先の約束
おもながゆりこ
先の約束
プロローグ
世の中に絶対や永遠なんてものはない。
みんな絶対とか、永遠とか、すぐに言うけれど、そんなものはない。
滅多にないとか、期間限定と思えばこそ、
人はその縁を大事にするし有り難く思う。
その人やものや場所や環境が、絶対に自分から永遠に離れていかないなんて、
それこそ絶対にない。
そしてもうひとつ、奇跡はすぐそこにある。
本人が気づくかどうかだ。
奇跡は
もう
起こっている。
★
「檸檬?」
唐突に自分の名を呼ばれ、その人は息を飲んだ。
「奈…江…」
寒空の下、お互い言葉を失う。
さっきから私はずっとあなたを見ていた。最初は誰かと待ち合わせでもしているのかと思ったけど、所在なさそうで、心もとない雰囲気で、どこにも行く場所も、帰る場所もないんだと分かった。だからあなたが公園に行き、ベンチで寝ようとしているのを見るに見かねて声を掛けたの。
別れてから10年、色々な男性と付き合ったし、二度結婚もしたけどうまくいかなかった。あっという間に38歳、会社勤めだけは続けているけど…。
「どうしたの?」
檸檬は答えない。ってか、答えられない。
「ここで寝ようとしているの?」
驚愕と羞恥が見える。
「お腹、空いていない?」
遠慮っぽく首を横に振るあなた。あなたが空腹なのは一目瞭然だよ。
「分かったよ、私が救済する」
本当に、全部分かってしまった。
おそらく一文無しなんだろう。券売機で切符を買い、あなたに渡す。済まなそうに目を伏せながら受け取るあなた。私は定期がある。改札を抜け、自宅のある吉祥寺に向かう。
駅を降り、スーパーで買い物をする。会計を済ませ、アパートへ向かう。
私の少し後ろを歩くあなた。ちゃんとついて来ているか確認しながら歩く私。
「ここなの」
アパートに着き、階段を登る。おとなしく付いてくるあなた。昔からおとなしい人だったけど、相変わらずなんだね。鍵を開ける前に、檸檬にはっきりと言った。
「友達として、救済します」
頷くあなた。
ドアを開け、まず檸檬を入れてから自分も入る。
「お邪魔します」
遠慮がちに言うあなた。
暖房を入れ、手を洗い、さっと食事を作る。昨日炊いたご飯が残っていて良かった。小さなテーブルに向かい合い、質素な食事をする。
「いただきます」
もっと遠慮がちに言うあなた。
一組しかない布団を分ける。あなたにはマットレス、私は敷布団。電気毛布が二枚あって良かった。
「公園は寒かったでしょう」
電源を入れ、檸檬に掛布団を譲り、私は毛布を掛ける。
「明日、話そう」
そう言って、ここしばらくないくらい幸福な気持ちで眠った。
翌朝、雨音で目覚める。
横で眠っている檸檬を見て、幻を見ているような錯覚にとらわれる。呼吸を殺し、その端正な顔に見入る。この人は本当に檸檬だろうか、という疑念さえ湧いてくる。もしかして私は勘違いをして、知らない男の人を家に泊めてしまったのではないかと…。髪も髭も伸び放題の向こうに、若かりし頃の檸檬がいる。
…間違いない、この人は檸檬だ、檸檬が私の部屋にいる。そう確信し、鳴る寸前のアラームをオフにし、手早く身支度を整え、果物だけの朝食を済ませてから、声を掛ける。
「檸檬」
目を醒まし、一瞬混乱したような顔をするあなた。
「会社に行く。帰ってから話そう。冷蔵庫にあるもの食べていいからね」
そう言って玄関を出ようとした時、あなたは言った。
「ねえ…」
「なあに?」
「俺、本当に、ここに居ていいの?」
笑顔で頷く。
「救済するって言ったでしょ。居てくれなきゃ困るよ」
ほっとしたように微笑むあなた。私も微笑んでドアを閉め、笑顔のままアパートの階段を駆け下りる。幸せだった。
心が弾むってこういう事を言うんだろうな。昔あなたと暮らし始めた時も、凄く気持ちが弾んだ事を思い出す。結局現実に押し潰されて別れたけど。
あの頃、あなたは精一杯私を守ってくれたし助けてくれた。だったら今度は私が助けるよ。
「今日、何か良い事あったの?」
同僚に言われた。あれえ、分かるのかな?
「顔がほころんでいるよ」
うふふ。そりゃほころびますよ。
午前中からテキパキ仕事を進め、残業しなくていいようにした。休み時間にアパートに電話してみたけど檸檬は出なかった。遠慮して出ないのか?もしかしてもう居なくなったのか?不安がよぎる。
定時であがる。
「お疲れ様でした」
制服を手提げに入れ、持ち帰る。明日は公休、家で洗濯してくるつもり。
早足で帰る。いつものスーパーで二人分の食材を買う。普段、自分の好きな物しか買わないけど、檸檬が何を好きだっけ?等考えながら買い物するのは楽しかった。
もうひとつ、合鍵を作る。受け取る瞬間、何とも言えない程ときめいた。
アパートの部屋に明かりが付いているのを見て嬉しくなる。新婚の人の気持ちだ。
鍵を開けようとしてふと思い立ち、チャイムを鳴らす。みっつ数えてから、初めて鍵を使ってドアを開ける。…いきなり開けて檸檬をびっくりさせない為だ。
「ただいま」
あなたが笑顔で迎えてくれた。
「お帰りなさい」
お互い嬉しくて、それを全面に出してはいけないような気がして笑う。
この人は今日一日何していたのかな。
さっと部屋とトイレを掃除し、玄関の三和土と靴を磨き、その後風呂に入り、湯船に浸かりながら顔の手入れをし、あがってから髪を乾かし、その後、調理にかかる。
「その順番なんだね」
檸檬が笑って言う。
「この順番だよ」
笑って答える。昔は家事の要領が悪く、寝るのが遅くなり、寝不足がつらく、ある時檸檬に言われて順番を変えたら早く寝られるようになったものだ。
「檸檬、お風呂どうぞ」
そう言ったら遠慮がちに入っていった。1DKの我が家には、風呂はあっても脱衣所なんてものはない。檸檬の裸を見ないよう、室内ドアを閉め、和室で片づけ物をする。
また質素な食事を小さなテーブルに並べ、向き合う。
「いただきます」
ああこんな風に誰かと食事をするのは久しぶりだ。まして相手が檸檬なんて。見慣れた自分の部屋に、見慣れない、というか、懐かしい檸檬がいる。
かつて若い日に、私が愛した人。
檸檬、檸檬、檸檬。
付き合い始めた頃、お互いまだ若く、果てしない夢を追いながら、ほとばしる情熱で愛し合った日々。同じ青春を駆け抜けた君と、神様が再会させてくれた。
「檸檬、聞いていい?」
あなたが、なあに?と、目で応える。
「何かあったんでしょう、公園で寝ようとしていたなんて」
頷くあなた。
「家は?」
「…ない…」
「家族は?」
「…」
「新潟のお父さんとお母さんは?」
「もういないし実家もない」
「妹さんは?」
「…断絶している」
「仕事は?」
「…失った」
「いつ?」
「…」
「お金は?」
「…」
「誰かに騙されて、とか?」
「…」
じゅうぶんだった。檸檬は誰かに騙され全財産を失った上に、住まいも仕事も、何もかも失くしたのだろう。
「檸檬、あの頃私を何度も助けてくれたし、許してくれたよね?私はよく覚えているよ」
あなたが遠慮がちに首を横に振る。
「今度は私が檸檬を助ける番だって、神様に言われている気がする」
その通りだろう。行き場のないあなたを、無一文になったあなたを。神様が十年ぶりに返してくれた。
「行く所ないなら、ここに居て。私に救済させて」
差し出した合鍵を黙って受け取るあなた。
「ただね、同じ間違いはしたくないから、あくまで友達として救済する。それはお互い約束しよう」
頷くあなたの頬に安堵と、少しのさびしさが浮かぶ。
それが私とあなたの長い年月の始まりでした。
貯金があって良かった。ショッピングモールで檸檬の歯ブラシから下着から部屋着まで買い揃える。
「安いのでいいよ」
しきりに遠慮する檸檬。
「気に入ったのにしよう」
少しくらいいいさ。だって昔、それこそ一文無しの私の歯ブラシから下着から買い揃えてくれたよね?歳月が私の生活も、金銭感覚も安定させてくれた。だから大丈夫だよ。食材の買い物も済ませ、大荷物でアパートに帰る。
今夜もまたせんべい布団に寝る事になるけど、とりあえず食べる物と着る物、住む所があれば何とかなるものだよ。布団は次のボーナスもらったら買おう。
後は…そう、檸檬の仕事だな。また質素な食事を囲みながら聞いてみる。
「檸檬、今まで仕事、何していたの?」
「…うん…。音楽関係の仕事で何とかやっていたけど、もう無理だった」
「良い時もあったよね?」
「…うん」
「応援していたんだよ」
「…有難う。きっと奈江が、どこかで見てくれているって思っていた。…頑張ったけど、精一杯あがいたけど、本当にどうにもならなくなった…」
「そうだったんだ…」
否定してはいけない。ミュージシャンを目指しているあなたに、私の為に堅実な会社員になってくれと言ってしまった私。あの頃、私はあなたの現実を見ない生き方が嫌で、口出ししてしまった。ずっと後悔していたけど…。
「檸檬、うちの会社で一緒に働くの、どう?」
檸檬が困惑している。ただ、迷惑で困惑しているというより、私に迷惑をかけまいとして困惑しているのが分かる。
「俺に、務まるかな」
「大丈夫だよ、私が精一杯支えるし、何かあればフォローするから」
「ん…」
ずっと音楽関係の仕事ばかりしてきた人だ。39歳になるまで…。普通の会社員が務まるかそれは心配だろう。はっきり言って私だって心配だ。
「明日、上司に聞いてみるね」
「ん…」
檸檬を守りたかった。そうするにはこのアパートで共に暮らし、同じ会社で共に働くのがいちばん良いような気がする。
「奈江、今もあの会社で働いているの?」
「うん、変わらないよ。菜々花食品」
「偉いね、続けているんだ…」
檸檬がさびしそうな目をする。他のみんなはきちんと人生を進めているのに、自分だけ思うように進められなかった悔しさが滲み出る。
翌朝、仕事がひと段落して上司に切り出した。
「お話が…」
上司がびっくりした顔で言う。
「ドキ!」
ああ、誤解されている。辞めさせてくれとか言うと思っているんだろう。専務室に入り、向かい合って座る。
「なあに?」
「実は、人を紹介したいんです。この会社で働かせていただければ有難いんです」
「あ、そういう事ね」
女性専務は安堵している。
「どんな人?」
「私が昔凄くお世話になった人です。優しくて良い人なんです」
「男性?女性?」
「男性です」
「彼氏?」
「違います。ただ事情があって無一文になってしまって困っているので救済したいんです」
「彼氏じゃないの?」
「違います」
「今どこにいるの?」
「私のアパートにいます」
「一緒に住んでいるの?」
「一昨日から引き取っているだけで、変な関係じゃありません。救済してくれますか?」
「救済、救済って…。今まで何をしていた人?年は幾つ?」
「39歳で、ずっと音楽関係の仕事をやっていたんですけど、人に騙されたらしくて家も仕事もお金も、何もかもなくしてしまったんです」
「ん、音楽関係か、うちの会社とは随分畑違いだよねえ」
「そうですけど」
「大丈夫かな?それに当分あなたのアパートで一緒に暮らすの?」
「それも仕方ないんです。めどが付いたら自分でアパート借りると思います」
「ん…。明日の朝、連れてきてくれる?面接してから決めよう」
「有難うございます」
本当に有り難かった。嬉しくて、もっと顔がほころぶ。
帰り道、アパートに電話した。
「檸檬、明日の朝、上司が面接してくれるって。履歴書を書かなきゃだし、スーツ買わなきゃだから、駅前まで来て」
「有難う、話が早いね」
合鍵を渡しておいて良かった。檸檬が公園で寝ようとしていた格好のままで駅前まで来る。
「スーツ選ぼう」
昔あなたは言っていた。
「俺はネクタイ締めたサラリーマンにはなりたくないよ。かといって工場職も嫌だ」
そんな事を言っている場合じゃない。スーツを二着選び、靴とネクタイ、ワイシャツ、鞄も調達する。
「お金使わせてごめん」
「いいよ、ちゃんと働いてくれれば。それより髪切って」
床屋でぼうぼうの髪を切り、髭を剃る。みるみる昔と変わらない容貌が現れる。
ああ間違いなくこの人は檸檬だ、と再確認する。
アパートで檸檬が履歴書を書いている間に食事の支度をする。
「どれ?」
書いたものを見て不安になる。学歴は高卒、資格はひとつもなし、経歴は芸能関係、んん、大丈夫かな…。
「スーツ着てみて」
似合わなくはないが、ずっとフリーランスで生きてきましたって雰囲気は否めない。
「前の仕事どうして辞めたのか聞かれたら、何て答える?」
「浮き沈みがあまりにも激しくてもう無理だったって言う」
「何故この会社を選んだのか聞かれたら、何て答える?」
「食品って、人の生活に欠かせないたいせつなものだからって言う」
「この会社で何をしたいか聞かれたら、何て答える?」
「共働きの夫婦の為の、時短料理を提案したいって言う」
「人間関係で揉めたらどうするか聞かれたら、何て答える?」
「その人の良い所を10個見つけて本人に言う。僕は人の悪口なんて言わない」
「ん…何とかなるかな?今日は早く寝よう」
せんべい布団で眠る。檸檬が働いてくれれば、夏のボーナスを待たずに新しい布団が買えるかも知れない。
翌朝、駅までのコースを檸檬と並んで歩く。見慣れた景色の中、スーツ姿の檸檬が歩いているのが不思議な気がする。
