ゴマ子と名付けてみた


 視線を感じて、俺は足元に目を落とした。



『あうん?』



 するとデスクの陰からこちらを窺っていたゴマ子が、むにょんと首を傾げる。


 不思議そうな面してんじゃねーよ。お前の存在こそが摩訶不思議なんだよ。



魚井うおい、お前、人の話を聞いてるのか? こんなミスだらけの書類を提出しやがって、謝る時まで余所見とはいい度胸だな、おおん?」


「す、すみません。すぐにやり直します」


「お前、最近たるんでるんじゃないか? おかしなことを言い出したり、急に取り乱したり……会社で寝ぼけるのも大概にしろ。少しは気を引き締めてだな……」



 上司の土田つちだの説教を、俺は死んだような目で聞いていた。


 聞き流しているのではない。ミスに関しては自分が悪いのだから、しっかり反省している。


 俺が白けた目を向けているのは、土田の背後から覆い被さり、ハゲかけた頭をガブガブしているゴマ子に対してだ。


 やめろ、ゴマ子。上司を食うな。俺にしか見えないとはいえ、頭まるかじりはさすがに可哀想だ。せめて後生大事にしていらっしゃる数少ない髪を引き千切りあそばせるくらいにしといてやれ。



 席に戻ると、隣から同期の山木やまきに声をかけられた。



「魚井、お疲れ。ネチダって、本当にうざいよなー」



 ネチダとは、パワハラとまでいかないレベルの嫌味をネチネチ繰り出す土田のあだ名だ。ったくデカい声で言うなよ。バレたらまたネチられるだろうが。


 声には出さず目だけでそれを訴え、俺はミスを指摘された書類を直そうとパソコンに向き合った。



「なあ……お前、本当にもう大丈夫なの? やっぱ少し休んだ方がいいんじゃないか?」



 今度は小声で、山木は俺に囁いた。



「ああ、心配かけて悪かったな。ちょっとぼんやりしてただけだ」


「それならいいけど……豹華ひょうかちゃんのこと、あんまり思い詰めないようにな。きっとすぐ元気になるよ」



 その言葉に、タイピングする俺の指が止まった。


 大学からの付き合いである山木だけには、話してある。豹華があの日――俺とのデートの帰り道に事故に遭って、面会もできない状態だということを。


 連絡を受けたのは、デートの翌日の朝。


 意味不ザラシのせいで睡眠不足だったが、知らせを聞くや、驚きで即座に目が覚めた。すぐに病院に行こうとしたけれども、俺に電話をしてきた豹華の母親に『暫く来ないでほしい』と言われた。おかげで、病院の名前も教えてもらえなかった。


 だから豹華がどんな具合なのか、俺にはわからない。山木を始め、共通の友達にも連絡してみたが、皆は豹華が入院していることすら知らなかった。


 もしかしたら、豹華は相当ひどい怪我をしたのかもしれない。そんな姿を見せるわけにはいかないと家族は考え、俺達を拒んでいるのかもしれない。



 でも俺は、豹華がどんな姿になろうと構わない。生きてさえいてくれたら、それでいい。どんなことがあっても、彼女を支えたい。


 情けないことに、こんな状況になってやっとわかったのだ。俺は豹華を心から愛してる。彼女のいない人生なんて考えられない、と。



 俺が暗い表情をしているのに気付いたようで、山木が明るい笑顔で肩を叩いた。



「そういや、アザラシの幻覚は見えなくなったのか? いやー、アザラシが見えるって叫び出した時はさすがにどうかしたのかと思ったぜ。何でアザラシ? って笑うに笑えねー雰囲気だったし」


「ああ、うん……その節は悪かったな。もう見えなくなったよ……」



 ニヤニヤと意地悪く笑う山木にビッタンビッタンとケツアタックを食らわせるゴマ子を眺めながら、俺は虚ろに答えた。


 だから、やめろっちゅーに。俺が暗い顔してるのは、山木のせいじゃねーんだっつーの。せめてこいつに言葉が通じればなぁ。




 あの日から、謎のアザラシ・ゴマ子はいろんなところに現れるようになった。


 ゴマ子と名付けたのには特に意味はない。何となくメスっぽいように感じたのと、どうせストーカーされるならいくらアザラシでも女の方がいいなと思ったからというだけだ。


 ゴマ子の姿は、俺にしか見えないらしい。それがわかったのは、豹華の件でショックを受けつつも出社したオフィスに、奴が再び現れた時だ。

 ただでさえいっぱいいっぱいだったのに、土田のデスクにアザラシがでんと座っていたんだぞ? パニックになるのも仕方ないじゃないか!


 しかし『アザラシがアザラシが』と大騒ぎしていたのは俺だけで、アザラシデスクの土田も山木も他の皆も、ぽかんとするばかりだった。今思い出しても恥ずかしい。


 また言葉は通じないが、ゴマ子はどうやら俺に好意を抱いているようだ。


 ずっと俺ばかり見つめているし、俺と目が合うと嬉しそうに反応するし、俺を害したと見なした者には容赦なく襲いかかる。まあ噛み付こうが叩かれようがのしかかられようが、相手には何の影響もないみたいだけれども。



 つまりゴマ子は、アザラシのオバケストーカーなのだ。


 意味がわからない。


 一つ一つの要素だけでも怖いのに、三つ重なった破壊力たるや……おかげで二日ほどは恐ろしさのあまり、発狂しそうなほど精神的に追い詰められた。



 しかし、人というのはどんなことにも慣れるものらしい。


 なので、ゴマ子は俺が触れようとすると何故か消える――それに気付いた時は、安心するより軽く落胆した。


 豹華のことで思い悩んでいたせいで、人肌恋しさにアザラシ肌でもナデナデできたら癒やされるんじゃないかと血迷った俺は、何度かゴマ子に手を伸ばしてみた。だがゴマ子はその度に、逃げるように消えていなくなった。


 好意は見せても、応えてくれるまで行為は許さないというタイプなのか? 体はぼよんぼよんで柔かそうなのにお固いアザラシだ。



 そんなミステリアザラシなゴマ子であるが、正体については思い当たる節がないでもない。


 ということで、俺は日常にゴマ子が侵食してくる非日常に耐えながら休日になるのを待った。

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