鮭られない愛の輪廻


 豹華ひょうかと最後にデートしてから二度目の土曜日、俺は全速力で病院に向かっていた。


 ゴマ子の姿が見えないことに気付いて間もなく、豹華の母親から連絡が来たのだ――病院に来てほしい、と。


 豹華の容態を聞こうとしたものの、病院名だけ告げられて一方的に電話は切られた。



 豹華に何があった?

 まさか死にかけているというのか?

 嫌だ、豹華がいなくなるなんて嫌だ!



 焦る気持ちに任せて俺は走り、嫌な予感を振り切るように駆けた。教えてもらった病院に到着してノックからの返答もそこそこに病室に飛び込むと、室内には何度か会ったことのある豹華のご両親がいた。


 だが、悠長に挨拶している場合じゃない。



「豹華!」



 名を呼んで、ベッドに駆け寄った俺は――しかし即座に立ち竦んだ。


 豹華は、ベッドの上に横たわったまま力無い笑顔で俺を迎えた。見えている限りでは、大きな怪我はない。ベッドから出ている頭と顔と腕に、ガーゼや包帯をしている程度だ。


 俺が驚いて声を失ったのは、豹華があまりにも軽傷で面食らったせいじゃない。彼女のお腹の上に、ゴマ子が乗っかっていたからだ。


 ゴマ子は、苦しそうに震えていた。

 くりくりの目はぎゅっと閉じられ、ふんふんと鼻を開いて短く息を吐き、むふむふ笑うような口元を歪めて喘いでいる。これまで見てきた元気な姿からは想像もつかない変わり様だ。


 さらに俺は、ゴマ子がやけに小さくなっていることにも気付いた。


 あんなにデカかった体が、今は両腕に抱えられるほどしかない。いや、違う……どんどん萎んでいる。こうしている間にも、ゴマ子はどんどん小さくなっていく。



 このまま縮んでいったら、ゴマ子は――。



「……ダメだ! そんな自分勝手な真似は許さない!!」



 触れることで消えてしまわないよう、俺はゴマ子の隙間から豹華のお腹に手を添えて叫んだ。



「俺はまだ、お前に触れてない! 俺だって、お前に触れたいんだ! お前を抱いてみたいんだ!」



 いつの間にか、俺の目からは涙が溢れていた。



 叫びながら、思い出したんだ――ずっとずっと昔、きっと生まれるより前、自分が大切な誰かを置いていってしまった記憶を。


 その相手は自分なんかよりとても大きくて優しくて、こんなふうになりたいとずっと思っていた。けれどそれは叶わなくて、俺はずっと守られるだけで、しかも先に死んでしまって……でも次こそは、自分が守ると誓ったんだ。



「……けい、知ってたの?」



 静かな声に、俺は泣き濡れた顔を上げた。すると、申し訳無さそうな表情をした豹華と目が合う。彼女にもゴマ子が見えているのかと思い問い質そうとするも、豹華は俺より先に言葉を紡いだ。



「ごめんね、ずっと面会を拒否してて。私は大した怪我じゃなかったの。でも事故で、この子が危険な状態になって」


「この子……」



 譫言のように繰り返し、俺は再びゴマ子に視線を向けた。ゴマ子はもう、両手に乗るくらいにまで縮んでいた。



「私が妊娠してたこと、圭は気付いてたんだね。ずっと打ち明けるか悩んでたのに、バカみたい」



 豹華が自嘲気味に笑う。が、俺は寝耳に水の寝起きにアザラシで何も言えなかった。


 豹華が妊娠……?

 この子ってゴマ子のことじゃなくて、俺の……?



「私、自信がなかったの。圭が生んでほしいって思ってくれるか、それ以上に自分がどうしたいかわからなくて……だから、圭を避けてた。事故でこの子を失うかもしれないって状況になるまで、迷ってた」



