歯の抜ける男
それには前触れがない。
始まりはあれど、終わりはない。
いつから始まったのかも覚えていない。
「………………っあ」
始まりは髪。頭皮から髪が、逃げるように抜けていく感触が合図。
それすら昔は耐え難かった。
次は爪。これに痛みはない。ひたすらに気色悪い、生々しい感触のみが伝わってくる。その感覚に何度、叫び出したくなったか分からない。
「うっ…………おぇ………………」
最後は、歯。つい最近になって、増えた項目。その滑る感触には毎度、胃の中身をぶちまけそうになる。
終わらない。いつまでも終わらない。
いつかは目玉が腐り落ち、五感も全て奪われて。
そんな恐怖ばかりが膨らんでいく。
鏡に映った自身の姿が、化け物のようで泣きたくなった。
そうして気絶するように意識が無くなって、気が付けば朝になっている。
ぐっしょりと寝汗にまみれた髪を撫でて、俺は今日も安堵する。
夢だ。
単なる、夢だ。
現実じゃない。
俺は、夢を見ているだけなんだ。
そう、何度も言い聞かせていたある日。
「怖い夢を、見てるんじゃない?」
そう言って、彼は近付いてきた。真っ黒い髪に中性的な顔つきで、やたら柔らかい、一度見たら忘れらないような艶めかしい笑みを浮かべていた。
「な、誰だ、アンタ…………」
「代弁者だよ。貴方を恨んでる子たちのね」
理解が追い付かず呆けていると、彼はパチン、と指を鳴らした。
——ずる、り。
「!」
口から零れ落ちた白いモノを、俺は反射的に掴んだ。嫌になる程繰り返した、体に染みついた動きだった。握り込んだ掌を開くより先に、隣の男がけたたましい笑い声をあげる。
「仕様が無い人。貴方ってばいつまで経っても気付かないものだから、会いに来てあげたんだよ?」
「会いに、来た?」
どんなに察しの悪い自分でも、此処までくれば嫌でも繋がった。何日も、何か月も、もしかしたら何年も苦しめられたこの悪夢。
「………………た」
「た?」
気付けば俺は、飛び掛かっていた。女のような肩を掴んで、闇のような瞳に訴える。
「助けてくれ!こんなの、こんな…………耐えられない!解放してくれ、あ、あんたが、アンタがやってんだろう!?謝るから、謝るから助けてください………」
ぐしゃぐしゃになりながら俺は懇願した。彼は人形の如く動かなかったが、何かを思いついたように俺の頬に手を当てた。その手のぬくもりに、何故か安堵感を覚えてしまう。許してくれるのかもしれない、と。
だってここまで苦しんだのだから。
男は再びとろけるような笑みを浮かべる。
「いいよ」
その一言で、視界が一気に明るさを増したような気がした。もう二度と、あの感覚を、抵抗すら許されない感覚を味合わなくて済むのだ。
「でも」
聖母のような表情を讃え、男は言葉を連ねた。
「でも、何に謝っているのか教えてくれるかい?」
「……………え、あ………」
喉が引きつって上手く音が出せない。必死に思考を巡らせてみるが思い当たる節が無い。ようやく解放されるというのに、目の前に糸が垂れ下がっているというのに。
俺は大きく息を吸い込んだ。
きっと、大丈夫だ。心から謝ればいい。だって目の前の彼はこんなにも穏やかな表情を浮かべているのだ。大丈夫。どうにかなるはずだ。
「わから、ない。ほ、本当に身に覚えがないんだ。でも」
「彼は見向きもしない」
突然、男の口から奇妙な声が漏れた。女のような、しかしノイズが混じったように聞き取りにくい、背筋の泡立つ声だった。
「彼は、私たちを視界にすら入れない」
「適当にあの太い腕を伸ばしては、彼の身体を千切っていく」
「あなた、ワタシたちの言葉がわかるんでしょ」
「理解できるんでしょ」
「わたしたちの想いを」
「私たちの代わりに」
ずるり、と
何かが、広げた掌に転がり込んだ。
ずっと、重くて。ずっと、温かい。
「おぇ…………」
血の気が引いて、俺はバランスを崩した。地面に転がる俺の顔を男が覗き込んでくる。
「誰に、何を、謝罪しているのか。貴方が
意識が遠のいていく中、最後まで男の声が脳内にこだましていた。
「また明日、来るからね」
【短編集】人烟のヴァニタス 葱藍こはく @Winter-owl
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