人気ザラシ、ゴマリーヌ
チケットを手に、俺はそっと背後を窺ってみた。すると柱の影からゴマ子が顔を出す。よし、ちゃんと付いてきているな。
やって来たのは、先週
大して変わった生き物はいないけれど、それなりに多くの魚が見られるし、ペンギンやイルカなどによるショーも行われる。もちろん、アザラシもこの水族館にいる。
他の魚には目もくれず、俺は真っ直ぐアザラシのコーナーに向かった。
ちょうどアザラシショーの開始時間だったらしく、そこにはたくさんの人が集っていた。窓を隔てた向こうのプールでは、飼育員の女性と数頭のアザラシ達がボールや輪っかを使った芸を披露している。歓声を上げる人波から外れ、俺はコーナーの横に設置されたアザラシ達を紹介する看板に進んだ。
魚の切絵やイラストで可愛くデコレーションされた看板には、写真付きでアザラシ達のプロフィールが描かれている。その一番下に、とあるアザラシが大きく掲載されていた。
『ゴマリーヌ(♀) 享年二十八歳』
ゴマリーヌ……だと? 随分と麗しいお名前でいらっしゃるな……。
名前までは覚えていなかったが、三ヶ月前の七月に亡くなったというこのアザラシは知っている。俺が物心ついた時からずっと、この水族館にいたからだ。
他のアザラシに比べると色白で、また体が大きく太ましくて目立っていただけでなく、人懐こくていつも窓に張り付いていたせいで人気者だった。その証に、写真の下に設置された台には、お客さん達が持ってきたと思われるたくさんの花やお菓子や手紙などが添えられている。
このアザラシの訃報は、先週来た時に知った。けれど、いつになく元気のない豹華に気を取られて残念がるどころじゃなかった。
改めて、俺は写真を見てみた。
バストショットだが、真っ白でデブいボディにむふむふ笑ってるような顔は確かにゴマ子に似ている……ように思う。ってアザラシの顔の区別なんてつかないから、わからねーよ!
見比べてみるかと思い振り向いたら、ゴマ子も他の観客と一緒になってショーに見入っていた。アザラシショーを見て嬉しそうに手をパチパチするアザラシなんて、こいつくらいだろう。
ショーが終わるのを待って、俺はアザラシの飼育員の女性に声をかけた。ゴマリーヌのことを聞こうと考えたからだ。ゴマ子が人気ザラシだったゴマリーヌなら、奴が俺の前に現れた理由に繋がる手がかりを得られるかもしれない。
しかしその女性はまだこの水族館に勤めて間もないそうで、代わりに勤続二十年以上のベテランだという年配の男性飼育員さんを呼んでくれた。
「ああ、
名前を名乗ると、四十代半ばから後半ほどと思われる男性飼育員さんはそう言って優しく微笑んだ。
ゴマリーヌを元気にした? 俺が?
「あの、俺、何かしましたっけ?」
「魚井君はまだ小さかったから、覚えてないのも仕方ないね。ゴマリーヌがここに来たばかりの頃、君がショーで指名されたんだ」
その記憶は、何となくある。確か幼稚園の時に、アザラシに魚をあげる役を客から選ぶという催しがあったんだが、自分が抜擢されたのだ。
「ゴマリーヌはそれまで、芸をするどころか人に近付こうともしなかった。なのに魚井君が現れるや、人が変わったように……いや、アザラシが変わったように嬉々として飛び出してきたんだよ」
そういえば、と俺は思い出した。
魚を目の前のアザラシに差し出したら、やたらはっちゃけたアザラシがぶっ飛んできて横取りしたのだ。
「ゴマリーヌは魚井君のことを一目で気に入ったみたいで、それからはすすんで人と接するようになった。あの時に君から名前を聞いて、なるほどと思ったよ。魚井圭、鮭に通じるものがあったからね」
飼育員のおじさんはうんうんと頷いているが、俺には何のことやらわからない。確かに俺の名には、鮭という字は含まれているけれども。
「ゴマリーヌは、汽水域……淡水と海水が混じり合う場所なんだが、その付近で発見されたんだ。うっかり迷い込んでしまったようで、ひどく弱っていた」
ここで話は、いきなりゴマリーヌの過去へと飛んだ。いろいろと意味不明だが、尋ねたのはこちらなのだから黙って聞かねばなるまい。
「その時にゴマリーヌは、一匹の鮭を抱いていたんだ。鮭はもう死んでいたんだが、引き剥がそうとするとゴマリーヌは必死で抵抗した。あんなに弱っていたのに、どうしてあの鮭を食べずに抱いていたのか、疑問だったけれど……きっとゴマリーヌにとってその鮭は、種を超えた大切な存在だったんだろう。ゴマリーヌが人に対して頑なに心を開かなかったのは、鮭を自分から奪った相手としてずっと敵視していたせいなんじゃないかと思うんだ」
俺の想像だけどね、と付け加えて飼育員さんは苦笑した。
えっとつまり?
ゴマリーヌは鮭と愛し合っていた、と?
で、何故か鮭と名前が似ている俺のおかげで、人間も悪くないじゃーん、と思うようになれた、と……?
うん! アザラシの思考も飼育員さんの妄想も、全然理解できない!
そっと振り向いてみると、ゴマ子はゴマリーヌの写真のところにいた。そして写真をビタビタと手で叩き、『これ自分! これ自分だよ見て見て見て!』とでも言いたげにふんすふんすと鼻息を漏らしながら、あうあうおうおうと喚いていた。
うるせーな、知ってるよ。ゴマリーヌって大層な名前があったんですね。ゴマ子なんてセンスない名を付けてすみませんでした!
ゴマ子がゴマリーヌだと判明したところで、一歩進展……ということもなく、それからも変わらずオバケザラシ・ストーキングの日々は続いた。ストーカーの名前がわかったからといって、訴えられる相手じゃないんだから何の解決にもなりゃしない。
ただ水族館を訪れた日から、不思議な夢を見るようになった。
俺は大きなゴマ子に抱かれ、腕に小さなゴマ子を抱いていた。隣には豹華もいて、穏やかな笑顔で俺を見つめていた。
とても幸せで、満ち足りた気持ちになって――けれども目を覚ますと、豹華のいない現実に打ちのめされては落ち込んだ。
けれどゴマ子だけは現実にも……というか幻なのかもしれないけど、俺の側にちゃんといた。あんなに怖くてキモかったのに、その時ばかりはゴマ子がいることに安心した。
しかし、ストーキング開始から二週間。
見えない時間がないほどずっと視界にいたのに、ゴマ子は現れた時と同じように唐突に消えてしまった。
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