会社に到着、自分の部署にそのまま行く。
「ここに居て」
檸檬を残し、朝礼に参加。朝礼直後、専務が私に言う。
「その人、来ているの?」
「はい、上に居ます」
専務は頷き、私と共に2階フロアに上がる。
待っていた檸檬が立ち上がった瞬間、桜の花が咲き誇る映像を見たような気がした。ああ、やっぱりこの人はスポットを当てられてきた人なんだと思う。専務も同じ事を思ったようだ。
「初めまして、安西檸檬と申します」
「よくいらっしゃいました。株式会社・菜々花食品の専務をしております、丸井佳寿子です」
良かった、フリーランスらしからぬきちんとした挨拶が出来た、と安堵する。
テーブルの上に履歴書がこちら向けに置いてある。あらかじめ檸檬がそうしてくれていた。
「では早速」
専務が檸檬の履歴書を見ている。…物凄くドキドキする。色々聞かれ、檸檬が緊張せずにうまく答えられるか、滅茶苦茶心配だ。
専務が顔を上げる。さあ、来るぞ。…と思ったらこう言う。
「いつから働けますか?」
拍子抜けするほどあっさり採用が決まった。
「明日からでも…」
檸檬が躊躇しながら言う。口出ししてはいけないと思いつつ、つい言ってしまう。
「今からと言って。忙しくて、手が足りない」
専務が仕方なさそうに笑う。
「では今日からでいかがですか?」
檸檬がもっと躊躇しながら頷く。
「本当にわたしでいいんですか?」
「他ならぬ、川北奈江の紹介だから」
お、専務、嬉しい事言ってくれるねえ。
「本当に有難うございます」
嬉しくて、心から頭を下げる。
まずはパソコンの立ち上げ方から教える。手洗いの場所、給湯室の場所、社員のみんなへの紹介、商品の説明、電話応対の仕方、重役出勤してきた部長にも紹介する。
ああなんて忙しいんだ。発注書は次々にファックスから流れ出て来るし、電話は鳴るし、お客さんは来るし。猫の手ならぬ、檸檬の手を借りながら、私は仕事をこなしていく。
★
遠い昔、檸檬と私は新潟にある同じショッピングモール内のレストランで働いていた。私は和食レストランのホールで、檸檬は隣のイタリアンレストランでアルバイトしていた。
一風変わった雰囲気を纏う美少年だな、それが私の檸檬に対する第一印象だった。
「あの人バンドマンだよ」
友達から聞いてなるほどって思った。だけど当時の私、住む世界が違う気もした。
連れて行ってもらったライブハウスでのギグ。興奮したもんだよ。
おとなしい檸檬がステージの上ではきらきら輝いていたから。
何とかこの人と付き合いたい、そう思った。
好き好き光線を送って、届け、届けと念じた。
檸檬、高校3年生、私は高校2年生の冬だった。
アルバイトが終わり、ショッピングモールの従業員用の通用門を出ようとしたら、檸檬がいた。何となく、そこだけスポットライトが当たっているように見えた。
「お疲れ様です」
そう言ったら笑顔で頷いてくれた。
あ、この人、笑うんだって思った。
それが何度か続いたある日、檸檬が声を掛けてくれた。
「僕、ここでのアルバイト、今月いっぱいなんです」
びっくりして言ったよ。
「え?そうなんですか?」
「はい、東京へ出ようと思いまして」
「東京へ?何しに行くんですか?」
「東京のミュージシャン養成の学校へ通うんです」
「そうだったんですか…」
もう何も出来ない。もう手が届かない所へこの人は行ってしまうんだとさびしかった。
「元気でいて下さい。応援しています」
そう言ったら、物凄く意外な言葉が返って来た。
「その前に、僕とデートしますか?」
しませんか?ではなく、しますか?という言い回しが良いなと思った。だからどこかの居酒屋の店員もどきに即答したよ。
「はい。喜んで!」
翌日、檸檬と待ち合わせして遊園地へ行った。初デートだっちゅーに、遅刻して来た檸檬。ハアハア言いながら走って来た。まったくもうレディを待たせんじゃないよ。
…まあいいや。楽しかったし、ときめいたから。ジェットコースターやら、コーヒーカップやらゴーカートやらに乗ってぐるぐる回り、本当に目を回し、へなへなになりながらベンチに座ったよ。
「名前、何て言うの?」
「川北奈江」
「なえ?本名?」
「勿論」
「俺は安西檸檬」
「れもん?本名?」
「勿論」
僕、が、俺、になった。二人の距離がぐんと近づいた瞬間だった。
「奈江ちゃん、名前の由来、親に聞いた事ある?」
「お父さんが奈津樹、お母さんが江美子、遅くに生まれた子だから最初で最後の子かも知れない、だったら夫婦の名前の一文字目を付けて二人の絆にしようって思ったんだって。本当に最初で最後の子になった訳だけど。私ひとりっ子だから」
「へえ、俺は妹がいるよ。俺の親は、難しい漢字の名前にして、国語が得意な子にしたかったんだって。全然得意じゃないけど」
二人であははと笑い合う。他愛もない会話が楽しかった。
「東京に行ったら、どこに住むの?」
「阿佐ヶ谷って所」
「ん、分からない」
「杉並区」
「ん、それも分からない。生まれも育ちもここ、新潟だから」
「俺も。だけど東京へ行きたい。行って成功したい。絶対ジャパニーズドリーム叶えたい」
「ミュージシャン養成の学校はどこにあるの?」
「新宿」
「それは聞いた事ある。そこを出たらミュージシャンになれるの?」
「ん、どうなるか分からないけど、チャンスを掴みたい」
「手紙書くよ」
檸檬が頷く。
「電話もするよ」
檸檬が小首を傾げる。
「電話はまだ引いていない。お金もかかるし」
「いつ行くの?」
「学校の卒業式が今度の金曜日、それ終わったらすぐ」
「親は何て言っているの?」
「勝手にしろ、って」
「ん…」
凄く戸惑う。恋は初めてではないけど、それでもこんなに心臓掴まれたのは初めて。
「…東京、行っちゃったら…」
それ以上喋れなくなって、黙り込む。檸檬が頭を良い子、良い子、してくれる。
もっと撫でて。
見送りに行こう。駅まで。ホームで遠ざかる檸檬を精一杯送ろうと思った。
寒かったけど他に見送る人がいない事が意外だった。
あれ?ファンの女の子とか、もっと来ているのかと思ったよ。
「奈江ちゃんにしか言っていないから」
檸檬が言う。
「大騒ぎされるのは嫌だからさ。万歳三唱とか」
黙って頷く。
新幹線に乗り込む檸檬。何とも言えない眼差しで、私をじっと見ている。この人を思い出すたびにこの表情が脳裏に浮かぶだろうと思った。
発車のベルが鳴る。檸檬が何か言おうとする。
その時、本当に瞬間的に、衝動に駆られ、私は身ひとつで新幹線に飛び乗っちまった。閉まっちまうドア。
「何すんだよ、もう、嬉しいじゃねえか」
だって、もう離れたくないんだよ。もしかしてもう会えなくなっちまうかも知れないじゃん。新宿も阿佐ヶ谷もどこか分かんないし。だから、だから、だから…。
「切符…」
目的地までどこかに隠れるよ。檸檬と交代で席に座り、交代でトイレに隠れた。物凄く長く感じたよ。宇宙へ行くような気分。
初めての東京、着いた頃には乗り物酔いでフラフラだった。私は切符もなく、お金もなく、本当に体ひとつでこの東京に乗り込んできちまった。
檸檬は
「どうするの?」
と、言いながらも電車を乗り継ぎ、阿佐ヶ谷までたどり着いた。
お、東京だ。都会って空が高いって思った。
「親に電話した方がいいよ」
と言われ、公衆電話から家に電話をする。
「奈江」
と言ったら、お父さんが
「お前どこ?」
と聞く。
「東京」
と答えたら絶句された。
「帰ってこい、学校もあるし」
と、極めて常識的な事を言う。そりゃそうだが、檸檬の方が大事なんだよ。
「悪いけどもう家には帰らない。こっちでやっていく」
と言った。ああ10円玉がなくなる。
「ごめんね」
と言って切った。振り返ったら檸檬が笑っていた。
そう、これが私と檸檬の青春の始まりだった。
まだ携帯電話もパソコンも、消費税さえない昭和の時代、はち切れんばかりの若さと夢だけがあった。
スーパーで檸檬が歯ブラシから着替えまで買ってくれた。檸檬だってたいしてお金持っていない筈なのに、一生懸命私がこっちにいられるようにしてくれている。
「有難う」
「いいよ」
最初檸檬は私が春休みの間だけこっちにいるって思っていたみたい。そんなもんじゃすまなかった。
檸檬が借りたアパートは駅から15分くらい歩いた所にあった。一応バストイレ付きの1DK、玄関の脇に洗濯機が置いてあった。築は古いけど、日当たりも風通しもまあまあ。今日から私もここに住むって勝手に決めた。
「ここ、家賃いくら?」
「5万円。都会にしては安い方だよ」
ん、身が引き締まる気がする。だってこれから毎月5万円も払うなんて。新宿の学校の費用だってあるし、食ってく分も稼がなきゃいけないし、私も働かなきゃ。
翌日、阿佐ヶ谷駅前にある弁当屋でアルバイト募集しているのを見て応募した。檸檬に言ったら
「こっちでずっとアルバイトするの?学校はどうするの?」
って、素っ頓狂な声を出された。
「だってあと1年も、向こうに居られないよ。1日だって檸檬と離れたくないよ」
「そうだけど、高校は卒業しておいた方がいいよ。何かと…」
「檸檬、檸檬と離れたくないんだよ。学校より檸檬が大事なんだよ」
泣きそうになって言う。いつのまにか檸檬呼ばわりしちゃっている。お願い、私を追い出さないで。
「だって、今のままじゃ家出しているのと同じだよ」
「檸檬はひとりで平気なの?私が新潟に帰った方が良いの?」
「そうじゃないけど、学校が」
「学校なんてどうだっていいよ」
「いっときの衝動で人生左右される事を決めない方がいいよ」
公衆電話から親に電話する。今度はお母さんが出て凄い剣幕で怒られた。
「もうすぐ春休み終わるよ!早く帰って来なさい!」
「お母さん、学校はやめるよ。こっちで大好きな人の夢を応援したいんだよ」
「何言っているの。学校に戻って」
「頼むよ」
週に6日、弁当屋でアルバイトする。月給にして8万くらいになるかな。売れ残りのお弁当を毎日幾つかもらえるのは助かった。毎日飽きもせず、それを檸檬と食べた。売れ残りでも何でも食べられるだけ有り難かった。そして何より、檸檬と一緒にいられればとにかく幸せだった。檸檬がライブハウスでのアルバイトを見つけてきた。何とかなるかな?
「大丈夫?」
と、檸檬が何回も聞く。
「大丈夫」
と、自信満々で答える。根拠のない自信があった。だって体ひとつで上京しちゃったんだもん。この根性でこれからも何とかやっていくさ。檸檬は彼女でもない私の面倒を見てくれて、このアパートに住まわしてくれている。寝る時はひと組の布団を分けて寝る。檸檬はなかなか紳士で、私に手を出そうとしない。私も緊張して檸檬に手を伸ばせない。
あと何日で春休みが終わる。終わったらどうするの?どうなるの?考えられない。今考えられるのは、絶対に檸檬から離れたくないって事だけ。
家に電話しても毎回怒られるから嫌になった。
「戻ってこい!学校どうする!」
って、そればっかり。学校なんてどうだっていいよ。片時も檸檬から離れたくないんだよ。
ついに春休みが終わった。新学期のスタート。友達はどうしているかな。私はお弁当屋で労働する事に青春を使っている。
檸檬の学校もスタートした。なんてーか、檸檬は私と違い、目的を持って生きているって感じ。私も何か目的持たなきゃ。
「私、向こうの学校はやめて、こっちで大検受けようと思うの。こっちでやっていきたい」
「ん…。奈江ちゃんを巻き込んだような気がして」
「いや、それは違うよ。私が勝手に来たんだから」
檸檬、本当は迷惑しているのかな?毎日ふたりでキャッキャッと、はしゃいで楽しいんだけど。
檸檬は私が思うより疲れているかも。毎日朝から学校に行き、夕方からアルバイト。へとへとになって帰って来る。なるべく負担かけないように掃除や洗濯しているけど、本当は困らせているのかな?
友達に手紙を書いた。
東京に大好きな人を追って来た事、体ひとつで来た事、狭いアパートで二人暮らしている事、だが、住所を書かずに投函する。だって親にばれたら迎えに来られそうで嫌なんだもん。
しばらくして電話かけてみたらその子も素っ頓狂な声出している。
「奈江!あんた!もう学校始まっているのに、いつまで休むの?」
「もう学校どころじゃないよ。檸檬がスターになるのを応援したいの」
「あんた!現実見なよ、現実」
ああ、この子も分かってくれない。黙って受話器を置く。
しばらくそんな日が続いた頃、檸檬が静かに言った。
「奈江ちゃん、一度、新潟に帰りな。で、高校卒業したらまたこっちに来ればいいよ」
よく納得して頷いた。弁当屋に事情を話して辞めさせてもらい、少ない荷物を持って新潟へ帰った。親にえらく怒られたけど、学校に戻り、檸檬に会う前の生活になった。
新潟に帰った時、こっちは空が低いって思ったよ。建物の高さが違うからかな。
出席日数ぎりぎりで高校3年生を始める。
「進路はどうする?」
担任の先生の問いかけに即答した。
「東京で就職します」
親も仕方なさそうに頷く。学校を辞めて家出されるよりいいんだろう。
就職活動が始まった。条件は、東京である事、社員寮がある事、安定している事。ずっと目標を持たずに、ただぼけっと生きてきた私が初めて東京で就職、檸檬の傍にいる、と目標を持った。良い事だ!このまま突っ走るぞ!
