ケセラセラ
もり ひろ
第一章 『Shall we MANZAI?』
おかっぱ頭にティアドロップサングラス、素肌にレザージャケット、短パン裸足といういで立ちの僕は、ステージ前を埋め尽くす観客を眺めた。僕が所属するお笑いサークル「笑う門にはカマラック」、通称「笑門」のライブステージは学園祭の目玉の一つだ。「これから面白いものを見るぞ」という期待と熱気を感じる。
バックモニターに映し出された「山本スペシャル」の文字が、出囃子に合わせてビートを刻んでいた。出囃子がフェードアウトしていき、拍手が鳴りやんだ。
心地よい緊張感が僕を取り巻く。毎月行っている定例お笑いライブとは比べものにならない規模に、下腹部がひゅんとした。
僕はこころの中で「なんとかなるさ」と言い聞かせ、ネタに入る。
「どうも、山本スペシャルです」
フリップをめくる。
一回生の秋、僕は学園祭のメインステージの真ん中にいた。学内最大のイベントである学園祭では、大学敷地内の各所にさまざまなステージが設置されている。どのステージでも催しが時間を空けずひっきりなしに行われていた。メインステージはとりわけ、けた違いの賑わいがある。
僕は一枚、また一枚とフリップをめくっていった。ネタの持ち時間は三分。三十秒たっても一分たっても、大した笑いは起きない。場の空気は最悪。脇で次に控える同回生のサークル仲間の顔がこわばるのも見えた。パラパラと観客が離れていく。
ネタの途中ながら、僕は僕なりに状況を考えた。自分はトップバッターで、会場が温まっていないからウケていないのだと。さらに、僕のネタがシュールでわからない人にはわからないのだと自分に言い聞かせた。
二分が過ぎた。ここまでのネタを回収して最後の大オチへ向かっていく。ようやく、少しの笑いや声が聞こえ始めた。それでも観客の流出が止まらない。別ステージで行われている軽音楽部の音ばかりが耳に届く。
観客の中によく知った顔を見つけた。僕の恋人、アンだ。彼女は僕と目が合うと、手を振った。彼女はこの場にいる誰よりも大きな笑い声を出しているのが見て分かったが、ギターサウンドのほうが大きくて僕の耳までは届かない。
最後のフリップを捲った。ささやかな笑い声が届いた。
「どうもありがとうございました」
僕は深く頭を下げてステージを降りた。
ステージ裏の控え室へ戻り、スポーツドリンクを喉に流し込んだ。十月だというのに日差しがきつく、額には汗も滲む。裸の上から着たレザージャケットが背中に張り付いて不快だった。控え室のテントの中のこもった熱気も最悪だ。
控え室では、上回生たちがネタ合わせをしたり、スペシャルゲストの漫才コンビのお世話をしたりと騒々しかった。僕がネタを終えて戻ったところで、労いの言葉をかける者は一人もいない。
落ち着かないので、控え室の外へ出た。中とは異なる騒々しさがある。学内ラジオや広報誌の取材が来ていたり、次のジャグリング同好会との最終調整をする学園祭実行委員会の姿があったりと、学園祭らしい活気に溢れていた。
そのうちに、僕の次にステージに立ったコンビがステージを降りてきた。二人は僕に気付いていない。
「場の空気最悪。山本のせいで会場冷え切ってたわ」
「ほんま、それ。あいつのせいでウケるモンもウケへんかったし」
自分の名前が聞こえて、僕は咄嗟に物陰に身を隠した。そうとも気付かない二人は、口々に僕を侮辱する言葉を並べていく。
「山本、ほんと面白くない」
「ほんま。あれでお笑いやってますとか、よう言えるわ」
「あれのせいで笑門の全員がレベル低いなんて思われるのは勘弁」
僕の陰口で笑いながら、二人は控室のテントの中へ消えていった。
ステージ上にいた時よりも強く自分のこころへ訴えた。あの二人にも僕の面白さがわからないのだと、あいつらの感度が弱いのだと。そうやって自分がスベっていたことを認めたくなかった。しかし、自分で自分を慰めることで情けなさが込み上げてくる。僕は人目を憚るようにステージを離れた。
