ありは、人形

亜済公

ありは、人形

 生徒が学校にいるのだろうか。ありは、学校にいるから生徒なのか。教室にずらりと机が並び、窓から差し込む陽光が、ぼんやり表面を照らしていた。築百年を越える校舎は、当然備品もそれなりに古い。木製の机には無数の彫刻が残されていて、「ジバタナ」「ドンジェ」と、卒業生たちのありがたいお言葉を後世に伝える。けれども流石に中央へ、堂々と彫り込む勇気はなかったらしい。それらは専ら、端っこの方にたたずんでいた。

 その頃わたしが通っていたのは、田舎の県立中学だった。窓から望む海岸からは、潮の匂いが微かに流れる。惑星特有の緑色をした無数の波が、ゆらり、ゆらり、と揺れる気配。海岸線を大きく抉り、小さな港がたたずんでいる。漁船の影が、視界の端にいくつか見えた。

 今の時期には、毎日のように水揚げがされる。緑の海からもたらされるのは、全長五メートルの巨大亀や、餅のような白い塊、手紙の詰まったペットボトルに、うず高く積まれたたこ焼きの山。

 要はこれが、町の誇る特産物で、大抵の町民の収入源でもあったのだ。水揚げされた物品を、仕分けし、町外れの工場に運ぶ。切断されて、ありは砕かれ、保存料を注入した後、ビニールで綺麗に包装する。彼らは大都会へと運ばれて、人々の生活を支えるのである。

 そんなへんぴな町だったから、空っぽのはずの隣の座席に、一人の少女がやって来たとき、わたしは心底驚いた。教室の、最後列の一番窓際。ストン、と腰掛ける軽やかな動作……。

 水平線の大分上に、じりじり輝く二つの太陽。数千年後に衝突するだろう、大小からなる連星だ。その青い光に照らされて、少女はこの地に似つかわしくない、美麗な姿をしていたのである。

「転校生です」

 ホームルームで先生は皆に紹介する。東京から来た、と緊張気味に少女はいった。声はあたかも鈴の音のようで、静まった空気に凜と響く。地元の人間の殆どは、東京の姿を知らなかった。誰もが、彼女に興味を持った。――東京って、どんなところ? どんなものがあるのかしら? 都会の人は誰も彼も、そんな綺麗な服を着ているの?

 休み時間。彼女の席にはクラスメイトが押し寄せて、似たような問いを繰り返す。転校生は、にっこり笑って口を開いた。

 ――東京は。

 こんな素敵なところだよ、と。


 銀色の長髪には艶があり、肌はしっとりとして白かった。鮮やかな青い瞳があって、いつかに見た、セルロイドの人形を思わせる。細い指先は繊細な曲線をつるりと描き、手入れされた綺麗な爪が、軽いアクセントを加えていた。身に纏うのは、レースの入ったワンピース。そんな彼女の格好は、確かに東京の気候と合致する。わたし達の太陽で、これほど綺麗な肌はありえない。第一、二つも昇ってくるのだ。強い紫外線は皮膚を焼き、衣服に隠された部分との、境界をはっきり刻み込む。ここで育った子供達の、色素は彼女よりずっと濃く、あんなに儚く、硝子のように透明な笑みは、決してもたらされることがない……。わたしは僅かな嫉妬心を抱えながら、隣席で質問攻めにされる彼女を、ボウと眺めた。唇が、何だかとても可愛いかった。

「東京にはね、ここにはないものがたくさんあるよ」

 例えばほら、と少女は取り出す。

「シーラカンスのお人形。可愛いでしょう! 足が全部で三十本、先っちょからはティッシュが出て来て、天敵から逃げるときにはおとりに使う」

 あら可愛い、とわたしは思った。手の平にすっぽり収まるそれは、どことなく愛用のハサミに似ている。

 ありはまた、と彼女は取り出す。

「にんにくの髪留め。スピーカーが内蔵されてて、好きなときにアリザンカが聴けるんだ」

 悪くないな、とわたしは思った。全体が赤く、黄色い花の紋様が入り、どこか愛用のスティック糊を思わせる。つんと鼻をつくにんにくの匂いは、作り物とは思えないほど豊かだった。

