鮭られない恐怖
節トキ
アザラシ、現る
アイツが初めて俺の前に現れたのは、高校生の頃から付き合っている彼女の
豹華は暫く様子がおかしかった。連絡しても返事がなかったりデートに誘っても断られたりで、俺を避けているようだった。一ヶ月ぶりにやっと会うことができたのだけれど、豹華の大好きな水族館に行っても全然楽しそうじゃなかった。
おかげで帰り際には、大喧嘩になった。豹華は具合が悪いだけだなんて言い訳していたけれど、俺は今日の分も含めてこれまでの彼女の態度を責めた。ついには、他に男がいるんじゃないかとまで突っ込んだ。
ああ、頭に血が上って引っ込みがつかなくなっていたのは認める。だから違うと豹華に否定されても、変に意固地になってしまった。長い付き合いだから情と惰性で仕方なく関係を続けているんだろうとか、お互いの友達とも繋がりがあるから切るに切れないんだろうとか、そんなに別れたいなら別れてやるだとか、それはもう言わなくていいことまでいろいろと言ってしまった。
『
そう言い捨てて、豹華は怒って帰ってしまった。
俺も真っ直ぐ一人暮らしのアパートに戻った。そしてムシャクシャした気持ちを抱えたまま、その夜は早めにベッドに入った。
ふと目を覚ましたのは、ビタビタという奇妙な音のせいだ。
枕元で充電してあるスマホで時間を確認してみると、時刻は午前三時過ぎ。ベッドから身を起こし目を凝らせば、部屋の隅に白い何かがいる。
最初は、豹華だと思った。彼女はデートの時に白いワンピースを着ていたし、この部屋の合鍵も持っている。謝りに来たはいいけれど、俺が思ったよりも早い時間に寝ていたから声をかけるにかけられず、途方に暮れていたんだろう――と考えるには、しかしどうもおかしい。
豹華だとしたら、どうして床を這いずり回ってるんだ?
おまけに豹華にしては、やけに太ましい気がするのだが……?
意を決して、俺は手元にあるリモコンのスイッチを押し、部屋の灯りをつけた。
『むきゅ!?』
「ヒエッ!? エヒッ!?」
聞いたことのない音声に驚き、さらにはそこにいたモノの姿に驚き、俺は二段階で情けない悲鳴を上げた。そいつが、あまりにも想定外すぎたからだ。
こちらを見上げるくりくりとしたつぶらな瞳は、とても可愛いと思う。ふんすふんすと開閉する鼻も、むふむふ笑っているような小文字オメガ型のふっくらした口元も、可愛いと思う。然るべき場所であれば、可愛く見えるんだと思う。そう、ここではなくて然るべき場所であれば、の話だ。
それは、一頭のアザラシだった。
何度目を擦って見ても、間違いなくアザラシだ。そう、アザラシである。全身に斑点があるから、多分ゴマフアザラシというやつだろう。ベッドから離れているが、結構デカい。しかも元気良く跳ねているから、可愛さより怖さが勝る。
いや……待ってくれよ。何でアザラシが俺の部屋にいるんだ?
アザラシは両手……手? と呼んでいいのか、それを床に叩き付けて、伸び上がるようにしては沈みを繰り返してビタンビタンしている。
いやいやいや、おかしいだろ。水族館から逃げてきたにしても、ここはアパートの二階だ。階段を登ったにしても、鍵はちゃんとかけていた。ドアを破壊して入ってきたにしても……ああ、もう考えるのはやめよう。訳がわからないけど、実際ここにアザラシがいるんだ。どんなに不可解であろうと、アザラシの侵入は絶対起こらないとは言い切れない。とにかく、何とかせねば。
俺はそっとベッドを降り、アザラシに向かって恐る恐る近付いてみた。
『あうあう! おうっおうっ!』
するとアザラシ、大興奮である。高らかに鳴き声を上げて、より激しくビッタンビッタン跳ね散らかす。
しかし近くで見ると、本当にデカい。見事なまでに太ましい。こんなのに体当たりされたら余裕で吹っ飛ぶぞ。てか噛み付いたりしないだろうな?
それでも、やはり現実感が湧かなかった。自室にアザラシなんて、寝耳に水を遥かに越える異常事態だ。なので俺はこれが夢ではないことを確かめようと手を伸ばし、アザラシに触れてみようと試みた。
が――手が触れる直前で、アザラシの姿は消えた。
慌ててあちこち探したが、1Kの狭い部屋で隠れられる場所なんてたかが知れてる。あんなクソデカい図体してるんだから、見逃すなんてありえない。
ちなみに玄関のドアも窓も確認してみたが、破壊されるどころかどちらも鍵がかかったままだった。
アザラシは唐突に現れたかと思ったら、唐突にいなくなったのである。
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