どこへともなく歩いているところに、後ろから声をかけられた。
「おつかれさま」
「ああ、アンか。見に来てくれていたんだ」
「見に来てほしいって言ったの誰だったっけ?」
僕は肩をすくめて見せた。できるだけ、おどけてみせる。
「今日もきみが一番面白かったよ」
「ほかの連中のネタ見てないくせに」
アンはてへっと笑って見せる。彼女が僕をからかう時にする表情だ。
彼女はいつだって僕のネタを褒める。僕が誰よりも面白いと讃える。「きみはプロになれる」と言葉をかける。
そして、「なんとかなるよ」と安心をくれた。
それは僕がネタを作ってステージに立つための活力にもなっていた。それと同時に、年下だからって甘やかされているんじゃないかとも思っていた。
「今夜はどうする? ウチくる?」
「うん、アンの手料理食いたいし」
「わかった。それじゃ、わたしこれから店番だから、またあとでね」
そうしてアンは来た道を戻っていった。彼女が所属するサークルの露店もなかなか忙しいのだそうだ。彼女を見送り、再び無意味に歩みを進めた。
さまよった挙句に一つの校舎へ流れ着いた。校舎内へ足を踏み入れる。外とは違って、ひんやりとした空気が頭を冷やす。廊下を歩くだけで、次々にビラが手渡される。どの団体も、自分たちの催しに人を呼ぶのに必死だった。本当に面白いものならわざわざ呼び込まなくても人目にとまると思うと同時に、どんなに面白いものでも人目に晒されなければ意味がないとも思った。
本当に面白いものとは何だろう。
ふらふらと階段を上り、廊下を歩き、また階段を上り廊下を歩く。
いつの間にか辿り着いた場所は、大講義室だった。ここも外のステージと同様に、数多のサークルの催しがある。
講義室の外では、和装をまとった集団が呼び込みをしている。
僕には行く当てがなかったので、何のステージが行われているのかも見ずに大講義室へ入った。
講義室内の明かりは落とされていて、講壇にだけ照明が当たっている。照明のもとにあるのは、舞台中央の座布団とめくりだけだった。
僕が隅の席に腰を下ろしたところで、笛や鼓、三味線の音楽が流れ始め、舞台袖から藍色の和装に身を包んだ男が現れる。
ひまわりのような明るい黄色の和装を纏った女性がめくりを一枚、めくった。
――軟鉄断亭藍弗
読めない。
藍色の男は座布団に腰を下ろし、深々と頭を下げた。
「どうも、ナンテッタッテイアイドルです。本日は我々、落語研究会の寄席に起こし頂きましてありがとうございます。早速ですが、小噺を一つ」
僕は、なるほど、と顎を撫でた。ここは落研のステージらしく、彼の名前は軟鉄断亭藍弗と言うらしいことに気が付いたのだ。
なんて邪道な名前なんだ!
こころではそう思いながらも、僕は初めて見る落語に若干の興奮を覚えた。藍弗氏は一人二役を器用にこなし、話しているだけで情景が浮かんだ。日本に古くから伝わるお笑いの一つで、由緒ある芸能だ。僕がやっているお笑いのルーツとも言える。
――それで、メスはどうしたんだ。
――黙って飛んできた。
彼はまた深々と頭を下げた。
「ええ、これは鶴という演目です。うっかりものですね。さて、次はこんなお噺を」
彼は普通の口調から一転、まったく違う人物が乗り移ったかのように噺を始めた。今度は男女の会話らしい。役が切り替わるごとに、藍弗氏は口調や声色だけでなく、仕草も変わった。それだけじゃない。目つきまでも変えて演じてみせた。
僕はそれに見入った。誰もが一度は耳にしたことがありそうな演目を、藍弗氏は学生とは思えないほど演じきっていた。僕は本物の噺家の落語を見たことはないけれど、それに匹敵するのではないかと思うほどだった。
――また夢になるといけねえや。
彼は再三の深い礼をし、舞台から去っていった。
それを見るや、僕の行動は早かった。
◇
――また夢になるといけねえや。
俺は深々と頭を下げた。それから学園祭の高座を降りて、ほっと一息ついた。観客の前に出て噺すのは初めてのことだったので、緊張から昨夜はよく眠れなかった。ようやく少し、気が楽になった。