 少女は、そういった珍しい品を、数十、数百と鞄に詰め込んで持参していた。そのせいで、荷物は彼女自身より、ずっと多くの空間を占める。毎朝、教室へ運び込む度、天井には鞄の擦れてできた傷が、深く刻まれていくのだった。山のようになったそれは、教室に長い影を落として、時折寂しげな表情を見せる。床には、削れた天井の破片が、一筋の道を形成していた。

 クラスメイトを呼び集め、少女が品の、一つを掲げて説明する度、周囲からは感嘆の声が軽く上がった。そして毎回、「羨ましいな」と呟く者が、必ず一人は現れるのだ。彼女はそれを聞く度に、心底嬉しそうな顔をして、「はい、どうぞ」と貴重な一品を差し出すのである。渡された者は、ぞんざいな様子でポケットに仕舞い、次の説明へと意識を向ける。わたしはそれを見る内に、クラスメイトの輪郭が、食虫植物に重なっていくのはっきり感じた。彼らは貪欲に触手を動かし、不運な昆虫を食すのである。

 四肢を絡め取られた彼女の格好……。その空想は、いくらかわたしを熱中させた。

 一日が終わりに近づいていくと、徐々に感嘆は義務的な調子へ変化していく。夕暮れに、帰宅への欲求をくすぶらせながら、何となく去ることが出来ずにいるのか。ありは、単純に飽きたのか。彼女自身が、周囲の雰囲気に気づいているにせよ、いないにせよ、荷物がすっかり空になるまで、オークションは終わらなかった。

 ――あなたは一体、どうして皆に配っているの?

 放課後、ぺしゃんこになった鞄を背負い、たった一人で廊下を歩く彼女を捕まえ、わたしはそう問いかける。考えてみれば、これが彼女と交わした最初の言葉だ。どうせなら、もう少し気の利いた言い回しが良かっただろうか? 僅かな緊張、そして高揚。空っぽになった鞄の端を、ずるずる引きずり歩きながら、相手は怪訝そうに顧みた。夕暮れの光に照らされて、額に汗が浮いている。湿った前髪が色っぽく、大人びた印象を見る者に与えた。

「迷惑だった?」

「そんなことはないけれど」

 少し考えるようなそぶりをした後、彼女は、あら、と呟いた。

「あなたに、一度もあげてないわね」

 ついてきて、と背を向けて、どこへかすたすた歩き出す。肩幅の狭い、華奢な背中が魅力的。

 質問への答えがない上、一方的に方針を決める。自分勝手もいいところだ。それでも後を追う気になるのは……きっともう、絡め取られているからだろう。

 わたしは全く、彼女が好きだ。


 学校の校舎は三階建てで、コの字型に造られている。靴を履き替え、外に出ると、土地が有り余っているおかげだろう、やたらと広い校庭があり、それを挟んだ対岸に、小さく校門がたたずんでいる。わたしと彼女は、その外縁の歩道を辿り、ぽつり、ぽつり、と歩いて行った。

 校門を出て南へ進むと、商店街が姿を現す。それらの多くは、開拓初期から続く老舗で、各々が得意とする海産物を、ずらりと軒先に陳列していた。近隣の主婦が駆け回り、喧噪が聴覚を覆い尽くす。着色された餅の山に、ひしゃげた緑のサングラス、注射器に入った卵黄や、燻製にされたペットボトル。雑多な品の数々は、次々客の手に渡り、同時に補充されていく……。時折幟が立っていて、もうじき開かれるだろう夏祭りを広告している。

 風に煽られ、ひらひらとはためく安っぽい布。デフォルメされた「夏祭り」の文字。わたしはその様子を眺める内に、ふと、ある人形の姿を想起した。普段見かける物品達とは、どこか異質だったセルロイドのそれ。生まれて初めて親にねだった、今はもうない宝物。