 それで両親にお願いし、面会を断っていたんだという。誰とも会いたくなくて、自分の気持ちと向き合いたくて。


 いろいろ言いたいことはあるが、とにかく豹華は無事だった。それだけでも良し……とはできない。


 危険って、失うかもしれないってどういうことだ? まさかゴマ子がこんな状態になっているのは……。



「だけど圭の言う通り、私は自分勝手だった。私達の子どものことなのに、圭に黙ってるなんて。何も言わないまま失くしてしまったら、きっと後悔してた」



 豹華が俺の添えた手に、己の手を重ねる。するとゴマ子もそこに、ヒレみたいな手をそっと乗せた。


 初めて触れるゴマ子は、ふんわりとあたたかかった。その温もりは、自分が『最期の時』に全身で感じた体温と同じで――。



 そうか、そうだったんだ。


 やっと俺は、ゴマ子が自分の前に現れた意味を理解した。



 お前は、俺をずっと待ってたんだな。そして水族館に来た俺を、一目であの鮭の生まれ変わりだと見抜いた。


 だけど今度は、自分が先に逝く側になって――だからまた、俺の元に来てくれたんだ。前世の俺が叶えられなかった、お前を守るという願いのために。俺の子どもに生まれ変わって。



 豹華と手と、掌サイズにまで小さくなったゴマ子の親指にも満たない小さな小さな手をぎゅっと両手で握り、俺は泣きながら懇願した。



「豹華……俺、待ってたんだ。こいつに会える時を、ずっとずっと待っていたんだ。どんなことをしても守る。誰よりも何よりも大切にする。だからお願いだ、こいつを生んでくれ。死なせないでくれ! 俺の子として、生まれさせてやってくれ!!」


『はーい、ぱぱ! がんばってうまれるー!』


「へ!?」



 聞き慣れない甲高い声音に、俺は間抜けな言葉を漏らした。



「ありがとう、圭。私もね、やっと決意したんだ。だから今日、お母さんにお願いして圭を呼んでもらったの。圭に反対されても構わない、絶対にこの子を生む、って伝えたくて。でも、嬉しい……圭は私を、ううん私達を、こんなにも深く思っていてくれたのね」


『ままー、うれしいね! ふかくおもってくれてたね!』



 涙化粧の豹華は、これまで見たどの彼女よりも美しかった。が、俺はそれに見惚れるどころじゃなかった。



「圭くん、豹華とこの子のこと、どうかよろしくお願いします」


『おばーちゃんも、よろしくー!』


「娘達を幸せにしなかったら、許さんぞ。結婚式は必ず挙げろよ、わかったな?」


『おじーちゃん、わかったよー!』



 詰め寄ってくる豹華の両親にも、曖昧に頷くしかできなかった。



「あ、あの……子どもは? 危険な状態、なんじゃないのか?」



 恐る恐る尋ねると、豹華は涙を拭いて輝くばかりの笑顔で答えた。



「それなら大丈夫よ、もう安定したわ。明後日には退院できるって、お医者様にも言われたから安心して!」


『あんしんだよー! あえるときを、たのしみにしてるねー!』



 掌サイズのミニゴマ子は、豹華の腹の上でピタピタ飛び跳ねながら俺達に向かって人間語で語ると、溶けるように消えてしまった。



 そこで、俺はゴマ子の真の目的を察した。


 あのアザラシ……わざと苦しんでるフリをして、豹華と両親の前で俺に『生んでくれ』と言わせたんだ!


 これまで周りをうろついてたのは、俺の気持ちを確かめるためだったんだろう。自分が生まれてきていいか、ゴマ子もきっと不安だったんだと思う。


 だが、俺の様子を見てゴマ子は大丈夫だと判断した。だからこんな大胆な手に打って出たに違いない。


 生まれる前から親を騙すとは、ゴマ子め……何て末恐ろしい子だ!



 しかし、一匹の鮭を愛したばかりでなく、生まれ変わっても見付け出し、さらには愛した相手の元へと転生してくる……そう考えるとやはり、ゴマ子はとんでもない奴である。


 彼女に愛されたが最後、どこまでも追われ続けることは必至。


 けれど俺にとってその愛は、恐怖などではなく、むしろあたたかな安らぎを覚えるもので――。






 俺達の子は、やはり女の子だった。


 医者も驚くほどの安産で生まれた赤ん坊は、ゴマ子の百億倍以上可愛かった。



「今度こそ俺が守るからな、駒子こまこ



 生まれたばかりの我が子を抱き、俺はそっと囁いた。


 駒子と名付けた愛しの娘はそれを聞くと、激しく手をバタつかせた。その姿はまるで、嬉しそうに跳ねるアザラシのように見えた。

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鮭られない恐怖 節トキ @10ki-33o

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