最終章 『Que Sera, Sera』
僕らは三回生になった。下村は医学部の実習も忙しさを増し、彼は学校とアルバイト先と自宅の細長い三角形のみを行き来する生活。僕はこの一年で一つの単位たりとも取りこぼしができない状況になり、顔を合わせる機会はなくなっていた。アンに言われた言葉もどこかで引っ掛かっており、今年一年こそは堅実に過ごそうと思っていた。
へまが許されない前期の期末試験が翌日に迫り、僕の頭から「お笑い」や「漫才」は消えていた。
そんな折に、下村家に一つの封筒が届いた。差出人は「京都学生お笑い祭典実行委員会」だった。
僕は下村に呼び出され、彼の家へ急行した。
「これ、いつ届いたんだ?」
「昨日」
「中身は何て書いてある」
「まだ見てへん」
なんだって。それは聞き捨てならなかった。試験勉強の疲れと暑さで頭に血が上っていたこともあって、僕は下村に悪態をついた。
「開けろ、開けてから僕を呼べ。僕だって忙しいんだ。明日からテストだぞ。単位だって苦しいんだ」
「まあ、そう言うなって」
「とにかく、開けようじゃないか」
僕は下村から奪い取った封筒に手をかけた。隙間から小指を入れて、びりびりと雑に開封していく。下村からは「ああ、あああ」と呆れた声が出ていた。
中から現れたものに、僕らは唖然とした。
「一次選考通過のお知らせと、二次選考のご案内。どういうことやねん」
「いつの間に一次選考を受けていたんだ」
「しらん」
三つに折りたたまれていた紙を広げてみる。おめでとうございます、という文言から始まり、厳正なる選考の末にすっきり絞ったオレンジが一次選考を通過したこと、および二次選考の選考内容や日取りが記されていた。
「お前、いつの間に応募したんや」
下村が僕を睨む。今回こそ、僕には覚えがない。そもそも、京都学生お笑い祭典の案内を観客から受け取って持ち帰ったのは、下村だったと記憶している。
「え、ええ、え、僕ではない、僕ではない、僕ではないよ」
「じゃあ、誰やねん」
下村は僕ににじり寄った。夏じみてきた空気に、さらに彼の体温がまじわる。
そこで部屋の扉が開いた。僕ら二人がコンビだったころと同じように、下村の母が飲み物やおやつを持ってきた。こうしておやつを持って来てくれる美人の母親の存在は羨ましいが、ネタ合わせ中のダメ出しで僕は幾度となく傷を負わされてきたトラウマがある。関西の「おかん」はそういう生き物なのだ。
「お笑いイベントの結果、届いてたんやろ? どうやった?」
「おかん、なんで知ってんの」
彼女はキョトン、と僕らの顔を見回した。
「なんでって、それ応募したったん、誰やと思ってんの? あんたのスーツをクリーニングに出すときにポケットに申し込み用紙入ってたし」
示し合わせたように、僕らの口から驚きの声が挙がった。
「おいおいおい、おかん、なんやねん、それ。男性アイドルがよう言ってる『お母さんが勝手に応募してデビューしました』のやつやん」
母親は悪びれる様子もなく、ケロっとしている。本人は良かれと思ってやったことで、それに対する批判は一切受け付けないのだ。
「で、結果はどうやった?」
「一次選考通過」
「そら、良かったわ。いっちばんええ動画送り付けたったわ」
僕らが知らないことがどんどん出てくる。驚くのも追い付かない。僕は急に気持ちが穏やかになった。驚きを追い越すと、逆に冷静になれるという発見をした。
「動画ってどういうことですか」
「一次選考は書類と動画。あんたらが学園祭でやってたやつ撮って」
「おかん、学園祭来るな言うたやろ」