高座へ上がる前の緊張感や降りてからの充足感もさることながら、高座から見える観客の反応に快感を覚えていた。まるで自分が自分でなくなるような、演目中の登場人物が俺の身体に憑依したような、あの感覚を表現できないことにもどかしさを感じる。要するに、落語をすることで、気持ちよくなった。
俺は一回生の中では唯一、学園祭の舞台に立つことができた。サークル創設以来、異例の事態であるそうだ。
舞台袖から控え室へ入ると、同回生の三波彩香から声をかけられた。
「下村くん、今夜の打ち上げどうする?」
彼女は中学生の頃からの友人で、高校も同じだった。高校時代は俺の所属する部活でマネージャーも務めていた。昔は下の名前で呼び合っていたが、今では「下村くん」「三波」と呼ぶ。
「俺は……行かない」
「わかった」
答えを聞くや否や、彼女は他の部員との会話に高じ始めた。新歓コンパ、懇親会、定例寄席の打ち上げ、それら飲み会の類に参加したことは一度もなかった。
慣れ合うつもりがなかった。大学で学ぶ、アルバイトで学費を稼ぐ、その合間の息抜き程度に考えていた落語にハマってしまった。メキメキと技術を身に着け、その実力は上回生から一目置かれていた。
それだけ落語に熱中していた俺は、サークル内のなんとなくだらっとした空気、なあなあと慣れ合う雰囲気が馴染まなかった。
自分が周りから「人付き合いが悪い」「ノリが悪い」と言われていることくらい知っていた。「技術はある」と褒めてくれる人がいたことも知っている。ゆえに「技術があるから天狗になってスカしている」という声も耳に入った。着々と居場所を失っていっていた。
二回生になれば今以上に実習が増える。落語に費やす時間はさほどない。
学園祭のステージを最後に落研をやめようとも考えるようになってからは、なおさらサークル内でのコミュニケーションが減った。
俺はそそくさと帰り支度をして、控え室を去った。
◇
僕は大講義室から出て、呼び込みをしている落研部員を捕まえた。
「すみません、藍弗氏に、軟鉄断亭藍弗くんに会わせてくれませんか」
「なんてつ……嗚呼、一回生の下村くんのことか」
僕は初めて彼の本名を知った。下村というらしい。
「そう、下村くんに。彼の友人の山本です」
「友人ってことは君も一回生かな。終わってすぐだからちょっと厳しいと思うよ」
「そこをなんとか」
僕は食い下がった。急ぎの要件があるという体を装って押し通そうとしたところで、件の下村が現れた。今終えたばかりだというのに、すでに着替えを済ませている。
僕は彼の前に立ちはだかった。
「待ってくれ、アンダーソン」
「アンダー? なんやって?」
「アンダーソン、僕は笑門の山本スペシャルだ」
「なんや、だだスベり芸人か。見てたで、お前のステージ。で、なんなん、アンダーソンって」
僕はぐいっと胸を張ってみせた。開け放たれたレザージャケットからあばらの浮いた貧相な胸板が露になり、汗が冷えた。
「僕のステージを見て頂けて光栄だよ、アンダーソンくん」
「その変なあだ名やめろや」
「下村だから、アンダーソンだ」
「わかった、俺はアンダーウェアでもアンダーヘアでもなんでもええわ。で、スベリの山本が何の用?」
彼は面倒くさそうな顔をする。単刀直入に切り込もうと、僕は用意していた言葉を言うために深呼吸をした。
「僕とコンビを組まないか」
「組まない。じゃ、そういうことやし」
あっさり。軽く手を上げ、下村は僕の脇をすり抜けて立ち去る。僕はくるりと転回し、負けじと下村を追った。
「頼むアンダーソン。僕とコンビを組んで、お笑いのてっぺん目指そう」
「俺、そういうんとちゃうし」
「アンダーソンだって落語やっているくらいだ、お笑いには興味はあるんだろ?」
「だから、俺はそういうんとちゃう」
「なぜだ、アンダーソン」
それまで大股で歩いていた下村が急に立ち止まって振り返った。突然のことだったので、僕は下村に衝突した。そのまま押し倒してしまいそうなところを、僕は手を回して下村を抱き寄せた。
