婚指輪だった。
返してもらうべきだと思ったが、口から出たのは
「そちらで処分してください」
の一言だった。
戸山ははい、と返事をし、無造作にビニール袋の中に結婚指輪を放り込んだ。
作業は10分で終わった。
最後に連れの方が廊下に掃除機をかけた。
夫は書類にサインをして、判子を押した。
「はいっ、ありがとうございました」
戸山は言った。
「ご利用ありがとうございました。また何かありましたら……」
そんな決まり文句を告げつつ、頭を下げて、業者2人は出ていった。
マンションの一室に、急に静寂が訪れた。
玄関の戸を閉めた夫は、すぐさまスマートフォンで検索をした。
「配偶者 割れる 手続き」
「家族 割れる 連絡の仕方」
「割れた後 挨拶」
それらの用語で調べてみても、情報は一片も出てこなかった。ただ先程の有限会社戸山のような業者の広告や公式サイトが引っかかるばかりであった。
一人3万円から
ウェブ申し込みでさらにお得
シルバー割引実施中
お電話ください すぐ対応
これは、つまり人が割れるのは、呼吸の仕方くらいに当たり前に起きることだったのかもしれない。夫はそのように思った。
「まず息を吸います。次に息を吐きます。この時吸いっぱなし、吐きっぱなしにしないよう注意してください」
そんなわかりきったことは、ネットで調べても出てこないだろうと思った。学校でも習わないし教科書にもない。
すなわち自分は、呼吸とか食事とか、そのくらいの常識以前の常識を身につけていないのだった。
その事実に、夫は慄然とするしかなかった。
気が抜けたようになりながら夫は居間へと戻った。椅子に座って足を投げ出した。
妻のご両親に、どう連絡したらいいのだろう。わからなかった。軽い口調ですべきなのか重苦しく丁寧に話すべきなのかわからなかった。
それに岩手の、自分の両親にもだ。それから妻の職場にも、友人知人にも。いやそもそもが、連絡すべきなのかが不明だった。みんなに連絡した方がいいような気がする。だが救急隊員にも業者にも笑われた自分の無知ぶりを勘案するとその判断が正しいと断言ができなかった。
どうすればいいのかわからず、夫はじっと椅子に座っていた。
こんなとき、妻がいてくれたらと思った。
「ええっ? 知らないの?」
きっとそう馬鹿にしながらもちゃんと教えてくれただろうという確信があった。
夫は、妻との喧嘩のことを思い出していた。
苛々の蓄積が火薬であることはわかっている。しかし直接の火種が、今となっては思い出せなかった。この1時間ほどであまりに多くのことが起きすぎていた。
ただし、夫が「もういいよ! 俺、この家出るよ!」と怒った契機の一言は覚えていた。
つまり廊下で揉み合いとなって、「ちょっと待ってよ!」と自分の袖をつかんで、はずみで倒れた妻がこなごなに割れた、この一連の出来事の引き金となった一言だった。
それは鮮明に記憶していた。それはこうだった。
「あなたって本当に、空っぽな人なんだから」
この言葉は象徴であるのだろうか、と夫は考える。または予兆か、予言か、預言、兆し、表現はともかくそのようなものだったのであろうかと夫は考える。
しかしながら夫は考える。割れたのはこれを言った妻であり自分は割れなかった。この事態をどのように受け止めるべきだろうと考える。
あるいはたとえば、と夫は考える。
たとえばそこの物置にハンマーが置いてある。それを持ってきて自分の腕とか額を叩いてみたら、自分も妻のように割れてしまうのではないか。あっさりと、ごくあっさりと。皮膚がくだけて穴が開いてしまうのではないか。
妻だけでなく自分もそのような、陶器のような、臓器も骨も肉もない、中身が空っぽの人間ではないのだろうか。一般常識の一部がごっそり欠落していることを散々教えられた今となってはありえることのように思える。
救急隊員も業者も、親も曾祖父も親類も、友人知人も赤の他人も、みんなそうなのではないか。そのようにして人類は成立しているのではないか。
だが、では、葬儀や葬式や告別式とは一体何なのか。
世の中には空っぽでない人間と空っぽな人間がいて、前者は葬儀で華々しく別れを告げられ、後者は業者によって作業的に片付けられるのだろうか。
どちらかと言うなら、自分は後者であるように思われた。
夫は、自分を試してみることにした。
先の想像の通りに、物置からハンマーを持ってくる。
座り直し、ハンマーは右手に握り、左手をテーブルの上に置いた。
どのくらいの力で振り下ろせばよいのかわからない。
妻の状況を回想するに、さほどの力は要らないのではないか。
柱に釘でも打ち込むみたいに、ごく軽くやればわかるのではないか。
夫はハンマーを耳の高さまで持ち上げる。
これをやってしまって果たしていいのだろうか、と疑念が沸いた。
しかしやらなければ、自分の気持ちに区切りがつかないと思った。
夫は自分の左手の甲に、ハンマーを振り下ろした。
──この行為の結果を、ここに書く必要はないと思われる。
何故なら結果がどうあれ、この世界がどのように成立しているにせよ、夫は妻を失ってしまったわけであるし、妻はこなごなに割れて業者が持っていってしまったからである。
左手を叩いた結果によって夫が新たな知見を得るわけでもないであろうし、起きたことが変化するわけでもない。
夫の世界も妻の世界も、全てが取り返しのつかないところまで来てしまったのであり、誰も元に戻すことはできないのである。
これはただ、それだけの話なのであった。
からのつま ドント in カクヨム @dontbetrue-kkym
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