「あ、バレた」
おお、怖い怖い、と言ってそそくさと部屋から出て行く。残されたのはコンビを解消した僕ら二人と、一次選考の合格通知だけだった。
無言で書類を眺める俺ら。お互いに相手の出方を伺っていた。本心では、すぐにでも二次選考やその先の決勝ステージを見据えたネタ合わせをしたかった。
しかし、下村は医者になりたいと言っていた。そのためには日々の講義や実習をおろそかにできない。
アルバイトだって以前より忙しそうだった。何がそんなに彼を掻き立てているのかを僕に語ることはなかったが、漫才が入る余地はなさそうだった。
僕だって、低空飛行の成績のままでは進級ができない。これまで棒に振った学生生活を取り戻すための一年だ。それが、明日に迫った前期の期末試験を目前に、揺らぐ。
「本音で話そう、アンダーソン」
「気持ち悪い言い方やな」
「自分たちが置かれている状況、僕ときみがコンビを解消したことなどはこの際、頭から消してくれ。ファーストコンタクトだけで答えてほしい」
「ファーストインプレッションって言いたいんやろ」
「そうだ。それで、きみはやりたいか、やりたくないか」
◇
「きみはやりたいか、やりたくないか」
俺は咄嗟に応えられなかった。山本から考えるなと言われた事柄が頭の中を埋め尽くす。「やりたい」を飲み込む「でも」と「だけど」の群れ。それらが俺の本音を完全に覆ってしまった。
「俺は、やりたくない。そもそも、俺は昨年の学園祭までって決めて」
「その決め事も考えるな、アンダーソン。きみは、どうなんだ、やりたいのか、やりたくないのか」
山本が正座でまっすぐに俺の目を見る。きっと山本は俺が本音で喋っていないことくらいお見通しだろう。わずか一年間でもあれば、相手が何を考えているのか、何にひっかかっているのか、なんとなくわかるようになる。それがコンビであり、相方なのだ。
俺だって、譲れないものがあった。母にできるだけ迷惑をかけたくない。学費を払ってもらって、夕飯も作ってくれて、洗濯もしてくれて、昼間は花屋の仕事を頑張っていて。そんな母を少しでも安心させたい。医学の道を踏み外すことなく歩むことが、自分にできる母親孝行だと信じて疑わなかった。
◇
僕にはわかっている。なぜ下村が学業とアルバイトに必死になっているかなんて、聞いたことはない。でも、ここの家に来ればすぐにわかる。下村が母親に対して抱いている想い、母親が下村に望んでいること。この二つのすれ違いを解消したいと思う。僕のおせっかいかもしれないけれど、下村母子をすれ違わせたままでは、気が済まない。
だから、僕は、ここで下村の手を放すわけにはいかないのだ。
「言え、アンダーソン。お前の本気を、僕にぶつけてみろ。言いにくいなら、小さい声でも、耳元でささやくでも構わない。だから、言え」
僕は下村に、思っていたことを全てぶつけてやろうと声を荒げた。
「僕のことを一番面白いって言ってくれたのは誰だ。アンダーソン、きみだろ。誰のおかげで僕が面白いんだ。きみが面白いから、僕だって面白いんだ」
黙っている下村に、僕は大声で追い打ちをかける。
「アンダーソン、きみこそ一番面白いんだよ! 僕たちは、なんとかなるんだよ」
静寂。
居間にいる母親にだって聞こえていたはずだけれど、誰も、何の音も発することなく、そこには静寂だけが横たわっていた。
ぷつん。
その静寂を破ったのは、ほかでもない。下村だった。叫びは新たなる、さらに大きな叫びを生む。下村の怒号にも似たこころの叫びが響き渡った。