 ――ピンク色の白熱電球、飛び交う昆虫の細かい羽音、どろりとした熱帯夜に、海藻のような緩い風……。そんな風景を背後に置いて、人形はじっとたたずんでいる。湿り気を帯びた生々しい肌、艶のある深紅の小さな唇、虚空を見つめる透明な目に、柔らかそうな耳の造形。十字や薔薇のレースが入る、黒と白とで作られた服に、金色の髪がよく映えていた。当時小学生だった子供のわたしが、両手に抱えられるくらいの背丈で、頭部の比率がいささか大きいようである。それがまた、たまらない。人形には、客を喜ばせようと、媚びているわけでは決してない、もっと根本的で、普遍的な「何か」が備わっている……。要するに、彼女はどことなく人間じみていたということだ。

 記憶が間違っていなければ、夏祭りの夜のこと。軒を連ねる屋台の一つに、わたしはそれを発見していた。乱雑に置かれた人形は、数度の値引きを経たにしても、存外安いものだった。食べ物にはあまり向かず、実用性も皆無だし、骨董としての値打ちもないので、行き場を失ったに違いない。祭りの雰囲気に紛れ込ませ、何とか処分しようという腹らしい、店主手書きの雑な値札に、何度も修正された跡があった。

「アレが欲しい」

 と父親にいう。

「食べられないぞ」

 と父親はいう。

「知ってるわ。それでも欲しいの」

 相手はやれやれ、と財布を出した。

 かくしてわたしは、目的の品を入手する。暫くの間、人形はわたしの親友であり、恋人であり、全てであるとすらいえたかも知れない。寝るときは勿論一緒だったし、食事のときも、入浴のときも、いつだってそれを放さなかった。もっとも、数日が経った頃、彼女は唐突に壊れてしまったのだけれど……。

 乱暴に扱ったつもりは無論ない。きっかけは、軽く床に落としただけだ。それで、粉々に砕け散った。あたかも、数百年の老朽が、一度に押し寄せでもしたかのように。皮膚も、髪も、眼球も、全てはてんでバラバラになった。美しさも、人形という文脈すらも喪失していた。今となっては、もう覚えていないのだけれど、一体わたしは、泣いたのか、ありは修理を試みたのか……。案外、おとなしく破片を集めて、ゴミ箱に放り込んだのが実際かも分からない。

 それで、おしまい。

 何のことはない、ありふれた幼年期の思い出だ。

 誰だって一度や二度は……いや、下手をすればもっと多く体験している、苦い記憶の一つに過ぎない。

 ――それだというのに。

 わたしはどうも、あの人形の姿を忘れられない。

 ――なんて人間的なんだろう。

 独りごちて、クスリと笑い、先を行く少女の姿に視線をやった。商店街は、ある地点でふつりと途切れ、閑散とした住宅地がわたし達を包み込む。銀色の髪がゆらゆら揺れた。いくつかの曲がり角をふらりと曲がった。

「ようこそ、我が家へ」

 転校生は振り返り、唐突にそんな言葉を口にする。真っ黒に塗られた洋館が、静寂と共に鎮座していた。


 内部は冷涼な空気で満ちていた。微かにマーマレードの香りが漂い、木製に統一された家具類の艶が、風格というものを感じさせる。案内された応接間には、柔らかい深紅のカーペット。天井まで届く本棚だとか、漆塗りの箪笥だとか、真っ白い紙を入れた額縁に、半分になったピンポン球、隅っこの方にたたずんでいる、乾燥しきった巨大な海藻。そういった品々に囲まれて、中央に堂々としたテーブルがあった。

 促され、一番手前の席に座ると、彼女は箪笥の引き出しに手を掛ける。中から煎茶の入った湯飲みを取り出し、わたしの手元にそっと置いた。細い指、白い指、繊細な指。口の中に頬張って、転がしてみたいという衝動。すっかり冷えた茶の表面には、埃が膜を張っている。

