第二章 『Laugh & Peace』
俺ら二人は二回生になった。
ほぼ毎日、ネタの打ち合わせや練習をした。医学部の俺は授業や実習が忙しくなり、アルバイトもあったので、ネタ合わせはその合間に行われることがほとんどだった。
午後の実習終わりからアルバイトまで、一時間ほど余裕があった。実習が終わるや否や、山本と合流して哲学の道の道中にあるベンチでネタ合わせをした。雨の日は白川通沿いのカニ料理屋の駐車場で特訓した。そうして、バスで上終町へ向かい、ギリギリでアルバイト先に滑り込む。
縁起が悪いので、言い直させてもらう。
ギリギリでアルバイト先に間に合わせた。
山本は山本で、ボケとして使えそうな小ネタを拾ってはメモしていき、打ち合わせに持ち込んだ。
俺のアルバイト終わりにも、再び山本と合流する。正確には、俺は自宅に帰るだけ。帰宅すると、自室には図々しく山本が鎮座していた。
俺の自宅でネタ合わせをすると、必ず母がネタを見て「山本くん、ちょっと今のおもんないわ」と厳しい評価もした。
そうやってバタバタと大学とアルバイト先と自宅の間を忙しなく行き来しているうちに期末テストを迎え、あっという間に夏休みに入ったと思えば、瞬く間に過ぎていった。
夏休み明け、学園祭のタイムテーブルが決定された。細かな変更があるものの、おおよそはそのままでいく、ということらしい。
俺らは学生食堂の席で紙面に目を落とす。『十月祭タイムテーブル』の文字がでかでかと記された表紙を、山本がめくった。
まずは、当日までの予定が表にしてまとめられていた。二週に一度行われる代表者集会、学園祭直前の前日集会、設備申請書類提出期限日、などが並ぶ。
もう一枚めくる。
ようやく、三日間行われる学園祭の、一日目のタイムテーブルが現れた。
そこにいきなり、自分たちのコンビ名が書き記されている。
「一日目日や」
俺は呟く。山本は「金曜日かあ」とため息をついた。一応、二日目、三日目も見てみる。学園祭が盛り上がる土日の欄には、自分たちのコンビ名はなかった。
それだけではなかった。
「なあ、アンダーソン。これは昼飯時じゃないか」
俺は左わきに並んだ数字を目で追う。十二時十分。それが俺らの出番の時刻だった。
「最悪や。客はみんな、食べ物の露店に並んでる時間やろ、これ」
二人の間にどんよりとした空気が漂う。嫌な沈黙があった。
山本はがたがたと大きな音を立てて席を立った。
「ちょっと、実行委員室行ってくる」
「行ってどうするつもりや」
「何か理由があってのことなら理由を聞く、そうでなければ、変更を懇願する。なんとかなるさ」
俺は、山本の行動力に感心した。彼が俺をコンビに誘った時の行動力もさることながら、俺にはない何かを持っているようだった。
「俺も行く」
俺らは連れ立って、実行委員室へ向かった。
扉には「定例会議中」と書かれた札が下がっていた。俺らの「実行委員会室襲撃作戦」はいきなり壁にぶち当たった。
「定例会議中やて。御用の方はどうしたらええと思う?」
「正面突破じゃなかろうか」
思わず「おお」と漏れた。俺には到底できないことを、山本はさらりと行動に移すのだ。
「段取りは、どうするんだ」
「安心しろアンダーソン、なんとかなるさ」
なんとかなるとは思えなかったが、彼は勢いよく扉に手をかけた。
「いざ」
山本は勢いよく扉を押した。開かなかった。へへへと笑って見せる。俺も、へへへと気味悪い笑顔を見せる。今度は強く引いてみる。開かない。山本は再び、へへへと笑う。俺も一応、へへへとする。
「こうかな」
山本はシャッターを開くように下から持ち上げてみた。
「開店ガラガラなわけあるか」
俺のきつめのツッコミが飛んだところで、扉が横にスライドして中から女性の顔がひょっこり出てきた。扉は引き戸だったらしい。
「すみません、会議中なのでお静かにしてもらえませんか」
「ちょうどいい。そちらさんに用があったところです」
「すみません、会議中で」
「お邪魔します」
お構いなしに足を踏み入れる山本に対して、俺は驚きの色が隠せなかった。隠そうともしなかったし、隠すことも忘れていたというのが本当のところだ。俺は山本のあとに、それとなく続いた。
「邪魔するで」
山本は腕を組み、仁王立ちで実行委員に向かい合った。今にも物申す威勢を感じた。