「山本! お前が面白いんは、俺のおかげや、お前は俺がいないとダメなんや! お前が失恋した時になんとかなるって言うてやったん誰や! 俺や! 俺とコンビ組めや!」
二人で抱き合った。
僕はこころの中で誓う。こいつを、下村を絶対に離さない。
◇
二次選考が終わった。
会場となったロームシアターの小規模ホールをあとにする俺らには、確かな手応えがあった。同じように参加していた他の学生芸人たちの笑いも大きかったし、審査員席からも笑いが聞こえていた。
夏休み始まってすぐの京都は酷く暑くて、俺はすぐさまジャケットを脱ぎ去り、ネクタイを外し、袖をまくって、警察沙汰にならないギリギリまでワイシャツのボタンを外した。山本は警察沙汰のボーダーを超えていた。ニュースタイルの攻めたクールビズだ。それでも汗は止まらずに背中を伝う。開け放ったワイシャツから注ぎ込まれるのは湿り気の多い暑い風だけだった。
「アンダーソン、なんとかなったな」
「当たり前やろ、俺らが一番面白いねん」
二人で向かい合って、ニッと笑い合った。
◇
二次選考からほんの一週間で実行委員から選考結果の通知が届いた。
例によって、下村家にて結果を見る。
僕は下村家へ突撃さながらにお邪魔した。
「いくで」
「頼む。開けてくれ」
下村はペーパーナイフを用いて、丁寧に上端を裂いた。中から三つ折りのコピー用紙が現れる。「二次選考の結果および、京都学生お笑い祭典の開催案内の送付」という文字が透けて見える。
「アンダーソン、広げるんだ」
「おう」
二人が同時に唾を飲みこむ。ごきゅ、とお互いの音が聞こえるほどに頭を突き合わせていた。
一思いに下村が折りたたまれた通知を広げた。
――厳正なる審査の結果、不合格となりました。貴殿の今後の活躍をお祈り申し上げます。
「なんでや」
「そんな。何かの間違いじゃないか」
下村の声は震えている。それほど、彼はこの大会に賭けていた。賞金が欲しいんじゃない、ホントリアルと共演したいんじゃない。下村が目指すものがそこにあったのだ。僕には話してくれない、下村家の事情が。
僕は危惧した。ここで終われば、今度こそ下村を繋ぎ留めておくことができない。下村は自分の気持ちに素直になっていないし、お母さまの気持ちに気付いていない。今ここで全てを終わらせるわけにはいかないのだ。
何か。何か無いものか。
通知書類を上から下まで、隅から隅まで見た。
あった。
「アンダーソン、まだあきらめるな」
「諦めるしかないやろ、不合格なんやから」
「ここを見ろ」
僕は、通知書類の一点を指さして下村の目の前に突き出した。
「敗者復活枠のご案内」
「そうだ。僕らには敗者復活枠に参加する権利が与えられているんだ。敗者復活枠に参加するには、ここへ連絡をすれば良いらしい」
まだ希望はあった。まだ終わっちゃいなかった。
「なんとかなるんだよ、アンダーソン」
◇
ついに件の催しが明日に差し迫り、俺たちは明日に向けた最後の打ち合わせをした。
二次選考で落選した三十組のうち、実行委員会が選定した十組に敗者復活枠への参加権が与えられる。
岡崎公園で行われる京都学生お笑い祭典では、夕方からメインステージで決勝ステージが行われる。二次選考を勝ち上がった五組と、敗者復活を勝ち抜いた一組の、合計六組で決勝ステージを戦うことになる。
当日の昼間はゲスト芸人のトークイベントと、敗者復活ステージが開催される。つまり、敗者復活戦に出場する俺らは、ネタを二つ持って行く必要がある。
「ほな、敗者復活戦は『俺らの誕生日』で、決勝残ったら『京都の街を人間の身体に例える』でええな」