「何だかとても、静かなのね」

「皆、留守にしているからね」

 ずるずるとお茶をすすりながら、わたしは周囲の様子をうかがう。

「東京から来たって本当なの?」

「どうして嘘をつくのかしら」

 悪戯っぽい表情をして、彼女は、まぁいいわ、と呟いた。

「ちょっと待ってて。素敵な小物を見繕ってあげるから」

 扉がギィと音を立て、ゆっくりと隙間を狭めていく。わたしと、お茶と、室内の調度が、ひんやりとした空気の中に残されていた。

 茶碗を置く。コトリ、という微かな音が、驚くほど耳に響く。椅子を引き、立ち上がり、部屋の一角の本棚へと近づいていく。設置された硝子扉に、わたしの顔が反射した。それを透かした向こう側に、ぎっしりと書籍が詰まっている。

 一冊を、取り出す。黄色い背。表紙には地球の模式図が描かれ、題名が斜体で刻まれていた。下地は黒、文字は箔押しの金色で、ずっしりとした重みがある。開いてみると、どこか遠い星系で出版されたものらしく、文法に不可解な点が多かった。いくつもの図柄が描かれていて、一つ一つに詳細な説明が記されている。

 ――「地球文化大全」。

 わたし達のルーツであるという「日本」の項に、蛸を象った栞が一枚、人目を忍ぶように挟まれていた。


 それは確か、わたしが入学して間もない頃のことだったと思う。

「プリントは先日配ったな?」

 史学の教諭は髪を後ろで一つに束ね、手ぶらで教室の扉を開けた。齢二十代後半といった面持ちは、眼光鋭く、居眠りを決して逃さないという強い意志を感じさせる。白板につらつらと図を書いて、何十、何百と繰り返してきただろう台詞を紡ぐ。わたしは、授業の中身をよそにして、語るべきこと全てを諳んじる彼女の姿に、感心しているばかりであった。

 ――ところでこれは余談だが。

 そう前置きして、教諭は生徒をぐるりと見渡す。

「君たちは、この土地の文化をどう思う?」

 白板に、赤いペンで流れるような文字を書いた。

「分かり易く言語にのみ着目しても良いだろう。我々の先祖がこの地に流れ着いたとき、残した資料が公立博物館で閲覧可能だ。それによれば、現在用いられている『ARIHA』という接続詞、副詞は……」

 キュッと白板が小さく鳴る。

「元来『ARUIHA』と表記されていたんだよ」

 「U」にバツ印をつけながら、分かるか? と教諭は続けた。

「植民地化に成功してから、たった四代。四代だ! それだけで、既に言語が目に見えて変化を始めている。こと環境に大きく影響される文化一般では、もっと大きな何かが起こっていてもおかしくはない。……要するに」

 ――君らが信じ、私も信じ、教育の場で提供されているこの知識……地球……そして日本に由来すると考えられている事柄全てに、十分懐疑的な態度が要求されるということだ。何せ、教育制度が十分に整備されたのは、我々の親の代のことなんだからね。

「時間がない。以上、授業に戻る」

 交易は、距離を隔てれば隔てるほどに難しくなる。高速の壁を超えたところで、その事実は変わらない。通信に時間がかかりすぎる上、商品を注文したとして、到着する頃には無用の長物になっていることだってあり得るわけだ。流行に乗るなんて以ての外だし、先を見通すのも難しい。結果として、端から端まで、光が走って十万五千七百年かかる伝言ゲームが、生活必需品や工業原料だけを背に乗せ、行われているというわけである。

 ――一体、この大全に記されたことは、どこまで信頼できるのだろう?