何社か面接し、ここぞという会社を探す。そして中野にある菜々花食品って会社に内定した。東京だ!大都会だ!阿佐ヶ谷に近い!ああときめいてしまう。
檸檬にはしょっちゅう手紙を送っていた。返事は来たり来なかったり。何のオーディション受けたとか、受かったとか、落ちたとか、アルバイトを変わったとか、今度はビデオショップとか、やっと電話を引いた、番号は何番、とか色々。
こっちも食品会社に決まったとか、寮があるとか、狭いし風呂やトイレは共同だけど、部屋は個人だから良かったとか、そんな事を書いて送った。
いよいよ春。高校を卒業して、単身上京する。中野も空が高かった。
初めての会社勤め。初めての寮生活。知らない土地。知らない人たちに囲まれて暮らす毎日。何もかも初めてづくしでときめいていた。
初出社。先輩が丁寧に仕事を教えてくれる。一生懸命メモを手に覚える。接客マニュアル、コンピューターの使い方、上司や先輩の顔と名前、商品、店舗の場所、覚える事は山ほどある。
「いいねえ、若い子は」
って、みんなに言われる。
「奈江ちゃん、彼氏いるの?」
ともよく聞かれた。
「はい、います!」
即答できるのが嬉しかった。
けど、檸檬はどう思っているのかな?芸能界には綺麗な女の子もいっぱいいるだろうし、私たち少し一緒に暮らしたけど、新潟に帰る前にいっぺんだけ、極めてぎこちないキスをしただけだし。
会社は平日に交代で休む。私は水木休みだった。初めての休みに檸檬に会いに行った。
1年ぶりに訪れる阿佐ヶ谷は、懐かしかったよ。
「檸檬」
ドアをノックする。
「いらっしゃい。凄いね、本当に来たねえ」
檸檬は変わっていない。笑顔で迎えてくれた。
「就職したんだもん、胸張って来たよ」
嬉しくてたまらない。本当はこの部屋で暮らしたいけど、寮があるからそこまで出来ない。
檸檬がお茶の用意をしてくれている時にふとテーブルの上に置きっぱなしになっていた通帳を見ちゃった。そしてドキ!ほとんど残高はない。
「ごめん、見ちゃった…」
「え?ああ」
檸檬は平気でいる。
「アルバイトの給料そこに振り込まれるんだ。毎月月末はピーピーだよ」
あれま、大丈夫かいな?この人。
「ビデオショップでアルバイトしているんでしょ?」
「もう辞めた。今は学校の近くのレストランでバイトしている」
「そうなんだ」
この1年で5回はアルバイト変わっている。
「オーディション受けているの?」
「勿論、その為にこっちに来たんだから」
その頃、檸檬は輝いていた。この人ならスターになるって確信した。
テーブルの上には通帳の他に、譜面とか、作詞の下書きした紙とか、色々置いてあった。何かとてつもない才能の原石を見たような気がしたよ。何より、新潟の田舎にいたとは思えない、今すぐテレビに出てもいいようなルックスに惚れ惚れと見入る。
「檸檬、私は今まで色々な人に会ったけど、檸檬は他の誰にも大きな差を付けて、一等賞の男だよ」
心からそう言った。檸檬が嬉しそうに笑ってくれた。
今、目の前にいる39歳の檸檬は色々な人に騙され、傷つけられ、すっかりくすんでしまっている。あの頃の輝きを取り戻して欲しい。心からそう思った。音楽関係はもう無理としても、少なくとも幸せになって欲しい。
「安西さん、商品マニュアルに目を通して下さい」
「はい」
会社では事務的なやり取りをするし、お互い苗字にさん付けで呼び合う。教えた事をメモ取りながら黙々とこなす檸檬。頑張って、どうにか続けてこの仕事を。
うちの会社は事務のみならず、販売から接客から商品管理、新商品提案、企画まで、マルチにこなす。ハンサムな檸檬はたちまちお客さんの人気者になった。
「安西君、安西君」
って、ファンが付いちまった。あれあれ、まあいいや。
「安西君、前は仕事、何やっていたの?」
「音楽業界にいました」
「へえ、だからそんなにイケてるのね」
「ん、イケてるかどうかは…」
「どうして辞めたの?」
「浮き沈みが激しくて、もう無理でした。ただそのおかげでこの会社に縁があったから良かったですけど」
お客さん、そんなに根掘り葉掘り聞かないで、檸檬を傷つけないでね。
「へえ、そうなんだ。安西君、結婚しているの?」
「いいえ、独身です」
んまあ、私でさえ聞けない事をずけずけと!
「結婚した事ないの?」
「いえ、一度したのですが、別れたんです」
あ、そうだったんだ。
「いつ結婚したの?」
「2年前です」
「相手は何をやっていた人?」
「歌手でした」
「その人のどこが良かったの?」
「目指すものが同じだったので良いかと思いまして」
「子どもは?」
「いえ、いません」
「離婚の原因は?」
「どうしてもそうせざるを得なかったので…。生活観とか社会観が違っていました」
「いつ別れたの?」
「今年の1月です」
「あらあ」
あらあ、じゃないよ、お客さん、聞き過ぎだよ。嫌でも聞こえる会話を耳にしながら、檸檬は離婚直後に私と再会したんだと分かった。
神様が、家庭と仕事をほぼ同時に失い、路頭に放り出された檸檬を私の目の前に差し出してくれた。心の奥底でずっと恋しかった檸檬を救済しなさいと、バトンを渡されたような気がする。
就職して間もない頃、若かった私と檸檬は輝いていた。
会社が休みのたびに私は阿佐ヶ谷に通い、檸檬と過ごした。初めて結ばれたのも檸檬のアパートだった。幸せだったよ。
「いつか結婚しよう」
って、言ってくれたし。勿論頷いたよ。ああ、檸檬と結婚出来たらどんなにいいだろう。
19歳の誕生日も、クリスマスも、必ず一緒だった。裕福ではなかったけど、精神的には満たされていた。何度も何度も永遠を誓ったし。部屋の合鍵ももらっていたし、今がずっと続けばいいって思っていたし、絶対に続くとも思っていた。
そう、何でもない時がいちばん幸せだったな。
檸檬がオーディション受けに行くたび、祈るような気持だった。檸檬、絶対受かって。私は会社員だし、歌や踊りや演奏や演技、まして作詞作曲なんて出来ない。だからこそ、檸檬みたいに才能があって、叶えたい夢を持っている人にたまらなく惹かれた。
そうそう、上京して間もない頃、何回か痛い目に遭った。
何も知らずに友達に連れて行かれた組織販売会社で、高額商品を年間契約させられた事があった。その時、檸檬が弁護士に相談してくれ、あっという間に解決してくれた。交通事故に遭った時も、その場で警察や病院、保険会社に連絡して示談金等、難しい手続きをあっという間に済ませてくれた。ヨガを習うつもりで行った場所が実は怪しい宗教団体だった時も、弁護士を立ててお布施として取られたお金を取り返してくれたし、資格商法に引っかかった時も、教材代を全額取り返してくれた。
勿論そのたびにああ助かったと安堵したし、惚れ直したし、檸檬がいてくれて本当に良かったと思ったよ。自分は男を見る目があるとも思ったしね。檸檬は気を付けろ、と注意する事はあっても、私を怒る事は決してなかった。何かする前に自分に相談しろとか、頼られると嬉しいと言ってくれた。
檸檬は本当に優しくて、心も広くて、仕事の大変さも分かってくれ、何より私をたいせつにしてくれた。そして自分の仕事の事はあまり話さず、黙って色々な事に耐え、挑戦し続けていたように見える。ただ、あまりにも優しい人って芸能界には向かない気もした。人を蹴落とすような事は絶対しないし出来ない人だしね。
最初、あまりにもオーディションに落ち続け、たまに受かっても外される事も多く芸能界って、理不尽な事が多いと憤慨した。大きな仕事(売れている歌手のバックで演奏する)があってもギャラは世間の人が思う程高くないし、生活費であっという間に消えた。
一方会社員として働いていると、周りで早い子は20歳婚するし、赤ちゃんも生まれる。結婚式に招待されたりするとやはり羨ましいし、檸檬といると楽しくてときめきも多いけど、将来どうなるか分からない不安感は否めなかった。そしていちばんの不安材料は、収入にばらつきがある事だった。
私の方は、給料も少しは上がったし、ボーナスももらえ、それは有り難かったけど、寮費や光熱費は給料天引きで、その上社内預金もしていたから手取りは少なかった。まだ若いし、友達とあちこち遊びに行きたいし、洋服やアクセサリー等、欲しいものもいっぱいあって、お金はいつもなかった。勿論檸檬もお金なんてなかったけど、それでもある時お財布見たら檸檬のメモと一緒に3000円入っていた事があったよ。「このお金をたいせつに使ってくれ」って書いてあった。
心が痛むやら、温まるやら、絶対にこの人とずっといたいと思った。檸檬も頑張っている。我がまま言う訳にいかない。我慢、我慢。もうむやみに買い物しない!金銭管理能力を身に着けよう。それよりこの人を支えて、スターになるのを見届けよう。気持ちをそう切り替えた。
だが現実に、新宿の学校を卒業しても、芸能事務所に所属しても、いわゆる固定給はなく、仕事一本につき幾らってスタイルだし、交通費や衣装は自前だからいつもお金はなかった。
「檸檬、このままオーディション受からなかったらどうするの?」
「そんな事、考えてない。考えられない」
檸檬はアルバイトをしょっちゅう代わりながらぎりぎりの生活を続けていた。いつもお金なくて、生活は厳しかった。
檸檬は決して弱音を吐かなかったし、まして私のお金をあてにしたりしなかったけど、段々追い詰められているのは分かった。何とかしてあげたかった。
★
「ねえ檸檬」
檸檬の髪に若白髪を見つけた時に思い切って言った。
時代は平成に移っていた。
「例えば、27歳までにメジャーになれなかったら諦めて就職するとか、決めてもいいかと思うんだけど」
あと2年ある。みんなが就職している年齢になっても檸檬はオーディションを受け続け、落ち続け、バックバンドのトラ(代わりに演奏する人)やらアルバイトでつないでいる。見ていてハラハラするよ。芸能事務所の理不尽な仕打ち(一度決まった仕事が他のタレントに変更になる)に耐え、それでも夢を叶えようとする檸檬を応援したいけど、周りはどんどん足元固めていくし、家庭を持っているのに、そう出来ない檸檬と自分に焦るよ。
「そんな事言われると憂鬱になるよ。俺はネクタイ締めたサラリーマンになる気はないし、かといって、工場職も嫌だよ」
あれ?私は檸檬に憂鬱を与える存在になっているのか?
新潟の同級生はどんどん結婚している。地方だから早いんだよね。子どもも2人、3人と生まれている。私は何も変わらない日常。会社のみんなもそろそろお年頃でさ。
「川北先輩、私結婚するので披露宴来てください」
なんて後輩に言われると嫌な気持ちになるよ。
「川北先輩、結婚しないんですか?」
そんな、余計な事聞かないで。
「彼氏、いるんですよねえ。結婚の話とかしないんですか?」
「そういう話はした事ないよ」
「えーそうなんですか?意外。彼氏、何やっている人なんですか?」
「バンドマン」
「あ、そりゃあ…ねえ」
そりゃあなんだよ!私ももう24歳だし、そろそろ身を固めたいけど、肝心の檸檬がいつまでもアルバイトだし、オーディション落ちてばっかりだしどうすりゃいいんだ!
檸檬に不安をぶつけた。
「檸檬、檸檬が好きだよ。だけどこのままじゃ不安だよ。私たちどうなるの?」
「そんな事分からないよ。それでも、音楽が好きだから続けていきたいんだよ」
「今はまだいいけど、40歳くらいになってもアルバイトじゃかっこ悪いよ」
「どうして欲しいの?」
「次のオーディションで受かって、次で絶対決めて」
「無茶言うなよ、憂鬱になる。最近の奈江といると憂鬱だ。前は楽しかったけど」
「檸檬といたいの」
「だったらこのままの俺を受け入れてくれ」
「会社の独身寮だけどね、25歳になったら出なきゃいけない規定なの。もうすぐ自分でアパート借りる事になるの」
「なら、このアパートで一緒に暮らすか?」
「いいの?」
「勿論」
翌月から寮を出て檸檬と暮らし始めた。檸檬が売れたら結婚する。そう思って仕事と檸檬の生活を何とか両立させた。檸檬も頑張っている。だから私も…。檸檬、何とか売れて、生活出来るようになって。そうすれば、きっと幸せになれる。自分にそう言い聞かせた。
だが現実はもっと私たちに迫って来た。檸檬はたまにオーディションに受かってもギャラは少ない。その仕事の為にアルバイトを休むので、アルバイト代はいよいよ少なくなる。地方に行く事も多く、そうなるといったんそのアルバイトを辞める事になるし、次を探すのも一苦労だ。檸檬はすまなそうにしているけど、今はこうするしかないけど、やはり不満だったし、不安だった。
ただ、落ちたオーディションで学ぶ事は多かったらしく、少しずつ指名をもらえるようになってきた。バックバンドのトラで良い仕事をした時は、次回からトラでなく、檸檬がメンバーとして参加出来たし、当時バンドブームという事もあり、追い風が吹き始めていたように見えた。
特に、あちこちのライブハウスに毎週出演出来るようになると、マニアックなファンも付き、一度のステージで10万円くらいは入るようになり、少しは前進しているように思えた。どのバンドもボーカルとギターは目立つけど、檸檬のようなキーボードはあまり目立たない。檸檬と街を歩いていても囲まれる事はなく、そこも助かった。ああ檸檬がキーボード奏者で良かった。だが定収入はない。檸檬との生活は、先がまったく見えなかった。