「残ったら、じゃない。残るんだよ、僕たちは」
「そうやな」
「じゃあ、明日、朝八時に大鳥居前で」
「近代美術館側でええねんな?」
うん、とうなずいて、山本は帰っていった。
◇
僕は下村家をあとにした。ささやかな充足感と、適度な緊張感で満たされながら歩く。明日の今頃は、祝賀会だろうか、それとも残念会だろうか。どちらにしても、明日、という一日が自分たちを変えるに違いないという予感がある。勝っても負けても、自分たちには変化がある。大きな変化かもしれないし、目に見えない小さな変化かもしれない。変化の予感というものは、楽しみであり、ちょっと怖かったりもする。
バスも乗らずに上終町の下村家から熊野の寮に帰るには、白川通をまっすぐ下がって行けば良いのだけれど、今日はちょっと寄り道をしたい気分になった。僕は、白川疎水に差し掛かったところで、左折した。
哲学の道を一人、歩いた。
春に満開の桜を咲かせていた桜は、青々とした葉を広げ、街灯に照らされている。満開の夜桜も良いけれど、夏の緑もいいもんだと初めて思った。
入学以来、何度も歩いた哲学の道を歩く。夜に歩くと、まるで世界から切り取られたような静けさがある。時折、ジョギングしている人とすれ違って現実世界であることを確認するけれど、足音が遠のくにつれてまた異世界感が漂う。
そして、哲学の道には、他にも思い出があった。僕と下村が夕方にネタ合わせをする時は、決まってここだった。疎水に面したベンチに台本を置き、道行く人に向かってネタを披露していた。
あの頃は声を張らないと雑踏にかき消されてしまっていた僕の声も、今ならきっと声を張る必要なんてない。静寂だった。
今夜はベンチに座って、夜風に吹かれながら物思いに耽るのもいいなあ、なんて思っていると、少し先のベンチに人影があった。僕らがいつもネタ合わせに使っていたベンチだ。
近づいてみれば、それは僕のかつての恋人、アンだった。
「おや、アンじゃないか」
「あれ、こんな時間になにしてるの?」
アンは少し鼻声だった。目元は赤く腫れている。
「僕は、散歩だ。散歩」
きみは? と聞きかけて、やめた。どうせ、痴話げんかだろうし、そんなものは犬も食わない。僕は人間だけども、人間だってそんなものは食わない。下村のおかげで昇華したアンへの想いだって、こころの奥底にないこともない。小さな燃えカスのような、ほのかな想いがある。
「聞いてこないんだね」
「うん、僕は聞かない」
「やさしさ?」
「僕はもう、きみに優しくなんてしないよ」
「わたしが泣いていても?」
「泣いていても、僕がきみにできることはないんだ。なに、なんとかなるさ」
「そっか」
僕はアンに背を向けて歩き始めた。それが僕なりのけじめで、彼女への想いを断ち切るために必要なことだった。
しかし、僕だって男である。アンの元恋人である。このまま帰るのも、後ろ髪が引かれるようだった。それが男心なのだ。
彼女の方を向かずに告げた。
「でも、もしどうしても今日の悲しみが長引きそうなら、明日、岡崎公園へ来てくれ」
「なにかあるの?」
「来ればわかるよ」
「わかった」
僕は振り返った。アンの両目をしっかりと見て、胸を張る。
「僕は……僕らは面白くなる。日本一面白くなって、垢抜けないままテレビでゴールデンを飾ってみせるよ。それ見たらアンが笑っていられるように、僕らは面白くなる」
それが僕なりの最後の見栄だった。
◇
――敗者復活戦を勝ち上がったのは……すっきり絞ったオレンジです!