威勢のない俺は、丸めて持ってきていたタイムテーブルを広げ、自分たちの出番を指さす。
「実行委員さんたちにお伺いする。僕らの出番が昼食時の三分間とは、これ一体、どういうことだろうか」
山本が高らかと声をあげた。隣で俺はもじもじとしてしまう。もう、山本に合わせるしかなかった。
「せや、どうなっとんじゃ」
声が裏返った恥じらいがあったが、威勢を保つために睨みを利かせる。これじゃあ、恐怖や不安で吠える小型犬じゃないか。チワワか、俺は。
幸い、山本がすぐに続けてくれた。
「昼飯時は最もステージが閑散とする時間じゃなかろうか」
「せやせや、もっと言うたれや」
「しかも、三分後には次の前衛舞踏研究会のステージが始まる。こんな短い時間で僕らのネタが」
「せや、前衛舞踏ってなんやねんコラ」
「アンダーソン、ちょっとうるさい」
「おう山本、もっと言うたれや」
「いや、アンダーソン」
「なんやねん」
「きみがうるさいんだ」
「俺か。俺がうるさいことあるか。こんなタイムテーブルで黙っていられるか」
俺らのやりとりを刺すように実行委員たちの白けた視線が取り巻いた。さすがに俺も視線に気が付いて、萎縮してしまう。
「すみません。お二人は一体、何をしに来たのでしょうか」
「僕らは、一日目に出演予定の『すっきり絞ったオレンジ』という漫才コンビです」
「はあ」
はっきりしない相槌だった。俺らの知名度が低く、タイムテーブル作成時にもよっぽど印象に残らなかったらしい。この場にいる実行委員全員が手元にあったタイムテーブルをパラパラめくって、俺らの名前を探した。それから、「ああ」とか「見つけた」といった声が聞こえてきた。
「つまり、俺らの出番を伸ばして欲しい、アンド、もっと客入りが良い時間に変えてもらいたいんや」
奥の席で責任者と思しき女性が立ち上がった。上回生らしい落ち着きがある。笑っていないのに片側の頬にエクボを浮かばせていた。
「どうも、実行委員長の中村華と申します。お二人のお話はわかりました」
「それなら、持ち時間延ばしてください」
「それはできません」
山本は「なんでですか」と言いながら彼女ににじり寄る。あんまり近づくとセクハラになってしまわないか、俺は少しひやひやしていた。
「今年もたくさんの方がステージに立ちます。一組一組の持ち時間が少なくなってしまうのは仕方ないことなのです。それに」
それに、と聞き返す俺らの声が重なった。気持ちが悪いなあという感想が浮かんできたが、何も言わずに中村氏の言葉を待つ。
「お笑い枠としてはすでに笑門がありますし、他にもお笑いサークルはいくつもあります。それぞれの団体の人数や集客力、注目度などに応じて、適正に時間を決めたつもりです」
彼女は「適正に」の部分を強めた。要するに、俺らには知名度がないので時間を割けないということを言いたかったのだ。
「なんやねん、二人だけじゃダメなのか、無名のコンビじゃダメなのか」
彼女は静かに頷き、これ以上言うことはないとばかりに「お引き取りください」と告げた。
その冷ややかな圧力によって、俺らは逃げるように学園祭実行委員室を出るしかなかった。
扉の前で立ち尽くす。
俺は山本の顔を伺った。山本ならきっと、すぐに次の行動を起こすだろうと思った。先ほどのように「なんとかなるさ」と根拠のない自信を見せると期待していた。
ところが、意外にも山本は「どうしよう」と呟くだけで、どこか遠くを眺めている。
「とりあえず、ネタ合わせしよや」
「そうだな」
俺らはとぼとぼと歩き、俺の家へ向かった。
結局、タイムテーブルに変更がなされることなく、学園祭の当日へと時間が過ぎて行った。
◇
学園祭の前日。在校生たちは授業中には見せない活き活きとした面持ちで、溌溂と準備に励んだ。グランドにはメインステージが設置され、各講義室には装飾が施され、正門から溢れるほどに露店のテントが立ち並ぶ。ホームセンターで購入してきたベニヤにペンキで看板をこしらえる者、展示物を大人数で運ぶ者、ただそれを眺める者。飲食物の露店では、だいたいトラブルが起きる。味見と称して食べ過ぎてしまい、材料が足りなくなる。
そんな連中を傍目で見ながら、僕ら二人はメインステージの設営状況を見ていた。照明やバックモニターはまだ設置されていないが、おおよその広さはわかる。
