中編

 当然のことながら、ちくわぶはちくわではない。あまつさえ、「麩」と名乗っているのに関わらず麩ですらないらしい。どうも僕はそれが気に入らないのじゃないかと思う。

 それと、関西の方ではちくわぶを食べる文化はなく、その存在は知られていない。驚いたことに、全国チェーンのコンビニでさえ、関西の店舗にはちくわぶがないのだという。

 ネットで調べたところによれば、ちくわぶは元々東京ローカルの食材だったのだという。しかし、だとすれば僕の故郷である秋田県のコンビニでちくわぶが売っているのは納得し難いものがある。秋田県にだって関西と同様、ちくわぶを食べる習慣がなかったのだ。そもそも、余った米を潰して棒に巻いて焼くような土地で小麦粉の塊になど用はない。秋田のコンビニのおでんコーナーに紛れ込んでいるちくわぶのそこはかとない図々しさ、しかもそいつは、麩と名乗っているのに麩ですらないらしいのだ。

 東京と関西だけ特別で、その他の地方は「全国区」という一区分で語られる世界で、例えば地方出身者がバーで独り酒を飲むというような姿は滑稽に映るだろうか。

「そんなことを気にすること自体、地方出身のコンプレックス丸出しじゃないか」

 山本はいつもそう言って笑うのだが、それはこいつが東京の世田谷出身という余裕のなせる技だろうとも思う。

「お前ほどの男がそんなに引け目を感じることもないだろうに」

 ――ほらこれだ。油断していると、すぐにこうして育ちの良さと気持ちの余裕を見せてくる。

「別に引け目を感じてるわけでもないんだけどね」

 バーのカウンターでグラスを傾けながら、僕は苦笑する。山本はふぅん、と軽く答えてピーナッツをつまんだ。大柄なその尻が乗っているのは、先日彼女が座っていたその椅子だ。

 僕はジャパニーズ・ウィスキーのグラスを傾け、その中を空にした。熱くほろ苦い味わいが喉を駆け抜ける。日本が海外の伝統を真似しようとして試行錯誤を繰り返し、独自に発展したこの銘柄が、僕は好みだった。大して、山本が呑んでいるのは伝統的なスコッチのシングルモルトだ。

 この辺りでも群を抜いて品ぞろえのいいこのバーの酒棚には、あらゆる銘柄の瓶がズラリと並んでいる。そうそうたるメンバーが揃うその中にあって、日本のウィスキーはラベルに漢字をあしらい、その個性を主張していた。バーテンダーの青年がその前に立ち、腕を伸ばしてそのうちの一本を手に取り、振り返る。

「……こちらの蒸留所の新作なんですけど、これも面白いですよ」

 僕はその瓶を手に取ると、バーテンダーが説明をし始める。正直に言うと、その説明のほとんどは理解できなかったのだが、要は仕込んだ原酒をスコッチの樽で寝かせたということらしい。

 僕はそれをストレートで頼むことにした。バーテンダーが頷き、音もなく瓶を取り上げると、いつの間にか用意されていた小さなグラスに琥珀色の液体が注がれる。それを指先でつまむようにして、口をつける――舌触りは同じ銘柄のものだが、香りが全く違った。それが複雑な味わいを描いて喉に刻まれていくのが心地よい。

 顔をあげると、バーテンダーが得意げな顔をしていた。僕の反応を見ていたのだろう。僕はそれに応えようと口を開く。

「人によってはまっすぐな方がいいって言うかもしれないけど、これもアリだね」

「そうですね。可能性を広げる試みだと思います」

 どれ、と横から山本がそのグラスを手に取り、口をつける。

「……うーん、俺はこれあんまりかなぁ。美味しいとは思うけど」

「ま、お前の舌にはこの複雑さは理解できないかもな」

 軽口に対して、悪かったな、と笑い、山本はグラスを戻した。

 ――と、真鍮製のベルが鳴る音がした。僕はその音だけで、誰が来たのかを理解した。

「いらっしゃいませ、未希さん」

 バーテンダーの言うよりも早く、僕は微笑む彼女を見詰めていた。


 *


 山本が先に帰ったあと、僕と未希はもう少しだけ飲んでから家路についた。酒で少し火照った顔に、ひんやりとした夜の風が撫でる、腕に触れる未希の身体の温もりが心地よい。

「会食って楽しいけど、気を遣って疲れるよね」

 どうやら、高い店での食事だったらしい。いつも以上にしっかりとしたメイクをしていたのが見て取れた。

「どこの人との会食だったの?」

「取引先のね、けっこう大きい会社の社長さんと、その会社の担当さんとか、何人かでね」

 彼女は会食の様子についてあれこれと話をし始めた。住宅街には他に歩く人は少なく、足音がコツコツと空気に反響する。未希の話す言葉はまるで、そのビートの上で奏でられる唄のようで、僕はそのリズムの中で踊る聴衆だった。

「……あ、コンビニ寄ろう? 私お腹減っちゃった」

 観客を煽るように未希が言って、僕を明るい方へと引っ張った。

「食べたんじゃないの?」

「こーんな大きなお皿の真ん中に、ちょっとだけ乗ってるような料理だよ? あんなの食べた気になんないよ」

 そう言って未希は小走りでコンビニの中へと入っていった。

 僕がそのあとから店に入ると、未希はカウンターの前で熱心におでんを選んでいるところだった。その器の中には、すでになにかが入っている。その灰色の物体を見て、僕の頭には疑問符が浮かんだ。

「……ちくわぶ?」

 そう声に出して言った僕の方を振り向いて、彼女は少し照れ臭そうに笑った。

「君もなにか食べる?」

「ああ、うん……」

 僕は曖昧に答え、目を逸らして店内を見回したあと、「おでんはいらない」と彼女に告げてドリンクのコーナーへと向かった。


 未希は京都の出身なのだという。ビニール袋を提げて歩きながら彼女は、関西ではコンビニのおでんにさえ、ちくわぶが入っていない、と語った。

「東京に来て、初めて見たときにはちょっとびっくりしたよね。『ぶ』ってなんやねん、と思って」

 そう言いながら、彼女はおでんの容器が入ったビニール袋を大事そうに両手で持っていた。

 ちくわぶを三本も買った彼女に、「僕はおでん、いらないって言ったじゃん」と声をかけたのだが、彼女はそれを全部自分のものだ、と答えた。

「ちくわぶ、好きなんだ?」

 そう訊いた僕に、彼女は輝くような笑顔で応じた。

 その時、僕はいったい、なにが起こったのかわからずにいた。気が付くと僕は僕の部屋にいて、彼女はおでんの容器を片づけていて、僕はぼーっとペットボトルのお茶を飲んでいた。

「どうしたの、飲み過ぎた?」

「……うん」

 台所から今の方に戻ってきた彼女から、僕はそう言って目を逸らした。彼女は怪訝な顔をしながら、僕の傍にくっつくようにして座る。

「……今日の会食でさ……向こうの社長さんにプライベートの連絡先渡されちゃったんだ。独身なんだって」

 彼女はそう言って、僕の手に手を重ねた。

「それで、少し……自分の心が濁ったみたいで。だから今日ね、どうしても会いたかったの。山本さんと飲んでるところ、邪魔しちゃってごめんね?」

 そう言って彼女は、僕の首に手を回し、その唇を僕に押し付けた。

 二人の身体がソファに倒れ込む。彼女の身体の重みを感じながら、僕は天井を見詰めていた。服を脱ぎ、彼女の服も脱がしたが、それだけだった。大丈夫? と問いかける彼女に僕は、やっぱり少し飲み過ぎたみたいだ、と言った。

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