私は私で会社員生活8年目に入っていた。
どこの夫婦もカップルも、家事と支払いの分担で揉めるというけど、私と檸檬はほとんど揉めた事はなかった。家賃や光熱費は共有の口座から引き落とされる。毎月月末に、お互い5万円ずつ口座に入金しておき、残った分は何かあった時の為に貯金しておく。それとは別にお互いに5万円ずつ共有の財布に入れておき、そこから食材や日用雑貨を買う。
家事は帰りの遅い檸檬に代わってほとんど私がやっていたが、檸檬はひとり暮らしを経験しているだけに、決してやってもらって当たり前という態度は取らなかったし、洗濯物を取り込んだり、たたんだり、隙間時間を見つけては掃除機もかけてくれたし、料理もうまかった。
だからお互いにやってあげている、とか、やらされている、という感覚はなく、そこも心地良かった。あと、何か言った時に返って来る答えも、もっと言えばただ黙って過ごしていても心地良かった。檸檬は決して人を傷つける物の言い方しないし、声を荒げた事もなかったしね。時間にルーズってーのだけは、気になったけど…。
一緒に暮らし始めた頃、私は仕事を終え食材の買い物をしてからアパートに帰り、まず普段着に着替えて手を洗い、米をとぎ、みそ汁やおかずを作る。いつでも食べられる状態にしてから、一夜干しした洗濯物を取り込み、その日使うタオルや着替えを除き、残りをたたみ、次の日の天気予報を確認して晴れなら洗濯機を回し、その間に風呂や部屋、トイレの掃除をする。洗濯物を干し、翌日の支度をして、その後、帰って来た檸檬と晩御飯を食べ、歯を磨き、二人で食器や生ごみの後片付けをしてから交代で風呂に入り、髪を乾かしたり顔の手入れをしたり、その後やっと寝るのだが、毎晩遅くなり、寝不足になり、仕事中に気絶しそうになる程の眠気に襲われるようになってしまった。朝はぎりぎりに起き、顔を洗い、化粧をし、果物だけの朝食を済ませ、着替えてから会社へ向かう。
「檸檬、家事が大変だよ」
と言ったら
「俺ももっと協力する。奈江、お風呂を先にしたら?」
と言ってくれ、家事の順番を紙に書き出してくれた。…そうね、そうしてみよう。
翌日から、アパートにまっすぐ帰ると、まず干していた洗濯物を取り込み、その日に使う着替えやタオルを風呂場の前へ持って行き、そこでカーテンを閉めて外から見えないようにした上で下着姿になり(普段着に着替える手間を省く)、その恰好のまま部屋とトイレを掃除し、靴と玄関の三和土を磨き(手を洗う前に汚い事をやってしまう)、その後風呂へ入る。お湯を溜めている間に髪顔体を洗い、湯船につかりながら顔の手入れをし、あがったら髪を乾かす。それから洗濯物の残りをたたんでしまい、帰って来た檸檬が風呂に入っている間に料理をして、出来立てを檸檬と食べ、一緒に後片付けをしてから並んで歯を磨く。何と順番を変えた途端に2時間早く寝られるようになった。米も毎回炊飯器の容量いっぱいに炊くようにした所、3日に一度炊けば足りるようになり手間が激減した。
朝は早めに起き、パジャマ姿のまま洗濯機を回し、その間に風呂と洗面台を掃除し、顔を洗い、化粧をし、果物を食べ、二人で洗濯物を干してから着替えてそれぞれ出掛ける。朝の支度も要領よくスピーディーになった。食材や雑貨の買い物は休みの日に二人で一週間分をまとめて買うようにした。これで時間もお金も体力も、かなり節約出来るようになったし、これは何曜日の食材、等考えて冷凍保存するなどの工夫も生まれた。
また、檸檬は物を置く事を好まなかったので、必要最小限の物で暮らす心地良さも学んだ。私は寮で暮らしていた頃、むやみに物を増やして部屋を狭くしたり、給料以上に買い物をしたり、金銭感覚が狂った時期があり、檸檬と暮らすようになってから、物をそぎ落とす快感と、経済観念に目覚めたよ。当時断捨離とかミニマリストって言葉はなかったけどね。そう、生活自体は心地良く、ずっとこのままでいたかった。
だが、社会的にはぎりぎりの綱渡りをしているようなものだった。私には定収入があるが、檸檬の収入は安定しない。良い時は40万くらい入るが、酷い時は5万円というギャラの時もあった。来月どうなるか分からない。檸檬はどんな仕事もいとわず精力的に取り組んでくれた。不本意な仕事(エキストラや、テレビやイベント会場で動物の被り物をして踊ったり、バラエティ番組で体操服を着てマット運動をしたりする)も、文句ひとつ言わずやっていた。自分の為、私の為、将来本当に好きな仕事をする為、檸檬は決して弱音を吐かなかった。だが段々追い詰められているのは見ていて分かった。オーディションを受け、アルバイトをし、頑張っている檸檬を見ているのはつらくなってきた。
明け方に帰って来たのに、昼にはもう次の仕事へ行こうとする、疲れ切った姿を見た時、耐えられず言ってしまった。
「檸檬、ぎりぎりの生活を続けるのは怖いよ。余裕のある将来を見据えた生活したいよ」
「憂鬱だ。そう言われるとたまらなくなる」
「檸檬、就職してくれない?今ならぎりぎり20代だし、間に合うよ。30歳になる前に」
「就職なんて、何て事、言うんだよ。仕事や生き方に口出ししないでくれ」
「この生活がいつまで続くの?分からないから嫌なの」
「俺が好きならこのままここにいてくれ。安定した生活を望むなら、もう誰か良い人を見つけてくれ」
「誰か良い人なんて、何て事、言うの。酷いよ」
「そんな事を言う奈江と一緒に居ても楽しくないよ」
「檸檬の為を思って言っているんだよ。檸檬と一緒にいたいから言っているのに」
「やめてくれ、仕事に障る。これから仕事なのに」
「事務所の人に便利に、いいように使われているよ。使い捨てされるよ」
「それは酷い、言っても良い事と悪い事がある」
「先月のギャラ、幾らだった?」
「もう言わないでくれ、黙ってくれ」
「もう耐えられない、見ていられない」
「こっちも耐えられない、焦ってがつがつしている奈江を見たくない」
焦ってがつがつという言葉に腹が立った。初めて檸檬に傷つけられた。
「今の酷いよ、それこそ言っても良い事と悪い事がある。もう嫌、別れよう」
勢いでそう言っちまった。けど、ずっと、漠然と、そう思ってきた。もう限界だった。絶対にずっと好きだと、永遠を誓ってくれた檸檬。何度も愛し合った檸檬。ステージでは颯爽としている檸檬。輝いている檸檬。夢を持つ檸檬。絶対に叶えようと努力し続ける檸檬。確かに才能のある檸檬。
私にとって本当に特別な人、檸檬。檸檬、檸檬、檸檬。
でももう待てない。私も28歳。会社でクリスマスケーキ(女は25歳までに結婚しないと価値が下がるという意味)とか、オールドミスとか、お局様とか、酷い事を言う人もいるし、色々な人に、何故結婚しないのかと散々聞かれ、ずっとつらかった。嫌でも再来年には30歳になる。そうなったらもっと酷い事を言われるかも知れない。誰に何を言われても自分を貫けばいいのかも知れないけど、私はそんなに強くもないし、いつまで待てばいいか分からないあなたとはもういられない。まるで行き先の分からない汽車に乗っているような気持ちよ。今ちょうど乗り替え可能な駅に着き、良いタイミングで扉が開いたような気がする。今ならこのどこへ連れて行かれるのか分からない汽車から降りられる。行き先の分かっている、安心できる汽車に乗り換えられる最後のチャンスかも知れない。この不安な汽車からは、もう飛び降りてでも、逃れたい。
「分かった、別れよう。ただし、これは発展的解散だ」
青ざめた檸檬が言う。当時社会現象を起こしたロックバンドの解散理由だった。私も檸檬もそのバンドが好きだった。そう、発展する為に、幸せになる為に、檸檬とのユニットを解散する。檸檬は振り返らずに仕事に行ってしまった。ぽつねんと見送る私。本当にこれでいいのか?こうするしかないのか?他に、何か、方法は…?
やっぱり現実を見よう、そう思った。翌日から仕事帰りにアパート探しを始めた。社内預金はともかく、個人の貯金はほとんどなかったけど、間もなく入るボーナスが救いだった。この時、改めて会社員で良かったと思えた。何軒か見て決めた。
「檸檬、私、新しいアパート見つけたの」
「どこ?」
「高円寺」
ひと駅しか変わらない所にあえて決めてしまった。離れても、離れたくない、こういう気持ち、分かって欲しい。
「気持ち、変わらないんでしょう?」
と、聞いてみる。やっぱり別れないでいようとか、何とか言って欲しかったけど…。檸檬は黙っている。ああ変わらないんだと思った。
檸檬と二人でお金を出し合って買ったものを分ける。これは檸檬、これは私。お揃いで買ったものもたくさんある。ずっと一緒にいられると思っていたのに…。
「写真は全部捨てた方が良いよ」
そう言われ、未練たらたらだったけど、檸檬の目の前でアルバムごとごみ箱に入れた。檸檬がごみ収集所へ持って行く。拾いに行く訳にいかない。ああもう、写真さえ見られない。
最後のバレンタインが来た。チョコレートを渡しながら言う。
「お返しは、いいからさ」
躊躇している檸檬。何度も二人でチョコやキャンディーを渡し合った楽しい日々が蘇る。絶対こんな日々が続くと思っていたのに…。もう二度とあんな日は来ないんだろう。ホワイトデーなんか来なきゃいい。
最後の夜、口をついてこんな言葉が出た。
「檸檬、明日の朝、私がこの部屋でいちばん欲しいもの、ひとつ持って行ってもいい?」
「ああいいよ」
もう私という存在に疲れ果てていたのだろう。檸檬が即答する。…少し考えてから言う。
「欲しいものって何?」
こちらも即答する。
「これ」
檸檬を指して言う。
「え?何?」
と、意味の分からない檸檬が聞く。
「だからこれ」
私は檸檬を指差したまま言う。
「???」
分からないって顔の檸檬を指しながら私は言い続ける。
「これ」
…やがて悲しそうな顔の檸檬が言う。
「あげられ…ないよ」
ようやく私も黙り込む。
翌朝、身支度を整えた私は感慨深い思いで部屋を見回す。私と檸檬が3年半も暮らした部屋だ。思い出もたくさんある。二人で支え合い、何度も愛し合い、永遠を誓い合い、絶対離れないと約束を交わし、共に夢を見、生活をした部屋。
キーケースから、もらっていた合鍵を外してテーブルに置く。
「檸檬」
呼びかけるのも、もうこれが最後なんだ。心にでっかい穴があいたみたい。ビュービュー冷たい風が吹き抜けるよ。この穴と当分付き合っていかなきゃなんだ。
眠っていた檸檬が起き上がり、私を見送る為に玄関まで来てくれた。
靴を履き、檸檬に向き直る。
「長い間、お世話になりました」
深々と頭を下げる。高校2年生で出会ってからの思い出が走馬灯のように駆け巡り、張り裂けそうになる。
優しくて穏やかな檸檬。
低めの落ち着いた声でゆっくり喋る檸檬。
私をたいせつにしてくれた檸檬。
一緒にいる空間が心地良かった檸檬。
道端のごみを拾う檸檬。
電車内で妊婦や年配者に席を譲る檸檬。
自分の才能を信じ、絶対に諦めない檸檬。
「悪かったな、奈江の人生、狂わせたみたいで…」
檸檬が言う。
顔を上げた。何とも表現しがたい顔をしている。新潟駅で新幹線に乗り、私を見つめていた時と同じ眼差しだった。檸檬を思い出すたびに、この顔が浮かぶだろう。
「迷惑かけたのは私だよ。檸檬は悪くない。東京に出て来られたのも檸檬のお陰だし、トラブルに遭った時も必ず助けてくれたし、ここにも住まわしてくれた。今日まで、よく面倒見てくれ、た、よ…」
そんな風に思っていたなんて意外って顔をする檸檬。
「檸檬」
抱きつきたいのをぐっと堪える。もうこの人の体温を感じる事さえ出来ない。あんなに何度も抱きしめ合ったのに…。
私が檸檬にしてあげられる事は何もない。
ミュージシャンとして売れるようにしてあげられる訳でもない。
アルバイトを見つけてあげられる訳でもない。
ずっと待ってあげられる訳でもない。
もう気持ち良く別れてあげる以外、なんにもしてあげられない。
こんなに素敵な人と別れなきゃいけないなんて。まだこんなに好きなのに。
最後に、これだけは言っておきたい。
「檸檬。やっぱり檸檬は私の一等賞の男だよ」
やっと一声押し出す。
「…」
答えられない檸檬がちらりとテーブルを見て、合鍵が置いてあるのにさびしそうな顔をする。
「頑張ってね、応援しているよ。本当に、あり、が」
最後まで喋れなくなり、ドアを開けて出て行った。
「奈江、頑張れよ」
私の背中に檸檬が言う。私は声を出さずに泣きながら階段をかけ降りる。合鍵のない私はもう二度とこの部屋に戻れない。檸檬はそれを分かっているのか、ドアの鍵を掛ける音が聞こえてこない。いつもはすぐ鍵掛けるのに…。ただドアを見つめながら立ちすくんでいるのであろう檸檬を思い、胸が締め付けられる。
アパートを改めて見上げる。もう二度とここに帰れない。あんなに楽しかったのに、あんなに好きだったのに、あんなに夢を確信したのに…。
その日一日、悲しいのを堪えて仕事をした。大事な書類や伝票に涙をぼたぼた落とす訳にいかない。帰り道も泣きたいのをぐっと堪えて歩いた。
…そして新しいアパートに着き、ドアを開けた途端にタガが外れたみたいに泣いた。
わあああああああああん!