俺らはステージ上で小さくガッツポーズをした。ここで喜んでいる場合ではない。決勝のステージまで、そんなに時間がない。決勝用に用意してきたネタを確認して、あっという間に出番だろう。
俺は「このまま優勝したらどうなるのだろうか」と考えていた。京都で一番面白い、という小さな世界だけど、立派な肩書だ。母親のために医学の道へ進みたい。学費調達や家計の負担を減らすためにアルバイトもしなくてはならない。
山本の言葉が蘇る。「お前はやりたいのか、やりたくないのか」の答えは、一体なんだろう。俺はどうしたいのだろう。
そんなの、もう答えが出ている。気持ちだけなら、やりたい。山本となら、もっと面白くなれる。
だけど。
そんなもやもやとした気持ちで控え室へ向かった。
◇
俺らが決勝戦の出番待ちをしていると、控え室の入口がにわかに騒がしくなった。警備のボランティアをしている学生たちが慌ただしく動き回る。
「すみません、ここは関係者以外立ち入り禁止です」
「関係者の親は関係者みたいなもんやねん」
聞き覚えのある声に、俺らは入口に走った。
「お母さま」
「おかん」
間に合った、と母は呟く。
「あんたらにこれ、やってなかったやろ」
彼女はカバンから火打石を取り出した。俺らを並ばせて、ネクタイを直して、裾についた埃を摘まんで、それから火打石を打った。
カチン、カチン。
「これで大丈夫やわ、二人の優勝決定」
「やめや、他の参加者もおるんやし」
「ほな、楽しみにしてるわ。山本くんも、頑張ってね」
「はい、お母さま。ありがとうございます」
母は小さく手を振って、去っていく。
行ってしまう。今、このまま母が去っていくのを黙って見ていてはならないという焦燥感が押し寄せた。
今がその時なのかわからなかったけれど、今しかないということはわかった。
そして、俺は意を決した。
「おかん」
「なにタイチ」
息が上がった。鼓動が早くなる。本音を話すのが、こんなに怖いなんて。でも、この思いを抱えたまま決勝のステージに立つことなんてできなかった。そんな状態では、俺を面白いと言ってくれる山本にも申し訳なかった。
「おかん、俺、優勝したら、いや優勝せんでも、いや優勝すんのは俺らやねんけど」
うまく言葉が出てこない。それでも、言わなきゃと自分を鼓舞する。
「アンダーソン」
山本が勢いよく俺の背中を叩いた。荒くなった呼吸と合わさって、一瞬、窒息するかと思った。余計なことをしやがって、とこころの中で毒づく余裕もなかった。
「おかん、俺、お笑いの道に進みたい。こいつと、もっと面白くなりたい」
母は小さく、ゆっくりと頷いた。表情に、息子の全てを包み込む優しさを持っている。
「やったらええよ。あんた、高校生の頃にお父さん亡くなってから、好きなバスケットもせんと勉強とアルバイトしてたやろ。三波さんとこの彩香ちゃん、心配してたで。あんたの好きなものやらせてあげられなくってごめんね。これからは、あんたの好きなことをしなさい。応援してるから」
「ありがとう、おかん」
自然と涙がこぼれた。止まらなかった。今まで言えなかったことが言えた喜び、山本とお笑いを続けられる嬉しさ、母親を楽にできるレールから外れるうしろめたさ、その他の感情が激流となって押し寄せる。
そして、母親の偉大さがこころに沁みた。
山本までもらい泣きをしていた。母親は俺を抱き寄せ「今までいろいろ我慢させてごめんよ」と言う。
「おかん、今日の俺たちをちゃんと見ていてくれ。絶対に面白くなって、おかんを楽させるから」
「自分たちの信じる道を進みなさい。医者じゃなくてもええねんで。あんたが好きなことやって幸せそうにしてたら、それで満足やねん。ねえ、山本くん、タイチはこんなだけど、よろしくね」
もう一度、俺の涙腺に強い刺激が走った。俺は、この人の息子でよかったと、こころの底から思えた。