そばを通った女子学生が悲鳴とも歓喜ともとれる声を発する。
見つめ合うかたちになった。下村はごくりと唾を飲んだ。みるみるうちに下村の額の汗が量を増して流れる。
僕はそっと目を閉じた。下唇をちょこんと突き出して、じわりじわりと下村に接近する。耐えかねた下村が、「何してんねん」の怒声とともに僕を背負い投げにした。
背中から地面に叩きつけられた僕は、痛みを堪えて言った。
「いい技持っているな、アンダーソン。いいツッコミだ」
僕の台詞を聞き終える前に下村はスタスタとそのまま歩き去る。砂を払って立ち上がった僕も意固地になって追いすがる。
「なあ、アンダーソン。そのキレッキレの背負い投げをステージの上でやってみないか」
「いやや」
「それなら、きみのやっている落語と僕のフリップ芸を融合させてみよう」
「いやや」
「ならば、アンダーソン」
「アンダーソンアンダーソンうっさいな。俺はアンダーソンじゃない、下村だ。タイチだ。太いに一で太一だ」
「ファットワン=アンダーソンよ」
「いい加減にせえ。いてこましたろか」
下村は僕の胸倉を掴み、今にも殴りかかりそうに拳を振り上げた。悪鬼の形相に、さすがに僕もひるんだ。
「わかった、わかったよ下村。下村って呼ぶから、少しだけ僕の話を聞いてくれ」
下村は僕を開放した。首元がすうっとした。
彼は僕と目も合わせず、再び速足で歩き始める。
「お前が話すのは勝手やし、俺は何があってもお前とコンビは組まへん。勝手にせえ。ただな、俺はこれからバイトがあるし、急いでいる」
「それはありがたいお言葉、まことに僥倖。僕と下村の持つものを融合させたら、絶対に面白いと思うんだ」
下村はうんともすんとも言わずに歩いた。時折、時間を気にし、何か独り言を呟いていた。
正門から東山通に出た。行き交う市バスに反射した夕日が眩しい。
「ちょっと急ぐ」
僕に目もくれず、下村はさらにピッチを速めた。下村より背の低い僕は、ほとんど小走りでそれを追った。
市バスに乗り落ち着いたところで、僕は下村へネタのプランを語る。
「きみが落語をしている横で、その情景を僕がフリップにしていくんだけど、そのフリップの絵っていうのが、ちょっとずつおかしなところがある。どう?」
「それ、おもろいか?」
ずばり、だった。僕は返答できない。今までも周りから僕のネタについて疑問や批判は耳にしてきた。それとは違うダメージを負ったように感じた。好きな人に彼氏がいるとわかったときのような感情に近かった。
ここで負けてしまっては下村とコンビが組めない。反論材料を探したが、「なんとかなる」と言うのが精いっぱいだった。
「なんとかならんことも、あんねん」
それもずばりだった。
上終町でバスを降りて、北白川にあるマンションのエントランスへ着いたところで、下村が「じゃ、ここまでだから」と言った。僕には意味が分からなったが、それを汲んだ下村の「俺、家庭教師」の一言で理解した。家庭教師界隈では京大生というだけで時給が上がったり、もてはやされたりするのだとか。
ガラス扉の向こうへ消える下村を見送った僕は、手持ちが無沙汰になってしまった。
このまま諦めて下宿に帰ろうとも思ったが、帰って一人になるとどうしても自分の悪評を思い出してしまいそうだ。そんな時は、いつもアンが僕を励ましてくれていた。彼女が「なんとかなる」と言ってくれるだけで、本当に「なんとかなる」という気が沸き起こる。
今から彼女の家へ行こうかと思ったが、まだ早すぎる。彼女も自身のサークルの後片付けなんかで遅くなるに違いない。
夕日が西山へ沈んで行くのを眺めながら、僕は何をしようか決め切れずにいた。
◇
俺が北白川の女子高生へ英語を教え終えてマンションから出ると、カーブミラーに寄りかかっている山本の姿が目に入った。うげっ、と口から洩れた。あいつまだ居やがる、というのが最初の感想だった。
昼間かけていたダサいサングラスはなく、思っていたよりも堀の浅い目元が見える。京都水族館で見たオオサンショウウオのような顔。
