月下美人の涙

 月下美人の精粋と綺麗な井戸水、それに涙と恋心。

 これが月下美人の涙の成分。通称「魔女のチョコレート」の重要な材料。恋心をチョコに封じ込め、物理的に消化するための秘密のレシピ。生徒手帳があれば借りられる図書室の書物とは違い、別途で利用登録を必要とする書庫貯蔵の稀少な本だ。実際に手元に来るまでに予約してから数ヵ月は待った。

 数多くの女子生徒———それもとびきり噂好きで、思春期の———が居ながらそのレシピが広まらない理由。

 それは———。




「ねぇ、なんで忘れたかったのか、聞いていい?」

 意を決して問いを口にしたのと、友人がマドラーを口にしたのは同時だった。あの頃から変わらず艶のある毛先を揺らして、友人は首を傾げた。

「あぁ、あの人のこと?」

 一拍置いて、彼女は私の意図を酌んでくれた。ついでに小皿を差し出すと、彼女はそこに取り出したマドラーを置く。私は無意識に、彼女の形の良い唇に視線を置く。陶器と硝子がぶつかって高い音を奏でた。

「楽しめなかったの」

 彼女はそれだけ口にすると、先程飲み損じたアイスティーにようやく口をつけた。透明なグラスの底で溶け切っていないシロップが未練がましく揺蕩う。

「皆、目をキラキラさせながら話すでしょ。誰それが気になるとか、片思いしてる、とか」

 差し込んだ日がアイスティーを貫き、ブロックアイスを宝石に仕立てている。その輝きを写しているのに彼女の瞳はどこか虚ろだった。

「同級生が言ってたわ。『片思いが好き』なんだってね」

「そう。……………楽しめないの、私。疲れちゃうの。一挙手一投足に一喜一憂してる自分に。皆がライトを浴びているステージで、私だけ———」

「お待たせいたしました」と店員が食後の珈琲を運んできた。彼は一瞬のの後、彼女の前に珈琲カップを置いて立ち去る。

「パス」

「あいよ」

 私は彼女の手から珈琲を受け取りながら、シロップとミルクを彼女に放った。それを受け取り、彼女はアイスティーに更にシロップを注ぐ。つつ、と透明な膜が氷の間を降りていった。

「今度は吸うなよ」

「吸わねぇよ」

 マドラーでかき回されるシロップは、中々溶けていかなかった。

「あのさ」

 私が口を開くと、彼女は諦めてマドラーを小皿に戻した。

「両想いだったとしても、食べたわけ?」

「うん」

「…………面倒だから?」

「うー、ん」

 口元を隠すかのように、彼女は唇を指に預けた。そのまま窓の外へ視線を移した彼女の横顔が逆光で削られる。中性的なその顔立ちは、それで完結していると表すかのように化粧っけが無い。

「強過ぎたんだよね、好きって感情が私には。だから、やめた」

 彼女は居住まいを正して、力を抜くように笑った。影の落ちた、透明感のある笑顔だ。

「…………そっか」

「それにアイツ、モテてたしねぇ。不毛だったと思うの」

 残念、と言いそびれた私に彼女の笑顔が刺さる。ケラケラと笑い話として締めくくった彼女は、待ちぼうけを喰らっていたガトーショコラを口に運んだ。

「ひとくち?」

「あ………ちょうだい」

 彼女からフォークを受け取り、努めて滑らかに口へと運ぶ。

「………甘くね?」

「そう?まぁここのは甘めかもね」

 私からフォークを受け取った彼女は、今度は装飾の生クリームをたっぷりと口に含む。口内に残る甘味が増したような気がして、私は珈琲を流し込んだ。






 それはレシピ自体が持つ不思議な効果。

 恋を知らない生徒、又は忘れた生徒に、そのレシピは読めなくなる。メモを取る等の抜け穴はあっても、特殊な加工を施さない限りはやがて解読が難しくなる。

 私のメモは今もずっと残っている。

 文字と共に、ずっと。

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