「イメージトレーニングをしよう」
「せやな」
メインステージの前に並ぶ。僕の左には下村。つまり、観客から向かって右に下村、左に僕。
「はいどうも~」
「すっきり絞った!」
「オレンジです!」
「俺が下村で」
「僕が山本です」
「二回生の二人でやらせてもろてます」
「今日は、そんな僕たちの顔と名前と好きな異性のタイプと母親の旧姓と気持ちが落ち込んだ時のリフレッシュ法だけでも覚えて帰ってください」
「多いな。なんやねん、最後の落ち込んだ時のリフレッシュ法って。勝手に落ち込んで勝手にリフレッシュしてろや」
「いや、僕ね、最近落ち込んだことがあるんですよ」
「なんやねん、急に」
僕の気持ちがノッってきた。室内で練習している以上に解放感があった。スコーンっと声が突き抜けて行くように心地よい。ネタ合わせに通っていた哲学の道とも異なる、果て無く高い秋空だった。
明日は背後にあるステージの上から、ここを全部眺めてネタができる。隣にいる下村も胸の中では高揚していることが、声を聞けばわかった。
いつも以上に声が出る。心地よい汗が出る。台本を頭の中で読むように喋っていた今までとは違う。自然と、口から流れ出た。それぞれが思い付きでアドリブを入れても、うまく対応できる。
いよいよ大オチ。ここでビシッと決まれば、明日も怖いものなんてない。
「はい、すみません、どいてください。メインステージの設営しているので、離れてください」
急に水を差されてしまった。学園祭実行委員会とステージ設営業者に追いやられてしまった。
突然、夢から覚まされたような、四コマ漫画の四コマ目が破れて読めない時のような、プロ野球のテレビ中継が放送時間の都合で終わってしまったような、そんな感情だった。明日に向けた自信は、掴みかけて手元をすり抜けていった。
「仕方ない。なんとかなるさ」
「せやな。ビラの印刷いこか」
僕らは大学生協のコピー機を独占してビラを印刷した。一人五百枚。カラー印刷で目立たせた。痛い出費だった。
学内の掲示板や廊下にビラを貼って歩いた。学外へ飛び出し、近隣の定食屋、吉田神社、バス停のベンチにも貼って貼って貼りまくった。
「じゃ、俺は配り終わったらそのままバイト行くし。終わったら連絡するけれど、先に店に入っててくれや」
「わかった。本日もお勤めご苦労。じゃあ、また後ほど」
僕らは、今夜二人で行う決起集会の予定を確認して、二手に分かれた。
隙間があればビラをねじ込むように、僕はビラを貼っていく。壁だろうが並木だろうが放置自転車だろうが、関係なく貼っていった。
僕がいそいそと農学部校舎に隙間なくビラを貼り尽くしていると、アンが現れた。
「おや、アン、明日の準備?」
「私たち院生はもう引退しているから、後輩たちの様子見に来たの。ビラ貼りしてるんだね」
「うん。僕のネタを見てもらうためには、これが効果的だと思ってね」
「そうなんだ」
「実は、すでに少し緊張をしているんだ。お客さん、来るかな」
「きっと、たくさん見に来てくれるよ。私もサークルの子たちに宣伝しておくね」
そう言ってアンは僕の手からビラを少し取った。ふむふむと眺めて、満足そうな顔をして頷く。
「これならきっとみんな気になって見に来てくれるね。じゃあ、わたしはこれをもって後輩たちのところに行ってきます」
「ありがとう。また連絡するよ」
アンは可愛らしく手を振った。年上なのに年上っぽくない無垢さが、僕は好きなのだ。
アンの短い髪からは、ほのかにシャンプーの匂いが香った。いつもの甘い香りではなく、僕が自室で使っているものと同じ爽やかな匂いだった。彼女はシャンプーを変えたらしい。
彼女が髪を揺らして駆けていく後姿を愛おしく思いながら眺めている。その時、確かにそこにあった違和に、僕は気付きもしなかった。
◇
山本と別れたのち、俺は残る百枚をどこに貼るか悩んでいた。おおよそ、目につくところには俺らのビラがある。他に貼るべき場所はあるだろうかと逡巡していると、声をかけられた。
「下村くん、久しぶり」
「おう、三波か。久しぶりやな」
落研メンバーと会話するのは久しぶりだった。
これまでも、落研メンバーと学内ですれ違うことはあったが、誰も俺に話しかけてはこなかった。
「一年ぶりくらいだね。去年の学園祭が最後だったから」
「せやな」