 文化は、酷くもろいものだ。それは史学を通しても実感できる。壊された、奪われた、ありは混ざり合ったもの。いくつもの事例が示されて、そのどれもを教諭は悲しそうな目で口にする。

 緩やかな変化はいつしか巨大な差異へと繋がり、緩やかに始まった分断は、きっといつか決定的なものへと変わってしまう。そのとき空を見上げているのは、もはや統一された人間ではなく、各地で別個に生活を営む、孤独な種族に過ぎないのだ。ある意味で、それは滅亡を意味している。

 わたしは時折、こんなことを思うのだ。

 ――文化は、人間によって生み出され、人間によって壊される。ならば、人間を奪ってしまえば……脅威となり得る動的な本質を剥ぎ取ってしまえば、きっと綺麗な外枠だけを、永久に保存できるのだろう。

 わたしは、本を棚に戻した。扉の向こうから、微かに人の気配を感じた。

 席に戻り、埃の浮いた茶を含み、一呼吸して目を閉じる。

 ――ぱた、ぱた、ぱた……。

 軽やかな足音がした後で、扉がギィ、と開かれた。


 洋館に背を向け、歩き出す。

「送ってくれなくて、良かったのに」

 気にしないで、と彼女は応え、微笑みながら横を歩く。わたしは両手に、銀色の小箱を携えて、来た道をゆっくり辿っていった。

 小箱……空っぽの箱。蔦や花、鳥や雲、宙を舞うなめらかな球体に、一人の少女。それらを象った金属細工が、びっしり全面を覆っている。鈍い輝きには錆一つなく、小さな鍵穴が不気味な様子でたたずんでいた。

「中には、何が入ってるの?」

 わたしはふと、尋ねてみる。

「そもそも鍵は、どこにあるの?」

 商店街の喧噪を抜け、学校とは別方向に進んでいった。ソーセージの生えた植木鉢、古びたアパートの欠けた看板、一軒家の窓際にはベッドがあって、横になった一人の老婆が、こちらをじっと見つめている。時折、軒下に煙草の吸い殻がうず高く積まれていたりして、粘っこい臭いをどんより漂わせているのだった。つまりはコレが、わたしの歩き慣れた通学路というわけである。

「鍵なんかないよ。中には何も入ってないし、入れることだってできないわ」

 ――そもそもコレは、箱じゃない。箱の形をした置物で、置物になった箱の形で、箱らしき箱でない置物だもの。

 両手に包んだ箱の細工に、指先を這わせて弄ぶ。それは、どうしてか温かかった。ずっと触れていたせいかもしれない。ありは、もっと幸福な何かが、そこにはこもっているのだろうか。

 家の前で別れを告げた。自分の疑問は何一つ解消されなかったな、と、どこか腑に落ちない感覚を抱きながら、去る背中をボウと眺める。

「……今日はありがとう! 箱! くれて!」

 曲がり角に差し掛かろう、その姿が視界から消えよう、という段になって、そういえば、と慌ててわたしは声を張った。すると彼女はくるりと顧み、照れくさそうに微笑んだのだ。

「どういたしまして!」

 頬の辺りの輪郭が、どうしてか柔らかく感じられる。わたしはほっと溜息をつき、可愛いな、と独りごちた。もしも彼女を、プラスチックで包んだら。きっととんでもなく素敵だろうな。


 ――昨年の夏、六月六日を想起する。商店街で恒例の夏祭りが開かれた。役所が主催し、出資して、各店舗が適当な屋台を築くのである。飲食物を中心として、玩具、古着、文房具、めいめい勝手に品を並べる。色とりどりの電灯によって装飾された看板が、真っ暗な夜空にハッとするほど輝いていた。そのせいで、星の光も心なしか弱々しい。

 甘ったるく香ばしい匂い、ケイ素燃料車の排気臭、いくらか強い潮の香りに、行き交う人々の過剰な香水……。わたしは浴衣に半纏を羽織り、お気に入りの財布を握って、一人麦茶を口に含む。甘ったるくて粘性のある、ほどよく冷えた飲料は、火照った身体に心地良かった。道路の端っこ、小さな建物の壁に寄り、ゆらゆら揺れる人波を眺める。

 ――どうしたの? こっちに来なよ!