もう、止まらなかった。1時間くらい泣き続ける。
11年も好きだった人だもの。そんな簡単に忘れられない。けど忘れなきゃいけない。ひとり暮らしだ、思い切り泣こう、わめこう。それで癒そう、忘れよう。近所迷惑かな、ご近所さん許してくれ。
新しいアパートで初めて朝を迎えた時、
ひとりぼっちの部屋に帰り着いた時、
スーパーでひとり分の食材を籠に入れた時、
慣れない通勤路に慣れてきた時、
ひとりで食事する事に慣れてきた時、
檸檬とお揃いで買ったマグカップを落として割った時、
お揃いの傘をレストランの傘置き場で誰かに持って行かれた時、
お揃いのシャツに落ちないシミを付けてしまった時、
檸檬が買ってくれた手袋を、駅の券売機で切符を買う際に外したまま置き忘れた時、
そのときどき、凄まじい喪失感をおぼえた。
自分を叱りつけたり、励ましたりして過ごす。こうしてこの恋の形見がひとつずつ私の手からすり抜けていくのかな。そのうち、思い出す事もなくなるのかな。あんなに私をたいせつにしてくれた人にはもう会えないんじゃないのかな。この先、檸檬以上の人に会えるのかな。どうして別れたんだろう。どうして就職してくれなんて言っちゃったんだろう。
あまりにさびしく、別れなければ良かったとも思ったが、自由になった事と方向性が決まった事は嬉しく、やはり別れて良かったとも思えた。恋しいような、良かったような、前進したいような、戻りたいような、思考は千々に乱れ、ぶっ飛んでいた。
ホワイトデーの夜、家に無言電話があった。
「川北です」
と出たが、相手は何も言わない。
「もしもし?もしもし?」
と何度か呼びかけたが応答しない。電話の向こうはまるで闇であるかのようにしんとしている。
「…檸檬…?」
と聞いたらそのまま切れた。
ああ檸檬だ。何か言いたかったんだろう。さびしいんだろう。今電話くれたでしょうとか言って折り返す訳にもいかず、ひとりでさめざめと泣いた。
不思議な事に、檸檬と別れた途端に、モテるようになった。会社の内外問わず、色々な人から付き合ってくれと言われ、失恋も悪くないと思ったよ。何人かとデートしたり、お互いの夢を語り合ったり、気楽な、楽しい時間を過ごした。フリーランスはもう懲りていたから、堅実な会社員と付き合うのは、ずっと望んでいた安定した汽車に乗れる切符を手にしたような気持ちだった。この切符を失くしてはいけないと肝に銘じていた。
会社では売り場主任を任され、その分給料も上がったし、仕事は順調だった。仕事に救いを求め、むやみに頑張った。
檸檬はどうしているか気になったけど、もうどうしようもない。深夜の音楽番組や雑誌でたまに檸檬の姿を見る事はあったけど、就職してくれなんて、檸檬がいちばん嫌がる事を言ってしまったし、変な表現だけど、言った自分を諦めてぐっと堪えるしかなかった。
朝夕の通勤で電車に乗るたびに、檸檬の姿をつい探してしまったけど、見かける事はなかった。神様が見かけさせなかったのだろう。
そしてその頃から資格試験の勉強を始め(詐欺には気を付けた)、販売士や栄養士、簿記、パソコン検定や秘書検定、英語検定や漢字検定、ことわざ検定、四文字熟語、フードコーディネーター等色々取得した。お客さんや仕事仲間が見る伝票をきれいに書く為に習字も始めた。いくら勉強しても何か足りなかった。満たされない心を資格で埋めようとした気がする。
また、ひとりで食事をするようになって初めて、独身者が食に対して何を求めているかが分かり、会社に提案書を山のように提出した。実際お腹がすくたびに、アイデアも溢れるように出てくるようになり、常にメモを持ち歩き、思いついた事をその場ですぐメモして、その日のうちに提案書にして会社に出した。これは檸檬と一緒にいた頃にはなかった事だ。会社がどんどん採用してくれるのも嬉しかった。
本社や店舗では色々な人に
「川北さん、結婚しないの?」
って、相変わらず聞かれる。言われるうちが花と言うし、奈江ちゃんと呼ばれなくなったなとも思ったが、やはり結婚、結婚とせっつかれるのはつらかった。
そのせいにしてはいけないけど、29歳の時に、売り場の入っているショッピングモールの時計売り場で働いている5歳年上の人と結婚した。恐れていた30歳独身は免れたのでほっとした。そういう時代だったというのもあるけど。発車ベルぎりぎりで行き先の分かっている汽車に乗り込んだと思った。彼もそうだったみたいだけど。35歳独身免れた、とか言っていたし。
旦那さんは決して悪い人ではなかった。それは付き合っている時から分かっていた。仕事も生き方も真面目だったし、時計売り場で働いているだけに時間に正確だった。時間にルーズな檸檬に慣れていたので、そこは物凄く新鮮に映ったよ。生活費も毎月きちんと出してくれ、私の収入は二人の将来の為に全額貯金しておこうと言ってくれた。何年も檸檬とぎりぎりの生活をしていた私には、それも物凄く有り難い話だった。
絶対に永遠に一緒と誓ってプロポーズしてくれたし、結婚式も挙げたし、花嫁衣裳も一生一度だから好きなのを選びなと言ってくれ、新婚旅行もニューヨークへ連れて行ってくれ、みんなに祝福されたし、私もやっと人並みの幸せを手に出来たと思えた。
ニューヨークでも流暢な英語でホテルやお店の人と話していたし、通勤に便利な場所に一軒家を買ってくれたし、頭金もまとまった金額を涼しい顔で払ってくれたし、引っ越しの時も率先して働いてくれ、何かと頼もしかった。来月給料もらったらああしようこうしよう、次のボーナスもらったらあそこに行こう、ここに行こうとか、子ども生まれたらどこの幼稚園や学校に行かせようとか、繰り上げ返済がどうとか、言う事なす事、典型的な会社員、という感じの人で、望むものを一気に私の人生に揃えてくれ、安心させてくれ、そこは本当に感謝していた。
だが、結婚生活というのは日常の連続という事を理解していない人で、綺麗事も多いし、そこは本当に困った。
彼は私と結婚するまで親と暮らしていて、家事を全部やってもらっていたので、自分が何かするって発想がなかったようで、全部家事を私に押し付けて平気だった。頼んでもやらない。その上何をしてあげても喜ばない人で、閉口した。3度の食事を作っても、お弁当を色とりどりに作っても、掃除しても洗濯してもごみ捨てしても、家の模様替えをしても何も言わない。私はあなたのなんなの?って、思った。子どもが生まれたら、育児も全部押し付けられるんだろうと思うと憂鬱になった。
この人のどこが良くて結婚したのか分からなくなった。とにかくなんにも言わないし、何してあげてもまったく喜ばないから。
そう言えば檸檬はいつもにこやかだったし、何かすれば有難うと言ってくれたな。つい檸檬と比べてしまう。旦那さんには関係ないけど…。
正月に新潟に帰ろうと言っても、俺はこっちにいると言うし、ひとりで帰省するのはつまらなかった。親にもうまくいっているのか、とか変に心配されるし。結婚すればいいってもんじゃないと学習した。新潟のお土産を渡しても、私の親がおいしいお米を送ってくれても、誕生日にプレゼントを渡しても、結婚記念日にネクタイ渡しても、バレンタインに手作りチョコをあげても、何をしても喜んでくれず、悪気がないのは分かるが、独身時代より孤独だった。
徹底的に嫌になったのは、流産した時だった。旦那さんは何を勘違いしたのか、産院のスタッフにいちゃもんを付けていた。
「女房の気持ち考えろよ。流産して、処置済んで、ひとりぼっちで放置するなんて酷いだろう。そばにいて手を握るとか何とかしろよ」
そう言われた産院のスタッフさんたちは困惑していた。私も困惑した。その人たちは次々に来る患者さんたちを診なければならず、流産した私ひとりにかまっている場合ではなかった筈だ。それこそ流産しかかっている人、破水して赤ちゃんが生まれそうな人、一刻を争う人、私より優先順位の高い人がたくさんいたのに…。なんておかしな綺麗事を言う人かと呆れた。
「あの人たちは仕事があったんだから、仕方ないでしょう」
と言ったが、私をたいせつに思って言っている訳でなければ、流産した事を残念がっている訳でもなく、私に良く思われたい、第3者にいちゃもんを付ける事で自分がなかなか病院に来なかった事を誤魔化している、もっと言えば、妻思いの優しい夫を演じているというのが嫌でも分かった。腹が立ち、
「あなただって、今の今まで私を放置したでしょう」
と言ったが
「俺は仕事があった」
と言い訳する。
「だったら、あの人たちも同じでしょう。綺麗事、言わないでよ」
と言いながら、どんどん愛情が冷めていくのと、女性の影を感じた。相手が誰かも検討が付いていたし、同情も、下手な嘘も、猿芝居も、何もかもまっぴらごめんだった。わざとらしく握ってくる手も振り払った。虫唾が走り、この人嫌だ、と心底思った。
だから、退院した直後に離婚した。
で、また不思議だったけど、離婚した途端に、モテるようになった。ああ離婚も悪くないって思えた。恐れずとも、30代、バツイチなんてどうって事ないとも思えた。救いを求める仕事もあって良かった。何か、男性と別れるたびに仕事に救いを求めているような気もしたけど…。
そう、私は自分に自信がなかったのだ。だから年を重ねるのが恐ろしくてたまらなかった。30になったらどうしよう、40になったらどうしよう、このまま独身だったらどうしよう、誰からも相手にされなくなったらどうしよう、なら1歳でも若いうちに、誰かに相手にされるうちに、どうしようもなくなる前に、誰かと結婚したい、誰かに幸せにして欲しい、そんな他力本願な考え方をしていた。
檸檬も、旦那さんも、さぞかし迷惑だったろう。悪かったな…。
その頃から深夜のテレビや音楽雑誌で、また檸檬の姿を探すようになった。
バンドは解散し、LEMONと名乗ってソロ活動するようになっていた。誰も本名とは思わないだろう。知る人ぞ知る存在になっており、このままうまくスターダムにのし上がるのではないかと良い予感がしていた。マニアなファンが支える中、グラムロック的な楽曲を次々に発表し、多くのアーチストをプロデュースし、スターに育て上げ、ヒットを連発、音楽雑誌に鬼才現ると特集が組まれた事もあった。
LEMON、どうか頑張って、
LEMON、どうかこのまま上に行って、その地位を不動のものにして。
祈るような気持ちで見守る。雑誌もCDも全部買ったし、アパートに帰ってから、LEMONと印字されている箇所を、何度も指でなぞり、目の前で奇跡が起こった事に呼吸が止まるほどの衝撃を受けていた。檸檬がプロデュースする歌手のコンサートにも何度も足を運び、客席からステージ上の歌手と言うより、バックでキーボードを奏でる檸檬を、まるで神を見るような思いで見た。
ああ檸檬、あなたとあのまま一緒にいれば良かったのかな。もう私の手の届かない所へ行ってしまったけれど…。
もしかして私の本当の運命の人は檸檬だったのかも知れない。たったの17歳でその人に会うとは思っていなかった。もし檸檬だったら、流産した私を黙っていたわる事はあっても、綺麗事は言わなかっただろうし、まして産院の人にいちゃもんなどつけなかっただろう。いずれにしても仕方なかった。
★
恵比寿に新店舗を出すという事で、店長に抜擢された。本社との掛け持ちで忙しさは半端なかった。今日は店舗、今日は本社と飛び回り、一心に仕事をこなす。自分が決定権を持つというのはこんなに恐ろしく、そしてこんなにやりがいのある事だったのかと目のくらむような充実感に満たされていた。
忙殺されていて気が付かなかったが、音楽番組や雑誌等で3年以上、LEMONを見かけなくなっていた。充電期間かとも思ったが、年賀状で同級生からこんなメッセージを受け取った。
「安西先輩が新潟に帰ってきているらしい」
…びっくりした。まだ東京にいるとばかり思っていたから。
ただ、翌年の年賀状にこう書いてあった。
「安西先輩はもう一度勝負すると言って東京へ出たらしい」
安堵した。自分が就職してくれといっておきながら、変だけど。
35歳の誕生日に2度目の結婚をした。友達の紹介で会ったその日に意気投合し、わずか2カ月でのスピード婚だった。もう
「結婚は?」
と聞かれなくて済む。ほっとした。時代のせいにしてはいけないが。
本当に縁のある人とはすぐにゴールイン(今は死語だ。結婚はゴールではなくむしろスタートだ)出来るものかなという気がしたし、今度こそ添い遂げようと思った。だが、後から色々分かってきて別の意味で焦った。
その人も決して悪い人ではなかった。豪華なクルーザーの上で、絶対に幸せにするし永遠に一緒と誓って、100本はあろうかという深紅のバラの花束と共に公開プロポーズしてくれ、そのクルーザーにいた多くの乗客が、見知らぬ私たちの為に拍手喝采してくれ、夢のように幸せな気持ちにさせてくれた。私の方は再婚といえども(その人は初婚だった)超一流ホテルで大規模な挙式披露宴を行なってくれ、親や親戚は勿論、会社の人たちも、今度こそ幸せになれるねと祝福してくれ、私も本当にそうだと確信した。婚約指輪や結婚指輪も有名ブランドのものを買ってくれたし、新婚旅行もフランスに連れて行ってくれ、住まいも都心の新築億ションを購入してくれた。
そして何よりいつも(家でも外でも)、奈江、奈江、と私にべったりで、私に夢中だと言って、会う人、会う人に僕の恋女房ですと紹介し、こちらが恥ずかしくなるくらいだった。
だが金銭感覚が違ったのだ。それほど恐ろしい事はない。
アパレル業界で働く同い年の2度目の旦那さんは、優しい事は優しく、お洒落で華やかな事が好きで、私にも華やかな生活をさせようと頑張る人で、それは有り難かったが、本人に仕事に対する向上心があまりなく、会社をしょっちゅう休む。
最初年収を2000万と言っていたが、年末調整の時に実際は800万だった事が分かった。私にええ格好したかったのは分かるが、すぐばれる嘘をつかれるのはやはり困った。
出掛けるたびに私に何かしらプレゼントを購入し、そんなにしてくれなくていい、貯金をしようと言っても、喜ぶ顔が見たいと言って、洋服や靴、バック、アクセサリーを山のようにくれ、私を着飾り、自分も着飾り、高級レストランでフルコースを注文し、外車を乗り回し、その支払いの為に多額の借金を抱え、それを私に隠しながら、借金で借金を返していた。
私も菜々花の独身寮にいた頃に金銭感覚が狂い、給料以上に買い物をして後から青くなった経験があるので、気持ちは分からなくもなかったが、その人の金銭感覚がいつまともになるのか分からず、常にハラハラし、無意識のうちに家の中で鎧を纏うようになっていった。私の貯金で何度か借金を返済したが、またすぐ新しい借金を作って来る。
前の旦那さんと違い女性の影は感じず、そこは安心させてくれたが、私の貯金はどんどんなくなるし、借金はどんどん増えるし、そこは不安にさせられた。
「どう?新婚生活は?」
と無邪気に聞いてくる上司や同僚も
「強運だね、玉の輿に乗ったね」
と何も知らずに言うお客さんもいた。
傍から見れば優雅な暮らしをしているように見えたかもしれないが、中にいる私は常に危機感を持ち、増え続ける借金が恐ろしく、その人との生活は心地が悪かった。着ている鎧もどんどん分厚くなっていった。
映画や音楽の趣味も違う。その上水回り、特にトイレの使い方があまりにも汚くて閉口した。言うに言えず黙って掃除し続けたが、見るたびに汚れていて幻滅し、愛情はどんどんなくなり、毎日の事で本当に耐えられず、同時に借金の額がマンションや車のローン以外に3000万に達した所で精神の限界を感じ、1年で離婚した。
この時も、檸檬は収入が安定しない芸能人でありながら金銭感覚がまともだったし、借金癖もなかったし、好きな映画や音楽も合っていたし、トイレの使い方も綺麗だったと思い出していた。檸檬と比べるからいけないのかも知れない。けど、どうしても、檸檬が良過ぎた。たったひとつ、フリーランスという事さえ除けば…。
2度目の結婚をわずか1年で終えた私に
「結婚は?」
と聞いてくる人はいなくなった。別の意味で、もうこの人は結婚に向かないと思われたらしい。ほっとしたような、さびしいような。また仕事に救いを求めて懸命に働く日々になった。菜々花を辞めなくて良かったと心から安堵していた。
それから2年、もう焦らない。焦ってもしょうがないし…。そう思っていた。
そんな私に神様が檸檬を返してくれた。
今日、会社で檸檬が初めてのボーナスをもらった。40歳にして初めてのボーナス。本当に良かった。ボーナスを受け取れるまでに続けられて。次のボーナスも是非受け取って欲しい。黙って見守る。
「安西君、会社のすぐ近くに安くていいアパートあるよ」
専務が広告を見て言う。
「ほんとだ」
檸檬が図面を見ている。檸檬が独立したいというなら勿論喜んで送り出すよ。今のアパートは確かに二人じゃ狭いしね。
「ここ、独身用と、ファミリータイプもあるよ」
専務が言う。
思わず願った。ファミリータイプを借りれば、まだ一緒に居られる。二度も離婚した身、結婚まで望むほど図々しくなれない。同じ間違いをしたくないから友達として、と言ってしまった手前もある。けれど一緒に住むだけなら…。
図面には、キッチンとバストイレ、6畳の和室と同じ広さの洋室。本社から歩いて10分くらいだし、家賃は9万。折半すれば今の家賃、6万円より安い費用で暮らせるし、通勤も楽になる。けど、そんな事は口が裂けても言えない。若い頃は平気で言えた事が今は言えない。一緒にいたい、その一言が。
アパートに帰り、いつものように家事をし、風呂へ入り、湯船につかりながら顔の手入れをし、あがって髪を乾かし、料理をする。いつものように質素な食事(2度目の旦那さんがあまりに散在するので、かえって質素な食事や生活が好ましくなった)を並べた食卓に檸檬と向かい合う。
「いただきます」
微笑んで食事をする。
「ボーナスももらえたし、俺、そろそろ自分の部屋、借りた方がいいのかな」
と、ぼそぼそ言う檸檬。
「無理しなくていいよ」
精一杯答えた。檸檬に出て行って欲しいなんて思っていない。むしろいて欲しい。心地良いから。
いつまでこの生活を続けられるのか?
