過去-2

 また明日、という言葉を守るために。僕は翌日の同じ時間帯に、再び公園を訪れていた。片手に携えているのは、彼女が好きだと語っていたラムネだった。


「ほらこれ、好きなんでしょ?」

「ほんとだ、ありがとう! ……君のぶんは?」

「僕の分しか買ってもらってないから、それだけ。ナツちゃんが飲んでいいよ」

「う~ん……私だけだと寂しいから、一緒に飲もう?」

「え、いいの?」

 間接キス、という概念が気になりだす年頃だったのだが。

「うん、友達だから平気だよ」

 聞き慣れたその四文字だって、彼女が口にすると特別に思えたのだ。


 普段とは違う陽射しの匂い。四方から降り注ぐ蝉の唄。まだ慣れないサイダーの喉ごし。炭酸の刺激に顔をくしゃりとさせて笑う彼女。

 いつになく肌が暑かったのは、きっと日光の所為だけではなかった。


「ねえ、こうやって見ると綺麗なんだよ」

 彼女が言う通り、ラムネの瓶をかざしてみると。ガラスの中で歪んだ景色は、別の世界を映しているようだった。その別世界に彼女が映り込む。きらめく笑顔に、また心が揺れる。つられて笑った僕は、素直な笑顔をなくす前の僕は、彼女の世界でも笑えていたのだろうか。

  


「ねえ、ラムネのお礼にこれあげる」

 そう言って彼女が差し出したのは、セミの抜け殻。飛び上がるほど怖い訳でもないが、不気味で汚く感じられるのは確かだった。しかし彼女の手つきと眼差しは、美しい宝石を扱うかのようだった。

「ぬけがら?」

「うん。昔の言葉だと、空蝉って言うんだよ」

 うつせみ。初めて聞いたその言葉は、別の世界の匂いがした。


「怖く、ないの?」

「動いているのはちょっと怖いけど、抜け殻は綺麗じゃない? ぴかぴかして、不思議な形で」

 差し出された抜け殻を恐る恐る受け取り、しげしげと眺める。確かに彼女の言う通り、他では感じられない輝きがあるような気がした。


 僕が抜け殻に向ける視線に満足したらしい彼女は、空へとシャボン玉を飛ばし始めた。つられて見上げると、太陽を浴びて青空をきらきらと舞う泡は、やがてあっけなく弾けていった。


「綺麗なのに、すぐ消えちゃうね」

 僕の呟きに、彼女は見上げた瞳を閉じる。

「セミさんもね、鳴いているのはすぐに死んじゃうんだって。その殻から抜けて空の下に出たら、すぐに死んじゃうんだって。だから、残った殻だけでも大事にしてあげたいなって思うの」


 死後も残る美しい抜け殻。

 会えなくなっても脳裏に残る、美しい思い出。

 彼女が僕に託そうとしていたものを、僕は受け取れなかった。

  


「だからね。もし会えなくなっても、今一緒にいたことは忘れないでほしいの」

 彼女の言葉に、心が嫌な揺れ方をした。

「……会えないって、なんで言うの?」

「だって、すぐに違う街に帰っちゃうんでしょ?」

「また会いに来るから、連れてきてもらうから、また今度も遊ぼうって」

「私もね、」


 今だって思い出す。陽射しも蝉もラムネも消えた灰色の世界、泣き出しそうな彼女の瞳、背中を流れる嫌な冷たさ。


「治らない病気で、すぐに死んじゃうかもしれないんだって」


 僕はなんとか寄り添おうとしたのだろう。元気づけたかったのだろう。それ以上に、認めたくなかったのだろう。

「……がんばって勉強して、治してあげるから。僕はできなくても、治せるって人を見つけてあげるから。だから、もう会えないとか、言わないで」

 小学生にはどだい無理な、何の意味もない願望だったけれど。目の前の女の子を絶望から救うための、精一杯の言葉だった。


「嬉しいけど、そんなことできないよ。だってまだ子供だもん」

 彼女の言葉は圧倒的に正しくて。

「だからね、君の中にいる私は、君と笑っていてほしいんだよ」

 辛いはずの彼女は、どこまでも優しいのに。


「――諦めちゃう人は、嫌いだよ!」


 差し伸べてくれた手を振り払う。手の中で、抜け殻がくしゃりと潰れる。

 身を翻して駆け出す僕を、何度も彼女が呼んでいた。また明日、そう呼んでいるようだった。何も答えることなく、振り返る勇気を出せず、僕はひたすら帰路を走り。

 その夜のうちに、両親に連れられて元の家へと帰っていた。

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