 喧噪に紛れて、友人達の声が聞こえる。視線を送るとその方角に、おーい、と手を振る数名の少女の姿があった。

「わたしはいいよ、疲れたし――」

 色とりどりの浴衣や帯が、屋台を背にしてくるくる踊る。鏡の前で小一時間も粘っただろう盛装に、不慣れな印象の厚化粧。綿菓子を吸いながらこちらへ手を振る彼女らに、わたしは少し声を張った。

「――ちょっとこっちで、休んでるから」

 一抜けた、と独り言つ。何より財布が空なのだ。

 見れば向こうは、くじ引きに興じているようだった。硬貨数枚と引き換えに、箱の中から紙を引き出す。景品が豪華なので有名なところだ。たこ焼きの肝の瓶詰めや、虎縞模様の赤鉛筆。毎年同じ場所に出ているが、出るのはせいぜい六等賞まで。目玉の品を当てた者は、かつて一度も見たことがない。もっとも彼女らが買っているのは、商品ではないのだろうけど。

 ――まるで、万華鏡みたいじゃない?

 わたしは財布を弄びつつ、隣に向かって話し掛けた。

 ――豊かな色彩の断片を、硝子越しに眺める気持ち。

「綺麗な比喩は若さの証さ。目が弱っているせいで、何もかもが褪せて見えるよ」

 見知った老婆はつまらなそうな表情で、そんな風なことをいう。けれども案外、相手の様子は、生き生きとした印象をわたしに与えた。通学路、一軒家の窓から外をボウッと眺るのより、今の方がずっといい。

 老婆の身体は、腰から下が欠落していた。カマキリの腕のような無数の足が、人工的に接続されて、バランスを取ろうと始終もぞもぞ蠢いている。古い型の車椅子。

「あたしはね、なんだかこのお祭りが、伽藍堂の空箱に思えて仕方がないんだ。単なる娯楽の意味合いなら、どうしたって「夏」に開く必要がある? 大体「祭り」の名前からして、本来あっただろう何かを、想像させるに十分じゃないか」

 あたしの母親は、地球生まれだったんだ、と、もう何遍も聞いた話を、老婆はまた口にした。近くに住んでいることもあり、買い物の最中に出会ったり、こうした催し物で遭遇することはまれにあった。一体どういうわけだか知らないけれど、そんなとき、この人は必ず、わたしに話し掛けるのである。普段引きこもっているせいで、溜まりに溜まった話のタネを、皆ばらまいてしまおうと――そんな風な顔をして、同じ話を繰り返す。

「あたしはまだ、うんと小さな子供だったような気がするねぇ。何だか、そんな話をしていたのさ。ここのお祭りには何かが足りない、屋台が建っているのは大切だけれど、それはお祭りの全てじゃない――」

 なんだったかしらねぇ、と首を傾げる。喉の辺りに皺が寄って、屋台の明かりで影ができた。

「でもお祭りって、結局楽しいものでしょ?」

「そりゃ、そうだろうと思うけれどさ」

「だったら、今のままだって、十分素敵とわたしは思うよ」

「そりゃ、そうかもしれないけれどさ……」

 老婆はつまらなさそうな顔をして、ふいとどこへか去って行った。カシャカシャと、足が細かく音を立てる。歪曲した小さな背中が、似つかわしくないすばしっこさで、すいすい人混みを抜けていく。何の不自由もなさそうなのに、あの人は普段の外出を面倒くさがる。わたしにはちっとも、その理由が分からないのだ――。

 案外、老婆の語ったことは真実なのかも分からない。けれどもそれは、意味を忘れた先祖に責任があるのであって、わたしには関わりのないことだ。失われるのがいやならば、失われる前にさっさと動けば良かったのに。

 もしも何か、ここから教訓を得ようとするなら……。


 登校し、自席に座る。わたしの他に、たった一人の少女を除いて、教室には誰もいない。彼女は窓の外をボウと眺める。遠い海に反射する、太陽の揺らぎに見とれているのか。窓は少し開けられていて、涼やかで、潮の匂いの混じった風が、教室を緩やかに流れていった。彼女の銀色の綺麗な髪が、ゆらり、ゆらりと微かに揺れる。背後には、いつも通りの巨大な鞄が鎮座していた。それはまるで、彼女を守る城壁のよう――。