分からないからこそ、今この瞬間がたまらなく愛おしい。
昔はいつまでこれが続くのか、分からないのが耐えられなかったが。
ちょうど10年前の今頃になるのかな。あなたがバンドを解散し、仕事を失ったのは…。
LEMONと改名してソロで活動をスタート、端正なルックスと独特の楽曲で注目を集め、鬼才と呼ばれて雑誌で特集を組まれたり、次々にヒットを放ち、コンサート会場を満杯にしたり、元妻(その時点ではプロデューサーと歌手という関係だった)を始めとする様々なアーチストに曲を提供したり、いっとき良い位置に行けたものの、すぐ沈み、また浮かび、また沈み、何度か繰り返した後、もう二度と浮かび上がれなくなり、所属事務所を不当に解雇され、新しく契約してくれる事務所も見つからず、フリーで活動する事さえ叶わず、生活がどうにも成り立たなくなり、力尽きて新潟に帰った時どんなに悔しかったか。
翌年もう一度勝負すると言って上京した時どんなに漲っていたか。
音楽関係ではやはり大成できず、アルバイトもだんだん雇ってくれる所がなくなっていった時どんなに心細かったか。
かつてプロデュースした女性歌手と久しぶりに再会し、周囲に祝福されて結婚、何とか音楽業界で生き残ろうと決断した時どんなに幸せを感じていたか。
オーディションを受けに行く時どんなに明るい未来を描いたか。
落ち続けどんなに落胆したか。
書きためた楽曲を提供しようにも誰も相手にしてくれなくなり、どんなに虚しかったか。
どうしてもヒットが出せずどんなに惨めだったか。
妻とどうしてもうまくいかず離婚し、同時にうまい話に騙され全財産を失った時どんなに打ちのめされたか。
本来冷静で、私がトラブルに巻き込まれた時にいつも助けてくれた檸檬が、そんなうまい話にすがらざるを得なくなるなった時、どんなに切羽詰まっていたか。
住む家さえ失くして徹底的に心が折れた時どんなに絶望したか。
行く所も帰る所もなく、公園で寝ようとベンチに横になった時、どんなに寒かったか、ひもじかったか、さびしかったか、それはもう、察してあまりあるものがある。
檸檬、私に出会ってくれて有難う。
新潟で、この東京で、二度も出会ってくれて本当に有難う。
救済させてくれて有難う。
同じ会社で働いてくれて有難う。
真面目にやってくれて有難う。
このアパートにいてくれて有難う。
ボーナスをもらえるようになってくれて有難う。
どんなにつらくても、死なずにいてくれて有難う。
今、生きていてくれて有難う。
心身ともに健康を取り戻してくれて有難う。
存在していてくれて有難う。
有難う、有難う、心から、有難う。
翌月、檸檬は銀座店の売り場担当になった。接客や商品知識等、懸命に勉強したのを会社が認めてくれたからだ。心から安堵する。
そしてワンルームマンションを見つけ、引っ越して行った。
「本当に有難う、何から何まで面倒見てもらって、感謝している」
そう言ってくれた。
いいよ、そんなの。
ついに指一本触れなかった檸檬との二度目の別れは清々しかった。
また不思議だったけど、檸檬が独立してすぐ、むやみにモテるようになった。あれ、ま?
42歳にして、会社の上司と結婚した。お互い離婚歴あり。さびしい老後は嫌だったし、晩婚でも幸せになれればいい、今度こそ添い遂げたいと思った。
3度目の旦那さんも決して悪い人ではなかった。
豪華ではないにしても挙式披露宴を行なってくれ、花嫁衣装も着せてくれたし、新婚旅行もシンガポールへ行ってくれた。入籍も速やかにしてくれたし、私に2度の離婚歴がある事をとやかく言うどころか、自慢の妻と言ってくれた。
仕事も出来るし、向上心もあり(2度目の旦那さんが向上心のない人で懲りていたので、そこは新鮮だった)、努力家で、時間も約束も守るし、周囲から信頼されている。本当に上司としては尊敬していたし、部下として遠くから見ている分には魅力的に思えた。
だが近づき過ぎ、家族になって見たら全然良くなかった。上司として良い人が、夫として良いとは限らないと学んだ。
結婚しても独身時代と変わらぬ生活スタイルを貫き、取引先や部下を引き連れてしょっちゅうお酒を飲みに行き、深夜に家に帰って来る。
一度目の旦那さんのように綺麗事を言う訳でもなく、外に女性もいなかったようだし、そこは安心させてくれた。2度目の旦那さんと違い、年収も正直に言ってくれたし、トイレの使い方もまあまあ清潔でそこも助かった。
だが私が家事をしたい順番と、彼が家事をして欲しい順番が違う。細かい習慣も違う。好きなものも心地良いものも違う。生活自体も、何か、かみ合わないものをいつも感じていた。チャンネルを合わせようとすればするほどずれていくような気がしていた。
たったひとつ一致していたのは、菜々花食品に愛社精神を持っているという事だけだった。
私はアパートを借りて二人で暮らしたいと思っていたのに、自分の実家に住もう、家賃がかからない分、貯金をしようと言われた。むやみに豪華な暮らしには懲りていたし、借金をしてまで散財する人ではなかったのでまだ良かったが、家では義父母や義弟夫婦とその子ども3人との同居を余儀なくされ、合計9人で、ある意味賑やかだったが、肝心の夫婦の会話がなく、ひとり暮らしのさびしさとは違う種類の孤独があった。
常に新聞や本を読んで勉強しているのはいいが、何か話しかけても新聞なり本なりに没頭していて返事が返ってこない事はざらで、悪気がないのは分かるがさびしくてたまらず、何の為に結婚したのか分からなくなった。この時も檸檬は何年経っても優しかったし、返って来る答えも心地良かったと懐かしく思っていた。会った事のない前妻のつらさと一度目の離婚理由が、聞かなくとも骨身に堪えるように理解出来た。
結婚した途端に心が離れたような、そんな空気を常に感じ、こちらから別れようと言った方が良いのか、この家にいて良いのか、出て行った方が良いのか何なのか、家族でありながら訳の分からない居心地の悪さと、たいせつにしてもらえない悔しさを日々味わっていた。生き方が違う、別れたい、と思った。
流産した時でさえ仕事を優先し(産院の人にいちゃもんを付けないだけ良かったが)、それが決定打になり、1年もたずに別れた。またひとりになったが、ほっとした。もう結婚は嫌だった。本当に懲りた。
そして別れた途端、3度目の旦那さんは上司として付き合う分にはやはり良い人と思えた。さびしかったが、離れた方が良い人もいるものだと学習した。
会社で、何度も結婚、離婚を繰り返している駄目な人、性格的に何か欠陥があるのではないか、明らかにおかしい等、陰で言われているのが分かり、死にたいくらい傷ついた。好きで3度も離婚した訳ではないのに…。
銀座で主任に昇格した檸檬が売り場の女の子と結婚したと聞き、もっとさびしくなった。
離婚して荻窪でひとり暮らしを始めて間もない頃、檸檬から携帯に電話があった。
「川北です」
と出ると、
「安西です」
と言う。あれ?結婚して幸せに暮らしているんじゃなかったの?と思いながら
「ああ、安西さん、お疲れ様」
と言うと
「うん…」
と、何とも歯切れの悪い答えが返って来る。
「どうしたの?」
「ん…離婚したんだって?」
と聞いてくる。
「うん、またひとりに戻ったよ。あはは」
と仕方なく笑う。
「何かあった?用事?」
と聞いても
「ん…」
と何か言いたそうな、言えないような。
「川北さんが僕に、もう個人的に電話しないでくれって言うなら、僕はもう川北さんに電話をしません。でも、川北さんは時々、僕に電話を下さい」
そう言われた。
「…はい…」
…分かったような、分からないような気持で答え、電話を切る。檸檬、何かあったのかな?もしかしてさびしいのかな?
そう言えば昔は携帯電話などなく、受話器を取るまで誰から掛かって来たか分からなかったものだ。子どもでさえ電話を掛けた時に、〇〇ですけど、〇〇さんのお宅ですか?〇〇君いますか?と言っていたものだ。今は携帯が主流で、電話が鳴った瞬間、掛けてきた人の名前が表示されるので、お互い名乗るまでもないのだが、あくまで仕事仲間として付き合っているので、お互い苗字を言うし、お疲れ様と挨拶する。それが当たり前のような、さびしいような…。
ずっと前、檸檬と別れてひとり暮らしを始めて最初のホワイトデーの夜、家に無言電話があった事を思い出す。あれは檸檬だったのか?本人にも聞けぬまま、随分な歳月が流れたものだ…。
★
ひとりになって、ひと月に一度、自分へご褒美をする事にした。
家の近くにある5階建てのビルには5階部分に美容室、4階にエステサロン、3階にネイルサロン、2階に全身マッサージ店、1階にレストランが入っており、ここを制覇するぞと思い立った。何度結婚してもうまくいかないさびしさや虚しさ、会社の人に悪口を言われている居たたまれなさを、月に一度でいいので忘れたかった。
朝いちばんに美容室で髪を整えてもらい、階段でワンフロア降りてエステサロンでフェイシャルマッサージを受け、またワンフロア降りてネイルサロンで爪を整えてもらい、またワンフロア降りてマッサージ店で全身のコリをほぐしてもらい、最後に1階のレストランで好きなものを食べる。夢のように心地の良い一日になる。どの店舗でも良くしてもらえ、嬉しかった。
それを何か月も続けているうちに、深く傷ついた心も癒えていった。
夜は夜で、新しい資格の勉強をする為にスクール通いも始めたし、図書館に通って色々なジャンルの本をたくさん読むようになった。運動不足を解消する為、スポーツクラブに通うようになり、食とは別の方向から健康管理を考えるようにもなれた。ひとりも悪くないな、また明日から仕事を頑張ろう、お客さんに喜んでもらおうと思えた。
…というか、せっかくひとりになれた、時間もお金も全部自分の為に使える、今いちばん充実しているしいちばん良い状態という気もしてきた。またいつ何があるか分からないから、だからこそ、今この時を楽しめばいい。夜スクールに行こうが、毎月5階建てのビルを丸ごと制覇しようが、誰も何も言わない。ああ自由だ。なんて贅沢なんだろうとも思えた。
そしてそこでもある気付きが生まれた。気に入っている美容師が辞めて、相性の悪い美容師が私の担当になったり、よく相談に乗ってくれたエステティシャンが産休に入り、あまり施術の上手くない人が担当になったり、私の肌に合っていた化粧品が廃盤になったり、ネイルサロンが閉店になったり、マッサージ店が次に行ってみたら麻雀店に代わっていたり、レストランのドアに当分の間休業します、と張り紙がしてあったり、スクールの講師が代わったり、図書館やスポーツクラブが通いにくい場所に移転したり…。
私がどんなに気に入って、ずっとここに通いたい、絶対これが良い、絶対この人が良い、このままこれを続けたいと思っていても、何らかの事情でそう出来なくなる事がある。どんな小さな事にも、永遠や絶対はないと学んだ。
勿論、私が店長を務める店舗の入るショッピングモールにも、多くの店が立ち並ぶが、売り上げの良くない店舗はすぐ衰退して閉店になる。新しい店がどんどん出店するが、その入れ替わりの激しさは目を見張る程だ。酷い店は半年で無くなる。
そんな中、生き残れる私の店舗は、社員のみんなが常に新しい事をしていこうとアンテナを張り巡らせ、闘ってくれているお陰だ。絶対大丈夫などと思っているスタッフは、それこそ絶対いない気がする。派遣やアルバイト等の新しいスタッフもどんどん入って来るが、安穏としている人や、何も考えずにただ言われた事だけやっている人、陰でさぼっている人は、何かしらですぐ辞めていく。
同じ場所で営業を続けられる、同じ会社で雇用してもらえる、生活が成り立っている、同じ人と添い遂げられる、子どもが生める、どれも奇跡だ。
3度も離婚し、じゅうぶんダメージを受けているのに、その事で悪口を言われ、あまりにもつらくて沈み、不幸だとも思ったが、冷静になって自分の人生を振り返れば、決して不運とも不幸とも言えない、むしろ良い人生だと思えるようにもなった。
まず、自由な家庭に生まれ育った。ひとりっ子の割に、両親はあまり干渉せず、私が選ぶものを尊重してくれ、東京にも気持ち良く出してくれた。私が高校2年生の春休みに勝手に東京に行った時も、警察沙汰にしないでいてくれたのも有り難かった。また、結婚するたびに祝福してくれたが、離婚した時は黙っていたわってくれた。そこも感謝している。
そして菜々花食品に縁があった事も本当に良かった。自分に合っているし、25年以上継続雇用してもらえているし、やりがいもあるし、昇給、賞与、昇格もしてもらえ、何より菜々花食品の正社員、という自分の軸があるので、私生活がどうなっても路頭に迷わずにいられた。
その菜々花食品に入れたのは、檸檬のお陰だ。檸檬に恋をし、檸檬を追いかけてこの東京に出てきた。11年も付き合え、共に暮らせ、楽しい時もたくさんあったし、憎み合った別れ方ではなかったし(檸檬の言葉を借りれば、発展的解散だ)、菜々花で働く事で檸檬との生活もぎりぎり安定していたし、仕事を通して色々な人に会い、様々な勉強をさせてもらえた。入った会社が合わず、転職を何度もする人もいるが、私は菜々花にいたい、この仕事が好きでこれからもずっと続けたいと思える。会社からもお客さんからも必要とされている。私の悪口を言わない人も、勿論たくさんいる。
菜々花の採用基準は高卒以上なので、最初に体ひとつで上京し、そのまま仕事を探していたら菜々花で働く事はなかっただろう。いったん新潟へ帰り、高校を卒業してから菜々花に入社出来たというのも本当に良かった。それも檸檬がそうした方がいいと言ってくれたお陰だ。檸檬はどこまでも私の為を思ってくれる人だった。
そして3度も結婚出来た。3回とも祝福され、花嫁衣裳を着られ、挙式披露宴も外国への新婚旅行も経験出来た。そこまで恵まれているなんて、私くらいかも知れない。
別れた3人の旦那さんは、決して悪い人たちではなかった。人間的に欠陥があった訳でも、性格異常だった訳でもなく、それぞれタイプは違ったが、曲がりなりにも私を愛してくれた、絶対に永遠に一緒と誓ってくれた、会社員として働いていた、という共通点はある。
それなのに、私は何故3度も離婚する羽目になったのか?