昨年の学園祭翌日の後片付け時に、俺は部長に退部の意向を伝えた。理由は「学業との兼ね合いが難しい」と伝えていた。部長はそれ以上、何も聞かず、俺の退部が受理された。
「下村くん、落研に戻る気はない?」
「ない」
俺はできるだけきっぱりと伝えた。部員と迎合せずにやめていった俺を、他の部員が認めるだなんて思えなかったのだ。
「夏にやった定例寄席にね、下村くんのファンだってお客さんが来てたんだよ。去年の学園祭で見てから、気に入ったんだって」
それは、そのお客さんに申し訳ない、と思っても落研に戻ろうなんて気持ちにはなれない。あそこに、俺の居場所なんてない。こちらの事情や想いも知らずに陰口を叩いて、くだらない仲間意識で慣れ合う連中と、俺は混ざり合うことなんてできない。
「わたしは、下村くんの落語が好きだったなあ」
「それは、ありがとう」
これには少しだけこころが揺らぐ。俺も男なのだとこころの中で苦笑する。落研に戻らずに三波と接触する方法はないか、とまで考えてしまった俺は手の施しようがなく単純だった。
「ちょっと、吉田神社、いかない?」
「いや、あそこは落研の連中おるやろ」
「大丈夫。今日の声出しはもう終わったから」
落研の一回生は、吉田神社で声出しをするのが日課になっている。厳しい上回生の指導のもと、「キャンパスに声を届かせるイメージで」発声練習をさせられる。
断り切れず、歩き始めた三波の隣を並んで歩いた。
歩き始めてほんの数分で吉田神社に到着した。落研を辞めて以来、実に一年ぶりの吉田神社の石段を登る。
「三波は、名前もろたんか」
「うん、わたしは吉村家の真中先輩から『八代目面堅』をもらったよ」
「軟鉄断亭は、どうなった」
彼女は少し言いにくそうにして、下を向く。
「軟鉄断亭は、なくなっちゃった」
「そうか」
俺はそれしか答えられなかった。
「下村くん、辞める時って、いつも急なんだもん。バスケ部だってそうだったし」
「特に理由なんてないけどな」
「そんなの嘘」
彼女は俺の顔を見た。俺のこころを見透かす、というよりも、俺のことを知っている目だった。
「二年生でインターハイメンバーに選ばれたのに、大会が終わってすぐ辞めちゃったでしょ。やっぱり、お父さんのこと?」
かつては下村家と三波家では家族ぐるみでの付き合いもあった。隠すほうが難しい。それでも俺は、本当のことを言うつもりはない。
「そんなんじゃねえよ。バスケに飽きただけ」
「また嘘言ったね」
「嘘ちゃうし」
彼女は少し微笑んだ。笑顔の意味なんてわからなかった。
「おう、三波、こんなとこおったんか」
俺ら二人の前に落研の先輩方が現れた。
「なんや、下村か。落研辞めたお前がここで何してるんや」
「別に。神社でお参りをしていただけです」
先輩方が鼻で笑う。
「お前、落研部員の前ではかっこつけてスカしてたくせに、いっちょ前に女には会ってたんやな」
下品な笑い声が聞こえた。怒りが込み上げてくる。拳を固く握るくせに、言い返すことも力で言い伏せることもできなかった。
「ほら、三波、部会始まるし、行くで」
そのまま、彼女は強引に連れて行かれてしまった。
去り際、彼女の口が「ごめんね」と動いていたが、それがなぜだか俺を惨めにさせた。
◇
夜の木屋町には多くの学生の姿があった。皆、それぞれで学園祭前日の決起集会や前夜祭をしていたのだろう。
そんな連中をわき目に見ながら、酔いが回った僕らも木屋町の歓楽街を歩いた。一軒だけのつもりが、初めて下村と二人で酒を酌み交わすのが楽しくなって、ついついハシゴしてしまった。
「ふははは、アンダーソン、意外と飲むんやなあ」
「おいおい、山本。似非関西弁やめや、全然イントネーションちゃうし。飲むんやなあ、な。お前のは、飲むんやなあってなってるし」
ネタ中とは違う柔らかめな表情で下村はツッコミを入れていく。ふわふわとした頭で、バス停を目指した。明日の本番に向けて、そろそろ帰って英気を養わなければならない。
「山本、すまねえ、お前に払ってもらった分、コンビニで下ろしてくる」
「そんなもの、いつだっていい。なんなら、僕のおごりでもいい」
「そういうわけにはいかん。こういうのは、しっかりさせたいんや」
「おお、わざわざすまない。ここで待っているよ」
高瀬川沿いのベンチに腰掛け、コンビニへ駆けて行った下村を見送る。
