退屈ミカンな彼女

向日葵椎

退屈ぐるぐるミカン

「ん? なんだっけ」

 コタツで缶ビールをグビっとやった直後に彼女が言った。


 いや知らないけども。

 だってぼくはミカンだから。

 コタツの上に載ったカゴの中のミカン達。その頂点に君臨するのがぼくである。別に偉いとかそういうのはないけど、一番上に積まれているのがぼくなのである。


「なあ」


 ぼくを見るな。

 知らないから。なんだこの人。スーパーで買われた時は「ついにおいしく食べられる時が来たのか。楽しみだな」なんてミカン界の道徳的にベストなマインドでわくわくに思っていたけれど、なかなか食べられないし、なんか見てくるし、ついに話しかけてきた。なんだこの人。


「んんー……」


 彼女はまた缶ビールをグビっとやって考えた。

 おい、水分をとれ。あとそろそろベッドに戻れ。またこの前みたいにそのまま寝て翌日辛くなるぞ。


 人間というものは物事を忘れて生きるらしい。ミカン界では考えられないことだ。しかし人間程度の脳や知能ではそのようにしないと生きていけないらしい。人間は記憶をモノとして考え、それを引き出しにしまうように例えるらしく、忘れるというのは引き出しの場所を忘れたか、開きづらくなったためと考えるみたいだ。だがミカン界では記憶は賞味期限付きの段ボールにしまうように考えているので、定期的に記憶をチェックして、まだ食べられるなら消費期限の箱に移し替える。ちなみにこの消費期限と言うのはミカンの最後――ミカン道徳的には食べられる瞬間のことである。


「……知ってる?」


 いや知らないけども。だってミカンだから。あとぼくを見られても困る。ミカンだもの。

 彼女はいつもコタツでぼんやりしている。テレビを見たり、ノートパソコンを眺めたりしているが、ぼんやりは欠かさない。欠かさないことは殊勝な心掛けであるが、人間は忘れる生き物なんだから忘れるほうが自然なんじゃないかな。あと酒を飲むのも欠かさない。これはきっと殊勝じゃない。


「――あっ」

 彼女が言った。

「いや違うか」


 なんだこの人。

 まあいい。人間と言うのは宇宙の次くらいにわからないものらしいから。宇宙の中に人間がいるのだから、宇宙の中にいる人間が比較的単純な構造であることには納得できる部分がある。

 しかし――


「ちゅっちゅっちゅー」


 脈絡がない。意味がわからない。

 なんだこの人。

 この口をとがらせているのはミカン汁を吸うための儀式かなにかなのだろうか。聞いた話では、人間は他人の考えていることがわからないのだそうだ。ということは、同じレベルでさえ解釈ができないのだとしたら、それは全くのランダムか、さらに高いレベルの思考の迷宮が、引き出しとやらに詰まっているのか、引き出しのタンスが並んだ迷路のようになっているのかもしれない。


「はいおいでー」


 ぼくは手に取られた。

 ついに食べられるのだろう。現代ミカン界における理想的な最期が今目の前まできている。今まで実ってから出荷されるまでずっと退屈だったけど、基準を満たしているのだから、ぼくはきっと美味かろうし、喜んでもらえるだろう。


 そしてまたじっと見られているかと思えば、

「つまんないよ」

 またおかしなことを言い出す。


「少しは喋ったらどうなの」

 人間なんかと話すことはない。


「つまらないよ。ほんとに」

 人間というのは、引き出しの場所を忘れるくせして、特定の引き出しにこだわる癖があるんだそうだ。彼女が退屈なのだとしたら、どうせ人間界のなにか退屈な引き出しを開けたり閉じたりすることにこだわっているんだろう。ミカン界であれば、定期的に段ボール箱をチェックすればそれで問題はない。


「もみもみもみもみ」

 ぼくは両手で揉まれた。

「ミカンは揉むと甘くなる」

 へえ、そうかい。


 なんか内臓がプチっといった気がするけど、まあ最後なので、彼女が甘くなるというならそれもいいだろう。


「それで――そいっ!」


 あっ。下から指を突っ込まれた。


「こんにちはミカン君」

『はいこんにちは。未完成なお嬢さん』

「まあ未完成だなんて。ちょっと失礼なんじゃないかしら」

『完成したものはいつか壊れる。あなたはわたしの永遠、ゆえに未完成なのです』

「まあお上手ね」


 勝手にぼくにセリフをつけるな。

 なんだこの人。


「なんてね」

 なんてね、くらいのことだとすれば、それはそれでなんだこの人。


 彼女はぼくから指を引っこ抜いて、ミカン汁のついた指をぺろっと舐めた。

「甘いな」

 元から甘かったつもりではあるけど、彼女が揉んだからかもしれない。そうなったのか、そうなったと思っているのか。


 なんで無表情なんだ。

 もっと喜んだらいいのに。


 ぼくは、かなり糖度が高い品種らしくて、色も形も大きさも、基準を満たしていて、味も美味しくて、もっと喜ばれてもいいはずだ。

 喜ばれないのは、美味しくないからか。それとも美味しいのが当たり前のこと過ぎて感動もないのか。それとも彼女が揉んだから、甘くなるのは当然のこととして受け取られているのか。


 そうなるのが「当たり前」なのだ。

 それがミカン界の理想。

 そして、ぼくが退屈に思う未来。


 喜ばれればうれしいはずなのに、なぜか、物足りない。

 足りないのだ。

 けれどもそれがわからない。


「ミカン君がツマミとして優秀かどうかテストしてやろう」


 彼女がぼくの皮をむく。

 ツマミというのがなんなのかよくわからないけども、ミカンとしては美味しければそれで十分だ。

 まあ、ぼくは優秀なミカンだから、テストも合格できるだろう。


 彼女はぼくを一粒取って、じっと眺める。

 知ってるはずなのに。

 さっき舐めたんだから味は知ってるはずさ。


 彼女にぼくの引き出しはある。

 ぼくがどんな味か、引き出しにしまってある。

 彼女は、いつも熱心に、外での生活の引き出しを往復する毎日。ぼくにはわからないけれど、外での出来事を家でも見に行って、コタツでボーっとしている。

 でも今はちょっと寄り道して、ぼくの味の引き出しを、気にしているような、そうでないような感じなのである。


 それが退屈というのなら――

 そうなら、ぼくにはアイデアがある。

 利害の一致を活かした、ちょっとしたアイデアだ。


 彼女はぼくの一粒を、口に運んで、噛む。

「――っ!? 酸っぱ!!」


 彼女は目を見開く

 ぼくが美味しいのは当たり前、彼女が甘いと思うのは当たり前、ぼくは退屈で、彼女も退屈だった。

 だからぼくは酸っぱくなった。


「なんだこのミカン!?」


 いい顔をする。

 人間というのは驚くとこういう顔をするのか。

 なるほど。

 ぼくの少なかった引き出しが増えたような気がする。

 彼女は引き出しの迷路に迷ったような顔。


「……でも、意外とイケるかもしれない」


 ぼくにできることは少ない。

 彼女の引き出しは彼女が見つけて開けるものだ。

 でも彼女のその引き出しは、ぼくがいる引き出しでもある。

 ぼくがいなくなっても、彼女の引き出しの中にしばらくはいるかもしれない。

 へんてこな、酸っぱいミカンとして。

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