ちくわぶのコンテクスト

輝井永澄

前編

 白く滑らかな肌に長い手足、艶やかな黒い髪。深い知性を感じさせる切れ長の瞳に、厚ぼったいながら整った唇。

 そんな素晴らしい美女が、好物はコンビニのおでんで、それも「ちくわぶ」だなんて言ったら、百年の恋も冷めてしまうという僕は、薄情な人間だろうか?


 *


 彼女と出会ったのは、今時冗談かと思うような、暗くて静かで落ち着いた雰囲気の小洒落たバーだった。

 友人に誘われて何度か訪れたことのあるその店を、僕はその日、ひとりで訪れたのだ。

「……前に山本さんといらっしゃいましたよね?」

 常連客だろうとそうでなかろうと、訪れた客の顔をしっかり憶えているバーテンダーはやはり優秀だと思う。その上で、こっちが話したい気分の時には話しかけ、ひとりでぼーっとしたい気分の時には放っておいてくれれば完璧だ――とはいっても、そこまで完璧を望むのは高望みというものだし、完璧でない店に価値がない、というわけでもない。「今日はひとりでぼーっとしたいんだ」と思うのなら、そう言えばいいのだし、その日の僕は、それほど強硬に「ぼーっとしたい」を貫くつもりもなかった。

 そういうわけで、僕はその日、カウンターでジン・フィズを飲みながらバーテンダーとの会話に興じることになったのだ。

「お仕事はどんなことを?」

 グラスを拭きながら、髪をオールバックにしたバーテンダーの青年が言った。ちょうど客の途絶えたタイミングだったらしく、カウンターには僕一人で、流しの中にはいくつかのグラスがあった。

「いわゆるライターみたいなことをしてます」

「へぇ、かっこいいですね」

「いやぁ、細々とした仕事ですよ」

 こういう静かなバーの存在価値というのは、大きな声を出さずに話ができることにあるのだと思う。絶えずなにかの音がする都会の街中や、話を聞く気のない仕事相手と打ち合わせをするときのような、コミュニケーションの緊張感がなく、まさに落ち着いて話が出来る場所は貴重だ。

「……そうですね、最近は映画の論評みたいなことを書いたり……」

 グラスを洗い終えたバーテンダーはそのままなにをするでもなく、僕と話を続けながら、身振りで二杯目の注文を尋ねる。スコッチでも飲もうかと、僕が酒瓶の並んだ棚に目をやった――彼女が店に入って来たのはその時だった。

 ――カラン、カラン

 真鍮製のドアベルが鳴らす乾いた音と共に、彼女は現れた。

「ああ、ミキさん。いらっしゃい」

 バーテンダーがそう声をかける。彼女は軽く手を振りながら店を見回し、僕からふたつ離れた席に腰を降ろした。

「ギネス、パイントで」

 この店の馴染みなのだろう、座った瞬間からもうリラックスした様子でそう声をかける。お洒落なキャリアウーマンといった雰囲気だったが、発した声は上品なアルトだった。

「今日はいつもより遅いですね」

「うん、飲み会帰りだったの」

 ギネスの泡の上にクローバーを描きながら、バーテンダーが声をかけるのに彼女は答え、そしてバッグから煙草を取り出す。その様子に一瞬、僕はがっかりしそうになる――煙草を吸う女性はあまり好きではない――が、しかしそのあとすぐに、美しく整ったその手が踊る様に僕は見入ってしまっていた。

 ふと、彼女と目が合う。恐らく、こうやって隣の人間と目が合うことには慣れているのだろう。にっこりと微笑みを向けた彼女から、僕は慌てて顔を背けてしまった。

 こういったバーに、女性をナンパしに来るような男も確かにいる。僕はそういう男を心底軽蔑する。だが、たまたま隣になった女性となんとなく会話をし、仲良くなるというのは話が別だ。それがこんな美女だったなら、信じていもいない神に日ごろの行いを感謝したくもなる。人間の価値観なんて勝手なものだ。

 僕は彼女と話をしながら、この店の良さを再確認する。バーテンダーはひとりでぼーっとしたい客を放っておくほど完璧ではないが、客の男女が話し込んでいるのに口を挟むほど野暮ではないし、声を張らずにリラックスして会話が出来る静かさと照明の暗さは、男女の仲を盛り上げるのに充分以上の効果があるのだ。


 *


 彼女の名前は未希といった。シャープな雰囲気の彼女にぴったりの名前だと思う。残念ながら、バーで出会ったその日に一夜を共にした、というような都合のいい話はない。

「でもたぶん、あの時寝てたらそれっきりになっちゃったよ」

 焼き鳥屋で煮込みをつつきながら、未希はそう言った。確かにそうかもしれない、と僕は思った。

「結果は同じかもしれないけど、背負ったコンテクストは一生ものだからね」

 そう言って彼女は、美味しそうにジョッキを傾けた。生姜の入ったハイボールは味の濃いものにとてもよくあう、というのが彼女の主張らしい。バーもいいけど、こういう店でこういう楽しみ方をするのも好きだというのもまた、彼女の魅力的なところだ。

「コンテクストなんか気にしない方が利益になる、ってのが最近の潮流ではあるよ」

 僕はそう言いながら、半分に切った生のピーマンにつくねを詰め込む。これもまた、彼女が好きだという食べ方だった。

「そういうことを続けてると、結局基礎体力が弱っていくのよね」

 ジョッキを口から離し、上品な声で未希は言う。

「時と場合によるんじゃないかな。有効な場面もあるかもしれない」

「うーん、その意見には私は反対だな。好きになる時って、背景含めて好きになるものじゃない? 人でも、物でも」

「作家の人格と作品は切り離して考えるべきだっていう意見もある」

「そうは言っても、どうやったってイメージはついて回るからね。清廉潔白を求めるわけじゃないけど」

 彼女は軟骨の串を直接かじった。

「……それに、コンテンツには毒も必要よ。例えば、罪を犯した人がどん底からの復活した、なんていうストーリー性は無視できないじゃない」

「それが行き過ぎると、スポーツ選手に変なニックネームをつけて報道するようなことになる」

「伝えるための努力としては間違ってはいないんじゃない?」

「どうやらこの点については、僕らは合意できないみたいだね」

 そうね、と言って彼女は笑った。

「それじゃ、あなたについてだけはコンテクストを切り離すことにしようかな」

 一瞬、どういう意味かわからずに僕は彼女を見た。未希は手にしたハイボールのジョッキを口元に持ってきて、その上から悪戯っぽく僕を覗いた。

「背景がどうあろうと……意見が違くても、好きになることもあるってこと」

 ――全く、彼女は魅力的な女性だった。

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