そこに、別の見慣れた顔が現れた。その女は、傍らの男と親密そうに身を寄せて歩いている。その女と目が合い、「あ」と声が漏れた。僕は思わず立ち上がった。それまでの、ふわふわとした心地よい酔いは、一瞬にして覚醒した。
「アン、じゃないか」
「え、なんで」
「どういうことなんだ」
アンは連れ添っていた男から少し距離を取った。居心地悪そうにうつむいて、髪を耳にかける。初めて見る顔をしていた。男と並んで歩いている時も、今も、僕が知らないアンの姿だった。
「アン。これは、どういう」
「きみじゃなかったみたい」
アンは小さな声でぽつぽつと喋った。傍らの男も気まずそうに僕らの顔を行ったり来たりしている。
意味が理解できず、僕はオウムのように聞き返す。
「僕じゃなかった?」
「だって、きみ、わたしのことなんてどうでも良さそうなんだもん。全然連絡くれないし、うちに来るって言ったのに来なかったり。最後に二人で過ごせたの、いつだったか覚えてる? それに、進級も危ういって言ってたでしょ。そんな自己管理がちゃんとできない人と一緒にいたら、この先のことが不安になるに決まってるじゃん」
「それは、面白くなるために……。アンが面白いって言ってくれるネタを作ろうと……」
僕はアンの肩を掴んだ。アンにわかってほしかった。アンが面白いって言ってくれるから、プロになれるって言ってくれるから、それを叶えるのが自分たちの幸せだと思っていた。
そして、今からでも僕ら二人の関係が「なんとかなる」ということを信じていた。
「他人の気持ちがわからない人が、面白くなれるわけないんだよ!」
アンは僕の手を振り払った。力強い拒絶。
頭は酔いから醒めていても、身体は充分に酔っていた。僕は振り払われたままよろめき、高瀬川へ転げ落ちた。冷たい秋の流水に、尻餅をついた。どれほど酔っていても、冷たいものは冷たかった。
「行こう」
「え、彼のことはいいのか?」
「彼とわたしはもう終わったの」
足早に立ち去る二人の背中を、僕は高瀬川に尻餅をついたまま眺めていることしかできなかった。その姿が雑踏に消えてもなお、立ち上がる力も入らない。
「待たせたな。って、おい山本、お前大丈夫か。俺の手に掴まれ」
下村が手を差し伸べる。その手を掴む前に、頭の中を整理したかった。思考が追い付かなかった。どうすればよいのかもわからない。どうすればよかったのかも、わからない。頭の中では彼女の叫びだけがこだまする。
「なあ、アンダーソン」
「なんや、はよ掴まれや」
「僕たちって面白いのか」
僕は、一番の疑問を下村にぶつけた。僕はアンの気持ちがわかっていなかった。他人の気持ちがわからない僕は面白くない。僕が面白くなければ、僕らコンビも面白くないのか。下村は、どう思っているのか、それが知りたかった。
「何を今さら。自分たちが自分たちを面白いって思わな、人様にネタ見せられへんやろ」
下村の言葉は、すっと僕のこころに沁み込んだ。自分たちが信じていることを貫けば良いと背中を押されているようだった。きっと、下村にはそこまでの考えはなかっただろうが、僕にはこの言葉がささやかな救いになる。
「そうだよな」
「どうした、転んで頭打ったか」
「酔いが醒めたよ」
「それは良かった」
僕は勢いよく立ち上がり、下村の差し出した手を掴んで一気に引き込んだ。
「うわ、どアホ」
下村はわき腹から高瀬川に転落した。
「なにすんねん」
下村が立ち上がって掴みかかる。僕はびしっと衣服を正して声を張った。
「はい、どうも! すっきり絞ったオレンジです」
「おい、急になに始めてんねん」
「僕ら京大の二回生二人で漫才やっています。僕が山本スペシャルで」
「え、あ、俺が下村アンダーソンです」
僕の勢いに飲まれた下村が頭を下げた。木屋町を行き交う酔漢たちが、何事かと僕ら二人を遠巻きに眺めた。
「今日は僕たちの、顔と名前と好きな異性のタイプと母親の旧姓と、元カノにされて嬉しかったことだけでも覚えて帰ってください」
漫才が始まると理解した酔漢たちが盛り上がって、拍手する。指笛。喝采。その全てが僕には心地よかった。下村のツッコミがありがたかった。
今負った傷を癒すにはずいぶんと物足りないけれど、何も無いよりマシだった。
◇
学園祭当日を迎えた。