あいつは手にした手帳を般若のような形相でにらみながら、しきりに何かを書いていた。
俺はできるだけ気付かれないようにその場を去ろうとしたが、運の悪いことに、般若が顔を上げた。
「待っていたよ、アンダーソン」
「だから、それやめろや。なに、お前はずっとここで待っていたんか」
「違うと言ったら嘘になる」
「めんどくさい言い方すな。なんやねん、ストーカーやん」
山本は不敵な笑みを見せながら「そうかも知れない」と言う。街灯に照らされた彼の顔が甚だ気持ちが悪かった。オオサンショウウオが環境破壊や乱獲を恨んでいるのなら、こうやって化けて出てくるに違いない。
帰路に就く俺のあとを、山本は当たり前のようについて歩いた。
「俺、もう帰るし」
「それならちょっとお邪魔させるのも辞さない」
「実家やし」
「お姉さんにご挨拶を」
「一人っ子」
山本は、負けた、という顔をする。俺は、してやったりという気持ちになったが、このやりとりを楽しんでいるように感じるので不服だった。俺はそうじゃない、と脳内で繰り返して言い聞かせる。
自宅へ向かっている間も、山本は自分の考えたネタを話しては「コンビを組もう」と言う。バカの一つ覚えに、俺は「いやや」と、こちらも馬鹿馬鹿しいくらい同じ言葉で返した。
「お前はどこに住んでんの?」
「僕は寮だ。熊野」
「逆方向やん。俺んちこの辺りやし、熊野寮からはけっこう遠いからもう帰れよ」
「バスがある」
こころの中で舌打ちをした。さっさと帰れと毒づくが、どうせ実家を前にしたら勝手に帰るだろうと考えていた。
その予想は裏切られることになる。
「コンビを組もう」と「いやや」の一歩も引かぬ攻防の末、なんだかんだで自宅へ着いてしまった。俺は、ここで山本が諦めて帰ると高をくくっていた。俺は、断り切れない自分の性格を恨んだ。先ほどは胸倉を掴んで暴力的手段を講じたが、自分らしくなかった。
山本はなおも「コンビを組もう」と懇願した。実家の玄関先で大声を出すなと言ったが、遅かった。突然開かれた扉からは、俺の母が顔を出していた。「おかん」や「母ちゃん」よりも「ママ」が似合う風貌だとよく言われる。それでも俺にとっては「おかん」がしっくりくる。
十八歳の息子がいるとは思えないとも言われた俺の母親に、山本は見惚れた。
「タイチ帰ったんか。あら、お友達?」
「はい、山本と言います。タイチくんには大学でいろいろお世話になっています」
俺はすかさず「嘘をつくな」と糾弾したが、会話は完全に二人のペースになっていた。俺の叫びは届かない。
「山本くん、どうも、タイチの姉です」
「おかん、余計なこと言うなや。それと、その外向けの高い声やめろって。山本も、ほんまにもう帰れって」
「タイチ、山本くんせっかく来たんやし、上がって行ってもらったらええやん」
母は玄関扉を大きく開き、手招きをして山本を家に上げようとする。
「こんなやつ、部屋に入れたないわ」
「お母さま、ありがとうございます。それではお邪魔します」
「勝手に入るな」
結局、山本はなし崩し的に俺の部屋へ転がり込んでしまった。やつは図々しくでんとあぐらをかき、部屋を見回した。俺の部屋にあるものと言えば、昔飼っていたゴールデンレトリバーの写真、医学の専門書、バスケットボール、トロフィーや賞状の数々。
「アンダーソン、学部どこだっけ」
「もうええわアンダーソンで。医学部。お前は?」
「僕は、ノースキャンパスだ」
「すっと言えや。農学部ってことな」
「そういうこと」
山本は腕を組んで、うむと頷いた。山本の言動、行動の一つ一つを面倒に感じながらも楽しんでいように思えて、俺は悔しかった。こいつの見え見えなツッコミ待ちの言動にツッコミを入れていくことが、心地よくも感じていた。まるで、ジグソーパズルの最期のピースのように、ピタとはまるような感覚がある。俺はそれを認めたくない。
「アンダーソン、バスケやっていたのか」
「せやで。インターハイで準優勝」
「すごいじゃないか」
「まあ、過去のことやし」