母親が学生警備隊に摘まみ出されたところで、俺らのコンビ名がコールされた。
「アンダーソン、僕らはなんとかなる、なんとだってできる。今だって、これからだって」
「ありがとうな」
俺らは、ステージの袖に並び、深呼吸をした。お互いの肩がぶつかる。俺は、ちょっと強めに肩をぶつけた。もっと強いのが返ってきた。
「ほな、行こか」
「ああ、見せつけてやろう、僕らの面白さを」
◇
垢抜けない芋っぽさが漂う出囃子が流れた。会場のボルテージは最高潮に達し、「だべさ」を合唱する声が響く。
袖から観客席を覗くと、よく見知ったワンピースが見えていた。彼女の口も「だべさ」と小さく動いていた。本当に来ているとは思わなかった。僕らの渾身の掛け合いを見せつけてやろうとこころに決めた。
それともう一つ。下村親子を見てから、僕には決めたことがあった。そのための小道具になりそうなものは、ハンカチくらいしかない。なに、なんとかなるさ。
僕は最後にもう一度、下村を小突いた。
「アンダーソン」
「なんや」
「決勝のネタ、『京都の街を人間の身体に例える』じゃなくて、全部アドリブでいくから」
「え、なんやって、よう聞こえへん」
「行こう」
「おい」
僕らはステージ脇から飛び出した。
「はいどうも!」
「すっきり絞った」
「オレンジです」
「京大の三回生二人で漫才やらせてもろてます」
「僕が山本スペシャルで」
「俺が下村アンダーソンです」
「今日は僕たちの、顔と名前と好きな異性のタイプと母親の旧姓と、最近されて嬉しかったことだけでも覚えて帰ってください」
「なんやねん、最近されて嬉しかったことって。ラジオのトークテーマかいな」
「最近、いいことがあったんですよ」
「まあ、せっかくやから聞くけど、何?」
「ベルマークをね、もらったんですよ」
「ささやか過ぎるわ。それでどうやって漫才膨らませろって言うねん」
「せっかくだから、アンダーソンくんの嬉しかったこと教えてよ」
「いきなり聞かれても難しいな」
「ほら、なんか、ファンレターもらってたでしょ」
「せやな、強いて選べば、ファンレターもろたことかな」
「誰から?」
「おかん」
「……」
「なんか言えや。俺の恥じらい返せ。お客さんも、その顔で見るのやめて」
「そのアンダーソンくんのファンレターをね」
「なんやねん」
「音読します」
「おい、なんでお前持ってんねん。開くな開くな。匂い嗅ぐな」
「おばあちゃん家の匂い」
「どついたろうか」
「あ、お母さま」
「手え振るな。おかんも振り返すな。すみませんね、本物のおかんが会場に来てますもんで。お客さんも、うちのおかん探さなくてええねん」
「あの、授業参観に来た母親っぽい人がアンダーソンのお母さまです」
「指さすなや。その手紙を読むならさっさと読め」
「読みます。下村へ」
「おかんも下村やわ、旧姓は小林。今は下村トモコ。って、おかんの名前言わすなや」
「いつも楽しく漫才見せてもらっています」
「せやな、いつもおかんが俺らの漫才見て、いろいろ言うてくれてるしな」
「手に汗握る展開、迫真の演技、そして二人を包み込む壮大な音楽」
「ちょっと待って、おかん、それ俺らの漫才ちゃうやろ。だべさが壮大なわけあらへん」
「最後の独白」
「独白言うてるし、絶対に俺らの漫才ちゃう」
「あっという間の二時間です」
「二時間サスペンスや。おかん、何と間違えてんねん」
「特に山本くんの『僕がやりました』という熱のこもった演技に感服しました」
「そんな熱演ないから、俺らの漫才に」
「山本くんの纏う空気感、たたずまい」
「おう、山本めっちゃ褒めてもらってるやん」
「山本くんのボケの絶妙な間の取り方」
「おかん、山本ほめ過ぎやし、俺やなくて山本のファンレターやないか」
「ねえタイチ」
「そうなんです、俺、タイチっていうんです」
「あんたも少しは山本くんを見習ったらどうなの?」
「なんで自分のファンレターで説教されなあかんねん」
