現在-3 / 未来-0

 それから今に至るまで、彼女に会うどころか、あの街を訪れてもいない。そもそも人と仲良くならないという言いつけを破ったのは僕だし、あまりにも酷い別れ方をした醜い自分を誰かに知られるのは怖かった。恋というにはあまりに短く儚い、それでも恋としか言いようのない二日間は、誰に知られることもなく、続くこともなかった。


 続くこともなかった、のに。彼女を助けたい、病気を治したいという気持ちだけは、時が経っても燃え続けていた。その衝動に導かれるように、早い段階から医師を目指しはじめた。病院の家庭に生まれた訳でもない僕にとっては、ずいぶんと無謀な夢だったのだろう。志を折ろうとする力に歯向かい続け、折れそうな自分を何度も叱咤し、その先で医師にはなれた。

 それなのに。僕を駆り立て続けた後悔と絶望は、医師になったところで変わりはしなかった。もう彼女はいないだろうことが、あのとき突きつけた言葉を巻き戻せないことが、年を経るごとに痛切に確かさを増すだけだった。


 いい加減、区切りをつけるべきなのだろう。忙しいとはいえ、出会いを探すくらいの時間は作れる。男として魅力的かはともかく、腐っても医師である。その手の縁に困るとも思えない。

 新しい出会いを、愛せる人を探して。人生をやり直す頃合いだろう。たった一人との、望みようもない再会に、こだわっていられる季節ではないのだろう。

 何年もかけて納得しようとしてきた答えなのに。

 心の一番深い場所は、今でもあの夏の日をさまよっている。自ら壊してしまった、大事な欠片を求めている。

 何より大事な一部を失った抜け殻なら、あの日のシャボン玉のように、泡沫に溶けてしまえばいいと思った。それでも、羽根を失い光にも見放された空蝉は、誰にも聞こえない叫びを続けている。その声がずっと、耳の奥で鳴り止まない。


 巻き戻して。もう一度、君の声で、僕の名前を呼んでほしい。

  

 そんな空虚な愛惜に苛まれた昼休みの後、午後の診療。

 前の患者のカルテ記入を終えてから、初診の七歳の少女を招き入れる。

「はい、こんにち――?」


 息が止まる気がした、心臓が跳ねる気がした。

 あれほど願った、夢に見続けた彼女だと見違えるほど、よく似た女の子だった。


 少女のままでいるはずがない、自らを納得させて診察を進める。やや珍しい症状だったが、命に関わる疾患ではなさそうだ。生活の中で気をつけることや今後の向き合い方を父娘に伝えてから、心配しすぎることはないと念押しする。


「そうでしたか、家内が非常に心配していたものですから……ありがとうございます、よく言い聞かせておきます」

 父親の言葉から察するに、母親は健在のようだ。

「ほら、頑張りますって、お医者さんに」

 父親に促され、少女は勢いよく頷く。

「がんばって元気になります!」

 そして、ポケットをゴソゴソと探って。

「あと、お礼のプレゼントです」


 差し出されたのは、蝉の抜け殻だった。


 僕が反応する前に、父親が慌てて引き止めた。

「こら、拾っちゃダメって言ったでしょう……すみません、病院で汚いものを」

「まあ、子供は好きですからね……」

 浮ついた心のまま、医師として少女に語りかける。

「蝉の抜け殻、好きなの?」

「うん、ママも昔は好きだったんだって」

「そっか、綺麗だもんね。けど、見えないバイ菌がいっぱい付いていたりするから、すぐに触ったりしたらダメだよ。この後も、すぐに手を洗ってね。できる?」

「はい、ごめんなさい……後、ありがとうございます」

「うん、お大事にね」


 診察室を出て行く父娘に、思わずもう一度声をかける。

「どうか。ご家族みなさん、お元気で」


 確かめようはないものの。

 彼女は生き抜いて、結婚して、元気な女の子を育てている。そのことを疑おうとは、もう思わなかった。

 生きていることへの安堵と。全く知らない人と家庭を築いていることへの、あまりにも筋違いで遅すぎる寂寞と。


 中庭のベンチで、口をつけずにいたラムネを夕日にかざす。ガラス越しに歪んで、瞼の奥で滲んでいく朱が、彼女には穏やかに映っているだろうか。

 終わり際の命を燃やす蝉の声は、棘ではなく賑わいに聞こえているだろうか。


 この異常だらけの夏に、ありふれた幸せを抱けていることを。こんなにも強く願っている僕は、この先も彼女の面影からは抜け出せないのかもしれない。季節の巡りにも、彼女の歩みにも、置いていかれるだけなのかもしれない。


 それでも。彼女が生きている世界は、昨日よりも随分、温かな色に溢れているように思えた。誰かの未来のために戦い続ける、確かな意味があるように思えた。


 ビー玉を落とし、ラムネを呷る。大人には甘すぎるが、爽やかな刺激は喉を心地よく揺らしてくれた。立ち上がってゴミ箱へと向かう途中、空を舞うシャボン玉が目に入る。入院中の子供が飛ばしたのだろう、きらりと光る泡はしぶとく空へと上っていった。


「……本当に嫌いなのは、諦めなくちゃいけない世界だよ」

 抜け殻なりに。巻き戻せはしない世界で、一心に未来を追い続けよう。


 いつか空の上に溶けていく、その瞬間を少しでも引き延ばすために。

 どこかで優しく響く、彼女の笑い声を信じながら。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

空蝉の声はうたかたに溶けない いち亀 @ichikame

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