人間、復活。
多賀 夢(元・みきてぃ)
人間、復活。
『人間、失格。
もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。』
死への猛烈な渇望に抗いながら、私の頭にはこの一文がぐるぐると回っていた。
『恥の多い人生』を思い出す時期は、とうの昔に過ぎていた。私は波のように襲う自殺願望に操られ、駄目だ駄目だと思いつつ、入眠導入剤をシートから一つ一つ取り出していく。今まで貯めていた分も、明日から飲む分も、すべて出すと手のひらの上にこんもりと薬の山ができた。
何度目のオーバードーズ。
何度目の自殺企図。
自分がおそらく死ねない事も、目覚めた後に医師に怒られる事も、何があろうと夫は気づきすらしない事も、分かっているのに止められない。何か偶然『幸運』が訪れ、私を死へと誘ってくれることだけを強く祈った。
次なんてなくていい。
もう人間には生まれない。
心のどこかが「駄目だ」と言った。私はそれをねじ伏せるように薬を口に押し込んだ。酷い味のそれを、副作用で唾液が出なくなった口で咀嚼した。水を使わず飲み下した。
――そこから、数日記憶がない。だけどやっぱり目が覚めた。そしてやっぱり、ケタケタ笑った。ああ、私は本当に人間失格だ。あんだけの覚悟で自殺しといて、失敗したくせにやたらスッキリして、今日が楽しくなっていやがる。
『人間失格』の名台詞は知っていた。だけど、作品を読み切ったことはなかった。第一の手記があまりにも自分に重なりすぎて、読み進める事ができなかったのだ。
だけど太宰治の作品は大好きだった。『斜陽』、『走れメロス』、『富嶽百景』、『女生徒』。覚えていないのも含めれば、相当に読んだはずだ。
ただ『人間失格』だけが読めていない事を、私はただ一つの悔いにしていた。しかしもう集中力も理解力も落ちた脳では、並の読書すら困難だった。
少し気分が浮上した頃に、『漫画版 人間失格』という本をネットで見つけた。
(これなら読めるかな……でも500円超えてる、高過ぎて変えないよ)
その頃の私は、お金を使うことに怯えていた。うつ病の症状の一つ、貧困妄想と呼ばれるものだ。
私はそこそこに酷いうつ病で、もう何年も寝たり起きたりを繰り返していた。今思えば、あれは入院が必要なレベルだったと思う。しかし夫は治療費はおろか食費も出してはくれず、私がいようがいまいが一人分の弁当を買い一人で食べる人だった。両親は精神科医を【詐欺師】と呼び、治療をやめて働け、子を産めとしつこく電話で怒鳴ってきた。漫画一冊どころか、明日食べる米すら恵んでくれない人達だった。
私には障害年金が入っていたのだが、それがどれだけの額でどれだけ残っているのか、それもさっぱり分かっていなかった。ただ頭にあるのは、「使ったらなくなる」という事だけ。もうお金の計算すらできない状態だった。
でも、死ぬ前に『人間失格』は読みたい。
漫画でいいから、内容を知りたい。
私は震える手で、その漫画をスマートフォンから注文した。夫に見つかるのがとても怖かった。だから、届いたらすぐに入っていた封筒を細かく砕き、夫が趣味で個人輸入していたデジタルパーツの梱包材に紛れさせた。漫画は、自分が寝ている布団の下に隠しながら読む事にした。
「――結論を言えば、あの漫画が転機だったなあ」
それは、ある派遣さんの壮絶な自分語りだった。
まだ新入社員である私は、あまりにも重い話に戦きながらも、その話術に引き込まれていた。ご贈答品の注文が増える時期に雇う電話受付要員なのだが、とても要領がよくて対応も上手い。どんな人なのだろうと思ってカフェに誘ったら、まるで昼ドラのような過去をお持ちだったのだ。
「でも『人間失格』って、漫画にしても暗そうなんですけど」
「うん、暗いよ~」
派遣さんはおどけて言った。ニコニコの表情と言葉のギャップが凄すぎる。
「でもね。主人公は夢を持ってるし、それを違う形で叶えてもいるわけ。ただ、認めて貰えなかったのよね。周囲に恵まれていなかった。私のように」
彼女は口を潤すように、少しだけカフェラテを口にした。
「そうだ、ネタばれはよろしいかしら」
「どうぞ」
私は彼女に続きを促した。どうせ私はその本を読まない。読書は嫌いだから。
「最後ね。主人公は怖かった父親の死を知り、気が抜けてしまいます。更に兄弟によって、田舎に隠居させられます。24歳だったかな」
「若っ! え、かわいそう……」
「そうかな。むしろ幸せだったと思うけどな」
彼女は、マグカップの中身をスプーンでかき混ぜだ。泡がスプーンにまとわりつく。
「最後のシーンになって、主人公がやっと普通に笑うの。漫画に描かれて、初めてそれに気づいたのね。そのシーンがやたら心に残っていて、ある時気づいたのね。ああそうか、愛されたい相手が消えたから笑えたんだって。私はまだ、周囲にサービスしちゃってるから笑えないんだって」
彼女はスプーンの泡を、マグカップのふちで丁寧に拭った。
「離れてしまえば、非難もされないし自由に笑える。貧しくても、それが一番の幸せじゃない?だから、離婚して自立もしたのよ」
「でも病気は?」
「こうやってフルタイムで働けるまでには回復したよ。たった2年で」
「よかったですね!」
「うん。でもさ」
彼女はマグカップを持ち、ためらうようにしてまたソーサーに戻した。
「漫画の方ではカットされているシーンがあるんだけどね。主人公の知り合いが、『神様みたいないい子でした』って言うの。でも主人公は、もう酒と薬がないと生きていけないほどボロボロだった。結局は、近い人間だって主人公について何も見ちゃいないのよ。
もちろん私も、辛さなんて誰にも分かってもらえないし」
「そんな事ないですよ、過去の大変さは、私には伝わりました!」
慰めようと力説する私を、彼女は自嘲気味に笑った。
「そうじゃなくて、今よ。私の病気はまだ治ってないの。朝胸が痛くて起き上がれないとか、頭痛で思考ができなくてお客様をミスリードしちゃったりとか、ふっと気が抜けた瞬間ビルから飛び降りそうになるとか。そういうの、周りから見えないでしょ?」
私は、もうなんて答えたらいいのか分からなかった。
ただ『人間失格』は知らないけれど、この人の過去も今も、そのまま物語にできるなぁなどと考えてしまった。
人間、復活。 多賀 夢(元・みきてぃ) @Nico_kusunoki
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