 思うに何かしらの教訓は、活かさなければ意味がない。だからわたしは、人気のないその教室で、彼女に話し掛けることを決めたのだ。

「……今週の日曜日って、予定ある?」

「――え?」

 と、心底驚いたような顔をして、彼女はこちらを振り向いた。わたしがやって来たことに、全く気がついていなかったらしい。静まりかえった室内で、声は少しばかり大きかった。残響の中、恥じらうように顔を赤らめ、それから「日曜日……」と反芻する。

「毎年、夏祭りが開かれるのよ。屋台がたくさん並んでて、食べ物、飲み物、ちょっとしたゲームなんかが楽しめる。一年で一番、町が盛り上がる日だとわたしは――」

 突然、ゴウ、と音がした。地響きに似た、重苦しい振動も。窓硝子がビリビリと震え、聴覚がどろりと飲み込まれる。窓の外では、頭上を過ぎたばかりの船――定期輸送航宙船――が、家々に影を落としつつ、海へと近づいていくのだった。青を基調とした流線型の鋭いフォルム。表面にはびっしりと幾何学模様が施され、その船籍を証明している。

 聞くところによると乗員は、船内で世代交代を繰り返しながら、ただ品物を輸送するために生きるという……。彼らはもはや、独立した部族であるといえそうだ。

 ――今年も会話ができるといいけど。

 彼らが来訪を重ねる度に、言葉が分かりづらくなっていく。時折耳にする噂話だ。

「あの船から降ろされて、新しく仕入れられた商品も、最初に夏祭りで売り出されるんだ。行かなきゃ損だよ、絶対に!」

 彼女は暫く、気まずそうに辺りを見回し、それから意を決したように口を開く。

 わたしは他人と約束している、申し訳ないが、夏祭りには彼女らと行く――。つまりは、そういうことだった。

「……そう」

 さほど残念には思わない。何しろ、彼女は転校生だ。それも地球、それも日本、それも東京から来たという。とうの昔に誘いの声がかかっていても、何の不思議もありはしない。それなりに社交的な人間ならば、クラスにはいくらだっているのだから。

 遠く、航宙船は着水した。飛沫。緑色。うねるような波の曲線。

「一緒に来るのはどうかしら? あの子達に聞いてみれば……」

 彼女は申し訳なさそうに、そんなことを口にした。

「別にいいよ」

「じゃ……じゃあ、昨日あげたあの箱だけど……もう一個あげるわ。お詫びの印に。もう一個。来年は必ず一緒に行こう!」

「もう一個?」

「二個でも、三個でも、いくらでも!」

「そんなにたくさん、持ってたの」

「クラスの皆にも、あげるから……」

 そう。

 クラスの皆にも。

 なんだか、昨日の喜びが、急に色あせてしまったようだ。

「ニョージョーリン」

 慰めるように彼女は笑う。その表情はとても綺麗で、けれど無性に腹が立った。こんな人間くさいモノは必要ない。可愛くさえいれば良い。変わらぬように、壊れぬように。いつかのあの人形だって、きっと人間味がありすぎたのだ。

 ――だったら。

 ――だったら。

 その想像は、わたしにいくらかの勇気を与えた。

 ――この出会いは、あのときと同じ、きっと運命のようなものなのだ。

 立ちあがる。わたしは彼女に歩み寄る。怪訝そうに見上げる頬に、両手を軽く添えてみた。柔らかい。温かい。ほんのりとマーマレードの香りがする。

「あなたが毎日配ってるモノ、みんな東京から持ってきたの?」

「……一つ一つを梱包するの、とても大変だったのよ」

「あなた、ここに来る前は、本当に東京で暮らしていたの?」

「……とても素敵なところだった」

 怪訝そうな目と共に、唇が小さく開き閉じる。そう、と軽く息を吐き、それから両手に力を込めた。わたしから、目をそらすことができないように。

「あなたの家の本棚に、『地球文化大全』があった」

「……悪くない本だったでしょう?」

「あなたが持っていた品物は、どれもあの本に載っていた」

「本物だもの。当然よ」

「そんなはずがないんだよ。……だってあの本、地球で出版されたものじゃないんだから」

 かの異星系がいずこにあるのかは知らないけれど。奥付の表示を見る限り、それだけは確かにいえそうだった。

「比較的、地球に近いはずのここでさえ、東京の、日本の、地球の……本当の姿を誰も知らない。なのにどうしてあの本が、正確な地球を描いているんだと断言できる? むしろ逆よ。アレは不正確じゃなきゃありえない。それと同じ品を持つ、あなたもやっぱり、不正確なの」