結婚しようとまで思った人に、何故愛情が無くなったのか?
何故2度も流産をしたのか?
結婚には至らなくとも、交際した男性は何人かいた。その人たちと出会ったのは何故か?
まだ平成初期、時代はバブルに浮かれ、3高(高身長、高学歴、高収入)だの、家付き、土地付き、ババ抜き(お姑さんがいない事)だのと言われた頃は、女の適齢期は25歳までというような風潮が確かにあった。
檸檬と別れた28歳の時、私は確かに焦っていた。自信のなさがそこに表れていた。あのまま檸檬といたらどうなっていたのか?と思いを馳せたりもする。当時タラレバという言葉はなかったが…。ただ、タラレバという考え方は、過去に焦点を当て、過去に生きる事になってしまう。
それにあのまま檸檬と一緒だったら、もしかして悪い関係になっていたかも知れない。発展的解散にはならなかっただろうし、少なくとも10年ぶりに再会し、困窮している檸檬を救済するという奇跡(私はそう思っている)は起こらなかったし(人を救済出来るという事は、余裕があるという事だし、ベストタイミングで再会出来たのも奇跡の中の奇跡だ)、檸檬があの時点で無職でなければ、無一文でなければ、再会した私に救いを求めて付いてくる事も、菜々花食品で共に働く事もなかっただろう。
だからやはりあの28歳の時、いったん檸檬と別れて良かったのだ。檸檬のお陰で3回も結婚出来た、という考え方も出来る。そしてその檸檬は、気が付いたら、という言い方は適切ではないにしても、私が望んでいた堅実な会社員になってくれていた。何の文句があろうか。菜々花に縁がつながったのも、私が紹介出来る程に勤め続けていたという事以上に、音楽関係の仕事がうまくいかなくなっていたお陰だ。良いタイミングで有り難い事が次々に起きた気もする。
1度目の旦那さんは、何をしてあげても喜ばない人だったが、それはもしかして私が彼にしたい事を、自分がしたいようにしていたのであって、彼が私に何をして欲しいのか、何を求めているのか分からなかった、分かろうとしなかったのが悪かったのかも知れない。そんなすれ違う心の隙間に女性が入り込んだのだろう。
彼は私が流産した時に、女性とラブホテルにいたのだ。しかも相手は私の友達だった。勿論彼はそれを深く恥じ、やましく思ってすぐに彼女と手を切り、私に申し訳ないあまり、産院の人にいちゃもんを付ける事で、その場というより自分の心を誤魔化したのだろう。そしてそのお陰で私は彼との離婚を決断出来た。だからやはり良かったのだ。
少なくともその人は、30歳手前の私を妻に選んでくれ、ハイミス(今時、死語だ)とは呼ばれなくて済むようになったし、愛してくれた時期もあったのだから。
そしてその時に流れた赤ちゃんは、不幸な結婚生活を続けさせないという使命を持ってくれていたのだろう。彼にも赤ちゃんにも、彼女にさえ感謝している。
浮気相手になった彼女は、私が菜々花食品に入社した時の同期だった。寮も一緒でいっときは本当に仲が良く、あちこちに遊びに行ったりしていたが、彼女は菜々花に馴染めず、半年ほどで退職した。新しい仕事と住まいを同時に確保しなくてはならず、大変な思いをしていた姿をよく覚えている。新しい仕事もアパートも何とか見つけたが、そこも合わずすぐに退職、聞く所によるとアパートはずっと変わらなかったが(お金がなくてなかなか引っ越せなかったのだろう)、30歳までに20回くらい転職したそうだ。酷い時は1日で辞めた職場もあったという。
菜々花で働き続ける私を羨ましいと言ったり、妬まし気に嫌味を言ったり、私が檸檬と暮らし始めた頃、物凄く冷たくなったりした。だが別れた時は妙に優しかった。
売り場主任になった時はまた嫌味を言ったし、結婚した時に新居に遊びに来てくれたが、私がキッチンで料理をしている間に、旦那さんに言い寄っていた様子で(それは雰囲気で分かった)、何て酷い事をするんだろうと驚いたし、物凄く嫌な思いもした。
旦那さんは私を裏切りたくて裏切ったというより、彼女の罠にはまったのだろう。今でいうハニートラップ。彼女も私の旦那さんが好きで誘惑したのではなく、私をギャフンと言わせ、自分の不幸をなすりつけたかったのだろう。何も知らずに可哀想、という目で私を見ていたが、働かない彼氏と同棲していた彼女も決して幸せとは言えなかった。3人とも(ヒモの彼氏とお腹の子を入れれば5人)不幸な不倫劇を演じたものだ。いずれにしても旦那さんと友達の両方から裏切られた精神的ショックは大きかった。
離婚後、彼は購入したばかりの家を売却し、私に慰謝料としてまとまった金額を渡してくれ、不倫をした事を正直に認めた上で悪かったと精一杯詫びてくれた。そして自ら神奈川県の横浜店に異動を願い出て、恵比寿で顔を合わせなくて済むようにしてくれたので、ほっとした。
また、彼女は何度も私に電話や手紙をよこし、絶対に自分は不貞をしていないし、奈江と一生友達付き合いしたいと思っている、自分を信じてくれ等、言い訳や嘘を重ねてきた。勿論私は一切相手にせず、彼女とも、共通の友達とも、連絡を絶った。
ただ、お互い若くして地方から上京したばかりの身で不安な中、励まし合いながら共に仕事を頑張った時期もあるし、遊びに行ったり、寮で仲良くしたり、楽しい思い出もあるし、彼女から学んだ事もあった。今どこでどうしているか知らないが、長続き出来る会社で働いていてくれれば良いとは思っている。つまり私のように1度で自分に合う仕事に出会え、ずっと働けるというのも奇跡だ。
2度目の旦那さんは、異常に人目を気にし、身なりも生活も華美にし過ぎた。それは彼が孤児院出身という、特殊な育ち方(今はそれほど珍しくもないが、当時は滅多にいなかった)をした上、極貧の中にずっといたという悔しさの表れであり、もうひとつ、下手なりに私へ愛情表現をしてくれていたのだ。
私が今、安いアパートでも電車通勤でも不満を感じずに暮らせ、質素な食事に満足出来、安くても気に入った物を何年着ていても平気なのは、彼があまりにも豪華な暮らしや高級レストランでのフルコース、外車での通勤、ブランドものの洋服やアクセサリーを好んだ反動というか、お陰だ。
出会って間もない頃、私が彼の乗る外国産の車や高級なスーツに羨望の眼差しを送ってしまった為、後に引けなくなったのだろう。豪華クルーザーで映画のワンシーンのようなプロポーズをしてくれたのも、私の目をまた見張らせたかったからだろうし、最高の思い出を作ろうとしてくれたのだろう。
金遣いの荒さはさびしい心を満たそうとしていたのだろうし、妻の私にさえ年収を正直に言えないなんて、本当はつらかったろう。向上心がなかったのは、身近に良いお手本がいなかった為だろう。トイレの使い方が異常に汚かったのも、愛されずに育った事と、ずっとひとりで暮らしていて注意してくれる人がいなかったせいなのだろう。私も注意出来なかったが、傷つけないように言っていたら、もしかしてきれいに使うようになっていたかも知れない。
彼とは短期間ではあったものの華やかに暮らした時も、夢のように楽しい時も、周囲に羨ましがられた時もあった。決して嫌な思い出ばかりではない。何度か私の貯金で借金を返したが、この時に最初の旦那さんから慰謝料としてもらったお金が役に立った。本当に何が幸いするか分からない。
1年で別れられ、離婚と同時に重い鎧も脱げたし、付きまとわれる事もなかったし、借金を背負わされる事もなかった。彼にも感謝している。
彼は私の勧めで離婚と同時に億ションや外車、高級家具や宝飾品(私も彼に買ってもらった指輪やネックレス等、躊躇なく差し出せた)を残らず売却し、そのお金を膨れ上がった借金の返済に充てた。それで借金を完済でき、
「奈江のお陰で助かった、これからは堅実に生きる」
と最後に約束してくれた。私もその言葉を聞いて初めて安心でき、この人はもう大丈夫だと晴れ晴れした心持ちで別れられた。
それから会っていないし、連絡も取っていないが、つましい生活の中に幸せを見いだせる生き方をしていてくれれば良いと思っている。私の使命のひとつに、彼を借金地獄から救うというのがあったのだろう。
3度目の旦那さんは、部下としての私を高く評価してくれた。私の出す案を何度も認め、採用、商品化してくれ、店頭に私の考案した商品が並び、飛ぶように売れていくのを目の当たりにするという、無上の喜びを経験させてくれた。この時、和食レストランや、弁当屋でアルバイトした経験が活きた。
恵比寿店の出店が決まった際、是非川北を、と店長にも抜擢してくれた。他の役員が、大卒の社員を店長にした方が良いのではないかと意見する中、高卒でも愛社精神を持ち、社歴も長く、資格試験の勉強を続け、たくさん取得し、消費者目線で提案書をたくさん出す私の方がお客さんに寄り添えると太鼓判を押してくれた。
そして結婚しても旧姓のまま仕事をするように勧めてくれた。誰それの奥さん、ではなく、川北奈江、として仕事をする誇らしさを教えてくれたのは3度目の旦那さんだ。まともな生計(華やかでもなく貧しくもない、私の望むちょうどいい生活基準)を立て、義父母や義弟一家と最初から同居する事で、ずっとさびしかった私を大家族の一員にしてくれたのも彼だ。その時に流れた赤ちゃんは、新しい未来を私に贈ってくれたのだろう。やはり彼にも彼の家族にも、勿論赤ちゃんにも、感謝せずにいられない。
3度の結婚で3回も祝福され、同じ数、離婚を経験する事で、存分に傷ついたが、プラスマイナスゼロというより、プラスの方が多かった気がする。
結婚まで至らずとも交際した男性から学ぶ事もあった。その人たちのお陰で何かしらアイデアやひらめきもあり、商品化した事もあったのだから…。
何か、私は自分が本当に好きな人というより、私を愛してくれる人、結婚して安心させてくれる人を選んだような気がする。愛してくれるから愛するのではなく、自分が好きだから愛するという考え方を貫いていれば結果は違ったかも知れないし、檸檬と離れなくて済んだかも知れない。確かに自分が好きな人が愛してくれるとは限らず、例え愛してくれても、望む愛し方をしてくれるとは限らないし、そうだとしてもそれに永遠や絶対の保証はない。結婚に、永遠や絶対の保証を求め過ぎたのが悪かった。
本当にその人が好きなのか、価値観が合うのか、生き方が合うのか、熟考してから決めれば良かった。深く考えず、ただ愛してくれる人と結婚してしまった。3度の離婚の最大の理由はそれだった。
ただ、もう仕方がないと我慢し続けるのではなく、思い切って短期間で離婚を決断出来たのは良かった気がする。別れたいと思いながらずるずる続ける結婚生活の方が相手も私も周りも不幸だったろう。つらかったが、それぞれの結婚生活で良い思い出もある。だからやはり、結婚して良かったし、離婚して良かった。会社も辞めなくて本当に良かった。
私は人より資格を多く持つし、字もきれいと言われるが、それも檸檬と別れ、自由になるお金と時間が出来たお陰だ。習字や資格試験の勉強は、私の心の穴を埋めてくれた。新しい良い友達も出来たし、資格をひとつずつ得るたびに大きな達成感も感じたし、私の書いた伝票を見たお客さんや仕事仲間が、字がきれいだねと褒めてくれるたびに自信も持て、会社での評価も役職も給料もどんどん上がった。
だからやはり、今までやって来た事や選んだ事は全部正しかったのだ。何も間違っていなかったし、たくさん学べたのだ。本当に、お陰で今がある。だからもう傷つかなくていい。誰にどんな悪口を言われても…。
生きていこう、好きな仕事を極めながら。
働いていこう、菜々花食品が私を必要としてくれる限り…。
翌年、本社で業務部長に昇進出来た。常務取締役になった3度目の元旦那さんが推薦してくれたお陰だ。元妻ではなく、仕事人、川北奈江を評価してくれ、取引先の人の前で、自慢の部下と言ってくれた。以前、自慢の妻と言ってくれた時以上に嬉しく、この人と一緒になって良かったし、別れて良かったと思えた。確かにプラスの方が多い。
恵比寿で店長も続けていたし、他店舗のバイヤーも兼任、多忙を極め、さびしがる暇はなくなった。
もう結婚はしない。仕事をしている方が楽しいし幸せだし、充実している。もう結婚は考えない。
ただ、恋愛はしていたい…。恋愛だけは…。そんな気持ちが私の心の片隅にあった。
檸檬が、銀座店で店長に昇格したと聞いた。心の中でおめでとうとつぶやき、奥さんにお祝いしてもらうのかなと、さびしく思った。
本社の役員会議で久しぶりに檸檬に会った。同じ会社とはいえ、店舗も違うし、そうしょっちゅう会う訳ではない。
…年相応の風貌になっていたが、仕事がうまくいっているおかげか、良い顔をしていた。ときめくあまり、心が天高く舞い上がってしまう。
会議終了後、エレベーターで一緒になった。
「久しぶり」
「うん、元気そうね」
檸檬、私の傍にいて。やっぱり私の一等賞の男はあなたなの。そう言えない。
「俺…、離婚したんだ」
びっくりした。
「そうなの?」
檸檬が疲れたように頷く。
「どうしても、そうせざるを得なかったから」
絶句する。こんなに優しくて良い人を、何故神様は幸せにしてくれないのだ?
「2度目の奥さん、彼氏に暴力振るわれていて、その件でずっと相談されていたんだ。だから守ってあげたくて結婚したんだけど、やっぱり同情と愛情は違った。価値観も違った」
もっと絶句する。もしかして私が3度目の離婚をした直後に意味のよく分からない電話をくれたのは、自分も離婚をして精神的にまいっていた時だったのか?本当は傍にいてくれと言いたくて、言えなくて、かわりに時々電話をくれと言ったのか?