過去のこと、というのは事実だった。高校二年のインターハイを最後に、俺はボールには触れていない。
俺がバスケの話をどう逸らそうかと考えていたところで、タイミングよく部屋の扉を誰かが叩いた。返事をする間もなく、母が顔を出した。
「タイチ、邪魔するで」
「邪魔するなら出て行ってや」
「じゃあ、出て行くわ」
「おいおい、おかん、ちょっと待ってや。何用や」
「山本くんにジュース持ってきたから、二人で飲んでや」
もう子供じゃないんだから友達が来たくらいで構わないで欲しい。まるで小学生じゃないか。
お盆に乗った飲み物とお菓子を受け取り、おせっかいな母を部屋から追い出した。
「アンダーソンファミリーって、なんだか新喜劇みたいだな」
「恥ずかしいからやめろ」
「アンダーソンには、根っからのお笑いの血が流れているんだなあ。さすがカンサイジン」
「関西をひとくくりにするな」
「アンダーソンはずっと京都に住んでいるのか」
「もともとは大阪」
山本は「本物のカンサイジンだ」と喜ぶ。こいつの中では、大阪人と関西人がイコールになっているらしい。関西出身ではなさそうな山本は、京都、大阪、兵庫、その他の県に古来から存在する関西カーストなど知らないのだ。
「カンサイジンって、みんな面白いんだな」
「関西人って言うな」
「オヤジさんも面白いのか」
「おとんは、いない」
山本が「やらかした」という顔をするのを、俺は見逃さなかった。事実を告げただけだけど、相手に変な気を遣わせてしまった。俺は、別に気にしてなんかいない。
再び扉をノックされた。返事をしなくても母が入って来る。
「なに」
「山本くん、夕飯食べてく?」
山本はすっと立ち上がり、ホテルマンのように綺麗に背筋を伸ばした。
「はい、頂きます。お母さまの手料理を食べて、面白いネタ考えます」
「ネタ? あら、なに、二人でお笑いコンビ組んでんの?」
「はい、彼がツッコミで僕がボケです」
「そうなんや、ネタ楽しみにしてるわ」
俺が口をはさむ間がないくらい、二人は勝手に会話を進めた。山本は夕飯食べていくらしいし、勝手にコンビを組んだことにされてしまった。拒むのも面倒になり始めていた。
「わかったよ、山本。俺と組もう」
「よくぞ言ってくれたよ、アンダーソン」
ここでは折れるが、一つ条件がある。
引き受けてしまった以上、中途半端にはできない。それが俺の性分だった。ぐだぐだとした「漫才ごっこ」にしないためにも、山本と取り決めをする必要がある。
それを、ここでしっかりと伝えなければならない。
「ただし」
「ただし?」
「来年の学園祭までの期間限定だ」
「ちょうど一年か」
「俺、実習とかあるし、あんま時間ないけどな」
「大丈夫だ、なんとかなる」
山本はそう即答した。なんの根拠も見えない「なんとかなる」という言葉。
俺は「なんとかなるのか」と、疑問が拭えなかった。
◇
俺たち母子、山本の三人という妙な組み合わせで夕飯を食べたのち、二人の打ち合わせが始まった。
「グルコサミンブラザーズ」
「ない」
「乳と尻」
「却下。俺は脚派やし」
「おお、なんか変態っぽい。本能寺らへん、どう?」
「なんか違う」
山本は頭を掻きむしる。おかっぱ頭が乱れて、呪いの人形のようでもあった。一度は外していたサングラスをいつの間にかかけていたし、相変わらず裸体にレザージャケットと短パン裸足のままだった。俺にはむしろこの姿がしっくり来ていて、外を歩いている時に山本が靴を履いていた姿が逆に滑稽に見えたほどだった。
「なんだよ、アンダーソンがコンビ名は何でもいいって言ったんじゃないか」
「なんでもええとは言うたけど、なんかもっとマシなんあるやろ」
「硝子の少年」
「なんか恥ずかしい」
ビシッ。山本が勢いよく俺を指さす。探偵ドラマなどで見る「犯人はあなたです」のシーンのようだった。眉間に向けられた指先に、俺はゾクッとした。どうやら、俺は先端があんまり得意ではないらしい。
「逆に、アンダーソンは何かあるのか」