俺らは束になったビラを抱えて、時計台前で来場者を待ち構えた。正門前では実行委員が学園祭案内を配布している。案内を受け取ったその手に、次々にビラを乗せていった。案内を眺める目が突然遮られても、案外受け入れられているようで、反応は良かった。
しかし。
「ほんまに来てくれるんやろうか」
「安心したまえ、世の中は空前のお笑いブームだ」
「それ、どこ情報?」
「僕情報だ」
俺は呆れた。いつも山本は、ずっしりと構えているところがある。特に根拠がなくても、彼は物事を信じることができる。不安に駆られやすい俺とは雲泥の差だった。そして山本は、すぐさま行動に移すことができる。不安で一歩踏み出さない俺は、この一年で山本に対して憧憬や嫉妬が入り混じった感情を覚えていた。大概のコンビ不仲というものはこういう所から生まれるのだろうが、そもそも仲が良いとは思っていなかった。
「ほな、そろそろ控え室行こか」
「もうそんな時間か」
俺らは、初のステージへ向かっていった。
◇
俺らの初のステージが終わった。ビラ配りも空しく、観客はまばらだった。来た人の反応は良く、心地よい笑いが聞こえていたが、数が少なかった。
「手ごたえはあった、あったんやけど」
「人が少なかったな」
ステージを降りて、ずっしりと重くなった心身を癒すように炭酸飲料を流し込んだ。今年もすっきりと晴れた十月の日差しは、心地よさを通り過ぎたほど暑く、冷たい炭酸飲料もすぐにぬるくなる。
山本はぬるくなる前に飲み干した。俺はぬるくなった飲料を持て余した。
べたっ、とステージ裏の地面に腰を下ろす。日差しの強さに反して、アスファルトはひんやりしていた。
「俺らのステージ、終わったな。これでお前とはコンビ解消や」
「そうだな。今までありがとう」
山本が何か言いたそうにうつむいた。山本らしくない表情をしている。何かを、言うか言わぬか悩んでいることが顔を見て分かった。
「なんやねん。なんかあるなら言え」
なんか言いたい顔するなら言え、と俺は念を押す。
「見て欲しい人に見てもらえなかった」
その顔はずいぶんと思い詰めたように見えていて、いつもの山本らしさが微塵もない。いつもの山本なら「見せたい人が来ていないから、見せに行こう」とでも言い出しそうなものなのに。
山本の昨夜の様子も気になっていた。俺がコンビニから戻った時に山本が見せた、あの悲しそうな表情。今朝の集合時はケロっとしていたけれど、どこか空元気のようにも見える。
会ってから今日まで、ほとんど山本のペースで進んできた。俺がネタを書いているものの、山本からしつこく迫られてコンビを組んだし、山本の勢いに乗せられて学園祭実行委員へ突撃もした。
今日がコンビ最後の日なのだから、最後くらい俺が山本を引きずってやろう。引きずりまわしてやる、それが俺の見つけた結論だった。
「おい、山本、行くで、その人んとこ」
「待ってくれ、下村」
「そこはアンダーソン、やろ。ほら、どこ行ったらええねん」
「本当にいいんだ。これで僕らは解散なんだから」
いつも根拠の見えない自信に胸を張って、中身のないことばかり口にしてきた山本が、いつもより小さく見えた。そんな姿の彼を、俺はどうしてだか見ていられなかった。
「学園祭のステージとは言ったけど、ステージは一つちゃう」
山本が顔を上げた。言葉の意味を知りたくて続きを待つ顔だった。
「家に帰るまでが学園祭や。ほら、行くで。その人に見てもらいに」
俺は強引に山本を立ち上がらせた。がっしりと腕を掴み、ぐんぐんと進んだ。力のこもっていない山本はひどく重く感じた。
メインステージの脇を通って、来場者が行き交う中を突き進む。
徐々にメインステージの管弦楽は遠のき、飲食店の露店が密集するエリアに出た。
「さあ、マウンテンブックよ、その人がどこにいるか言わんとな、俺はここで漫才するで」
「ここでって、ただの道の真ん中じゃないか」
「せや。ほな、行くで」
俺は人の往来の中で、びたっと止まった。後ろから来た人が慌てて避けるが、肩がぶつかる。正面から来る人は迷惑そうに避けていった。
「はいどうも! すっきり絞った」
山本を小突いた。困惑、驚き、また困惑して、全てを諦めた顔をし、ジャケットを正した。
「オレンジです」
「俺が下村アンダーソンで」
「僕が山本スペシャルです」
「二回生のコンビで漫才やらせてもろてます」