 彼女は暫く沈黙し、それからぱちり、と瞬きをする。視線が小刻みに揺れている。

「そもそも地球から来る人が、どうして他の星の「地球文化大全」を買うのかしら?」

 いくらか愉快な気持ちになった。これがばれたらどうなるか? 「東京からの」転校生は、一体どんな待遇を受けるか?

「……ねぇ、どうして皆に嘘をついたの?」

 両手をそっと離してあげる。うつむき、華奢な両肩が、今はいっそう小さく見えた。

 微かな、泣き声。というよりは、小さな、嗚咽。

「……いわないで」

 と、彼女はいう。

「……他の、誰にも」

 いわないで。

「大丈夫。……大丈夫」

 わたしはそこで、彼女の身体を抱いてやるのだ。優しさと、そして何より、愛を持って。

「わたしはあなたが、どんな気持ちでいようが興味はない。明日からも『東京からの』転校生でいていいの。たくさんお土産をばらまいて、友達の心を買うといいわ」

 だから、今度の日曜は。

 いいえ、今日から永遠に。

「あなたは、わたしの人形になる。……ねぇ、嘘泣きなんて、しなくていいのよ?」

 え? と、嗚咽がそこで止まった。

 ――だって、わたしは一人でいるのが怖かっただけで……。

 言い訳と、一滴の涙もない目元。それなりの恐怖と戸惑いの混じった、赤みの差す可愛い泣き顔。

 ——あげるよ。箱。もっとたくさん。本も、あの本、あげてもいいよ。可愛い、人形、たくさんあげるよ。何でも……何でもあげるよ……。

「そんなのいらない」

 ここで、少し冷たい声色を出してやる。そう。そう。その顔でいい。こわばった、固まった、人形じみた顔でいい。

 わたしは彼女にキスをする。相手の歯を削り取り、その奥へと食いついていく。舌を。柔らかい舌を。可愛い舌を。嘘をつく舌を。しっかりと前歯で挟み込み、噛みしめ、にじんだ血を飲んでみた。ばたばたともがく肩を抱き、愛を込めて絞めてみる。

 可愛いな、と独りごちた。

 あのときの人形なんかより、ずっと彼女は可愛らしい。

 可愛い。可愛い。とても可愛い。

 ――今度は、壊れないように。

 相応の扱いをしなくちゃいけない。


   ※


 帰宅する。自室に戻る。窓から差し込む夕日は冷たく、もう冬が近づいているのを実感させた。室内には小さなラッパが一つあり、隣に本棚が鎮座している。最奥に位置するのは愛用のベッドで、先日代えたばかりの綺麗な昆布が、心地よさそうにたたずんでいた。

 そこに、裸の人形がある。人間と同じ大きさで、ベッドにゆらりと寝転んでいる。精巧にできた女性のソレだ。銀色の髪、青い瞳、そしてきめの細かい純白の皮膚。爪は綺麗に切りそろえられ、念入りに磨かれているようだった。

「先に来てたの。偉いじゃない」

 人形は何も語らない。ここのところ、まるで言葉を、すっかり忘れてしまったようだ。人形でいるとき同様に、やはり生徒でいるときも。

 ほろり、と人形は涙を流し、わたしは念入りに舐め取ってやる。

 それから、いつものようにキスをするのだ。

 彼女の、永遠を祈りながら。

 今日も明日も、変わらず昇る、あの太陽に祝福されて。

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ありは、人形 亜済公 @hiro1205

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