「昼ご飯、食べに行く?」
そう言われ、笑顔で頷いた。檸檬のこういう言い方が好きだった。食べに行かない?ではなく、食べに行く?というプラスの言い方が、たたずまいが、雰囲気が、生活の仕方が…。
近くのレストランに入る。向き合って、改めて、本当に魅力的な人だと思った。
「檸檬」
思わず昔のように呼び掛ける。安西さんではなく。
あなたが、なあに?というように目で応える。
「映画のチケットもらったの。来月公開の映画なんだけど、良かったら一緒に行く?」
檸檬が笑顔で頷く。来月を楽しみに、今月を生きられると思った。
映画は楽しかった。終わった後、カフェに入る。
「面白かったね」
頷くあなた。
「実はね、再来月、六本木でマリー・アントワネット展があるの。観に行きたいんだけど一緒に行く?」
頷くあなた。幸せだった。再来月を楽しみに、今月と来月を生きられる。
マリー・アントワネット展は感動した。
「良かったね。私、小学生の頃から大好きだったの」
頷くあなた。
「ディズニーリゾートのペアチケット、当たったの。良かったら一緒に行く?」
笑顔で頷くあなた。
「ランドとシー、どっちがいい?」
「奈江が好きな方にしよう」
「だったらシー。シーの舞台、好きなの」
頷くあなた。
「いつ行こうか?」
「来月の棚卸終わったら行こう」
本当に幸せだった。ディズニーシーを楽しみに、大変な棚卸に立ち向かえる。
川北さんではなく、奈江と呼んでくれた事も嬉しかった。
ディズニーシーは楽しかった。童心に戻れた。
「パレード良かったね」
頷くあなた。
「若い頃と違って激しいアトラクションはきついけど、穏やかな乗り物やパレードや舞台はじゅうぶん楽しめるわ」
「また来よう」
「…いつ?」
「再来月の、奈江の誕生日に。俺がチケット取っておくよ」
笑顔で頷く。誕生日を覚えていてくれた事に感動する。
「来月、うちの店で新商品の販売キャンペーンがあるの。忙しくなるわ」
「手伝おうか?」
「いいの?」
頷くあなた。本当に幸せだった。口をついてこんな言葉が出た。
「先の約束、したいの」
そう、いつ壊れるか分からないからこそ、またいつ会えなくなるか、またいつお互い誰かと一緒になるか、ならないか、本当に分からないから、だからこそ、先の約束を望む。
今、目の前に檸檬がいる事を当たり前と思わない。奇跡だ。
だからこそ今この一瞬をたいせつにするし、先の約束が果たされれば限りなく嬉しい。
映画を一緒に観てくれて有難う。
マリー・アントワネット展に行ってくれて有難う。
ディズニーシーに付き合ってくれて有難う。
約束を守ってくれて有難う。
何より、先の約束をしてくれて、本当に有難う。
永遠も絶対もあてにならないから、いらない。
ひとつだけ、先の約束を望む。
新商品の販売キャンペーンは大盛況だった。スタッフも頑張ってくれたし、檸檬も忙しい中、可能な限り手伝いに来てくれた。本当に有り難かった。
閉店後、片づけを終えた時に頬を紅潮させた檸檬が近づいてきた。その時も、花びらが舞う映像を見たような気がした。
ああ今なおこの人が好きだ、好かれているかどうか、ではなく、私が好きだから好きだ。思いが心から、体から、あふれ出そうになる。
「奈江、提案がある」
おとなしい人が毅然と言う。
「結論から言う。本社の近くのアパートを二人で借りて一緒に暮らそう。同志として」
「同志?」
「そう、昔、俺たちがうまくいかなかったのは、いつまでこれが続くか分からなかったからと、もうひとつ、恋人だから介入し過ぎたっていうのがあるよね」
黙って頷く。
「俺は2度も離婚して、相手にも周囲にも迷惑かけて、もう結婚は懲りた」
「私も懲りた。バツ3は風当たりきついし」
「やっぱり俺は奈江と、生き方やあらゆる価値観や生活習慣が合っていると思う。たったの18歳でその人に出会うとは思っていなかったけど」
「私も…同じ事を考えていた…」
しばしの沈黙。この後檸檬が何を言い出すか、辛抱強く待つ。
「確かに結婚は懲りた。だけど奈江とは一緒にいたい。共に暮らして、共に生きていきたい。やっぱり俺の一等賞の女は奈江だ。これは2度離婚したからこそ、学んだ事だ」
嬉しくて、有り難くて、涙が出そうになる。
「だからこそ、契約型の関係になりたい。アパート契約の2年を、そのまま俺たちの契約にするんだ。2年契約で一緒にいる。更新するかどうかは2年ごとにお互いが決める。どちらかが嫌だと言ったらそれで終わる。その嫌だ、と言うのも、お互い遠慮なく言う。途中で契約破棄もあり、そういう緊張感のある関係」
「ああ、それ良いかもね」
私は頷いた。確かに絶対とか永遠というとお互い気持ちが緩むし、多少の事は許されるのではないかと、言っても良い事と悪い事の区別がなくなったり、だらしなくなったりといった甘えも生じるし、生き方や、生活自体がだれる。だったら契約更新型にするのは良いかも知れない。それは相手が誰でも駄目だった私と檸檬ならではの価値観だろう。マンションや一軒家を、ローンを組んでまで購入するのではなく、いつでも解約できるアパートを借りるというのも気楽で良い。
本社の近くのアパートを二人で見に行った。いつか専務が勧めてくれた部屋が奇跡的に空いていた。
「いいね、ここ。造りもしっかりしているし、きれいだし」
「半分ずつ出して借りる?」
即決した。関係を聞かれ、二人で
「同志です」
と同時に答える。不動産屋が混乱した顔をする。
引っ越しを済ませ、和室は私、洋室は檸檬の個室にした。物は増やさない、共有スペースは汚さない、汚したら各自で綺麗にする。家事は全部それぞれ自分の事をする、やってあげても見返りは期待しない、支払いは1円単位で折半、例外は洋服や化粧品、美容院代、携帯電話代、それはそれぞれ自分で支払う、車は持たない、という事で落ち着いた。さあうまくいくかな?世間はどう見るかなんて、もうどうでもいい。
2年契約がスタートした。45歳にして、新しい人生を始める。
やはり部屋だけ割り振っても、共有スペースで過ごす時間や家事はあなどれない。自分の食事を作るついでに檸檬のもつい作ってしまう。洗濯だって、ついでに檸檬の使ったタオルや衣類を洗いたくなる。掃除だって、ついでに檸檬の部屋をはたきで払い、掃除機をかけたくなる。だが見返りは期待しない。
ただうまくしたもので、食事を作ると檸檬が後片付けをしてくれるし、洗濯をして干しておくと、檸檬が取り込んで畳んでくれる。私の下着をたたんでくれた時は、ちと戸惑ったけど。掃除機をかけたら、檸檬が風呂やトイレを掃除してくれる。ん、これで何とかバランス取れるかな?
翌年、檸檬は本社の企画部長に昇格した。最近の人は結婚しても子どもを生んでも仕事を辞めない。だから時短料理が喜ばれる。幾つも共働き夫婦の為の企画を出し続けた檸檬を会社が認めてくれたのだ。
本当に良かった。音楽業界では浮いたり沈んだりしたが、その時の努力や悔しい思いをした事と、様々なアルバイトを転々とした経験、もっと言えば、2度共働き生活を経験した事、離婚した事がこの仕事で活かされている。給料も上がったし、安定した生活がどれほど有り難い事か、公園で寝ようとしていた檸檬なら尚の事、骨身に堪えるほど分かるだろう。
銀座で店長も続けており、人事も担当(音楽プロデューサーとしてアーチストを育成した経験がものを言った)、檸檬の忙しさも半端じゃなかった。
仕事しているとあっという間に1日が過ぎる。1カ月も。
家賃と水道光熱費はそれ用の口座から毎月引き落とされる。そこに給料日のたびにお互い10万円ずつ入れておく。それとは別に共有の財布に10万円ずつ入れておき、そこから食材や日常雑貨等をインターネットスーパーで購入、どちらかが休みの日に配達を指定し、受け取った方が支払う。残った分は貯金するが、1円単位でお互いに権利がある。家事も支払いも決まりを作り、お互い守っているとすっきり気持ちよく暮らせる。お互いの年収も分かっているし、借金もないし、安心していられる。細かい生活習慣や、家事をする順番が合っているのも気分良くいられる。
あっという間にアパートの契約更新月が来た。迷わず更新する。
「俺との契約はどうする?」
「更新するよ、檸檬は?」
「是非とも更新したい」
嬉しかった。会社で派遣の人が契約更新というとほっとした顔をする、その気持ちが分かる。これからもずっとこのまま程よい緊張感を持って暮らす。
もう結婚は考えていないし、50歳を手前に、焦るも何もない。むしろ楽だった。
今この瞬間を楽しみに、未来に向かって精一杯生きる。
神様は、私がいちばん欲しいもの、檸檬をまた返してくれた。本当に縁のある人との心地良い暮らしを与えてくれた。ただそれは、3度の離婚を経験しなければ分からなかった事だろう。だからこそ、今この生活が有り難くてたまらない。
毎月どこかのビルを丸ごと制覇したいとも思わなくなった。日々の生活があまりにも心地良いから。図書館で借りた本を、面白いよと勧めると、檸檬のツボにも入り、面白いねと喜んで読んでいる姿を見るのも嬉しい。好きな映画を一緒に観られる事も、笑う場面、興奮する場面が同じというのも、会話や気持ちが常にかみ合っているのも心地良い。
そう、結婚しなくてもじゅうぶん幸せを感じられる。要は幸せならいいのだ。
新潟に帰る時は、必ず檸檬と一緒に帰る。檸檬の親は事故死し、妹さんは兵庫県にお嫁に行き、親御さんの残した借金で揉めた為、疎遠になっている。だがあくまで家族ではないので干渉しない。檸檬も私の親との関係を干渉して来ない。私の親も、檸檬との同居をどうこう干渉しない。程よく放っておいてくれる。
心地良かった。このままがいい。「このままで」ではなく、「このままが」。周囲には奇異に映るかも知れないけど。会社の人に最初よく言われた。
「君たちどうして結婚しないの?」
答える必要はない。二人共このままが良いのだから、満ち足りているのだから、ぴったりと、しっくりと、暮らしているのだから。何より、結婚するよりずっと幸せなのだから。
誕生日やクリスマス、バレンタインデーやホワイトデーにもプレゼントはしない。お互い様だから。笑顔でおめでとうとは言うし、ケーキくらい一緒に食べるが物は渡さない。贈り物がなくても、お互いの存在が日々の最高のプレゼントだ。
「君たち結婚しないねえ」
今日、久しぶりに言われた。みんなもう言っても仕方ないと思っているのか、何も言わなくなった。3度も離婚した私と、2度離婚した檸檬。気が付けば檸檬も私も60歳手前だ。老後を考える年齢になった。
私の両親は前年の新潟地震で、倒壊した家の下敷きになり二人同時に逝った。その時も檸檬は黙って私を支え、諸々の手続きをしてくれ、惚れ直しさせてくれた。こんな人がいようか。
時代が良いように変わってくれた。昔はある程度の年齢になるまでに結婚すべき、しないのはおかしい人、と見られたが、今はそうではない。理想の人に会えるまで結婚しなくても良いとされている。離婚率も高く、結婚さえすればいいというものではないという考え方が浸透しているだけに、結婚は?と聞く人も少なくなった。事実婚も、未婚の母も、私生児も、LGBTも、認可されている。
令和、本当に時代は変わった。
「檸檬、今年で定年だねえ。私も来年で定年退職だわ」
「うちの会社が65歳定年で良かったなあ」
「ほんと」
「俺、音楽の仕事辞めて本当に良かったよ。お陰で、菜々花で働けるようになったし、まして定年までいられるなんて思わなかった。負け惜しみでも何でもなくて、本当にこっちの方が良い。これ、俺の本心」
「本当にそうだね、ってか、勝ったんだよ」
「そうだな。俺、勝ったんだな。何に勝ったのかよく分からないけど」
「写真館で記念撮影しようか?たまにはお洒落して一緒に映ろう」
「お、いいね。勝った記念と、定年の記念に」
二人で、あははと笑う。
檸檬と結婚しなくて良かった。だって、檸檬とだけは離婚したくないから。
お互いの存在が、お互い心地良くてたまらない。
そうそう、契約期間が長すぎる。20年も契約更新しているなんて、凄いよね。
仕事も変わらず、アパートも変わらず、お互いの顔を見慣れ過ぎてそう言えばふけたとか、そんな事さえ考えず、1日1日をたいせつに生きてきたよ。
「今からスマホで写真館、検索しようよ」
お、いいね。親指立てたくなるよ。
人って年を取っても価値観や何に幸せを感じるかは変わらないのかな。
こんなにも楽しい生活が待っていたなら、生きていて本当に良かった。
もう一度、二人で顔を見合わせて、あははと笑う。
第2の青春はここからか?
定年退職後、年金で暮らすのも良いし、菜々花が直営する飲食店で働いてもいいね。
絶対とは言わない、永遠とも言わない、ただ、先の約束がしたい。
何も心配しなくていい。
鎧も、憂鬱も、不安も、どこにもない。
先の約束と、今の暮らしが、
ああ、楽しくて、楽しくて、楽しくてたまらない。
★
エピローグ
「檸檬、ケアマネさんから電話あった。要介護認定調査入るって」
「分かった」
「私たち、要介護いくつなんだろうねえ」
「要支援くらいだと有り難いな。足が痛いけど」
「私も腰が痛いし肩も上がらない。似たようなもんだね」
「揉んであげようか?」
「有難う、後で私も揉んであげるね」
「もういいよ、有難う」
「うん、お互い気持ち良かったね」
「これからも揉み合おう」
「うん、私たち寿命が同じだといいねえ」
「本当にそうだな。人生100年時代とか言うけど」
「私、檸檬と一緒に死にたい」
「俺もそうしたい」
「老人ホームに入るなら同じ所がいい」
「そう出来たらいいな。ケアマネに言っておこう」
「それまでこのアパート、建て替えにならないといいねえ」
「そうだな、もって欲しいな。だいぶん傷んでいるけど。俺たちと一緒か」
「あはははははは。檸檬、面白ーい」
「奈江も面白いよ」
「向こうでも契約更新しようよ」
「向こうって天国の事?」
「勿論」
「先の約束だな」
「来世でも、再来世でも檸檬と一緒が良い」
「もっと先の約束だな」
「あれえ、この前あげた俺のユーチューブ、再生回数凄い伸びているよ」
「え?この前作った曲を演奏している動画の事?」
「うん」
「へえ凄いじゃない。広告収入期待出来るかな」
「広告収入と年金で悠々自適だ」
「ほんとだねえ、檸檬、やっぱり才能あるんだよ」
「俺、音楽業界を引退して40年以上経つのに、びっくりだねえ。じいさんユーチューバーとしてやっていこうかな」
「あはははははは。檸檬ほんとに面白ーい」
「奈江も面白いってば。ああ再生回数一万回超えているよ。ほんと、こりゃあ奇跡だ」
「良かった、良かった、奇跡の老後だ」
「バンザーイ」
「私もバンザーイ」
「あはははははは、楽しいー」
「奇跡だ、奇跡だ」
「楽しい!楽しい!」
先の約束 おもながゆりこ @omonaga
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