「あんたらコンビは山本くんで成り立ってるってことを忘れないように」
「言い過ぎちゃう?」
「もういっそ、コンビ名を『さっぱり絞ったヤマモト』にしなさい」
「そんなん山本が一人でやれ。一人でやって、思い切りスベってしまえ」
「おい、さっぱり絞ったヤマモトじゃない方」
「じゃない方ってなんやねん。俺がネタ書いてんねんぞ」
「さっぱり絞ってない方」
「その呼び方やめろ」
「あんたが書いたネタ、全部下ネタです」
「何を言い出すんや。下ネタなんて一個もあらへん」
「下村が書いたネタ、略して下ネタです」
「しょうもない略し方すな」
「ふふふ、あははははは」
「山本、お前、急に笑い出して気持ち悪いで」
「『俺、タイチって言うんです』って、面白すぎるでしょ」
「今さらどこで笑てくれてんのや。人の名前でツボって。ええから続き読め」
「そういえば最近、あんたの同級生から結婚式の案内が来てましたよ」
「そういう大事なことはファンレターやなくて電話でくれって」
「同級生のサキちゃんが結婚したそうです」
「え、あのクラスのアイドルのサキちゃんが?」
「サキちゃんの苗字も変わっていましたよ」
「なんて苗字になったんやろ。昔は下村サキ、なんて妄想してたこともあるけど」
「どうせあんたのことだから、下村サキ、なんて思っていたんでしょうね」
「バレてる。恥ずかしい、思春期の想い出がただただ恥ずかしい」
「サキちゃんは結婚して、佐々木さんになっていました」
「ササキサキ? めっちゃ言いづらくない? それでええんか、サキちゃん」
「しかもサキちゃんのおにゃか、ふふ」
「ナチュラルに噛むなよ。お前、勝手にアドリブ入れるからこうなんねん」
「ふふふふ」
「笑てる場合か、はよ続きやり」
「サキちゃんのお腹のナカには、新しい命が宿っているそうです」
「それはおめでたいな」
「しかも、なんと双子」
「それはすごい、どっちに似るんやろうな」
「どっちがサキに生まれて、どっちがアトに生まれるのか楽しみですね。あと、サキちゃんたちのこころのナカには、すでに子供たちの名前の案があって」
「アトやらサキやらうるさいなあ」
「アトに生まれた子はサキちゃんが、サキに生まれた子はアット、いや失礼、オットが名前を決めるらしいです」
「しょうもない小ボケかますなや」
「では、これから東尋坊のシーンなので、これで失礼します」
「二時間サスペンスでよう見る犯人の独白シーンやないか。何見ながらファンレター書いてくれてんのや。なんやねん、この手紙、めちゃくちゃや。誰やこんなめちゃくちゃにしてくれたやつ」
「僕がやりました」
「もうええわ」
「どうもありがとうございました。」
◇
今となっては、テレビですっきり絞ったオレンジの二人を見ない日はない。京大出身の若手頭脳派コンビとして、ネタ見せ番組からクイズバラエティまで出ている。身体を張った企画に挑戦することも多く、佐多岬から宗谷岬までヒッチハイクで旅をしたり、淀川で捕獲した生物だけを食べて一週間を過ごしたり、と視聴者が思わず悲鳴を挙げるような泥臭い仕事もこなしてきた。
どれだけゴールデンタイムでお茶の間を沸かせようと、二人はいつまでも変わらない垢抜けなさがあった。それが、二人らしさとしてお茶の間に浸透しつつある。
どんなに大変な仕事でも、二人は夢に向かって突き進む。母親や元恋人に話した夢から先に叶えようと、今年も日本最大規模のお笑い賞レースへ挑んでいく。日本一面白いコンビになる、それが二人の夢だった。
日本一への道は、山だって谷だってある。壁にぶち当たることだってある。そんな時は、どちらともなく、こう言うのだ。
ケセラセラ<なんとかなるさ>
ケセラセラ もり ひろ @mori_hero
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