「今日は僕たちの、顔と名前と好きな異性のタイプと母親の旧姓と、下村が思う僕のいいところだけでも覚えて帰ってください」
「なんやねん、俺が思うお前のええとこって。そんなん楽屋でやれや」
そこで一組の来場者が足を止めた。笑ってくれている。往来が滞り始める。また一組、また一組と足を止めた。俺らの漫才を見ようと止まる人もあれば、渋滞に飲まれているだけの人もあるが、誰もが少しずつ笑い始めていた。
ステージとは違う。目の前に観客がいる。俺がやろうと思えば、観客にツッコみを入れられるくらいの至近距離で見られている。そんな新しい感覚に、俺たちは痺れ始めていた。
台本通りに進む。お客さんの反応も良い。熱が入り始める。山本の、先ほどまでの落ち込みようを感じさせない見事な切り替えに、俺は感心していた。
メインステージでやっている時ほどの観客数ではないものの、その近さゆえに笑いが大きく感じた。反応が、手の取るようにわかった。手の届く範囲に全てがあった。
山本がアドリブを入れても、俺は気持ちよく返せる。俺がノリツッコミをすれば山本がそれを躱して、新たなツッコミが生まれる。
「もうええわ」
「どうもありがとうございました」
ネタを終えると、俺はそそくさと歩き始めた。路上漫才をした理由さえも忘れかけて、次のステージを探していた。
「ここ、どうや」
「やろう」
「はいどうも! すっきり絞った」
「オレンジです」
次から次へと、場所を変え、ネタを変え、ゲリラ漫才を慣行していく。次第に観客は増え、中には俺ら二人を追って即席ステージのハシゴをする者の姿もあった。
それから俺らは無数の「はいどうも!」と「もうええわ」を繰り返して構内を練り歩いた。学内新聞がいつの間にか密着取材をしていたし、即席のファンクラブもでき始めていた。ここだ、と決めて立ち止まれば、歓喜の声が湧いた。
「山本、ここでやろか」
ケバブの露店の真ん前で俺は立ち止まったが、山本は先を行く。後ろに並んだファンたちも、おや、という空気になった。俺は山本の腕を掴んで、引き戻した。
「ほれ、山本、ここでやるで」
俺が身だしなみを整えていると、山本は言いづらそうに耳打ちをした。
「アンダーソン、ここはやめよう」
「なんでや、ここにお前が見せたがっていた人がおるかもしれんから、俺はやるで」
「いるんだ、ここに」
山本はちらちらと辺りを見回しながら、用心深く俺に告げた。
いるなら、ここでやったらいい。俺はそれしか考えていなかった。
「なんや、それならここでやったらええわ。はいどうも!」
「待ってくれ、アンダーソン!」
これまでにない山本の強い拒否。うつむきながら、ちらちらとケバブ屋を見ているのがわかった。何人かの店員や客がいるので、どれが件の人物なのかわからない。
「ケバブ屋におんのか」
「ああ。僕たちは終わった」
なるほど、と俺は合点する。聞きたいことは、山ほど出てくる。
「なに、彼女となんかあったんか、昨日の夜に高瀬川でなんかあったんか、お前の彼女ケバブ屋なんか」
俺の質問マシンガンに、山本は小さく頷く。
それで、あの「自分たちが面白いのか」という質問だったのかと納得する。山本と彼女のやり取りまではわからないが、彼女の言葉で山本のこころが乱れ揺れ動いているということだけわかった。それだけわかれば、充分だった。
そして、俺は山本を抱いた。
山本を強引に抱き寄せ、耳元で、小さな声で、それでも強さと熱を帯びた声で伝えた。
「お前いつも言うてるやん、なんとかなるって」
山本の身体がこわばっているのがわかる。俺は、山本を抱く手に、さらに力を込めた。
「それなら、お前の面白さ、見せつけてやれ」
そうして、ふっ、と山本を離した。俺はケバブ屋を向くようにまっすぐ立ち、スーツの裾を正す。
「いったれ、山本」
山本は、数多の感情に満ちた顔で俺を見る。
「お前は一番面白い、それでええねん。なんとかなんねん」
俺の言葉に、山本は覚悟を決めた。隣に立ってネクタイをキュっと絞った。
「いくで。はいどうも! お待たせしました、すっきり絞った」
「オレンジです」
「俺たち二回生の二人で漫才やらせてもらいますね」
「今日は僕たちの、顔と名前と好きな異性のタイプと母親の旧姓と、元カノへの未練だけでも覚えて帰ってください」