そうだな、と辺りを見回して考える素振りをする。俺としては、本当に何でもよいと思う反面、これだ、と思える決まり手が欲しかった。
部屋の中にあるものといえば、バスケットボール関係、十五歳の頃に死んだ愛犬の写真、医学書や教科書類、その中にもピンとくる単語は見つからなかった。
山本もコンビ名に使えそうな単語を探していた。ここまで山本が一方的に話し続けるような状況だったので、山本はひどく喉が渇いたらしい。飲み物を注ごうと手を伸ばす。
その手の先に、俺の目が留まった。
「これにしよや」
「これ?」
俺は山本が手にしたボトルを指さす。パッケージには、みずみずしいオレンジのイラストが描かれていた。
――すっきり絞ったオレンジ
語呂がよかったとか、カッコイイとか、覚えてもらいやすいとか、そういう根拠となるものはなかった。ただ、なんとなくと言うのも憚られたので、それっぽい理由をつけてみる。
「俺らの持っているものを、全部絞り出してやろうぜ」
「よし、じゃあコンビ名はこれにしよう。ネタはやっぱり、きみの落語と僕のフリップでさ」
「フリップだなんだっていう、こざかしい小道具は要らん。ビシッとスーツ着て、マイクスタンドの前に立とうや」
「つまり」
「俺らはべしゃりでいこうやないか」
◇
「だよねー、だよねー」
「そやなー、そやなー」
「言うっきゃないかもね」
「言わなしゃあないな」
下村と僕は、歌詞の異なる同じ曲をぶつけ合った。標準語で歌われる「だよねー」と関西弁にアレンジされた「そやなー」が同じメロディーで凌ぎを削る。サビ以外のところは歌えないので、延々と同じところを繰り返した。僕がボリュームを上げれば、下村も大声で応戦し、下村の声が裏返れば、僕はバカにするように真似した。
いよいよ息も上がって疲れた。しだいに二人の声は弱まり、途切れた。
「これじゃいつまで経っても出囃子が決まらないじゃないか」
「そやなー。どちらかが諦めなあかん」
「だよねー」
「そこは、そやなー、やろ」
「いや、だよねー、でしょ」
なにくそ、という顔をして、下村が再び歌い始める。「そやねー、そやねー」と繰り返すが、僕はふと思いついた。手のひらを向けて下村を制止する。
「間を取ろう」
「なんやねん、間って」
僕は携帯電話をぱちぱちと操作した。
――だべさー、だべさー。言えばいっしょやさ、そんな時ならさ。
「なにこれ」
「DA.BE.SA」
「なんやねんそれ」
「間を取って北海道バージョン」
「東京と大阪の間はせめて名古屋やろ」
僕は「だべさ」の響きの垢抜けなさや芋っぽさが自分たちに合いそうだと思ったのだ。
「そもそも、出囃子なんて今じゃなくてもええやろ」
「こういうのは形から入るのが大事なんだよ、アンダーソン」
「いい加減、ネタの打ち合わせしよや」
いよいよ、と二人とも前傾になったところで、僕の携帯電話が鳴った。
画面に、アンと表示されていた。僕はアンの家へ行くことを思い出した。時刻はすでに夜の十一時を回っていた。
「もしもし?」
――もしもし、今日来ないの? わたし先に食べちゃったよ?
「ごめん、アン。今日はネタ作りに集中したいから行けないや」
沈黙。そばにいる下村にはアンの声までは聞こえないだろうが、何やら不穏な空気に居心地が悪そうにして視線を泳がせていた。
――わかった。ネタ作り頑張ってね。
ぷつり、と通話は終わった。僕のこころの中に、何か取り返しのつかないことを言ってしまったのではないかという不安が押し寄せた。自分のネタを面白いと言ってくれるアンのためにも、下村と面白いネタを作ってアンに見せてやりたい、とも思った。
「良かったんか?」
「ああ、大丈夫だ。さあ、ネタを考えよう」
僕ら二人は真っ白な紙を机に広げ、ペンを片手に頭を寄せ合った。
「俺が今考えているネタはこうや……」
こうして、僕と下村の二人は出会ったその日のうちに「すっきり絞ったオレンジ」としてコンビを組んだ。
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