後編

 一度セックスが上手くいかないと、それだけで男女の仲はギクシャクとし始めたりする。裸同士という、お互いをいつでも殺害可能な状況、恥を完全に晒すという関係性。それを乗り越えればこそ、男女の仲は進展するのだろう。そこで上手くいかないということはきっと、お互いにまだ晒していない恥か隙があるということだ。相手が全てを晒しているのに、こちらが何かを隠しているままでは、それは対等のセックスではなく、どちらかがどちらかを搾取する関係になってしまう。

 搾取するつもりならよかったのかもしれない、とも思う。

 だが、最初に彼女のたたずまいや美しさを尊敬してしまった時点で、僕にそれはできなかった。だとすれば、今度は僕が僕の恥を晒すしか道はない。だが、恥は晒せないからこそ恥なのだ。

 だから、恥を知らない人間、やましいところのない人間の方が恋愛は上手くいくだろう。そういう意味では、例えば山本のような男の方が、未希とはうまくいくのかもしれない――と、そこまで考えて僕は、自分の思考を振り払った。

 問題は――そう、問題は、僕自身が抱え込んだ「恥」の正体を理解していないことだ。彼女がコンビニで買ったあの、三本のちくわぶが一体なんだというのか。

 仕事帰りに、僕はあのコンビニでちくわぶを買ってみた。部屋に帰ってビールの缶をあけ、箸でその灰色の物体をつまみあげ、口に運んでみる。柔らかいのか硬いのかはっきりしない歯ざわり、もったりとした舌ざわり。決して洗練された食べ物ではないとは思うが、だからといって存在を憎むべき味わいであると気勢をあげるようなこともない。おでんは、おでんだ――優しい出汁の味が広がった口の中に、含んだビールが美味い。

 ふぅ、とひと息ついて、僕はテーブルの上のスマホを手に取る。彼女からメッセージが入っていた。僕はそのメッセージを開いて既読状態にするかどうか、少し悩んだ上でスマホを元のテーブルの上に戻し、ビールの缶を煽った。


 恋愛は日常に対して垂直である、と言ったのは誰だったか。未希との仲がどうなろうと関わらず、僕は仕事に追われていた。

 彼女との仲が終わったわけではない。届くメッセージにも返事をしていたし、会って食事をしたりもした。ただし、おでんが出るような和風の居酒屋は避けていた。要するに僕は怖いのだ。

 だから、彼女が突然、コンビニの袋を提げて家にやってきたときは本当に驚いた。

「忙しい?」

 玄関先でそう尋ねる彼女に、そんなことはないと答えて僕は、彼女を家にあげる。彼女は部屋に入ると、PCのディスプレイに映った書きかけの原稿を見た。

「仕事中だったんだね。いいよ、やってて」

 そう言って彼女は腰を降ろしてビニール袋をテーブルに置き、本を開いて読み始めた。

 こういうことは今までにもあった。というか、休日になると僕らはどちらかの家に行き、お互いに好きなことをしたり、一緒に映画を見たりして過ごしていた。

「こういうの、久しぶりだね」

 僕からコーヒーのカップを受け取って、彼女は笑った。僕は曖昧に頷いてPCデスクに向かう。彼女の言う通り、ここしばらくはお互いの家に行っていなかった。それがなぜかと言われると、ちくわぶのせいだということになるのだけど、少なくとも僕は表面上、「たまたま忙しくて休日にゆっくりする時間がない」という体裁を取っていた。

 しかし――僕はPCに向かっても、ちっとも原稿に集中できなかった。彼女が部屋にいるという事実が、たまらなく落ち着かなかった。まるで部屋がその分狭くなったかのようだ。それでも僕は、彼女に対して仕事をしている風を取り繕うように、適当な文章を書いては消していた。

「……恋人同士ってさ、なんでも話し合えるのが理想だと思う?」

 その顔は本に落としたまま、唐突に彼女が言った。僕は口の中で言葉を選ぶ。

「……それはきっと、そうなんじゃない?」

 結局曖昧な言葉になってしまった僕の返事を聞いて、彼女は本から顔を上げる。

「この本にも、そんなことが書いてあるの」

「そうなんだ」

 僕は一瞬ほっとしていたが、彼女は「でもね」と言葉を継ぐ。

「私、そうは思わないんだ。だって、なんでも話せて通じ合えるなら、一緒にいる意味ないじゃない?」

 僕がなんと返事をしたものか考えている間に、彼女はさらに言葉を継ぐ。

「こんな人がこんなことするんだ、とか、思い通りにならないからこそ愛しく思うんだって。コンテンツ業界ではキャラクターを作るとき、そういう風に作るらしいよ」

「いわゆるギャップ萌え、みたいな? でも……」

 僕はPCに視線を戻す。

「それこそコンテンツ業界では、立ち上げと持続は別の力が必要だって言われてるよ。魅力を感じるのと、上手く行くのとは話が違うんじゃないかな」

「私が言いたいのは」

 彼女が食い気味に言った。

「ギャップとかそういうんじゃなくて……その人が好きなものとか嫌いなものとか、そういうのも含めてコンテクストだってこと」

 僕は振り返って彼女を見、そして口の中で呟いた。

「コンテクスト」

「そう、コンテクスト。だから……」

 彼女はテーブルの上に置いたビニール袋から、おでんの容器を取り出した。

「私はここでちくわぶを食べます」

「……はい?」

 呆気にとられる僕の前で、彼女は容器の蓋を開け、割りばしを手にした。そして、容器の中の灰色の物体をその箸で掴み、口へと運ぶ。

「……冷めてる」

 そう呟いた彼女に僕は思わず噴き出した。

「そりゃそうだ。レンジであっためるよ」

 僕は立ち上がり、容器を手に取って台所へと向かった。


 レンジにおでんをセットして台所から帰ると、彼女はなんとなくばつが悪そうにしていた。僕はその隣に腰をおろす。

「わかってたんだ」

「うん……だって、私がちくわぶを買った時に顔が変わったから」

 僕はため息をついた。

「自分でも理不尽だと思うよ。だけど……」

 不安そうな顔をしている彼女の目を僕は覗き込んだ。

「嫌いになったとかそういうんじゃないんだ。これは君の問題でなく、僕の問題だと思う」

 彼女はそれを聞いて少し考え、言う。

「……前にも話したじゃない? 好きになる時って、その人の背景を含めて好きになるものだって」

「僕とは意見が違ったけどね」

「でも、君は私がちくわぶを好きなのが気に入らないのね」

「それは……少し違う。これは君の問題じゃないんだ。そうじゃなくて、僕の……」

 そう言いかけた瞬間、未希は僕の口をその唇で塞いだ。数瞬、柔らかい感触に意識が奪われる。彼女は口を離すと、くすりと笑った。

「私たちの、よ」

 意味がわからず戸惑う僕に、彼女は言葉を継ぐ。

「たかだかコンビニおでんのちくわぶ程度でギクシャクしたけど、それを乗り越えたの。それが君と私のコンテクスト」

 彼女はまた悪戯っぽく笑ってみせた。

「……それじゃ、ダメかな?」

 僕は目を閉じ、首を振った。未希は両腕を広げ、僕の首へと巻き付ける。僕はゆっくりと彼女を押し倒した。

「……おでん、また冷めちゃうよ」

「黙って」

 僕の身体の下で、素晴らしい美女の肢体が、ほっそりと美しい曲線を描く――僕はその白い肌を貪るように顔ををうずめた。


<終>

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ちくわぶのコンテクスト 輝井永澄 @terry10x12th

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