よりによってそのネタ選んだか、と俺は心の中で苦笑した。山本なりの悪あがきにも見えたし、これで彼女への想いを昇華しようともがいているようにも見えていた。
◇
「お前は一番面白い、それでええねん。なんとかなんねん」
それを聞いた時、僕は言葉が出なかった。下村から面白いと言われたのは初めてだった。
下村の言葉で「なんとかなる」と言われた。僕がアンから言われて、信じてきたことだ。その言葉をずっと言い続けていたアンは、もう僕のそばにはいない。それでも自分を面白いと思ってくれている人が、こんなに近くにいた。彼は僕の隣に、ずっといたのだ。
ケバブ屋で後輩たちの面倒を見ていたアンが僕らの漫才に気付いた。その目には、驚きだけがあった。アンの視線に気づいても、僕はできるだけ表情を崩さずに続ける。僕なりの見栄だった。
ネタを書いたのは下村なのに、僕とアンの関係に妙にリンクする部分がある。アンはそれが実話をモチーフにしているように思えたらしく、いささか不快そうな顔をしたが、下村の軽快なツッコミに、ついに笑っていた。彼女の笑顔を見ると、こころの閊えが溶けていく。これで良かったのだと思える。
「お前、未練タラタラやないか、もうええわ」
「どうもありがとうございました」
深々と頭を下げる。拍手喝采が僕らを包んだ。たった一組の観客から始まった路上漫才は、回を追うごとに膨れ上がり、メインステージで行われていた「笑門」の観客さえも奪っていった。メインステージでネタを披露したときよりも圧倒的に多い観客を見回し、もう一度深々と頭を下げる。
僕が頭を上げた時には、すでにアンの姿はなかった。
「アンダーソン、ありがとう」
「これで気が済んだか」
下村は照れ臭そうに空を見上げた。青春ドラマのクサい役者のようだった。
「それはこっちのセリフじゃないか。ゲリラ漫才をするって言い出したのはそっちだし」
「なに言うてんねん、俺は今日が最後だから全てを出し切ったろうと思ってやな」
「とにかく、ありがとう」
ちょうど、五時のチャイムが鳴る。どこかで今日は終わりだと叫んでいる声がする。僕たちはもう一度、集まった観客を見て頭を下げた。
今日で解散、というしみったれた言葉など口にせず、面白かったとだけを思って帰ってもらおうと考えていた。
「学園祭一日目はこれで終了です。みなさん、明日も学園祭に足を運んでみてください」
「では、またどこかでお会いしましょう、さいなら」
丁寧に謝辞を述べて立ち去ろうとする僕らは、観客の一人に呼び止められた。
これまでも「売れる前にサインください」とか「今のうちに、一緒に写真撮ってください」という声があり、それに応えてきた。今度のそれも、きっとそういったお願いをされると思っていたが、下村にはこのあとのアルバイトがある。割と時間ギリギリだったので、断らなければならない。
「良かったら、これ、出てみてください」
僕らの予想に反して、手渡されたのは一枚のビラだった。ビラを渡してきた人物は、それだけでどこかへ駆けて行ってしまった。
でかでかと記されたタイトル。
「京都学生お笑い祭典」
「初めて聞くイベントやな、知ってるか?」
「知らないぜ」
「目指せ優勝賞金三十万&京都出身の人気お笑いコンビ『ホントリアル』との共演権、やて」
下村は、ふんと鼻を鳴らして、ビラをスーツのポケットに入れた。くしゃっと音がして、ポケットがいびつに膨れた。彼は時計を確認する。アルバイトまでの時間猶予はないらしく、険しい顔をする。すぐに、携帯電話でアルバイト先の親御さんに連絡を入れた。
「すみません、講師の下村ですけども、十分ほど遅れます。すみません、ええ、はい、そうですね、テキストの課題を少し進めておくようにお伝えください。はい、では、失礼します」
「アンダーソンって、ヒョウジュンゴも話せるんだな」
「なんやねん、悪いか」
「新鮮だ」
「どうでもええわ。俺、バイト急いでいるし、またな」
下村は少しかしこまって僕に向かい合った。僕も自然と、背筋が伸びた。
「俺、お前とコンビ組めて楽しかったわ。今日で終わりやけどな、なんつうか、ありがとうな」
「ああ、こちらこそ、無理言ってすまなかった」
「ほな、俺行くわ」
下村は片手を挙げて、小走りで去っていった。
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